太田述正コラム#15034(2025.6.28)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その56)>(2025.9.23公開)
「<いわゆる>清流<派官人>と濁流<呼ばわりされた宦官との間の争いが、後者による前者に対する>・・・党錮の禁<といった形で中央で続くようになると、その>・・・一方<で、>疲弊した地方では、2世紀はじめ頃から河南・河北の各地で流民が出現し、農民反乱がおこるようになった。
その勢いはしだいに南下し、長江流域にまで拡大していった。
それは36万余人が一気に蜂起した黄巾の乱によって、頂点をむかえた。・・・
漢魏革命<と称される>・・・政権交替は、王莽がはじめた禅譲方式による権力移譲であり、「漢魏故事」とよばれて後世の手本となった。<(注59)>・・・
(注59)「禅譲<は、220年に>・・・後漢から曹丕が帝位を継承し魏に交替したのが最初とされる。その魏も、重臣であった司馬氏に実権を奪われ、司馬炎が禅譲を受けて晋を建国する。禅譲は五代の後周の柴氏が趙匡胤に禅譲して宋が建国されたのを最後として行われなくなる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0203-023_1.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E4%B8%95 (<>内)
⇒197年に袁術(155~199年)が「孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%81%E8%A1%93
という出来事を受け、曹丕は禅譲方式を採用した、と、佐藤大朗(注60)は指摘している。
https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/2343 (太田)
(注60)阪大文卒、早大修士(東洋哲学)、現在早大博士課程後期課程。
https://researchmap.jp/hirosatoh
郡国の数は前漢103、後漢105でほとんど変わらないのに対し、・・・後漢の県数は、前漢の約4分の3であるが、戸数の減少に相即しているのでさほど問題はない。
しかし郷は約半数、亭<(注61)>は約4割に減少している。・・・
(注61)「<支那>古代に置かれた宿駅。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%AD-569829
「秦王朝と漢王朝の最も基本的な行政単位・・・十里ごとに置かれる」
https://baike.baidu.com/item/%E4%BA%AD/53072429
「周・漢の1歩は1.3 m余りであったと推定され、したがって1里の長さは400 mほどであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C
郷は、戸籍編成の基礎単位であり、亭は阡陌制で区画された1頃単位の耕地の管理をおこなうとともに、管轄地域の警察業務をも兼ね、また郵とともに帝国全土を結ぶ通信・交通網を編成した。
郷亭組織が、戸口数の減少割合以上に激減していることは、基礎となる聚落群の解体、すなわち帝国基底部にある三階層制聚落群型式(パターン)の解体を意味するであろう。」(144~145、147、149~150)
⇒渡辺は、「郡国の数は前漢103」の時点を記してくれていませんが、私は、「武帝の晩年、人口が半減したといわれる」(前出)ことが、最新の研究成果であるという前提で言えば、その当時、既に、「三階層制聚落群型式(パターン)」は「解体」するに至っており、その後、人口が前漢末までに急速に回復し、増加した、というのが事実である・・疑っていますが・・としても(注62)、「パターン」は「解体」されたまま、郷亭組織が帳面上だけは前漢末まで維持されたのではないか、と、見るに至っています。(太田)
(注62)「西暦2年の漢の人口は『漢書』「地理志」によれば5959万余人だそうです。戸数は1223万余戸となっています。これが前漢の全盛期であったと言われています。・・・
光武帝が死んだ西暦57年、中国の戸数は427万余、人口は2100万余となっています。人口5959万人だった西暦2年と比べるとたった55年で3分の1以下になってしまっているのです。・・・
光武帝の死から89年後の西暦146年、この年の戸数は934万余、人口は4756万余と記録されています。」
https://ancient-history-of-china.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
(続く)