太田述正コラム#15042(2025.7.2)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その60)>(2025.9.27公開)
「・・・周辺諸族の華北への移動・移住は、後漢時代にはじまり、華北住民の顔立ちに大いなる変貌をもたらし<(注68)>、やがて永嘉の乱<(注69)>と五胡十六国<(注70)>の興亡をみちびいたのである。
(注68)秦の始皇帝時代に宮中に住んでいた男女の復元相貌。↓
https://roboteer-tokyo.com/archives/13121
鮮卑である北周の武帝の復元相貌。↓
https://www.cnn.co.jp/fringe/35217127.html
(注69)「永嘉の乱(えいかのらん)は、・・・西晋末に起こった異民族による反乱である。懐帝の年号である永嘉(307年 – 312年)から呼ばれているが、この反乱が実質的に開始されたのは・・・劉淵が漢(前趙)を建国した永安元年(304年)・・・かそれ以前であり、・・・終結年に関しては、永嘉5年(311年)の洛陽陥落による西晋の事実上の滅亡、建興元年(313年)の懐帝の処刑、建興4年(316年)の長安陥落など諸説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%98%89%E3%81%AE%E4%B9%B1
(注70)「五胡十六国時代は、<支那>の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官の崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。
後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。
五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つのことである。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は成漢、前秦、後涼を、羌は後秦を、漢族が前涼、冉魏、西涼、北燕をそれぞれ建てた。
また、匈奴によって建てられた前趙、鮮卑慕容部によって建てられた前燕といった説明がされるが、これはあくまで中心となって建てた民族であり、その国家の中には複数の民族が混在していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
⇒楚/前漢人の相貌が不明なのが残念です。
いずれにせよ、「注68」からも分かるように、秦の支配層と鮮卑の支配層の相貌には同一民族とは言い難いほどの違いがあります。
隋による支那再統一が、江南文化の系譜に属する日本の支配層に与えた衝撃が、それだけからでも想像できるというものです。(太田)
めまぐるしく興亡する諸国を制して華北を再統一したのは、鮮卑<(注71)>族の拓跋部である。
(注71)檀石槐(だんせきかい。137頃~181頃年)。「2世紀後半、モンゴル平原に君臨した鮮卑族の大首長。152年ころ所属する部族の大人(たいじん)、首長に推戴され、弾汗山(河北省張北県西方、大青山か)を根拠地とした。やがて強盛となり、156年ころには全鮮卑を統合し、また・・・扶余,丁零を退け,烏孫 (うそん) を討ち<、>・・・モンゴル平原の遊牧諸民族を服属させ、その領域は東は遼東から西は敦煌、さらにジュンガル盆地に至った。檀石槐は領域を東部、中部、西部の三部に分かち、それぞれ大人を置いて治めさせ、ときには三部が連携して<支那>北辺に侵寇し、・・・後漢桓帝 (在位 146~167) の派遣軍を退け・・・また連年後漢に侵入略奪し,熹平6 (177) 年の後漢派遣軍を大破<する等、>・・・後漢王朝を悩ませた。<支那>への侵攻略奪の目的の一つは鮮卑民衆の食糧の確保にあったが、それを補うために東方の漁民を多数移住させてラオハ川(西遼河上流)で漁労に従事させることも行った。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90-95188
「檀石槐の死後、それまで選挙制だった鮮卑が世襲制とな<り、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90
「その子の和連<(われん)>が世襲したが[性質は貪淫、裁きは不公平であり、]人望がなく、部衆が離反し、統一勢力は分解した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%AA%80%E7%9F%B3%E6%A7%90-95188 前掲
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E9%80%A3 ([]内)
⇒後漢と継続的に戦っただけで、騎馬遊牧民の鮮卑が漢人文明を大幅に継受してしまったことが、君主の選挙制の放棄から見て取れるわけであり、これは、後の、支配層が同じ鮮卑である隋/唐はもちろんのこと、遼や金や清の漢人文明継受を予言するものでした。(太田)
拓跋部は、五胡諸種族のなかで、もっとも遅れて長城の外から南遷した種族である。・・・
鮮卑拓跋部の王権は、当初より可汗<(注72)>(カーン)と称していた・・・。・・・」(166~167、170)
(注72)カガン(古代チュルク語・・・漢語:可汗、可寒・・・)は、古代北方遊牧騎馬民族で用いられた君主号の一つ。後に訛ってカアン (qa’an / qaγan) →ハーン (хаан / khaan) となった。・・・
『新唐書』<は>・・・、可汗とは匈奴で言う単于にあたるとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AC%E3%83%B3
(続く)