太田述正コラム#14018(2024.2.7)
<映画評論115:孫子兵法(その9)>(2024.5.4公開)

 「呉王闔閭<は、>・・・楚の首都の郢を陥落させる大戦果を挙げた。しかし本国が越王允常<(注17)>によって攻め入られ、さらに弟の夫概<(注18)>が王を名乗って呉を乗っ取ろうとしたため、郢より脱した楚王を追撃せず、慌てて本国へ戻ってこれを平定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%97%94%E9%96%AD 前掲

 (注17)いんじょう(?~BC496年。在位:?~BC496年)。「允常は越侯夫譚の子として生まれた。領土を拡大し、[前510年頃に]王と称した。・・・
 紀元前510年、呉が越に侵攻した。
 紀元前505年、呉王闔閭が楚に侵攻している隙に、越の允常は呉に侵攻した。
 紀元前496年、允常は死去した。太子の勾践が父の後を嗣いで越王として即位した。允常の喪中の隙を狙って、呉王闔閭は越に攻め寄せた(欈李の戦い)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%81%E5%B8%B8
 「越(・・・紀元前600年頃 – 紀元前306年)は、春秋時代に<現在の>浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)
 後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、南方の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A ([]内も)
 (注18)?~?年。「紀元前505年、兄が<対楚の>の戦いの最中に、こっそりと陣払いをし、自立して呉王を名乗ったが、戻ってきた闔閭の兵に敗れて、楚に亡命した。その後、楚から領土の堂谿を与えられて、その子孫は堂谿氏と称した。
 『広韻』には、百済王の扶余氏は「中国呉の夫概から出た扶余氏」と記録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E6%A6%82
 なお、「『三国遺事』<には、>・・・百済の初代王である温祚王は・・・高句麗の東明帝(東明聖王)の子孫であり、高句麗の国姓である高氏から夫餘氏を名乗った<、とある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E6%B0%8F
ので、百済王が夫概の子孫なら、高句麗王もそうだ、ということになってしまうが・・。

⇒「戦国時代の開始は7説ある。一般的には周の敬王44年(紀元前476年)、周の定王16年(紀元前453年)、周の威烈王23年(紀元前403年)の3説が有名である。・・・
 春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
というわけですが、呉王の闔閭9年(紀元前506年)の柏挙の戦い当時は、まだ戦国時代ではなかったのに、闔閭は楚を滅ぼそうと考えていた可能性が大である上、周王やその使臣が全く蚊帳の外である一方、「孫子 兵法」では、この戦いの間中、呉、楚以外の主要諸国の使臣が呉軍に観戦武官よろしく従軍している様子が何度も出てくるのは牧歌的であり、いかにも、春秋時代から戦国時代への過渡期、という趣があります。(太田)

(続く)