太田述正コラム#15032(2025.6.27)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その55)>(2025.9.22公開)

 「元帝期から明帝期初年にいたる、ほぼ100年のあいだにできあがった儒家的祭祀・礼楽制度・官僚制の骨格は、天下を領有する名前とともに、清朝にいたるまで継承された。
 のちの諸王朝は、漢を模範と仰ぐことが多い。
 その漢は、前漢ではなく後漢の国制であり、それは事実上王莽がつくりあげたものである。
 三国の魏がこの体制を踏襲したので、のちにはこれを「漢魏故事」「漢魏之法」「漢魏之旧」とよび、東晋南朝ではあるいは「漢晋の旧」「魏晋故事」などとよんだ。・・・
 わたくしは、・・・これを伝統中国における古典国制とよんでいる。・・・
 宰相府である司徒・司馬・司空の三公府のもとに、特定行政を担当する三つの官府<が>配置<され>た(「三公九卿制」<(注57)>)。・・・

 (注57)「漢の初めには、丞相または相国が官の全般を統率する最高の官職で、監察・政策立案を司る御史大夫、軍事を司る太尉がそれに次いだ。これを三公というのは、後の儒学者が学説上の三公になぞらえたまででである。このうち兵権を握る太尉は、任命されなかったり、大司馬、大将軍など改称・改編が多かった。・・・
 元寿2年(紀元前1年)5月に、哀帝は丞相を大司徒と改め、御史大夫をまた大司空として、ここに大司徒・大司空・大司馬の三公が完成した。・・・
 王莽は大司徒・大司空・大司馬の三公を引き継<いだ。>
 後漢を建てた光武帝は、前漢の制度を継承して大司徒・大司馬・大司空を置いたが、建武27年(51年)4月に、儒教の経典にあわせて大司徒と大司空から大の字を除いた。同時に大司馬を太尉と改称した。これにより、司徒・太尉・司空が三公になった。・・・
 後漢末に実権を握った曹操が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を廃止してしまった。
 魏の成立後には三公が復活していたものの、実権を尚書などに奪われ長老の名誉職と化していたらし<い。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%85%AC

⇒私見を簡単に言えば、相国/丞相、の権限を三公制にすることで低下させ、政治の責任を皇帝一人に帰せしめてしまい、構造的体制不安定化がもたらされた、ということです。(太田)

 光武帝<の下で、>・・・官房機能をもつ尚書が皇帝の政治的意思決定にも重大な影響を及ぼすようになり、皇帝に直属する行政機構となり、尚書台とよぶようになった。
 三公九卿は、しだいにその決定を執行するだけの行政府となっていった。
 後漢末までに尚書は六曹となり、隋唐以後の六部(りくぶ)尚書体制の濫觴となった。・・・
 後漢は、第五代殤帝劉隆<(注58)>(在位105~106)が幼児のうちに死亡してのち嫡系が絶え、つぎつぎに傍系から若い皇帝が立って政権が不安定になった。

 (注58)りゅうりゅう(105~106年)。「<支那>の歴代皇帝のうち、最年少の皇帝である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%A4%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

 前漢末の政局の再現である。

⇒迷信と偽書に基づく国制作りに王莽も光武帝も狂奔しつつ、皇帝位継承ルールや年少皇帝補佐ルールを定めるという、国制の基本中の基本の策定を怠ったというのですから何をかいわんや、です。
 この結果、25年に成立した後漢は、その後80年にして、早くも滅亡が決定的になった、と、言っていいでしょう。(太田)

 皇帝があいついでいれ替わると、歴代皇后とその外戚たちが皇帝権力をめぐって争うようになった。
 そのなかで宦官が台頭し、皇帝の居処である禁中に出入りして外戚勢力と争い、第8代順帝劉保(在位125~144)、第11代桓帝劉志(在位146~168)を擁立するまでになった。」(131~132、134、136、144)

⇒こんなことも、(宦官であろうと誰であろうと)禁中の役人の国政への一切の関与を禁ずるルールを作っておけば回避できた筈です。
 結局のところ、緩治が、国制や禁中に対しても行われてしまった、という感を深くします。(太田)

(続く)