太田述正コラム#15215(2025.9.27)
<皆さんとディスカッション(続x6390)/ぶっとび江戸時代史–太田世界史ついに概成へ!>

<II.Badgc>(「たった一人の反乱(避難所)」より)

 とてもわかりやすく、勉強になりますね(倍速推奨)。↓

 「【欧州で民主主義崩壊】移民で壊れたイギリスやドイツやフランスで躍進する保守政党と多発する政治家の不審死について伊藤貫さんが何が起こっているのかを教えてくれました・・・」
https://www.youtube.com/watch?v=FmXB_w3aTMw&t=2s

⇒エッ、分かり易いかもしれんが、内容は、デタラメ半分ってとこだな。
 そもそも、支那にちょこっと触れた以外は、(急速に落ちぶれつつあるところの、)広義の欧米のことしかしゃべってないじゃん。
 それに、自分の国である肝心の日本のことがまるっきり分かっちゃない。
 (日本の戦後を規定したのは日本人であって、断じてアメちゃんじゃないの!)
 要するに、この人、戦前の日本の、支那学の素養がまだ残ってて、だけど生業はヨコ(欧文)のものをタテ(邦語)にすることだった、エセ・インテリ、の戦後版に過ぎんな。
 (それにしても、米国の移民がウンパーセントとか言ったのにはのけぞったな。米国には、最初から移民しかいないってのにさあ。)(太田)

<M/kZnB7M>(同上)

 「小泉氏「行き過ぎた表現あった」 陣営がネットに“賞賛コメント”要請–他候補の中傷と取れる内容も 自民党総裁選・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/11cb1a3fadb7071cd2fee8ac930d33e67f67dd7e
 <陣営が示した24の例文>
・ようやく真打ち登場!・これは本命候補でしょ!
・総裁まちがいなし・あの石破さんを説得できたのスゴい・なんか顔つき変わった!?
・去年より渋みが増したか・泥臭い仕事もこなして一皮むけたのね
・困った時のピンチヒッター感ある・期待感しかないでしょ
・野党への切り返しはするどかったぞ
・コメ大臣は賛否両論だけど、スピード感はあった・単純にいい人そうなんだよな~
・確かに若手の面倒見良さそう・むやみに敵を作るタイプじゃない
・頼む 自民党を立て直してくれ・「保守政党 自民党の神髄」出ました
・ビジネスエセ保守に負けるな・奇をてらわず、実直に仕事してくれる人がいい
・もう一度自民党に期待させてくれ・谷垣総裁みたいに「みんなでやろうぜ!」・チーム進次郎は仲間が多いからなあ
・前回は議員票が一番多かったもんな
・側(そば)で見てる人は分かってるんだよ
・やっぱり仲間がいないと政策は進まないよ

 秘密裏にに選挙工作もできない、人材も集められないオツムの悪さ…。

<TSY>(以下は、囲み記事の[中臣氏/藤原氏]や「5 終わりに」が入っていないバージョンへのTSYさんのコメントです。(太田))

