太田述正コラム#3251(2009.5.3)
<皆さんとディスカッション(続x475)>
<Chase>(http://blog.zaq.ne.jp/fifa/
 太田述正氏にLet it beの意味についての拙論をご高閲頂いた。どうもありがとうございます。
http://blog.ohtan.net/archives/51363023.html
 しかし、なんだか思いが伝わらずもどかしい気持ちなので、もう一度、私の主張を単純に表現してみる。
1.Let it be は”なすがままに”とあっさり訳すのでなく(キリスト教の神の概念に馴染みの薄い日本人に対しては)”神の御心のなすがままに”と訳した方がよいと思うこと
(太田氏が引用したルカにもあるように、聖母マリアが神から受けたことばを受け渡したことからしても)
2.”神の御心のなすがままに”の意味は、(ポールの意図したニュアンスにはないかもしれないが、)キリスト教の根幹である予定説の教義からは、”神が決めています”何を?”あなたが救われることを”だから”いまの苦難は受け入れなさい”という解釈をした方がよいと思うこと
以上の二点である。
1.の典拠例はググれば、一般人であるが多数。
http://www.jhcs2.org/doich/messge/05nen12g11.htm
http://koukisinnichijyou.seesaa.net/archives/200801-1.html
 太田氏の引用するルカによる福音書1章26~38節を読んでも、”神の御心のなすがままに”という訳で問題ないと思われる。
2.の典拠はなく、私の意見だが、同じくルカによる福音書の同箇所においても、マリアの受胎が神の意志であり、それを受け入れなさいということ、ということで予定説そのものである。
 私の言いたいことは、”なすがままに”程度の訳では、(日本人にとっては)そのうち良くなってくるよくらいの慰めとしか解釈できそうにない。
 つまり、そもそも聖句が有する予定説の思想を表現できないということだ。
 ”受け入れなさい”のような訳でも、苦しみを受け入れなさいだけだったら励ましにならない。何かよいことがあるような期待感が含意されないと素直に聞けるものではない。きっと救われますよという含意(予定説)が自然にこめられていると考えるべきである。
 予定説は、(カルバンの破天荒なオリジナルではなく)聖書自体に思想が含意されており、ルカ以外の典拠は例えば、
http://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-predestination.html
 ちなみにポール自身は予定説の教義は知らないと想像する。
 それは、ポールはカトリックの洗礼を受けているが、カトリックは予定説の教義から逸脱している。
 典拠は、一般人だが、例えば
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1113276821
 したがって、ポールも予定説の影響下にないものと想像する。
 私が、ビートルズがカトリックであることを紹介した意図は、ポールがLet it beの句を同曲に使っても、予定説の含意を含めていないであろうこと(がしかし、Let it beという句そのものに予定説が含意されていること)を言いたいためである。
 なお、現代のプロテスタント教会も予定説は、意識上は希薄であろう。
 私も学生の時、バプテスト教会のアメリカ人の牧師に予定説について訪ねたが、あまりピンと来ていない感じだった。
<太田>
 音楽の歌詞であれ、何であれ、文学、より一般的には作品・・憲法を含む法律を含めてもよいかもしれない・・は、原作者の意図を離れて、解釈されることがあり、それは不可避である、ということは、私も否定しません。
 問題の歌について、私は、原作者の意図を推測したのに対し、あなたは、歌詞の解釈に係る原作者の意図とは異なった説・・あなたによれば有力説(多数説?)・・をご指摘になったということです。
<深雪>
≫南京虐殺は無かった、とか・・・≪(コラム#3249。信濃大路)
 ちょっとトリッキーでいただけないなぁ。
 太田さんは確か「一、南京事件」と表記していたと思うが。
 貴方の使用している言葉は「二、南京虐殺」だ。
 否定している人々の多くが使っている言葉は「三、南京大虐殺」でしょう?
 一と二と三は、全く概念としてイコールではないと思います。ちなみに、私は一はあった、しかし三は明確になかったという認識をしています。
 この件は典拠をつけて語り出すと際限なく続くので、短く留めたいです。
<太田>
 典拠をつけないとしても、少なくとも、ここで言う「虐殺」と「大虐殺」の定義は明らかにすべきでしょう。
 「大虐殺」の方は、恐らく支那側が主張している何十万人のオーダーを念頭に置かれているのでしょうが、「虐殺」の方は?
 何百人までですか、何千人までですか。それと何万人だって単なる「虐殺」ですか?
