太田述正コラム#2882(2008.10.30)
<米軍最高司令官としてのリンカーン(その2)>(2009.5.4公開)
 なお、大統領への権力一元化論者(unitary executive theorists)は、しばしば・・・リンカーンによるコモンローに基づく救済措置のうち最も基本的なものである人権保護令状(Great Writ, habeas corpus)の停止を引き合いに出すけれど、彼がいかなる文脈の下でそうしたかと言えば、ドレッド・スコット判決(注1)を下した最高裁長官のロジャー・トーニー(Roger B. Taney)が電信線を切断しようとしていた南部連合の騎兵部隊士官のジョン・メリーマン(John Merryman)・・トーニー同様のメリーランド州の奴隷持ちの大土地所有者でもあった・・の釈放を命じた決定を無視したことから始まったのだ。
 (注1)Dred Scott Decision。1857年に下された米最高裁判決。アフリカ人の子孫は奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、米議会は米国の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした。この判決に、カンザスが自由州になるとミズーリ州からの逃亡奴隷にとって天国になることを恐れていた奴隷所有者達は喜んだが、奴隷制度廃止運動家は激怒した。この判決は、奴隷制に関する論議を二極化し、南北戦争を導く大きな要因になったと考えられている。(
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E5%AF%BE%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E4%BA%8B%E4%BB%B6
。10月30日アクセス)
 リンカーンは、憲法学者達の意見と、米憲法第1条第9項の、人身保護令状は「叛乱または侵略に際し、公共の安全がそれを必要とする場合を除いては停止されてはならない」との規定に基づいてそうしたのだ。
 ここまでは問題なさそうだが、リンカーンは後に人身保護令状の停止を、戦闘の行われている地域から米国全体にまで広げたのだ。
 リンカーン自身が、何年か後に「憲法を護って国家が滅びてもいいのか。一般法においては生命と脚はどちらも守られなければならない。しかし、生命を救うために脚を切り落とさなければならない場合がある。しかし、その逆は成り立たない。国家が存続してこそ憲法も存続できる。だから、そのために不可欠なことであれば、違憲行為も合法となると考えた。」と記している。・・・
 平時の大統領であれば、精緻な抑制と均衡によって制約を受ける。しかし、戦時においては、リンカーンは大統領が一方的に行動すべきことを学んだのだ。・・・
 <しかもそれは、>大逆と叛乱との戦争だった。・・・
 南部連合諸州は一時叛乱諸政府の支配下に置かれたけれど、これら諸州も連邦の一部であり続けているという認識の下、リンカーンは、米国の諸法を、ニューヨーク州やニュージャージー州だけでなく、バージニア州や南カロライナ州でも忠実に施行することに配意すべき、<彼の大統領としての>憲法上の責務を果たしたに過ぎないのだ(注2)。・・・
 (注2)以前(コラム#121のQ&A中で)、盧武鉉前韓国大統領の尊敬する人物がリンカーンであることについて皮肉ったことがあるが、たまたま本日送られてきた週刊金曜日(10月31日号)で土井たか子社会民主党名誉党首が、青春時代に映画「若き日のリンカーン」を見て弁護士になろうと決意したと語っている(28頁)のを知って、またもや皮肉りたくなった。「貧しい黒人を助け」た(28頁)「若き日のリンカーン」が、その後大統領になって、南部諸州の黒人奴隷解放という、北部諸州の自衛ならぬ究極の集団的自衛(人道的介入)目的のために、米国史上最も血なまぐさい大戦争を、自ら先頭に立って、しかも超憲法的措置をとりながら遂行したことを考えれば、せいぜい自衛のための武力の行使しか認めない憲法第9条の墨守を唱える「憲法学者」で「元衆議院議長」だった土井氏にとって、リンカーンとは一体何なのだと。(太田)
 リンカーンは、戦争を細かく管理した(micromanaged)。そして最終的に彼は、彼とビジョンを共有するところの、偉大な戦闘者たる三人組、グラント、シャーマン、そしてシェリダンを発見し、彼らにその仕事をやらせるべく手を引いた。・・・
 当初、彼はウィンフィールド・スコット(Winfield Scott)将軍と軍事プロ達に敬意を表していた。
 しかし、やがて陸軍の上層部には叛乱を鎮圧する意志も能力もないことがはっきりすると、リンカーンはより積極的な役割を担うようになった。
 陸軍に志願兵をもっと募らなければならなくなり、まず、リンカーンは政治家連中を司令官職に任命した。そのうち、・・・らは傑出した戦闘司令官であることが判明した。それ以外には、・・・らはまあまあだった。そして若干の連中は、・・・迷惑を及ぼした。 とはいえ、これらの政治任命された士官達は、総じて陸軍士官学校出のプロ達に決してひけをとらなかった。<陸軍士官学校出で優秀だった>・・・はすぐ引退してしまい、・・・<残りのうちの2人>は「のろま」で・・・南部連合の陸軍を殲滅することに関心がなかったし、・・・<の5人は、>南部連合を敗北させる熱意はあったが危険を回避してばかりいた。
 その結果、戦争の最初の年は、リンカーンはしばしば直接戦闘に口を出さざるをえなかった。・・・
 しかし、ついに1864年の初めに彼は、南部連合の抵抗能力を粉砕して叛乱を終わらせることできるユリシーズ・グラント(Ulysses S. Grant。1822~85年。後に大統領(太田))を発見し総司令官に任命するに至る。・・・
 グラントは敵地の占領や鉄道の分岐点の確保などには目もくれず、敵軍の粉砕に向けての絶対的な決意を持っていた。そして、彼が昇任させた将軍であるウィリアム・テクムシー・シャーマン(William Tecumseh Sherman)、フィリップ・H・シェリダン(Philip H. Sheridan)とジョージ・H・トーマス(George H. Thomas)は、彼と同じ見解を有していた。
 グラント・・・とシャーマン・・・とシェリダン・・・によって連邦の運命は好転した。
 南部連合が内線(interior lines of communication)の優位を持っていたとすれば、連邦側は適時性の優位を持っていた。連邦側は、会戦の時間と場所を一方的に決めることができたのだ。また、様々な箇所を同時に攻撃することで、南部側が部隊を一つの戦域から他の戦域へと移動させる能力を無にすることができた。グラントの指揮の下で、南部側の陸軍は相互に補強することができなくなったのだ。
 こうして、1864年にリンカーンは圧倒的多数でホワイトハウスに再選され、連邦が奴隷制を維持させたまま南部連合と和平を結ぶ必要はなくなった。
(続く)