太田述正コラム#14774(2025.2.19)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その7)>(2025.5.17公開)
「・・・<中国共産党の>秘密警察において、毛沢東の意を受けて実際に動いたのが、周恩来です。
周恩来は・・・実は中国共産党のインテリジェンスの基礎を築き上げた”スパイマスター”で・・・す。
たとえば、あれだけ強い国民党との内戦に勝てたのは、・・・国民党に潜り込ませていた6人のスパイの存在が大きい。
内戦が終わるまで誰がスパイだったかわからないほど国民党を欺き、重要な軍事情報は全部、共産党側に筒抜けだった。<(注4)>・・・
(注4)「太平洋戦争の終結によって日本軍が大陸から撤兵すると、毛沢東主席率いる中国共産党と蔣介石総統率いる国民党の間で熾烈な主導権争いが生じた。元々、中国共産党のインテリジェンスはこの争いに勝利するためのもので、その責任者は周恩来首相であった。
周首相は「前三傑、後三傑」と呼ばれる6人のスパイを国民党に潜入させ、国民党の内情や軍事作戦情報を入手することに成功した。その中でも熊向暉(ゆうこうき)は、毛主席から「数個師団に匹敵する」と称賛されたほどのスパイで、国民党の有力軍人であった胡宗南(こそうなん)総司令の機密担当の秘書となり、多くの貴重な情報を共産党に流していたのである。
当時、熊は完全に国民党の人間であると信じられており、その働きぶりから米国に留学までさせてもらっている。そして留学を終えた熊は国民党には戻らず、そのまま共産党へ帰った。
熊が13年間のスパイ活動を終えて北京に戻ってきた際には、国民党員が投降してきたと見なされたため、周首相自ら熊の正体を明かしたほどである。」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/25633
証拠があって言うのではありませんが、毛沢東は、周恩来を失脚させ、殺害できるだけの「ネタ」をもっていた。
だから、無理難題を吹っかけ、絶対に命令を聞かせることができた。
その「ネタ」は何か。・・・
それはたとえば、周恩来が国民党のスパイだった、などの破滅的な秘密でなければ、ふたりの間の力学を説明できません。」(41)
⇒蒋介石は中国国民党が作った黄埔軍官学校の政治部副主任であった・・ちなみに、葉剣英は教授部副主任・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%9F%94%E8%BB%8D%E5%AE%98%E5%AD%A6%E6%A0%A1
ことから、同校卒の熊向暉、
https://baike.baidu.com/item/%E7%86%8A%E5%90%91%E6%99%96/5744533
等、を中国共産党にリクルートすることができた、ということなのでしょうね。
なお、毛が周を失脚/殺害させなかったことより、毛が中共の実権を握ってからというもの、周が最初から最後まで中共のナンバー2であり続けることができたこと、の方が注目されるべきなのであって、それは、日本留学歴があったところの、周、こそ、良く言えば帝国陸軍と中共との提携を成立させたキーパーソンであった、し、悪く言えば帝国陸軍が中共で確保した最高のスパイであった、からであり、だからこそ、この「日中」提携の経緯や実態を熟知していて、自分を失脚/殺害させたら、そういったことを記した文書や証拠が公開される手筈になっている、的なことを毛に信じさせることに成功していたからだ、というのが私の見方です。
そんな周が最も恐れたのは、帝国陸軍軍人であった者から、そういった話が暴露されることであり、だからこそ、周は、戦後、直接的間接的に彼らのご機嫌取りに汲々とし続けた(注5)のである、とも。
(注5)「<戦>後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを『改造』し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている。管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は「復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。周恩来は言った「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる」という。
また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀や蒙古聯合自治政府主席のデムチュクドンロブなどが周恩来から特赦と役職を与えられている。・・・
溥儀の弟の愛新覚羅溥傑に対しても親切であった。1954年に日本にいる溥傑の長女の慧生からの手紙を読んで感動し、獄中の溥傑と日本にいる妻子(浩と2人の娘)との文通を認めた。また、1960年に溥傑が釈放された際も、当時まだ日本と中華人民共和国の国交がなかったにもかかわらず、浩の訪中を歓迎した。・・・
黒竜江省方正県には、ソ連軍の満洲進駐、日本の敗戦によって、満洲の奥地から多くの開拓民が避難してきて、ここで数千人もの人が虐殺された。当時総理だった総理周恩来の指示によって、これらの犠牲者を弔うために中国方正県政府に指示し「方正地区日本人公墓」を作らせた。そして、文化大革命の時にこの「日本人公墓」も破壊されそうになったが、周恩来の「彼らも日本軍国主義の犠牲者であり、破壊してはならぬ」との指示と、地元住民の努力で破壊されずに済んだ。・・・
日本とは高碕達之助との合意でLT貿易を行い、日本社会党と自由民主党の元内閣総理大臣である片山哲や石橋湛山と緊密な関係を築き、1959年には中国建国10周年慶祝訪中団団長の片山と会見して石橋と日中国交樹立を呼びかける共同声明を発表している。・・・
1972・・・年1月に日本も当時の佐藤栄作総理が中華人民共和国との国交正常化を目指すことを演説で述べ、周恩来への親書を託した密使を香港に派遣して北京訪問の希望も伝えてきた。なお、アルバニア決議が採択された際に自由民主党幹事長の保利茂は訪中する美濃部9月、現職総理では初めて訪中した田中角栄と数度にわたる交渉に臨み、日中共同声明に調印して日本との国交正常化を実現した。調印式で交わした田中総理との固い握手とその写真は時代の象徴として語り草になった。日中国交正常化には当時の自由民主党政権だけでなく、国交正常化前に派遣されていた社会党、公明党、民社党といった野党と永野重雄ら経済界の訪中団なども貢献した。
「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」、「日中両国には、様々な違いはあるが、小異を残して大同につき、合意に達することは可能である」「わが国は賠償を求めない。日本の人民も、わが国の人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である。賠償を請求すれば、同じ被害者である日本人民に払わせることになる」と公言した<。>・・・
1974年12月5日には主治医の猛反対を押し切って創価学会会長の池田大作との会見を行った。・・・
<周の岡崎嘉平太との交友については省略する。(太田)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
ちなみに、「ダライ・ラマ14世は毛沢東を「革命の真の偉大な指導者でした。その表現の仕方や身振り、考え方はとてもダイナミックでした。何度も会見し、どのようにして人と接するか、どのようにしてさまざまな意見を受け入れるか、最終的にどのようにして結論を導き出すかといったことを学びました」と高く評価した一方で、周恩来のことは「毛沢東と違って大変ずる賢いと思いました。第一印象で、この人は大うそつきだとすぐわかりました」と評している」(上掲)ところ、恐らく、これこそが、的確な周評価なのだと私は考えています。(太田)
(続く)