 斉彬から、重豪の代に遡った日本史という感じでよみました。
 序の2の『節目を通して見た日本史概観』が決定的に重要な気がします。
 薩英戦争、下関長四カ国戦争を日蓮主義戦略の実行とみると、幕末と明治大正昭和が
見事に一体的な『日本史』に変貌してきます。
 幕末以降に顕在化する日蓮主義の実践、その準備活動の描写として、今回のレポートを拝読しました。
 文字通り女性におんぶにだっこ。
 「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」、僕のみた大河ではベスト(これまでは司馬遼太郎原作の『花神』)。
 横浜流星さんは、順調にいけば、「高倉健」「三船敏郎」みたいなスターになりそうです。
 言いたいことをこらえて、口をちょっと曲げる、あの表情が僕は好きですねえ(心配しながらも)。
 政治学の統治論は、太田世界史後は、全面改定が必要と感じました。
 白村江から終戦までの日本史が最重要な模範になると思いますが、情報。非我の差の把握。我の価値の自覚の深化。戦略立案。戦略実行。
 これを、一体的に現実に実行しているところがすごい。
 日本のどこかに『藤原版為政者マニュアル』が存在し、それを主要為政者が1500年ほど、墨守しているみたい。
 英国との違いは教育でしょうか。Tom Brown’s School Daysなんか楽しんで読みましたが、教育はパブリックスクールにおまかせな感じがします。日本は家庭教育。基本は親が スーパーバイズする。子女の価値観の育成は家長の仕事と、マニュアルにありそうです。
 人-間主義者(被支配者を擬似的な我が子と感じる感覚の持ち主)の統治者が、担当共同体を外的から守るために、戦略を立案・実行する。
 日本のこの統治形態は、選良家伝戦略統治(選良・家伝戦略・統治。選良は選良を育む、を含む)。
 人-間主義の統治者は「いない」ことが前提になっているような、西洋の政治理論からははみだしていて、もちろん民主主義(選挙議会制政体)とは縁もゆかりもない、日本の統治形態。
 対外的な説明をするとしたら、歴史(人物史中心)とセットで、説明するしかないですね。
 光栄ある孤立だとは思いますが、日本文明の説明は難しい。貴族統治、君主統治、共産党統治、選挙議会統治、のどれに比べても、選良家伝戦略統治は、優れていると感じますが、説明困難なのがもどかしい。
 アメリカの政策立案者の実態がよくわかる、『世界秩序が変わるとき』(齋藤ジン著 2024年 文藝春秋社刊)をみても、アメリカのエリート層は、日本も、韓国も、台湾の区別ができないみたいです。
 日本を特別視した文明論というと、Arnold Toynbeeがいますが、欧米で一番人-間主義な、英国文明の一員の彼は、日本をなぜ別だと思ったんでしょうか。太田さん、ご存じでしたら、いつか教えてください。彼のエッセイに、若いとき、日本の田舎をまわった記述がありました。生卵と白ご飯で命をつなぎながらの旅。田んぼのある田園風景が気にいったみたいです。

⇒アメちゃんですが、ハンティントンの『文明の衝突』もそうですよ。(太田)

 僕が日本人だからか、江戸時代の『藤原版為政者マニュアル』に従っての江戸時代用戦略策定において、島津家久と近衛信尋の男二人の他に、近衛前子と女性が入っていることに、安心感を感じます。
 一方、中国共産党に世界の将来を委ねることに躊躇する理由が、少し言語化できました。
 人-間主義戦略策定に、中国女性が携わっていないことです。祖父母(斉彬にいたってはもう一代加わりますが)の代まで加わった男女団体戦で、子供を教育してきた日本の選良と、中国の家庭文化は違うように思います。
現代中国人の表現、小説、映画、社会科学の論文などなど、に注意していますが、女性で、これ、というような人がまだ、一人も見つかりません。
 中国女性ではないですが、森鷗外の初期の作品は、欧州女性観察記になってます。舞姫(都会の踊り子、下層)。うたかたの記(漁師の娘で田舎出身、下層)。文づかひ(田舎貴族の娘、上層)。
 それで鷗外は、彼にとっての欧州女性は、故郷日本の魅力に負けたとしてますが、「日本の女のほうが、やっぱり、いいな」とも読めます。
 正しいことのためには、身体をはって、身銭を切って戦う、激しく戦う、そんな気骨のある女性を、鷗外は、渋江抽斎で見事に描いています。中でも抽斎の五人目の妻、渋江五百(いよ)の活躍は小説の読み所になっています。
 横浜流星・高倉健的な、しゃべらないのに、強力というコミュニケーションを経験してしまうと、政治家は力強いメッセージを語るべき、という主張は、アホにみえます。
 ギリシャだのローマだのに根がある、欧米流の馬の骨がロバの骨相手に行う、三文役者演説ごっこは、言論の自由だかなんだか知りませんが、まったくその集団の繁栄に寄与していないように見えます。ちょっと前までは、選良家伝戦略統治に守られていたという自覚のもとに、じゃ、今どうすべきなのか(今どうなっているのか、が先かな)……
 迷うことばかりです。トホホ。・・・
 『円覚院様御伝十五カ条』!! 太田史学の普及には、絶好の史料になるんじゃないでしょうか。こんなものを残しちゃった、ドジな近松茂矩さんに、感謝しちゃいます。