 結局、南京事件について、どんな「虐殺」数を主張している典拠がもっともらしいとあなたが思っているかによって、あなたの定義も変わってくるような気がしますが・・。
<深雪>
 まず、ここで太田さんに確認したい事は、私は「南京虐殺」という表記をしていないという事実です。私が認識している史実は「南京事件」です。よって「南京虐殺」の定義は その言葉を用いた信濃大路さんにお任せします。
 私が事件と認識した根拠はいろいろありますが、一つだけあげるとすれば、拓殖大学教授藤岡信勝氏の以下の見解によります。氏は、
一、日本軍が南京陥落した時、南京場内の市民は南京安全地帯に避難しており、陥落直前の人口は二十万人だった。一か月後の一月十四日には二十五万人に人口が増加している。よって、万単位の市民虐殺はあり得ない。
二、国民党政府の公文書である『南京安全地帯の記録』によれば、安全区内の殺人事件は26件。そのうち目撃者のいる事件は1件。その1件は、不法殺害によるものではなかった。
三、国民党政府が南京陥落直前から約11か月の間に漢口で開いた300回の記者会見では、「南京で市民の虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」などの発表は1件もなかった。
と論じています。
捏造された「南京大虐殺」 国民党反日プロパガンダのカラクリを暴く
藤岡信勝/拓殖大学教授
http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu4.html
<太田>
 Chase、深雪の御両名、ゴールデンウィークにディスカッションにおつきあいいただき、ありがとうございます。
 深雪さんは、藤岡の主張をふまえ、南京において、「虐殺=不法殺害」はなかったと考えておられるわけですね。
 本件に関するあなたの最初の投稿では、必ずしもこの点がはっきりしてませんでしたよ。
 さて私は、1次資料に直接あたるという意味での歴史学者ではないので、歴史について書かれているもの(=2次資料)を通じて私自身の歴史認識を形成しているわけですが、常に2次資料の筆者の信頼性に注意しているところです。
 藤岡もプロの歴史学者とは言えないことはさておき、遺憾ながら彼の信頼性は高いとは言えません。
 お示しの典拠(藤岡執筆の文章)にもあたってみましたが、私は、藤岡について、以下のような懸念、疑義を抱いています。
 第一に、上記典拠(以下同じ)には、「南京虐殺の証拠写真として扱われてきたものがことごとくニセモノだったことが明らかになった。東中野修道氏らの『南京事件「証拠写真」を検証する』(2005年、草思社)は143枚の写真を網羅的に検討し、南京虐殺の証拠写真として通用するものはただの一枚もないことを証明した。」とありますが、そもそも「ことごとくニセモノ」ということと、「南京虐殺の証拠・・・として通用するものはただの一<つ>もない」こととは、必ずしもイコールではないことはともかくとして、藤岡氏は、私と同じようには2次資料の筆者の信頼性を検証をしていない可能性が高いと言わざるをえないことです。
 というのも、東中野修道が1998年に上梓した『南京虐殺の徹底検証』中に少なくとも一つ、名誉毀損を構成するような事実に反する記述があったことが日本の最高裁によって認定された
http://j.peopledaily.com.cn/94475/6587353.html
からです(コラム#3081)。
 第二に、藤岡は、「<中国国民党>中央宣伝部がお金を使って頼んで本を書」かせたイギリスのマンチェスター・ガーディアン紙の特派員たるティンパーリの本に言及しながら、誰が考えても自発的に書いたとしか思えない、(ナチス党員たるドイツ人)ジョン・ラーベによる『南京の真実』(コラム#253以下。#2626)に全く言及していないのはいかがなものかということです。
 また、上記東中野の本にやたら言及する一方で、南京虐殺生起説を唱える日本人歴史学者・・例えば私のかつての勉強会仲間で、元大蔵官僚・防衛研修所所員であった歴史学者の秦郁彦(コラム#1679、1698、2902)・・による著作や論文(2次資料)に全く言及していないのも不自然です。
 要するに、藤岡は、結論が先にあって、それに合致した著作だけを、しかも無検証で参照している、と言わざるをえないのです。
 第三に、藤岡の論述に説得力のない箇所が多数見られることです。
 例えば、「日本軍が南京を陥落させた時、南京城内の市民は南京安全地帯(安全区)に避難していた。陥落直前の人口は20万だったが、その後も20万で変わらず、1ヵ月後の1月14日には25万人に増加している。万単位の規模の市民虐殺はあり得ない。」とか、「国民党政府が南京陥落直前から約11ヵ月の間に漢口で開いた300回の記者会見で、ただの一度も「南京で市民の虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と発表していない。」についてですが、これは、中国国民党に市民の保護という観念などほとんどなかったことを物語っているという解釈もできます。
 また、国民党軍が北伐の過程で、(他の)軍閥や中国共産党軍と戦う過程で、残虐行為を日常的に行っていたから、という解釈もできるでしょう。
 以上のことは、当時の「<中国の>市民」にとっても常識であったと考えられるのです。
 そうだとすれば、「国民党政府の公式文書である『南京安全地帯の記録』によれば、安全区内の殺人事件は26件にすぎず、そのうち目撃者のいるのは1件のみで、それも不法殺害ではなかった。」も当然だということになるわけです。彼らに記録する意思も能力もなかった可能性が大だからです。
