太田述正コラム#14064(2024.3.1)
<岡本隆司『物語 江南の歴史–もうひとつの中国史』を読む(その14)>(2024.5.27公開)

「・・・梁の武帝<(コラム#13759)>、諱は蕭衍(しょうえん)。六朝第一の名君である。
 南朝最長の半世紀に垂(なんな)んとする在位中、律令・官制・儀礼・音楽など多方面の制度改革、地方官に対する監察強化、減税などを実施した。
 軍人として皇帝に即位した人物ながら、一流の文化人でもあって、・・・かれが主宰した建康宮廷は、南朝文化史上のピークを体現した。
 政治的・軍事的に優位な遊牧政権の中原に対し、経済的・文化的に優越する中華の継承者としての江南というアイデンティティが、こうしてはじめてできあがる。

⇒私は武帝を全く評価しないけれど、その長男の蕭統(注23)は、『文選』(注24)編纂者として称揚されるべきでしょう。(太田)

 (注23)501~531年。「皇太子に立てられていたが、父に先立って死去した。昭明太子(しょうめいたいし)の諡号で知られる。・・・
 廃帝豫章王蕭棟の祖父で、後梁の宣帝蕭詧の父である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E7%B5%B1
 (注24)「春秋戦国時代から南朝梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余の作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。・・・
 隋唐以降、官吏登用に科挙が導入され、詩文の創作が重視されると、『文選』は科挙の受験者に詩文の制作の模範とされ、代々重視されてきた。唐の詩人杜甫は『文選』を愛読し、「熟精せよ文選の理」(「宗武生日」)と息子に教戒の漢詩まで残している。また宋の時代には「文選爛すれば、秀才半ばす」(『文選』に精通すれば、科挙は半ば及第)ということわざが生まれている。このため『文選』は早くから研究され、多くの人により注釈がつけられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E9%81%B8_(%E6%9B%B8%E7%89%A9)

 梁の武帝といえば、「菩薩戒弟子皇帝」、仏教に心酔したことで有名である。
 「捨身」と称して、自ら出家し仏寺に入ってしまうなど、崇仏が行き過ぎて、その失政・亡国に結びついた、と後世の悪評もまぬかれない。・・・
 しかし梁の武帝、そして南朝の栄光は、長くは続かなかった。
 北朝から帰服してきた有力者の侯景<(注25)>が反乱を起こし、5ヵ月に及ぶ攻城戦のすえ建康は陥落、武帝は軟禁されて、ろくに食事も与えられないまま衰弱死する。

 (注25)「その生家は六鎮の一つである懐朔鎮の守備に従事していた胡族化した漢族とも、あるいは漢化した鮮卑系の貴族の家柄(乙羽氏?)であるとも考えられている。・・・
 東魏から投降してきた一将軍<に過ぎない侯景>により都城が陥落した原因としては、国内に分封された宗室の諸王が相互に牽制し、武帝の救出を積極的に行う者がいなかったことが考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%AF%E6%99%AF

 時に549年<。>・・・

⇒文弱と仏教狂いで梁は滅亡した、で、決まりでしょう。(太田)

 以後6世紀の後半は、南朝衰亡の過程である。」(66~67)

(続く)