<太田>

 安倍問題/防衛費増。↓

 なし。

ウクライナ問題/ガザ戦争。↓

 <まさにその通り。↓>
 「「アルカイダに国与えるようなもの」 ネタニヤフ氏、国家承認を批判・・・」
https://digital.asahi.com/articles/AST9V5SXWT9VUHBI02SM.html?iref=comtop_Topnews2_04

 妄想瘋癲老人米国。↓

 <やっぱ、トラはマスクと切っても切れない関係があったのね。↓>
 Elon Musk and Prince Andrew named in new Epstein files・・・
https://www.bbc.com/news/articles/cwyl8j1we0lo

 それでは、その他の国内記事の紹介です。↓

 帝国陸軍と中共とのまことにもって麗しい協力ぶりを裏付ける文書を次々に発掘する我らが遠藤おばちゃま。↓

 「・・・【件名】顧祝同(陸軍司令官、江蘇省政府主席)が蔣中正(蒋介石)宛てに打電。電報によれば、益林(地名。江蘇省塩城市阜寧県益林鎮)の中共軍は日本軍に代わって綿花などの物資を購入・運搬し、しかも日本軍と不可侵条約を結んでいた。すでに各部隊に対し、厳重な警戒と全力の固守を督促した。
 【戦場現場からの手書き極秘報告】重慶・蒋委員長宛て、機密。韓主席(韓徳欽、江蘇省主席、江蘇省保安司令)の亥元戊電の要旨:霍師長守義(=霍守義師長)の徴午電によれば、益林の中共軍は淮安(わいあん)(江蘇省中西部、淮河の流域にある都市)の日本軍に代わって綿花二万斤を購入・運搬した。淮安の日本軍は大量の弾薬を(中共軍に)お返しとして贈った。また中共軍は淮安の日本軍と不可侵条約を既に締結しており、淮安の日本軍は「永遠に中共軍の駐屯地には進攻しない」という声明を出したという。なお、日本軍は先月、国民党軍側を積極的に攻撃し、臨澤(地名)の要点を奪取した後も、なお出動を重ねて擾乱(じょうらん)している。しかし中共軍が国民党軍側を擾乱し、陶家林・霖直港・蘇家を経由して移動した際には、日本軍は中共軍に対しては全く動かなかった。その結果、湖西の中共軍の大部隊が無事に通過して東へ移動するのを黙認した。かくの如く、日本軍と中共軍が互いに通じ合い、結託している情況は明白である。この件に関して、すでに各部隊には、厳格な警備と全力の固守を命じた。顧祝同 印・・・」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/adeb4297ce601723f306cc195718a168319938d6
 「・・・【戦場現場からの手書き極秘報告】特急 重慶 蔣委員長宛て 極秘。
 一、朱懷冰(しゅ・かいひょう)(国民党軍第97軍司令官)の電報に基づく谷正鼎(こく・せいてい)(軍事委員会天水行営政治部主任)の口頭報告によれば、概略は以下の通り。劉伯承は、彼(朱懷冰)宛に派遣した連絡員に対し、「かつて中共軍は5万人のみで、(国民党)中央は10年間にわたり全力で(中共軍を)攻撃してきた。いま中共軍はかつての10倍に増え、しかも(日本軍という)強敵が目の前にいる。国民党軍は、もはや、中共軍をどうにもすることはできない」との趣旨を伝えた。その態度は傲慢で横柄だ。
 二、範漢傑(国民党軍第27軍司令官)の報告の大意によれば、晋東南(山西省東南部)の八路軍と日本軍とは、すでに互いに(衝突を)避けて譲り合い、暗黙の合意を交わしているようだ。ご確認いただきたい。日本軍はこんにち、内外ともに難題を抱えながら、なお北綏(すい)南桂(「中華民国」時代の綏遠省か)へ遠征して深く侵入することを大胆にも敢行(かんこう)し、中共軍は最近ではそれを意に介さないようになっている。諸々を総合的に照合すると、怪しいことが多く、疑わざるを得ない。日本軍と中共軍はすでに暗黙のうちに契約を交わし妥協しているものと考えられる。ひいては、日ソ結託の問題へと発展する可能性すらあり得るものの、定かではない。拙い推測ではあるが、参考されたし。 職 蔣鼎文 銑午機府印(以上)・・・」
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/29fe70057b2210682720682786e175de9fb66f5b

