太田述正コラム#14896(2025.4.21)
<檀上寛『陸海の工作–明朝の興亡』を読む(その24)>(2025.7.17公開)

 「宗族・郷約・善会・善書などに共通するのは、さまざまな位相での人々の連帯とモラルへの期待であり、それを社会の側から自律的に追求した点に明末の諸活動の特徴があった。
 そこに他律的儒教国家を企図した明初との大きな違いを認めることもできるだろう。

⇒繰り返しになりますが、「善会」だけが、それに当てはまるのではないか、というのが私見です。(太田)

 じつはこうした動きと並んで、当時の思想界で「生生」<(注61)>の観念が熱狂的に支持されていた事実を見逃してはならない。・・・

 (注61)「「生生之謂易」という言葉・・・は・・・「生み出し続けること、それが易である」という意味です。自然界を見てください。春になると草木が芽吹き、夏に花が咲き、秋に実りをもたらし、冬に眠りにつく。そして、また春が来る。でも、去年の春とまったく同じ春はありません。毎年少しずつ変化しながら、新しい命が生まれ続けています。これは、私たち人間の人生や仕事にも当てはまります。毎日同じことの繰り返しのように見えても、実は少しずつ変化しているのです。その変化に気づき、適応していくことが大切です。」〈易経の繋辞上伝<より>〉
https://note.com/ryuseizan/n/n741da6d4f9d4
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14105021434 (〈〉内)

 <これは、>天地の気(陰陽)が活発に活動して次々と万物を生み出すことを意味する。
 人間も同じ天地の気から生まれるため万物と一体であり、草木・鳥獣すべて同気でそこに区別は存在しない。
 人間が宗族と親睦したり、貧者に慈善を施すなど連帯の場を広げることは、畢竟、万物一体を為す天地の営みに通じるものであった。
 この思潮を最も明確に体現するのが陽明学である。・・・
 外在的な事物の理を窮めて(読書窮理)人格を陶冶する朱子学に対し、陽明学は個人に内在する心にこそ理すなわち良知が存し(心即理)、その良知で事物を索定するよう主張する。
 良知は朱子学のように修養で得られるのではなく、人間が持って生まれた心のあるがままの姿、先天的な道徳知(五倫・五常)<(注62)>を指す。

 (注62)五倫五常。「「五倫」は基本的な人間関係を規律する五つの徳目。父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。「五常」は仁・義・礼・智<・>信の五つ。」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E4%BA%94%E5%80%AB%E4%BA%94%E5%B8%B8/

 それゆえ天地万物を一体とするのは意図的な行為ではなく、心の仁が内からの衝動として自ずと発揮されたものだとする。
 これを「万物一体の仁」という。」(167~168)

⇒一、「「生生」の観念が明末に熱極的に支持されていた事実」、二、この観念と万物一体の仁ないし陽明学とが相通じていること、の典拠が示されていませんし、三、陽明学における良知と万物一体の仁との関係についても説明されていません。
 一と二については判断を留保しますが、三についての私の取り敢えずの仮説は、仁は万物一体の仁であり、それこそが、(往々にして後天的には忘れ去られてしまうところの、)全ての人間に本来的に備わっているところの、いわば、全ての倫理の母である、というものです。(太田)

(続く)