太田述正コラム#3081(2009.2.7)
<皆さんとディスカッション(続x391)>
<KT>
≫どうやら縄文モードを推奨する人が(私以外にも)日本に出現しているらしいですね。 このあたりのこと、ご存じの方はご教示ください。≪(コラム#。太田)
 おそらく太田さんは分かっていて言っておられるのかとも思いますが、One Jomon booster is a former free-market cheerleader who got his economics PhD from Harvard and has been big in government deliberation councils.とは、話題になっている「懺悔」の書を出した中谷巌氏のことです。
http://www.toyokeizai.net/life/review/detail/AC/efcbf1fb0e09078dcf1037bb4246e857/
 氏の「「縄文文化」こそ日本の基層文化だ!」はこちらです。
http://www.murc.jp/nakatani/articles/php/bunmei/200607.html
 なお未読ですが、呉善花氏の「縄文思想が世界を変える―呉善花が見た日本のミステリアスな力 」(麗沢大学出版会)というのもあります。
<太田>
 中谷氏が、かつてご自分が信奉されていた市場原理主義を放擲されたという話はどこかで読んだ記憶がありますが、氏が「縄文文化」信奉者である(信奉者に転向された)ということは知りませんでした。
 ご教示ありがとうございました。
 呉さんの方については、まんざら知らないわけではありませんでした(コラム#52、3072)。
 中谷・呉・太田連合つくれるかも。
<Nelson>
 丁寧に答えて頂きありがとうございます。
>一、2001年の選挙の最中から民主党とボタンの掛け違いが始まり、それが選挙後も続いた(詳細は、まだ明らかにする時期ではありません)。(コラム#3077。太田)
 なるほど・・・。
 では、「詳細を明らかにする時期」は、ちょうど民主党の政権奪取後になりそうですね。
 
<太田>
 民主党を中心とする政権をしばらくの間続かせなければならないので、もっと先になるでしょう。
<Nelson>
≫立場の非対称性にちゃんとお気づきなのか心配になってきます…≪(コラム#3079。ドイツゲーマー)
 私は最初から、まともな「議論」にならないって警告したのに…まともな「議論」になるといったのは誰だか思い出してね。
 確かに、私の立論だけど、あなた方の反論は相手方に対して片務的負担をしいるもので、建設的な「議論」を導きません。「議論」はあくまで双務的でなければ、まともな議論とは言えないのでは?
 それでも、「ない」証拠を示せというなら、示しますが、おそらくあなた方が満足する証拠を挙げることは難しいでしょう。たとえば痴漢をやってない立証することが難しいのと同様です。不才の私なら尚更です。
 私よりずっとあなたが「まとも」なら、そんなことわかって言ってるんでしょ?
 不戦敗を判断するのは、自由だけど、実質的責任については保留にして「ある」証拠をみつけるまで、一時凍結しましょう。
≫そんなレベルの証拠でよければ,≪(同上)
「そんなレベル」でも、議論相手の私としては出さないよりマシかと…ちなみに私がwikiで引用した理由は、周知の史実だからです。
 最後に私は「天皇擁護派」でなく、「天皇無責任論者」です。「擁護」とは、危害を加える者から守る意味がありますから、「反擁護派」の方に失礼です。ずっと気になっていましたので、細かいようですが、指摘させて頂きました。
≫…また、42年12月には「戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ」と述べた、と朝日新聞は報じた。」≪(同上)
 なぜか、一つ目の典拠が確認できませんでした。
 典拠を確認したところ、昭和天皇が立憲君主制を守りながら、国民サイドの安全保障政策を承認していたことがよくわかる典拠でしたね。
 天皇の意思というより、国民サイドの意思を天皇が尊重しているモデルケースです。
 <なお、>昭和天皇が「戦争に勝てるかいなか」を優先したことは、寧ろ当たり前といえますよ。戦争とは国の存亡に関わるものですから。
 昭和天皇は国民サイドに戦争の勝利の可能性を何度も確認し、国民サイドは天皇を説得した上で納得させた。つまり、昭和天皇は国民サイドの立案した安全保障政策を尊重し、立憲君主制を守られた…何も問題ないのではないですか?
