太田述正コラム#14010(2024.2.3)
<映画評論115:孫子兵法(その5)>(2024.4.30公開)


[中国古代四大美女]

 「一般に次の四人の女性を指す。
・西施(春秋時代)
・王昭君(前漢)
・貂蝉(後漢)
・楊貴妃(唐)
 このうち、貂蝉<(ちょうせん)>のみは実在の人物ではない。異説として卓文君<(注11)>(前漢)を加え、王昭君を除くこともある。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある。いずれにせよ西施と楊貴妃の二人は不動である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E7%BE%8E%E4%BA%BA

 (注11)「成都・・・の富豪である卓王孫の娘である。結婚した後に夫を失い、実家に戻っていたとき、司馬相如と出会う。司馬相如は・・・卓王孫の開いた宴会に呼ばれており、司馬相如の琴の巧みな演奏に卓文君は心惹かれた。・・・
 卓文君は自身が未亡人であるため、司馬相如に引け目を感じていた。しかし、卓文君はすぐに司馬相如からの恋文を受け取る。二人で成都へと出奔するが、父に勘当されて貧窮した。そこで卓文君は司馬相如を連れて<成都>に戻ると、酒場を構え、卓文君が接客を行った。卓王孫はこれを恥じ、やむなく自身の財産を卓文君に分け与えたという。・・・
 司馬相如が卓文君の美貌のために好色となり、そのため持病の糖尿病を悪化させたという説話が『西京雑記』に載せられている、そこで司馬相如は、文君を題材に美人賦を作り、自らを戒めようとしたが、結局かなわず死去した。卓文君は誄を作って司馬相如を追悼し、それが世間に知られるところとなったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%93%E6%96%87%E5%90%9B
 司馬相如(しょうじょ。BC179~BC117年)。「賦の名人として知られ、武帝に仕え、その才能を高く評価された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%9B%B8%E5%A6%82
 「賦(ふ)とは、古代中国の韻文における文体の一つ。・・・漢詩が歌謡から生まれたと考えられるのに対し、賦はもとより朗誦されたものと考えられている。文体の性格としては漢詩と散文の中間に位置する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A6

⇒時系列から見て、また、古代美人2名中の1名であることからして、要するに、支那では西施が、美人の理念型となったわけだ。(太田)

 「越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいた。貧しい薪売りの娘として産まれた<西施>は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
 呉が滅びた後の生涯は不明だが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられた。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあった。この事から、<支那>では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD
 「西施の顰みに倣う<=>物事の本質をとらえず、うわべだけむやみに人のまねをすることのたとえ。・・・
 「荘子―天運」に見える話から。春秋時代の越の国でのこと。美人だと評判の西施という女性が、胸を病んで実家へ帰り、苦しみに眉をしかめていました。近くに住むある女性は、その美しい姿を見て、自分は西施ほど美しくはないにもかかわらず、まねをして眉をしかめてみました。すると、村のお金持ちは屋敷から外に出て来なくなり、貧しい人々は一家そろって引っ越してしまった、ということです。」
https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%96%BD%E3%81%AE%E9%A1%B0%E3%81%BF%E3%81%AB%E5%80%A3%E3%81%86-545191

⇒傾国傾城の美女としては、夏(の存在そのものがまだ立証されていないが、そ)の最後の王の桀の妃の末喜(ばっき)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%96%9C
殷の最後の王の紂の妃の妲己(だっき)・・酒池肉林で有名・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%B2%E5%B7%B1
西周の最後の王の幽王の妃の褒姒(ほうじ)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%92%E5%A7%92
の誰も古代美女のリストに登場しない理由の手掛かりは、下掲にありそうだ。↓

 「末喜のエピソードは、殷の紂王の妃・妲己や西周の幽王の妃・褒姒のエピソードと酷似している。これは、桀の事蹟として欠けている伝承を文献に残されている後代のエピソードからそのまま流用して埋めたためであると推定されている。帝王が傾国の美女に溺れて諫言をする忠臣を殺し、臣下の補佐を受けた英雄によって滅ぼされるという構造は、<支那>史における物語の神話的典型となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E5%96%9C 前掲

 華夏「全体」を傾けた女性ではなく、春秋時代の多数の「国家」群の一つに過ぎなかったところの、呉を傾けただけの西施が美女筆頭に挙げられることになったのは、この「後代のエピソード」をもとに、末喜、妲己、褒姒、の伝説が作られたという暗黙の理解が西施以降の支那の人々の中にあったから、ではなかろうか。(太田)

(続く)