 日・文カルト問題。↓

 <当時、トラなんていたんかい?↓>
 「・・・日本は1917年、征虎(せいこ)軍という民間のトラ狩り部隊を組織し、チョウセントラ(アムールトラ)の討伐を行っていた。・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/09/25/2025092580195.html

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <人民網より。
 日中交流人士モノ。↓>
 「日本の青年代表団が吉林省を訪問・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/0926/c94475-20371758.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 あそう。↓>
 「香港メディア・香港01は、大手格付け会社S&Pグローバルが中国の銀行業界に「日本化」のリスクがあるとの見方を示したと報じた。・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b961177-s25-c20-d0193.html
 <総体継受、道遠し。↓>
 「「日本の医師が中国人患者を見殺しに」と中国ネットで物議=「冷たすぎる」「中国の病院も日本人拒否で」

https://www.recordchina.co.jp/b961044-s25-c30-d0052.html

 一人題名のない音楽会です。
 Kassia氏によるモーツァルトの非ピアノ曲のピアノ編曲集をお送りします。

ラクリモサ (Lacrimosa) 3.37分
https://www.youtube.com/watch?v=5Yamu70Z_FI&list=RD5Yamu70Z_FI&start_radio=1
幻想曲 ニ短調, K.397 (Fantasia in d minor) 5.43分
https://www.youtube.com/watch?v=nNeXg_JQnpA&list=RDnNeXg_JQnpA&start_radio=1
ピアノ協奏曲 第23番 (Piano Concerto No. 23, II. Adagio) 7.13分
https://www.youtube.com/watch?v=Md6c6aEP4Cs&list=RDMd6c6aEP4Cs&start_radio=1
ピアノ協奏曲 第21番 (Piano Concerto No. 21, II. Andante) オケ:Tomplay 7.10分
https://www.youtube.com/watch?v=2KLnEqpIfnk&list=RD2KLnEqpIfnk&start_radio=1
交響曲 第40番 第一楽章 (Symphony No. 40 1st Movement) 8.27分
https://www.youtube.com/watch?v=SE9nDvo94hw&list=RDSE9nDvo94hw&start_radio=1
トルコ行進曲 (Arr. Yuja Wang:Fazil Say and Arcadi Volodos’s versions mixed) | Rondo Alla Turca (Turkish March) 3.04分

https://www.youtube.com/watch?v=borAceJYM0c&list=RDborAceJYM0c&start_radio=1

       –ぶっとび江戸時代史–太田世界史ついに概成–


1 序

[日本人三重構造モデルと南北峻別/南大好き・ヤマト王権]

[古代/中世日本政府の外国王朝選好/忌避]

2 節目を通して見た日本史概観

(1)第一次対外戦争開始・建国
(2)聖徳太子コンセンサス(日本文明への変貌宣言)
(3)平安構想(桓武天皇構想)
(4)日蓮宗立宗
(5)第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)準備着手
(6)第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)
(7)太平構想
(8)徳川吉宗誓約
(9)島津斉彬コンセンサス(第二次日蓮主義戦争指針)
(10)第三次対外戦争開始(第二次日蓮主義戦争開始)
(11)杉山構想
(12)プロト日本文明回帰

3 プロローグ–ヤマト王権誕生のゆえん

[漢に征服されなかった朝鮮半島南部、と、征服された南越]
[日本神話]
[日向国・日本建国・第二次日蓮主義戦争]
[中臣氏/藤原氏]

4 やらせ江戸時代史観(Staged Edo Period History Theory)

(1)太平構想の策定
  ア 始めに
  イ 策定者達
  ウ 策定時期
  エ 策定内容
 (ア)大方針
 (イ)日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築
 (ウ)徳川氏を操縦
   a 徳川本家を日蓮主義行動家化
   b 徳川幕藩体制を条件付き維持
   c 幕臣を文官化
 (エ)摩擦最小限での徳川幕藩体制廃止を図るための朝廷改造
   a 天皇家の日蓮主義家化とその内の天皇本家の縄文人家化
   b 公家の日蓮主義家化とその内の九条系の一家だけの幕府追随家化
 (オ)庶民の上層部までを日蓮主義化

(2)日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築等
  ア 徳川光圀指名  

[徳川頼房の取柄]

