太田述正コラム#14020(2024.2.8)
<映画評論115:孫子兵法(その10)>(2024.5.5公開)


[郢のことなど]

 「多くの学説によれば、少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、楚はこの都市を郢<(えい)>と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、楚はこの遺跡を首都として城壁の造営工事を行ったとされており、考古学的裏付けもされている。
 ただし、この遺跡の一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。この遺跡は、現在・・・湖北省荊州市荊州区にその跡地が存在し・・・、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A2
 ちなみに、楚の国都は、丹陽(河南省淅川県)→.郢(湖北省荊州市荊州区)→陳(河南省周口市淮陽区)→4.寿春(安徽省寿県)、と、変遷した。郢以降は、中原から遠ざかる一方だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

⇒郢は、柏挙の戦いで焦点となった城郭都市であるところ、長江(揚子江)に面しているか、そのすぐ近くにあったはずなのに、「孫子 兵法」ではそのことを思わせる風景は全く出てこない。
 また、「長江流域のうち,四川盆地に多くの耕地面積をもつ四川省と,長江およびその支流が形成した平坦地を中心として耕地面積の広がる湖北省 湖南省西省 ・安徽省 ・江蘇省 ・上海市は,<支那>の穀倉地帯であり,これらの 1市 6省における 1995年の耕地面積は,中国統計年鑑によれば 24,135,100 haで,この値は中国全体の総耕地面積の 25.4%に達している.
 1市6省の総耕地面積の内訳をみると,水田面積は 14,227,400haで,これは<支那>全体の水田面積の57.3%に達している .すなわち長江流域の市省では,耕地面積のうち水田面積の占める割合が高く,<支那>の主要な稲作地域となっている.」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjm-afzpfODAxVZslYBHTufCgoQFnoECDAQAQ&url=https%3A%2F%2Frissho.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F9832%2Ffiles%2FRS038-1.39-46.%25E9%2595%25B7%25E6%25B1%259F%25E6%25B5%2581%25E5%259F%259F%25E3%2581%25AB%25E3%2581%258A%25E3%2581%2591%25E3%2582%258B%25E8%25BE%25B2%25E7%2589%25A7%25E6%25A5%25AD%25E3%2581%25AE%25E5%259C%25B0%25E5%259F%259F%25E7%259A%2584%25E7%2589%25B9%25E5%25BE%25B4.pdf&usg=AOvVaw2mvA0AbE5eS8nrSYSE-rnX&opi=89978449
というのに、水田風景どころか、耕地らしきものが見える風景すら、「孫子 兵法」の柏挙の戦いには全く出てこず、とりわけ、郢周辺は、荒地/牧草地帯の風景なのは、「始皇帝 天下統一」の、いずれも乾燥地帯に位置するところの、咸陽や邯鄲周辺を彷彿とさせる有様であり、これは、制作陣の手抜きである、と、言わざるをえない。
 そもそも、柏挙の戦いにおいては、河上の船の戦いが大きなウェートを占めていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%8F%E6%8C%99%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲

というのに、渡河撤退風景が一度出てきただけ、という手抜きぶりにも、私は呆れている。(太田)

(続く)