 このことが、支那側の記録と、当時南京にいたラーベのような欧米人の記録に著しい乖離がある最大の理由である、と考えると平仄があうわけです。
 藤岡は、論述にあたっての最低限の自問自答を怠っているという誹りを免れないでしょう。
 第四に、藤岡の史観そのものに、私は強い違和感を抱いていることです。
 拙著『防衛庁再生宣言』(232~233頁)で、私は藤岡を吉田ドクトリンのイデオローグの一人として批判しています。
 すなわち、藤岡は司馬遼太郎史観信奉者であり、「日露戦争終了から終戦に至る40年間」を暗黒時代(=非自由主義時代)と見ている・・このような意味で彼の史観は「自由主義史観なのです・・ところ、私は、あえて「日露戦争終了から終戦に至る40年間」こそ、日本の黄金時代だったと考えているからです。
 およそ、私から見れば根本的に誤った史観を信奉する藤岡のような人物が、特定の「事件」について、まっとうな論述ができるはずがないと私は考えている次第です。
 南京事件の際に、日本軍が敗残兵の掃討を超えた非戦闘員の殺害等を行ったとして、それが果たして不法(当時の国際法違反)なのか、とか、人間がいかに残虐な行為を犯しやすい性向を有しているものなのか、といった話には、長くなるので今回は触れませんでしたが、私が虐殺生起説をとっていることは容易にご推察いただけると思います。
 残された問題は、基本的に、虐殺数だけだ、というのが私の認識です。
 なお、秦は虐殺数について、数千人説から2万人説に転換した、と承知しています。 
 では、記事の紹介です。
 新インフルエンザについて、かなり解明が進んできました。
 「新型の豚インフルエンザウイルスは人と鳥、2種類の豚が持っていた計4種類のウイルスが複雑に混じりあってできたことが・・・わかった。・・・
 ウイルスに8本あるリボ核酸(RNA)のうち、6本が北米の豚に感染するウイルスから受け継がれたもので、2本が欧州やアジア由来のユーラシア型の豚ウイルスから受け継がれたことを見つけた。前者の6本には、人、鳥のそれぞれに感染するウイルスに由来するRNAも混ざっていた。・・・」
http://www.asahi.com/science/update/0502/TKY200905020187.html
 また、感染力が思ったほど強くなさそうなので、それほど心配する必要がないのでないか、という説が有力になってきました。
 ・・・basic reproductive number,” which is a measure of how many secondary cases of flu a typical patient will cause in a population with no immunity to the pathogen.
 For measles, which is highly contagious, the basic reproductive number is above 15; for smallpox, it is above 5. For ordinary influenza, the basic reproductive number ranges from 1.5 to 3.0.
 ・・・According to the preliminary models, the reproductive number that we have in the Mexico City metropolitan area is 1.5,” Lezana said in an interview. “It’s a number fairly low, and that’s good news・・・
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/01/AR2009050102642_pf.html
 
 話は全く変わりますが、韓国での研究成果だからと、一笑に付するべきではありますまい↓。
 一応間接的な物証にも言及されていますよ。
 「大帝国モンゴルの馬のひづめが高麗を踏みつけた13世紀、最後まで対モンゴル抗争を繰り広げた軍事集団が「三別抄」だった。崔氏政権の私兵だった三別抄は、・・・1271年5月に高麗・モンゴル連合軍の攻撃を受け、根拠地だった珍島が陥落した。それでも、金通精(キム・トンジョン)を中心として済州島に移<ったが、>・・・73年4月、軍船160隻に乗り込んだ連合軍が圧倒的な軍事力で済州島に猛攻をかけた。金通精は自決し、残る1300人は捕虜となった。・・・
 三別抄が韓国史の記録から消えた13世紀から、沖縄ではようやく農耕が本格化して人口が急速に増え、地域勢力が成長し始めた・・・。あちこちに大きな城も築造された・・・
  そのため最近、「沖縄の琉球王国が建国の基礎を固めるに当たり、決定的に寄与した人々は、まさに三別抄だった」という意見が提起されている・・・」
http://www.chosunonline.com/news/20090503000014
http://www.chosunonline.com/news/20090503000015
http://www.chosunonline.com/news/20090503000016
 小川洋子の『博士の愛した数式』の英訳に対する、極めて好意的な書評が出ていました。
http://www.guardian.co.uk/books/2009/may/02/housekeeper-and-professor-ogawa
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太田述正コラム#3252(2009.5.3)
<陰謀論批判>
→非公開