  イ 光圀プロジェクト
 (ア) 日蓮主義日本史編纂
 (イ) 神道的朱子学奨励
 (ウ) 武家的陽明学奨励
 (エ) 国学創学

[朱舜水]

 (オ) 徳川本家批判
 (カ) 一君万民思想の普及と実践
 (キ) 戦後日本における「保守」
 (ク) 後期水戸学?
 (ケ) 光圀のその他の事績

(3)徳川本家を日蓮主義行動家化
  ア 徳川秀忠
  イ 対徳川家光

[鷹司家と水戸徳川家]

  ウ 対徳川家綱
  エ 対徳川綱吉
  オ 対徳川家宣

[甲府徳川家日蓮主義家化経緯]

  カ 対徳川家継
  キ 徳川吉宗を将軍に

[『大日本史』編纂再開と朝廷献上]

(4)天皇家を日蓮主義家化
  ア 伏見宮家
  イ 桂宮家
  ウ 有栖川家
  エ 閑院宮家

(5)天皇本家を縄文人家化

(6)公家の日蓮主義家化

(7)九条家の幕府追随家化

(8)徳川吉宗誓約
  ア 始めに
  イ 『大日本史』の幕府の受け入れと朝廷への受け入れ働きかけ
  ウ 幕府の基本的政策に係る近衛家/島津氏の指示の実行
 (ア) 享保の改革

[天英院の死後の偉業]
[田沼意次と松平定信の近縁性]

 (イ) 寛政の改革
 (ウ) 天保の改革

(9)庶民の上層部までを日蓮主義化

5 終わりに

1 序

 太田一筆書き日本史、正しくは一筆書き日本文明史が、今回の江戸時代史の拡充とそのついでの日本建国経緯の解明でもってついに概成した。
 やや大げさに言えば、これは太田世界史が概成したことを同時に意味するのであって、本日は、その概成内容を説明をさせていただく。
 これから行うこの説明について、キャッチコピー的に申し上げれば、江戸時代史に関しては、「最初から一筆書きされていた!」、建国経緯に関しては、「ほぼ人間主義者達集団が行ったところの、ほぼ非人間主義者集団への対策」、であって、どちらについても、私の言うぶつ切り出たとこ勝負史観の完膚なきまでの粉砕の試みである、といったところか。
 このノリで続ければ、太田一筆書き日本史のモチーフそのものが、この「ほぼ人間主義者達集団が行ったところの、ほぼ非人間主義者集団への対策」だったのであって、日本史とは、この対策が概ね功を奏し、世界史を飛躍的な形で前進させる目途がついた時に、意外な形で終焉を迎えたところの、ある国(ある文明)の歴史であった、と言ってよいのではなかろうか。 
 なお、今回、国学誕生の所以にも触れたところ、私がこれまでやってきたことは、日本史の再解釈を通じての、国学の復興、であった、という言い方もできそうだ。


[日本人三重構造モデルと南北峻別/南大好き・ヤマト王権]

 支那南北峻別/南大好き・ヤマト王権、という観念が、私の一筆書き日本史観の時系列的/思想的出発点なのだが、それよりも時期的にはずっと後ながら、元もまた、支那南北峻別をしていたのは、心強い限りだ。↓

 <「>モンゴル<(元)>・・・は、金国旧領の華北を契丹に由来する「キタイ~キタド」(漢語では「漢地」)、南宋旧領の江南を蛮子(ばんし)に由来する「マンジ」とそれぞれモンゴル語で呼び、<両者を>別の地域として認識していたことも明らかなように、<支那>本土全体を一元的な支配体制のもとに置くことはなかった。<」>
⇒漢地/漢人地域、は、漢人文明地域、蛮子/南人地域、は、漢人地域、と、わたしは呼びたいと思っていますが、支那の南北を異なった人々が住む異なった地域として見る、このような認識を最も早い時期に抱いたのはヤマト王権が成立した時の<その>支配層であった、と、私は見るに至っています。(太田)」(コラム#15204(未公開))

 ところで、誰も問題提起してくれないので自分自身で問題提起するが、この、私の「支那南北峻別/南大好き・ヤマト王権」説、と、最近、有力説になりつつある日本人三重構造モデル、との整合性は、果たしてあるのだろうか。↓

