太田述正コラム#14778(2025.2.21)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その9)>(2025.5.19公開)
「・・・毛沢東・・・はなぜ・・・共産党のリーダーにな<ることができ、>そして、中華人民共和国を成立させるほどの、全人民的支持を得ることができたのか。
それは、ナショナリズムの育たなかった中国で、中国の人びとにナショナリズムとは何かを教えることができたからです。・・・
中国に、シンボルとして担ぎだせる・・・天皇<のような>・・・存在<は>ない。・・・
そんななかで、ナショナリズムを追求するには、「誰が中国人なのか」という問題に始まり、かなりの手続きが必要になる。
<この、中国の>ナショナリズム・・・の担い手となる資格があったのは、国民党と共産党でした。
国民党は、その名が示すとおり、ナショナリズムの政党です。
だから本来、国民党のほうにチャンスがあったはずです。
でも共産党が勝ち残った。」(45~48)
⇒ところが、この本の中では、どうして中国共産党が支那のナショナリズムの旗手にのし上がることができたのか、の説明がありません。
横山宏章(注6)は、支那におけるナショナリズムの発現を、1919年の五・四運動に見出だし、その要因として、「1.第一次世界大戦が火をつけた、世界的なナショナリズムの高揚、反帝国主義。2.新文化運動(文学革命)が進めた思想革命の影響。それは文字の読めない労働者に文字を与え、人間としての自覚を植え付けた。3.ロシア革命によるマルクス主義の伝播。新文化運動で思想的な自覚の素地が生まれた中国に、強烈な救済思想としてのマルクス主義が現れ、労働者が団結を始めた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-031.html
の3つを挙げているところ、支那の「労働者が団結を始めた」というのが本当かどうかはさておき、1.は1915年に日本が突き付けた対華21カ条要求への反発が中心であった(上掲)と私も見ており、2.は五・四運動と表裏一体であるところ、その中心人物は陳独秀、魯迅、銭玄同、胡適、李大釗、呉虞、周作人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%96%87%E5%8C%96%E9%81%8B%E5%8B%95
で、胡適以外の全員に日本留学経験があり、・・陳独秀、魯迅、胡適、李大釗、呉虞、周作人については常識でしょうが、銭玄同(1887~1939年)については下掲↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E7%8E%84%E5%90%8C
、呉虞(1872~1949年)については下掲↓
https://kotobank.jp/word/%E5%91%89%E8%99%9E-63711
、参照。・・かつまた、支那におけるマルクス主義もまた、日本留学生が支那に持ち込んだことから始まったと言っても過言ではなく(典拠省略)、要は、これら要因は、全て、当時までの日本の支配層が意識的無意識的に支那に与えたものなのであって・・21カ条要求は(島津斉彬の後継者たる大久保利通の舎弟の)大隈重信(コラム#省略)の内閣が突き付けたものですし、陳独秀、李大釗、秀作人、銭玄同、は、その大隈重信の(現在の)早大(注7)に留学しています(それぞれのウィキペディア)!・・、遡れば、それは、私の言う、島津斉彬コンセンサスにおける、「支那を辱めよ」(コラム#省略)にその発端を求めるべきものなのです。
(注6)1944年~。一橋大法卒、朝日新聞社記者を経て、一橋大博士課程中退、同大博士。明治学院大専任講師、助教授、教授、県立長崎シーボルト大教授、北九州市立大教授、同大名誉教授。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%AE%8F%E7%AB%A0
(注7)「早稲田大学のHPによれば、現在、中国からの留学生は3356人で、全留学生の半分が中国人だという。早稲田大学が中国人に人気がある理由は、「入試科目にもあると思います」とは、大学入試予備校の関係者だ。
「早稲田大学の一部の学部では外国語試験で中国語が選択できるんです。さらに、言語の違いの影響が少ない数学が試験科目にあることも大きいと思いますね。・・・
もともと早稲田大学は中国の高校に対しても指定校推薦枠を設けています。また、国家主席だった江沢民氏が来日の際に訪問したことで、早稲田大学は中国人にもよく知られています。」
https://news.livedoor.com/article/detail/28167823/
この記事は、江沢民が、そもそもどうして早大を訪問したかを書いていないが、想像はつくというものだ。
いずれにせよ、早大は、その戦前からの支那との関係性を現在でも基本的に維持している、と言ってもよかろう。
まさに、島津斉彬のこの遺志は、支那にナショナリズムを喚起し、支那、ひいては全非欧米の再生をもたらす、ためのものであったところ、それは、東アジアおよび南アジアにおいて、ものの見事に成就されることになったわけです。
そして、国民党ではなく共産党が支那のナショナリズムの旗手にのし上がることができたのは、当時の日本の支配層、就中その上澄み、の対支那戦略の真意を読み取る能力が孫文/蒋介石にはなく、毛沢東/周恩来にはあったこと、そのため、前者は日本にホンネで敵対した結果日本に叩き潰されたのに対し、後者はホンネでは日本と提携したので日本によって支那の権力を与えられ、非欧米世界の再生について、日本の衣鉢を託されたからなのである、というのが私の見解なのです。(太田)
(続く)