太田述正コラム#14012(2024.2.4)
<映画評論115:孫子兵法(その6)>(2024.5.1公開)

 越の勾践とくれば、その好敵手の呉の夫差(注12)を忘れるわけにはいきません。↓

 (注12)夫差(?~BC473年。在位:BC495~BC473年)。「<呉王>闔閭は勾践が范蠡の助言を容れて国力を伸張させていた時に越に攻め込んだが逆撃され、闔閭は越の武将である霊姑孚が放った矢によって足の親指に傷を負い、それが原因で破傷風となって死んだ。闔閭は死に際して・・・夫差を呼んで、自分の後継者に任命し「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言した。この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、寝る時はごつごつした薪の上に寝て体に痛みを感じることで復讐を忘れないようにした(『史記』呉太伯および越王勾践世家の「臥薪嘗胆」)。
 伍子胥の補佐を受けて呉が国力を充実させていたところ、それを恐れた勾践が攻め込んで来たが、反撃して勾践を追い詰めた。追い詰められた勾践は命乞いをしてきた。伍子胥は許さないようにと言ったが、宰相の伯嚭(はくひ)は許すように言った。実は伯嚭は越から賄賂を受けており、越の策略に乗せられた夫差は勾践を許して帰国させた。
 その後、夫差は伸張した国力を背景に北の黄河流域へと進出して、覇者になることを夢見た。だが伍子胥は越の復讐を恐れて北へ進出することを諌めた。このことで夫差は伍子胥に辟易し、伍子胥は自分が呉を支えているという自負もあり、意見の衝突で主従関係が上手くいかなくなった。ついに紀元前484年には伯嚭の讒言で伍子胥に死を賜ることとし、夫差に授けられた剣で伍子胥は自決した。この裏には范蠡の離間の計があったとも言われる。
 夫差11年(紀元前485年)、夫差は軍を率いて斉を討ち、会盟を開いて呉が諸侯の盟主であると認めさせようとした。だが、元からの華北の盟主的存在であった晋がこれに反対した。
 夫差14年(紀元前482年)、晋と呉での主導権争いが起こる。その時、呉本国が越に攻められ、留守を委ねたその息子である太子友と同族の公孫弥庸と将軍の寿於姚らが越の捕虜となり、ともにまとめて処刑されたという衝撃的な報告を受ける(『春秋左氏伝』)。・・・
 <しかし、>越も呉を一息に滅ぼすほどの力はなく、いったんは和睦した。・・・
 夫差23年(紀元前473年)11月、ついに<呉の>首都姑蘇が陥落した。・・・
 憐れに思った勾践は「・・・夫差を甬東(現在の舟山諸島)の辺境に流せば再起出来まい」と決めた。・・・
 だが、夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません」と言い、「子胥に合わせる顔が無い」と顔に布をかけると、自ら首を刎ねて死んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%B7%AE
 「伯嚭<は、>・・・。楚の伯宛の子。曾祖父は晋の賢臣として名高い伯宗。祖父は楚の軍師を務めた伯州犂。・・・旧知の伍子胥がいる呉へと亡命<し、>そこで闔閭・夫差に仕えた。・・・
 越に呉が滅ぼされた際、越王勾践に悪臣の見本として処刑され晒し首にされた・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%9A%AD

⇒呉王の夫差に仕えた重臣の伍子胥も伯嚭も、「異国」の楚人であり、戦国時代の秦の場合とは違って、夫差は彼らを使いこなせず、呉は亡国の憂き目にあったわけです。(太田)

(続く)