追伸。ドイツゲーマー様に私の説明不足と力不足のために、お手数をかけましたことお許しください。そして今後とも迷惑をかけますがよろしくお願いします。
 ドイツゲーマー様の形式的責任論期待して待ってます。
<太田>
 Ms.Nelson、思いついた都度投稿するのではなく、まとめて投稿した方がよろしいのでは?
 また、ある程度まとまった分量の投稿は、太田述正掲示板の方にどうぞ。
 ところで、公開したばかりのコラム#2998で、Ms.Nelsonが強い関心をお持ちの海賊の話を扱っていますが、戦後ドイツが軍を警察から切り離したのに対し、同じ敗戦国の日本では警察もどきの「軍」をつくったという違いは面白いと思いませんか?
 なお、このコラムの「続き」は(材料が集まらなかったので)書いていません。
 急ぎませんので、Ms.Nelson、気が向いたら「続き」、(ドイツ以外を扱ってもいいので、)自由に書いてみませんか。
<SM>
≫成金の出現や2大政党間の醜い足の引っ張り合いに一般国民が嫌気がさした、という話が教科書に出てきませんでした?≪(コラム#3079。太田)
そういえばそんな話があったような。。。
もう少し勉強して出直してきます。
≫他方で、台湾や朝鮮半島から異質な人々が内地に流入してきたわけで、現在よりは当時の方が人的開国度は高かったとも言えそうであり、むつかしいところですね。(同上)
これに関しては、昔買った朝鮮植民地統治時代の本(捜索中)に関係しそうな統計データがあるかもしれないので、あたってみようかなと思います。ご指摘ありがとうございます。
ところで、大正時代について少し勉強しようと思い、いろいろ調べていたところ、評論家、与謝野晶子の女性の自立論を知りました。縄文の顔をしたアングロサクソン化と関係しているような気がして、ちょっとおもしろいと思うので、紹介させてください。(一応太田ブログの検索バナーで、過去に取り上げられていないことは確認したのですが。。。(与謝野で検索すると、与謝野馨の記事しか出てきません。))
『女性の自立論は、女性が自分で自己鍛錬・自己修養し、人格陶冶することを説いた。英米思想的な個人主義である。
 反良妻賢母主義を危険思想だと見る文部省は取り締まり強化に対し、妊娠・出産を国庫に補助させようとする平塚らいてうの唱える母性中心主義は、形を変えた新たな良妻賢母にすぎないと論評し、平塚らいてう、山田わからを相手に母性保護論争を挑んで「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した。ここで論壇に登場した女性解放思想家山川菊栄は、保護(平塚)か経済的自立(与謝野)かの対立に、婦人運動の歴史的文脈を明らかにし、差別のない社会でしか婦人の解放はありえないと社会主義の立場で整理した。文部省の意向とは全く違う次元で論争は終始した(現代でも問題になっているアグネス論争も類似した論争である)。』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90
つまり、与謝野は、欧州(社会主義)的立場ではなく、アングロサクソン自由主義的立場で、女性の自立をといています。
さらに、1920年「太陽」に彼女が書いた「新婦人協会の請願運動」にある以下のような記述は、太田さんのおっしゃる「縄文の顔をしたアングロサクソン社会」に通じるものがあると思いますが、どう思われますか?