 日本人三重構造モデルというのは、遺伝情報的に、一、弥生人は縄文人6割・北東アジア人4割、二、古墳人は北東アジア人の方が縄文人より多くなっているけれど、この両者を合わせても全体の3分の1程度であり、残りの3分の2程度は東アジア人、三、現代日本人は、東アジア人の割合が更に増えている、というものだ。
https://www.genspark.ai/spark/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5%E3%81%A8%E4%B8%89%E9%87%8D%E6%A7%8B%E9%80%A0%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB/bd22c357-ce10-4b41-a991-5ec728abb8d4

 私は、北東アジア人≒(水田稲作文化を含む)支那由来の江南文化人化した朝鮮半島人、東アジア人≒支那の江南人、である、と、現在のところ、考えている。
 こう考えれば、弥生時代の日本の支配者であった北東アジア人は江南文化人だったので平和的であって、縄文人と大きな軋轢なく日本列島に渡来し定住化できた上、日本列島内で北東アジア人相互で、互いに小競り合い程度しか起こさなかったし、彼らは江南人に敬意を抱いていた、ところ、江南人は当然江南文化人でもあったのでやはり平和的であり、古墳時代に江南人が日本列島に大量移民してきても、日本列島内で、弥生人との間で、また、江南人人相互で、大きな戦争は起きなかった、といったことは不思議でもなんでもない。
 そして、かかる古墳人が、江南文化でかつ江南人が多数を占める支那王朝・・最初の本格的な漢人王朝にして漢人文明王朝である漢・・に郷愁と思い入れがあったであろうことも容易に想像できるというものだ。
 ところが、そんな漢が倒れ、支那で、遊牧民系の北の諸王朝と、江南文化系の南の諸王朝が対峙するところの、南北朝時代が始まると、たまたま、同じ時期に、広義の遊牧民系である高句麗が朝鮮半島の三韓地域に迫ってきたこともあり、古墳時代の日本の指導層は、強烈な危機意識を掻き立てられることになった。
 ここで、フライング的に申し上げれば、この危機意識は三韓地域でも共有されており、ヤマト王権なる統一国家の日本列島における形成、と、三韓のうち、馬韓で百済なる統一国家、辰韓で新羅なる統一国家、の形成、とを、ほぼ同時期にもたらしたのだ。
 よって、南北峻別/南大好き・ヤマト王権」説、と、日本人三重構造モデル、とは矛盾がない、と、言ってよかろう。

 (なお、歴史上の弥生人と古墳人=私の言う弥生的縄文人、ということになる。)


[古代/中世日本政府の外国王朝選好/忌避]

一 支那南朝選好

 今まで、(コラム#13759以来、)何度も指摘したことだが、もう一度。
 「・・・3世紀後半から5世紀初頭までの期間、・・・日本列島の記録<は、支那>資料から途絶える<。>・・・
 その<後の>最初の記録である413年の讃(さん)による<東晋への>遣使は、当時敵対していた高句麗と同時に朝貢したとされており、高句麗の仕立てた偽使との説もあって確かなことがわからない。
 確実視されている最初の朝貢は、<南朝の>建国されたばかりの宋に送られた421年の使節である。・・・
 倭国は・・・宋および・・・<同じく南朝の>斉に対し、約60年間で10回ほど遣使<(注1)>している。・・・」(<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』>59~60)

 (注1)「宋は<420>年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号<付与>を進め、高句麗王や百済王もその地位を進められたが、倭国王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官された。この違いは、宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭国が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る。
 将軍に任じられた倭国王讃は将軍府を設置し、僚属として長史・司馬・参軍を置くことができるようになった。このうち長史は将軍の補佐で、文官をつかさどり、司馬は長史に次ぐ地位で、軍事に携わった。425年・・・讃が宋に派遣した「司馬曹達」は、当時の外交慣例からみて、この制度を利用したものである。つまり、司馬の曹達を遣宋使の長官に任じたことになる。これは、高句麗王や百済王が長史を遣宋使に任じたのと比べると倭国外交の一大特色であり、倭国王の外交姿勢を示すものとみることができる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280
 すなわち、「軍事性を重視する倭の内情や、他国より優位に立とうとする倭の外交姿勢を表す可能性が指摘される。一方で大将軍府(高句麗・百済)では長史が筆頭で、将軍府(倭)では司馬が筆頭であったとする見方もある。ただし当時の曹達の実際は、軍官の実務に従事する職(実司馬)でなく、使節のための臨時的な職(虚司馬)であったと見られる。なお、この「司馬」を姓とする異説もある。
 当時の倭では、稲荷山古墳出土鉄剣銘文の「乎獲居」や、江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀銘文の「无利弖」のように姓を持たないのが一般的であるため、曹達は<支那>系渡来人と想定される(<支那>と通交が始まって日が浅いため、<支那>人でなく<支那>系朝鮮人か)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%81%94_(%E5%80%AD)

