太田述正コラム#15040(2025.7.1)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その59)>(2025.9.26公開)

 「第二は、戸調制<(注67)>の成立である。・・・

 (注67)「武帝は「まさに干戈(武器)をおさめるべき」時が来たとして州郡の兵をことごとく帰農させ、それにともなって占田・課田という土地制度とともに戸調式という徴税制度を制定した。その内容は判らない点も多いが、おおよそ次のようなものであった。・・・
 丁男(16~60歳の男子)を戸主とする家は、毎年、三匹の絹と三斤の錦を「調」として納付すること。(調は現物納のこと。他に田租があったと思われるがその額は分かっていない。)
 男子には70畝、女子には30畝を占田させる。(占田とは田を申告する意味。夫婦合わせて100畝は、一般の自由農民にとって適正な耕作面積だったと考えられる。)
 丁男には50畝、丁女には20畝、次丁男(13~15歳)にはその半分を課田させる。(課田とは田を割り付ける意味。一般の自由民以外の国有地を耕作していた屯田兵・屯田民などに対する規定と考えられる。)
 占田は官位の一品~九品で差を設けた。第一品は50項、以下一品下るごとに5項ずつ減らし、第9品は10項とした。(九品中正と結びつけ、官品高下に応じて、親族のどの範囲まで賦課免除にするか、奴隷に準じる下僕や小作人を何人、何戸まで持てるか、などの規定もあった。)
 戸調式は、(1)現物納の量を規定したこと、(2)自立農民のあるべき姿と、(3)支配階級による土地配分の規定が共存し、さらに(4)で九品中正法によって支配階級となった官僚への規制が含まれている点が注目される。つまり後漢末以来形成されてきた郷村社会の豪族的支配関係と、貴族制社会のバランスを保つという魏と晋の国家目的の表現であったと考えられる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-057_2.html
 「占田とは、田を申告することの意味と考えられる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-057.html
 「課田とは、田を割り付けることと考えられ<る。>」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-057_1.html

⇒田租があったかなかったかすら分からないのでは、その他の全ての税の話の信憑性にも疑問符が付くというものです。(太田)

 第三は、占田・課田法の施行である。・・・
 前漢末に崩壊の危機に瀕した「均田之制」は、曹魏の民屯田による中原の再開発を基礎に占田制として再度立ちあげられたのである。・・・
 占田・課田制は、西晋崩壊後継承されなかった。
 しかし、占田に対応する田税および課田に賦課される戸調の公調制度は南北朝をつうじて継承された。」(159~160、162)