太田述正コラム#15038(2025.6.30)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その58)>(2025.9.25公開)

 「・・・前漢・・・武帝期には、・・・まだ中家層の存在が認められる<が、>・・・農村の三階層のなかで、中家層に租税負担が重くのしかかっていた・・・。
こうして後漢期以後、中家・中産の記述はなくなり、農村の構成は大家・富室・強家・富豪などとよばれる富豪層と貧家層との二階層に分化していく。・・・
 西晋<の>・・・武帝<(注65)>は280年、・・・およそ60年ぶりに天下統一を果たした。

 (注65)司馬炎(236~290年)。「266年<に>・・・即位した<が、>翌年1月には、一族27人を郡王として各地に封じ、土地と兵力とを与えた。これは魏が皇族に力と土地をあまり多く与えず、皇族の力が弱かったことが滅亡の原因となったと考えての対策であった。・・・
 司馬炎の初期治世は重臣に多く学識と礼教を重んじる名望家を配したことと、西晋成立時に民心を得るために庶民への民爵の賜与を行・・・っていることが挙げられている。また後漢や魏の皇族の任官禁止を解除し、曹植の子曹志や諸葛亮の子孫を任用するなど、後漢末期から魏にかけて戦乱で苦しんだ民情や心情などを考慮して皇族間の友愛、礼教に基づく国家構築などを行なおうとしていた。・・・
 <ところが、>統一後の司馬炎は朝政への興味を失った。また統一を達成したことにより平時体制に戻すとして、軍隊の縮小も実施された。・・・
 司馬炎は女色にふけったことでも知られる。統一以前の・・・273年・・・7月には、詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5千人選んだ。さらに呉を滅亡させた後の・・・281年・・・3月には、呉の皇帝であった孫晧の後宮の5千人を自らの後宮に入れた。合計1万人もの宮女を収容した広大な後宮を、司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回った。この羊の車が止まったところの女性のもとで、一夜をともにするのである。そこで、宮女たちは自分のところに皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛っておいた。羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるからである。この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。
 後漢末の混乱期から、匈奴・鮮卑といった異民族が中原の地に移住するようになり、従来の漢人住民と問題を起こすようになっていた。侍御史の郭欽は、統一した機会にこれら異民族を辺境に戻すべきだと上奏したが、司馬炎はこれに聞く耳を持たなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E7%82%8E

⇒虐殺数こそ少ないですが、西晋の武帝は、小始皇帝といった趣の皇帝ですね。(太田)

 このときの国家登録戸和は・・・後漢の4分の1に縮減した。
 西晋の統一期間は20年足らずである。・・・
 武帝の治世期にはこれまでの歴史を概括する三つの出来事があった。
 その第一は、律令と礼楽の体系化である。・・・
泰始律令<(注66)>・『晋礼』は、王莽の世紀にはじまった古典国制を法典・礼書のかたちにしあげる最初の事例であった。」(155、157~158)

 (注66)たいしりつりょう。「西晋の泰始3 (267) 年に成立し,翌年頒行された律令。刑罰規定を律とし,行政的規定を令とするという法典編纂の形式は,このときに初めて整ったものである。その意味では,律令の元祖であるといってよい。・・・
 漢代の令は律の補足的な法規であったが,晋の泰始律令において,令は初めて律から独立し,行政法のごときものとなったといわれる。唐にいたって令は律よりも重要な根本法典となったが,ただその順序は慣例に従って律令と呼ばれた。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%B0%E5%A7%8B%E5%BE%8B%E4%BB%A4-91388

(続く)