太田述正コラム#14796(2025.3.2)
<橋爪大三郎・峯村健司『あぶない中国共産党』を読む(その18)>(2025.5.28公開)
だからこそ、「福澤諭吉は、『丁丑公論』にて<佐賀の乱後の>政府<の対応>を下記のように批判した<のだろう>。
<明治7(1874)年の>佐賀の乱の時には、断じて江藤を殺して之を疑わず、加うるに、此の犯罪の巨魁を捕えて更に公然<たる>裁判もなく、其の場所に於いて、刑に処したるは、之を刑と云うべからず。其の実は戦場にて討ち取りたるものの如し。鄭重なる政府の体裁に於いて大なる欠典と云うべし」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%96%B0%E5%B9%B3
その2年後の明治9(1876)年10月の神風連の乱の後処理については、「約50名は捕縛され、一部は斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%A2%A8%E9%80%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
ということ以上のことは分からなかったが、この神風連の乱に呼応して起こった秋月の乱では、「12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村と益田は即日斬首され、約150名に懲役、除族などの懲罰が下された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E3%81%AE%E4%B9%B1
というのだから、若干の「改善」が見られ、更にこれらに呼応した起こった萩の乱では、12月8日まで続いた乱であったというのに、「12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会を与えられぬまま関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた一誠と奥平および横山俊彦、佐世一清(一誠の実弟)、山田頴太郎(一誠の実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説あり)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり、萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも、清水清太郎の日記では賊徒凡三千五百人ともある)。この処罰には司法卿・大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E3%81%AE%E4%B9%B1
ということから、少なくとも、秋月の乱と萩の乱に関しては、慌てて制定された「法律」で処断がなされたということのようで、法に基づく裁判の形をとっただけだと言えそうだ。
明治10(1877)年1~9月の西南戦争の後処理に関しては、「当時の鹿児島県令大山綱良は官金を西郷軍に提供したかどで逮捕され、戦後に長崎で斬首された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%8D%97%E6%88%A6%E4%BA%89
ことくらいしか確たることは分からなかったが、確たることが分からないこと自体が異常である感を免れない。
要するに、維新後10年くらいは、日本が非法治主義的になっていて、それに対する批判もあったところ、それは、戊辰戦争以来、有事状態に日本があったことが背景にある、というのが私の認識であり、中共では、支那に法治主義時代などなかった上に、いまだに、少なくとも中共当局の認識では、有事状態にあると想像されることを勘案しなければなるまい。
そして、彼らがかかる有事状態認識を抱いていることを、我々は必ずしも間違っているとは言えまい。
なぜならば、前にも記したように、核武装した接壌国を周りに4つも抱え、東の海上にはやはり核武装した米国の部隊がにらみを利かせていて、そのうちロシアと米国は、どちらも潜在敵国であって、いずれも、ホンネでは、中共の崩壊/支那の勢力圏化、を図っている上、現在のトランプ政権がロシア寄りの姿勢を見せていることがその懸念を高めているところの、先の大戦中のような米露の、提携の復活、と、先の大戦中の対三国同盟共同対処ならぬ対中共同対処の実行、の可能性すら排除できないからだ。(太田)
(続く)