太田述正コラム#14780(2025.2.22)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その10)>(2025.5.20公開)

 「・・・支那事変(いまの言い方では日中戦争)で大事なポイントのひとつは、・・・中国共産党と上海にあった日本軍の特務機関が連携していたことです。・・・
 中国共産党から、国民党軍についての情報を教えてもらうのと引き換えに、かなりの額の活動資金を渡していました。
 日本軍は、共産党に教えてもらった情報をもとに、軍事作戦を展開していた。

⇒このあたりのことは、次に予定しているシリーズで掘り下げますが、概ねそんなところだろうと見ています。(太田)

 中国共産党とこんな取引をするのは、目先の利益になる。
 戦術的には理解できます。
 でも、戦略的にはきわめて愚かである。
 その後の歴史が示すとおりです。・・・
 毛沢東の中国共産党に思うように操られていたのは日本なんです。
 日中の戦争にひきずり込まれた日本は、戦略がまるでなっていなかった。
 歴史の先を読もうともしたが、まったく筋が悪かった。・・・
 当時の日本軍にも現場には世界一流の対中インテリジェンス能力があったと思う。
 にもかかわらず、こうした情報をしっかりと把握して戦略に昇華させる意思と能力を軍上層部がもっていなかったことが敗因だと分析しています。

⇒「戦略的にはきわめて愚かである。その後の歴史が示すとおりです。」については、日本は、先の大戦において、戦争目的を概ね達成した、従って勝利した、という私の見解に照らせば話はその正反対であるわけですが、その点はさておくとしても、「当時の日本軍にも現場には世界一流の対中インテリジェンス能力があった」というのは、インテリジェンスの何たるかがお二人に全く分かっていないことを示しています。
 というのも、どんな組織であれ、中央は、自分達の戦略に基づきその戦略遂行に必要なインテリジェンスを現場に追求させるのであって、あくまでも現場は頭脳ではなく手足に過ぎない以上、当時の日本軍・・支那に関しては陸軍と言っていいでしょう・・の対支インテリジェンスが世界一流だったとすれば、それは、陸軍中央のインテリジェンス能力が世界一流だったことを意味するからです。
 蛇足ながら付け加えれば、満洲事変の頃から終戦までの陸軍において、一貫して事実上の最高指導者であり続けた、いわば、陸軍、ひいては日本政府の戦略を取り仕切り続けたところの、杉山元は、実に38歳までインテリジェンス分野で活躍した人間であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
彼がインテリジェンスの何たるかを熟知していたからこそ、私に言わせれば、的確な戦略を打ち出し、その戦略をインテリジェンス面を含め的確に遂行し、その結果として、日本は先の大戦の戦争目的を概ね達成すること、ができたのです。(太田)

 中国の共産党や政府の当局者と話していると、天皇に特別なまなざしを向けていることを感じます。

⇒その理由に殆ど言及がないのは理解しがたいものがあります。(太田)

 ・・・1989年の第二次天安門事件<(注8)>後、西側諸国から制裁を受けていた中国にとって、ブレイクスルーとなったのは1992年の天皇訪中でした。

 (注8)第二ならぬ、第一次天安門事件(四五天安門事件)とは、「1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、同年1月8日に死去した周恩来国務院総理(首相)追悼の為に捧げられた花輪が北京市当局に撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に鎮圧された事件、あるいは、この鎮圧に先立ってなされた学生や知識人らの民主化を求めるデモ活動を包括していう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BA%94%E5%A4%A9%E5%AE%89%E9%96%80%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 前国家主席の胡錦涛が、江沢民の後継として権力基盤を固めるために行なったのも、訪日して天皇陛下と面会することでした。
 さらに、現在の習近平は国家副主席だった2009年に来日した再、天皇と外国要人との会見は1か月前までに要請するというルールを曲げてまで、天皇陛下(現上皇陛下)との面会を当時の民主党政権にごり押ししました。・・・
 習近平にとって、国家主席となるうえで不可欠の儀礼だったのでしょう。
 かつて日本の君主が中国の皇帝に朝貢したように、いまでは中国共産党指導者にとって日本の天皇こそが、トップになるための正統性を補強する存在になっているのです。
 習近平が陛下と会う際、・・・記者団のカメラからは映らない場所で、習近平は腰を90度に折り曲げるようにして陛下にお辞儀をしていました。
 大きな身体を折り曲げる姿がいまも目に焼き付いています。
 そうした天皇に対する敬意を習近平ももっていると考えると、中国の「逆朝貢体制」は、日中韓においてはまだ少し残っているのではないかと感じるところです。」(49~51、59~61)

⇒毛沢東以来の中共の当局者達は、天皇が、日本の、巨視的に見ての、支那に比して、より安定的にして発展的であるところの歴史を規定してきた、という認識を抱いていると想像される上、支那人で中共当局の息のかかった者等が、杉山元や梅津美治郎らと、その支那北部駐箚時代等に直接接触し、彼らの宮中に対する深い敬意・・実は昭和天皇ではなく貞明皇后や牧野伸顕に対するものだったわけだ(コラム#省略)が・・を感じ取り、彼らを動かしているのが昭和天皇だという誤認識を抱き、毛沢東や周恩来にその誤認識を伝達し、毛や周もその情報を信じ込んだ、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)