太田述正コラム#14770(2025.2.17)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その5)>(2025.5.15公開)
「・・・毛沢東は地元の師範学校に進みました。
でもいちばんいい学校ではなかった。・・・
上の学校に進め<ず、>・・・卒業後は北京に移り、北京大学図書館の司書補の仕事に就いています。・・・
<その>図書館には、立派なインテリばかり・・・が本を借りにくる。・・・
自分は惨めに思えたろう。
それが毛沢東のインテリ嫌いの原点です。
毛沢東はインテリ(知識分子)を憎悪し、政権をとったあとも生涯にわたって知識人を憎む、反知性主義の人間になってしまった。」(32~33)
⇒「建設中」の「勤労知識人」のウィキペディアは、「毛沢東思想では、勤労知識人を嫌う傾向がある。毛沢東が、低学歴で、個人的に高学歴者にコンプレックスを抱いていたからだと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A4%E5%8A%B4%E7%9F%A5%E8%AD%98%E4%BA%BA
としており、筆者らと同じ筆致ですが、毛沢東のインテリへのコンプレックス/憎悪を裏付ける典拠は、この本にもこのウィキペディアにも一切付されていません。
「1917・・・年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に毛<は、>最初の論文となる「体育の研究」を発表。師範学校在学中、新文化運動に影響を受けた毛は、1918年4月、学友たちと共に新民学会を創立して政治活動に加わるようになった。
1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業した。1919年5月の5・4運動期に、教授で恩師の楊昌済<(注2)>(後の義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。
(注2)ようしょうせい(1871~1920年)。「湖南省長沙県に生まれた。1898年、岳麓書院入学。1903年、日本の弘文学院に入学しその後東京高等師範学校(現・筑波大学)を卒業。1909年、アバディーン大学入学。1913年—1918年、湖南第一師範学院教員。1918年—1920年、北京大学[倫理学教授※]。・・・北京にて死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%98%8C%E6%B8%88
楊昌済の推薦により、北京大学の図書館にて館長の李大釗とともに司書補として勤めるかたわら、『新青年』の熱心な寄稿者となる。毛は同大学の聴講生として登録し、陳独秀・胡適、そして銭玄同のような知識人たちといくつかの講義やセミナーに出席した。[<しかし、>半年ほどで辞めてしま<い、>※]上海に<移った>毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に勤しんだ。
翌1919年には帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。この頃、新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年には楊昌済の娘で学友の楊開慧<(注3)>と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
と、若い頃の毛沢東はインテリそのものでしたし、1957年の反右派闘争の時や1968年以降の文化大革命期における下放も、反インテリ政策、とは必ずしも言えない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%94%BE
ところです。
(注3)ようかいけい(1901~1930年)。「1920年の冬、楊開慧は中国社会主義青年団に加入。1921年・・・、中国共産党湘区党委員会で機密・交通に関する連絡事務を担当。同年冬、正式に共産党に加入。1924年・・・夏、上海に赴き女性運動に従事。1925年・・・2月、再び毛の元に戻り、毛を補佐して農民夜学の創設に取り組んだ。10月、広州に移り、女性運動に再び参加。1926年・・・11月、再び長沙に戻る。まもなく毛沢東に随従して武漢に移り、中央農民講習所を開き、女性運動を展開した。
1927年・・・4月、国共が分裂し、蔣介石が反共運動を開始。1927年11月、楊開慧は長沙に引き返し、以後、共産党地下工作に従事。楊は母と共に3人の息子を連れて故郷に潜み、苦難な生活の中、あらゆる手段で井崗山にある毛と連絡を取った。1930年・・・10月、国民革命軍の一系統である湘軍(湖南軍)の指導者・何鍵により、楊開慧は3人の息子と共に長沙で逮捕された。楊昌済の生前の同僚たちが彼女を救おうと運動した結果、湖南省長の何鍵は、毛沢東と離婚するという声明を出せば、すぐに釈放するとの回答を得た。獄中の楊開慧は、夫と自分の信条に忠誠を尽くし、夫に貞節を尽くして、この申し出を拒絶した。11月14日、何鍵の命令により、楊開慧は射殺された。・・・一報を聞いた毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したといわれる。しかし毛は楊開慧がまだ生きていた1928年に、すでに延安で当時17歳の賀子珍と結婚していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E9%96%8B%E6%85%A7 上出の2か所の※も
著者達の決めつけ方は、いかがなものかと思います。(太田)
(続く)