太田述正コラム#14006(2024.2.1)
<映画評論115:孫子兵法(その3)>(2024.4.28公開)

 「注4」や「注6」にも登場していた伍子胥<(注7)>、そしてその伍子胥に「利用」されたところの、呉王の闔閭<(注8)>については、どちらも私が記憶していた人名ですが、「孫子兵法」の視聴のおかげで、彼らの事績が改めて鮮明に蘇ってきました。↓

 (注7)ごししょ(?~BC484年)。「代々楚の重臣を担った家柄<の出身。>・・・呉で・・・公子光に仕え、呉王僚や公子光に楚を攻めるよう進言し、呉王僚はその気になったが、公子光はまだ早いと抑えた。これに伍子胥は公子光に野心ありと見抜き、専諸を推挙する。自らは呉が内紛で荒れると見て、農夫となって暮らし時節を待った。
 紀元前515年、呉の主力軍が出征した楚で立ち往生するに至ると、呉王僚の王位継承を不当だと思っていた公子光は、国内が手薄な今がクーデターを起こす絶好の機会と考えた。そして、呉王僚を宴席へと招き、専諸<(せんしょ)>を差し向けてこれを暗殺した。公子光は即位して闔閭となって、伍子胥を側近に立てた。こうして、伍子胥は楚の隣国の王の側近という立場を得た。
 また、伍子胥は孫武の著した『孫子兵法』を献上し、7回にわたり登用を説いた。孫武は闔閭に招かれ、その才能を認められ将軍として迎えられた。
 そして、伍子胥は孫武と共に闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。楚へは十分な準備が整うまではと闔閭を抑えていたが、楚の広大さと君主が幼少に変わったばかりなことを突き、小規模な兵を出して国境の集落を襲い、楚が国軍を発して迫ると引くということを繰り返して国力を浪費させた。
 紀元前506年、闔閭は「そろそろ楚を攻めようと思うのだが」と伍子胥と孫武に聞いた。伍子胥は「楚の内情は酷く勝てるでしょうが、万一もあります。属国として搾取され、楚への恨みを貯めている唐と蔡を味方に付ければ万全です」と答え、使いを出すと唐と蔡は即座に内諾した。こうして闔閭・伍子胥・孫武は本格的な楚侵攻を始める。柏挙<(はくきょ)>の戦いである。十分な準備に加え、楚の地理と内情を良く知る伍子胥・兵法の天才孫武という人材が揃い、連戦連勝して、遂には楚の都郢<(えい)>を陥落させた。平王は既に死んでいたので伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。これが「死者に鞭打つ(死屍に鞭むちうつ)」の語源になった。この事をかつての親友の申包胥にあまりに酷いと責められた時に、伍子胥は「日暮れて道遠し、故に倒行してこれを逆施するのみ」と答えた。「自分はもう年を取っているので、やり方などは気にしておれないのだ」あるいは「時間は無いのにやるべきことは沢山ある。だから焦って非常識な振る舞いをしたのだ」という意味である。こちらは「日暮れて道遠し」の故事となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8D%E5%AD%90%E8%83%A5
 闔閭(こうりょ。?~BC496年。在位:BC514~BC496年)。「闔閭9年(紀元前506年)の柏挙の戦いでは楚の首都の郢を陥落させる大戦果を挙げた。しかし本国が越王允常<(いんじょう)>によって攻め入られ、さらに弟の夫概が王を名乗って呉を乗っ取ろうとしたため、郢より脱した楚王を追撃せず、慌てて本国へ戻ってこれを平定した。
 闔閭19年(紀元前496年)、越王允常が逝去して太子勾践<(後出)>が父の後を継ぐという報告を受け、10年前の恨みを晴らし出る杭を叩くべく欈李<(すいり)>の戦いを起こし越へと攻め込んだ。しかし、欈李(現在の浙江省嘉興市海寧市)で、越の将軍の范蠡<(後出)>の奇策の前に敗れ、越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指に矢傷を負い、これが元で病を得て死去した。臨終の際に、次男の夫差<(後出)>に対して「勾践が父を殺したことを忘れるな」と遺言し、復讐を誓わせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%94%E9%96%AD

⇒闔閭の楚征服の挫折の要因として、呉の内憂外患、と、秦の楚援助、のどちらが決定的だったのか、知りたいところです。(太田)

(続く)