 『今年の元旦の『大阪朝日』に笠原医学博士が前野良沢とゲエテとの事を書かれた美しい一文を読むと、良沢が明和八年四月四日に千住の骨ヶ原で杉田玄白、中川淳庵と、婦人の死屍の解剖に立会い、その実験に由って、四年の後の安永三年に、日本で初めて系統的に記載された医書『解体新書』が良沢と玄白との苦心の結果、世の中に公にされた事を叙し、更に博士はそれと対照してワイマルのイルム川のほとりに流れ寄った美くしい少女の死屍を前にして、二人の男が大きな解剖刀を執って何か争っている。老人の方はストラスブルグの大学の解剖学教授ロオブスタイン博士であり、若い男の方はまだ当時医学生であった青年のゲエテである。 白い鬚の目立つ、黒い上衣を著けた老人は、金髪の少女の死屍の解剖を頻(りに若い男に勧めた。白い襟巻のようなものをぐるぐると首に巻き、空色の長い上衣を著て、半袴を穿いた、眼の非常に大きい男は、頭を振って「こんなに美しい少女の肉体を、たとい学術上どれだけの利益があるにせよ、支離滅裂にするのは、丁度美くしい宝石を砕くようなものだ」と頑固に抗弁していたが、老人も終には若い男の説を納れて解剖刀を捨て、二人とも跪いて少女の死屍に祈祷を捧げたという光景を叙して、最後に博士が「美を尊重するゲエテの心持も、真実に対する敬虔な良沢の心持も、同じように心に受け入れることの出来る科学者は、世界中で一番幸福なものであろう」
と結ばれたのを私は非常に嬉しく感じました。
 科学者のみならず、すべての文化民族の生活が円満に開展して行くには、こういう両様の心持が体験されなければなりません。
 私は新婦人協会を初め、我国の婦人運動の先駆者たちが、一生涯純粋な恋愛にも触発されず、高雅な芸術にも浸染されない欧米の不幸な女権主義の独身婦人や基督教婦人の偏狭な心持から出た言動に範を取って、最も自由でなければならない熱情の生活、人間創造の生活までを、国家化し、法律化し、科学化し、論理化し、形式化するような、粗野な行動に偏倚されないことを祈ります。』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000885/files/3644_6562.html
;新婦人協会
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%A9%A6%E4%BA%BA%E5%8D%94%E4%BC%9A
が繰り広げた治安警察法第五条の撤廃のための請願運動の方針に対する、与謝野晶子の反対意見からの抜粋。)
 なぜだか、第一文がやたらわかりにくいですが、それはともかくとして、与謝野晶子も、自由奔放で宗教的戒律や(老若男女、身分など)社会の枠にとらわれない性と愛に対する考え方をもつ縄文人のメンタリティと、経験(実験)的科学的思考方法などで特徴づけられるアングロサクソンのメンタリティの融合(縄文の顔をしたアングロサクソン化)を希求していたといえないでしょうか?
 ちなみに、与謝野晶子と鉄幹の間には、おそらく当時としても多い11人の子供があり、
http://www.yosano.gr.jp/yosanoke/index.html
大変充実した夫婦生活が想像できます。
 きっと、与謝野家の場合、上記のような考え方を晶子が持っていたために、コラム#3080(未公開)でいうところの、第一子の誕生とそれによる婚姻満足度の低下など起こりうるはずがなかったのでしょう。
もし大正時代に、平塚らいてうの社会主義(欧州大陸)的女性の解放ではなく、与謝野晶子の自由主義(アングロサクソン&縄文)的女性の解放の流れができて、それが戦後も引き継がれていれば、今日の少子化は起こっていなかったのではないかという気がしてなりません。
太田さんはどう思われますか?
<太田>
 与謝野晶子は、「「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」と主張した」わけですか。
 私の選挙時の「主張」と同じですね!
