太田述正コラム#15036(2025.6.29)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その57)>(2025.9.24公開)

 「少し時代をくだった3世紀後半の西晋期になると、・・・亭はなくなり、・・・郷は、基層聚落とは無関係に、県の戸籍に登録する戸数に対応して行政的に設置され<るようになっ>たのである。・・・
考えうる政治的軍事的要因は、光武帝が後30年8月に断行した郡都尉<(注63)>府の廃止とそれにともなう内郡領域の軍備縮小である。

 (注63)「前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中元2年(紀元前148年)に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。
 後漢の光武帝の建武6年(30年)、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。蜀漢においても辺境には郡都尉の配置は続いた。
 また、前漢においては関所に置かれる関都尉、辺境の郡で農事を掌る農都尉、属国を掌る属国都尉があったが、後漢においては属国都尉だけが残った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B0%89

 郡都尉は、都の甲卒を統率・指揮する郡の軍事長官である。
 その廃止は、内郡領域の武装解除を意味し、前漢期をつうじてなお保存された戦国体制の根底的な廃棄をも意味した。
 郡都尉府の廃止は、戦国期以来、最下部の軍事・警察組織であった亭の存続に打撃を与えるとともに、その職掌であった阡陌・耕作地の管理にも大きな影響をもたらしたはずである。
 阡陌制は後漢末の土地売買文書上の記載を最後に歴史上から姿を消した。
 それは、小農民層の経済的基盤のひとつが消滅したことを意味する。・・・
 基層聚落群と阡陌制の解体は、・・・華北畑作農耕の変容との相互作用のなかで<も>ひきおこされた。・・・
 武帝期を境に・・・耕起・整地用具に・・・手労働用具を用いる戦国期以来の小農法的農業のうえに、二頭の牛に鉄製犂をひかせて耕起・整地をおこなう大農法<(注64)>が普及し、畑作農法大戸華北農村が大きく変貌していったのである。・・・

 (注64)「牛に犂(すき)を牽引させて耕作する農法。春秋・戦国時代に始まり,生産力が飛躍的に増大した。・・・
 前6世紀ごろより現在の山東省や陝西省から普及していったと考えられている。従来の石と木を用いた農具と比較してはるかに深耕が可能になり,農業生産力が著しく増大した。漢代には2頭の牛を用いて引かせる大型の犂も開発された。」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%9B%E8%80%95%E8%BE%B2%E6%B3%95-2128554

 <すなわち、>前漢末王莽期にかけて、阡陌制を無用にする大農法の進展・普及を見たこと、華北の農村聚落が多様な形態をもちはじめ、それが地方行政組織の変容にも大きく影響したこと<が>確認できる・・・。」(150~152、154)

⇒漢代において、大農法の進展は江南の稲作地帯ではなかったようなので、やはり、基層聚落群と阡陌制の解体は、基本的に、軍事軽視/緩治によってもたらされたと見てよさそうですね。(太田)

(続く)