太田述正コラム#15010(2025.6.16)
<2025.6.14オフ会次第(続々)>(2025.9.11公開)
d:漢人文明は平和的だと太田さんは言うが、ベトナムは反中のように見受けられるところ、それはどうしてか。
o:(以下、席上でお答えした内容を若干膨らませた。)
それは、「ベトナムは長い歴史の中、中国の歴代王朝から繰り返し支配と侵略を受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%B6%8A%E9%96%A2%E4%BF%82
からだ、と、少なくとも中越関係の邦語ウィキペディアは言いたいようだが、私見は異なる。
下掲諸引用に、ざっと目を通して欲しい。↓
「現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)の直系先祖<は>・・・百越・・・である。<百越は、>・・・現在の浙江省の東海岸が起源と見られ・・・周代の春秋時代には、楚、呉や越の国を建国する。・・・漢が存在した時は、越は楚、呉や越を呼ぶ呼称ではなく、2つの越の国が確認できる。1つは長江以南である<支那>南部と現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、<支那>の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。・・・漢人は北方異民族の力の支配に対してしばしば反乱を起こしながら、華南地域に移動し華南の王朝を建国した。この時代、華南地域からさらに南に移動した越人は、頻発に反乱を起こし・・・<、やがて>ベトナムに定着した。北部ベトナムは968年に最初の越人民族王朝である丁朝が・・・成立している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
「<この間、>紀元前219年、始皇帝は・・・嶺南地方[<、すなわち、支那>南部の「五嶺」(南嶺山脈)よりも南の地方を指す。現在の広東省、広西チワン族自治区、海南省の全域と、湖南省、江西省の一部・・・<、及び、最初のうちは、>ベトナム北部<も含む、>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B6%BA%E5%8D%97_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD) ]
を攻め、・・・紀元前214年に・・・平定するに至った。
<また、>紀元前112年<から>・・・紀元前111年<にかけて、>・・・漢<の>・・・武帝は・・・建国から5代93年に及<んでいたところの、漢内の一王国たる>南越国<、>・・<を>滅亡<させ、>・・・漢<の直轄地にしている。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E8%B6%8A%E5%9B%BD
「<話を戻すが、他方、支那>に残った越人は「越」の国を失い、次第に「越人」としてのアイデンティティー<も>失っていったものの、現在でも広東省一帯の方言である広東語を「粤語」と呼び、広東省の車のナンバープレートには「粤」と記載されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A 前掲
⇒つまり、ベトナムは、私の言う江南人中、楚、呉、越のように早期に国を形成しなかったところの、これら諸国よりも南方に住んでいた人々の居住地域が、秦による天下統一の一環として秦の一部になり、その後も、引き続き漢の一部であり続け、嶺南地方中の北ベトナムが漢人王朝の支配下から初めて脱した・・分離独立した・・のは968年であって、北ベトナム・・その後南方進出を果たし概ね現在のベトナム全域に達する・・は、都合1200年近くも漢人王朝の一地方であったことからして、漢人文明圏に属するのであって、その後は、明による占領下に置かれた1407~1428年
https://en.wikipedia.org/wiki/Fourth_Era_of_Northern_Domination
の一時期を含め、どちらも広義の漢人文明に属するところの、支那とベトナム、の間でのしばしば熱戦や表見的には正常な関係の時期を伴うところの超長期的な冷戦状態が、ベトナムのフランス統治時代も含めて、続いたまま現在に至っている、というのが私の見方なのだ。
このような支那とベトナムとの関係は、現在の中共と台湾との関係を超長期化したような関係である、と言っても中らずと雖も遠からず、といったところだろうか。
だから、台湾が反中である以上に、ベトナムが反中であって当然なのだ。(太田)