 あなたの理解でよろしいのではないでしょうか。
 この話は、機会があれば、使わせてもらいます。
<ケンスケ2>
 <コラム#2701「インド文明とセックス」を読みました。>
 ユダヤ,イスラム,キリスト教は,言葉「ロゴス」と契約の宗教とすれば,仏教やヒンズー教は,命のつながりについての宗教ですよね。
 その根幹が,輪廻転生と因果応報でしょう。
 命を生み出し,次世代につないでいく過程については,真摯な研究対象であって当然ですね。
 神が土塊から造りたもうた人形ではありませんから。
 「我思う故に我有り」でもありませんし。
 「気は輪廻転生す,故に生死を超えて涅槃有り」ですよね。
<VincentVega>
 確かに一神教と比べてしまえば、ヒンドゥー教(と、その基になったバラモン教)と仏教は同じ地域に発生しただけあって似たところが多く、同類項に入れるのも分かります。
 しかし、(支配階級であるバラモンが利用していたところの)インド土着の世界観にすぎない輪廻転生なんかを、仏教の大事な部分と見るのはもったいない捉え方だと思います。
 個人的には「(輪廻転生に代表される)どこかの誰かが発明したフィクション」などに執着する必要は無い、という事を解き明かしたところが仏教(特に空思想)の素晴らしさに思えます。
http://fallibilism.web.fc2.com/077.html
http://fallibilism.web.fc2.com/z006.html
<太田>
 コラム#1013で「輪廻の観念は仏教の本質的部分に属するとする説(http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/kimura_muga_rinne.html)のほか、輪廻の観念は本来仏教にはないとする説(http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html)、輪廻の観念は仏教の本質的部分には属さないとする説(http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/02_01_22.html)・・・等があり、輪廻は仏教教義上のアポリア(難問)の一つなのです」と申し上げたところであり、にわかに結論は出せないのではないか、というのが当時の私の見解でした。
 釈尊自身の言動が本当はいかなるものであったか必ずしも明らかではない以上、「これが本来の、あるいは真の仏教だ」と言い切ることは困難なのではないでしょうか。
 ・・・Buddhist schools disagree on what the historical teachings of Gautama Buddha were, so much so that some scholars claim Buddhism does not have a clearly definable common core.・・・
http://en.wikipedia.org/wiki/Buddhism
 なお、この英語ウィキペディアにおいては、冒頭に
 Buddhism is a family of beliefs and practices considered by most to be a religion and is based on the teachings attributed to Siddhartha Gautama, commonly known as “The Buddha” (the Awakened One), who lived in the northeastern region of the Indian subcontinent. He likely died around 400 BCE. Buddhists recognize him as an awakened teacher who shared his insights to help sentient beings end their suffering by understanding the true nature of phenomena, thereby escaping the cycle of suffering and rebirth (samsara), that is, achieving Nirvana. ・・・
とあり、仏教全体の属性として、それが業と輪廻を前提としていることが、むしろ自明視されているところです。
 記事の紹介です。
 「・・・ 米国人牧師のジョン・マギー氏が、中国に侵攻した日本軍による南京大虐殺が起きた1937年にその状況を撮影した記録フィルム「南京暴行紀実」には、南京城南門東新路口5号に住む2家族11人が殺害される様子が如実に記録されている。そこには、当時8歳だった夏淑琴さんの姿も写っていた。日本の出版社・展転社は1998年、右翼学者の東中野修道・亜細亜大学教授が書いた「南京虐殺の徹底検証」を出版した。東中野氏は同著において、フィルムに写っていた少女は夏淑琴さんではないという事実無根の記述を行い、彼女が「事実を捻じ曲げた」と主張した。 夏淑琴さんは2007年5月、名誉と感情を傷つけられたとして東京地方裁判所に訴訟を起こし、東中野氏と展転社に・・・損害弁償を請求した。・・・
 日本の最高裁判所(最高裁)は5日、原告の訴えを認める最終判決を言い渡した。・・・」
http://j.peopledaily.com.cn/94475/6587353.html
(2月7日アクセス。以下同じ。)
 なぜこの最高裁判決が、日本の主要メディアの電子版ではろくに報じられていないのか?
 次はニューヨークタイムスです。
 赤い色と青い色がそれぞれ人間に及ぼす影響についての新しい研究成果が出ています。
 ・・・researchers at the University of British Columbia conducted tests with 600 people to determine whether cognitive performance varied when people saw red or blue. ・・・
 Red groups did better on tests of recall and attention to detail, like remembering words or checking spelling and punctuation. Blue groups did better on tests requiring imagination, like inventing creative uses for a brick or creating toys from shapes. ・・・
http://www.nytimes.com/2009/02/06/science/06color.html?_r=1&pagewanted=print
—————————————————————–
太田述正コラム#3082(2009.2.7)
<帝国の喪失のロシア>
→非公開