⇒「438年・・・宋が許可したのは安東将軍・倭国王の称号のみであった<が、>・・・451年・・・に「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、軍号も「安東大将軍」に進められ<、>・・・478年・・・「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命した。この任官は従来の倭国王の最初の任官と比べれば飛躍的な発展であり、武の外交の成果とみることができる」
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280 前掲
が、北朝鮮=高句麗(宋冊封下)はもとより除かれ、かつ、南朝鮮においても百済(宋冊封下)・・倭はその軍事的支配権を求めた・・が除かれた地域の軍事的支配権を認められたとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
ところ、<江南>文化系の人々が支配層を含め多数を占めていた倭において、同じ<江南>文化系の人々が支配層であった漢人文明嫡流の南朝が(北朝の二代目の前秦は氐(てい)系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%A7%A6
だが)鮮卑系の騎馬遊牧民系の北朝と対峙状態となったことに同志的危機意識が高まり、南北両朝に朝貢するという二股外交を行っていたところの、半ば騎馬遊牧民系の高句麗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
を、そして更には北朝それ自体を、南朝は南から、日本は東から挟撃して滅ぼす含みで、倭の諸王は南朝の宋等に接近した、と、私は考えるに至っています。」(コラム#15080)
 だからこそ、倭は軍事最高官僚である司馬を宋に派遣した、と。
「更に付言すれば、「高句麗王は、395年に慕容宝によって「平州牧」となり「封遼東・帯方二国王」に封ぜられ、413年に東晋の安帝より「使持節 都督 営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」に封冊され、420年には宋の武帝より「征東大将軍」に、422年には「散騎常侍」を加え「督平州諸軍事」を増され、時の高句麗王の称号は「使持節 散騎常侍 都督 営平二州諸軍事 征東大将軍 高句麗王 楽浪公」ということとなった。この称号の意味するところは、高句麗王の「楽浪」地方の支配権はもとより、<北朝の>北燕勢力下の「営・平二州」の軍事権をも認めたもので、実力が伴うならば、この地方を征服して治下におさめてもよろしいという宋の承認を、高句麗王は得たこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B 前掲
という、宋の高句麗まかせでかつ及び腰の北朝対策を正確には知らなかったとしてもうすうす気が付いていたであろう倭は、呆れ、かつ、焦燥感にかられてるに至っていた可能性がある、とも。(太田)

 「五王による朝貢の最終例とされる478年の使節を倭王の武が派遣した翌年、479年には宋から・・・斉への王朝交代が起こった。・・・
 <この>479年における倭国使の存在が証明されている。<(注2)>

 (注2)「479年と502年の記録はそれぞれ斉帝国(南斉)、梁帝国の建国時(479年・502年)のもので、これらは帝国建設・王朝交替に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない。確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年・607年の遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢<圖>巻」題記における「倭が斉の建元年中に表を持ってきた」という記述から、斉への遣使を事実とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
 「『梁職貢図』は、南朝梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。・・・
 原本は失われており、模本が次の四種ある。
・唐の画家閻立本による模本(「王会図」とも。台湾国立故宮博物院蔵)
・南唐(937年 – 975年)の画家顧徳謙による模本(台湾国立故宮博物院蔵)
・北宋の熙寧年間の『蕭繹職貢図』(中国国家博物館蔵)
・清代の画家張庚(1685年 – 1760年)による『諸番職貢圖巻』(『愛日吟廬書畫續録』所収)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3

 この479年を最後に、倭国からの朝貢はまた途絶える。
 倭王権が不安定になったことや、北魏が山東を占領して南朝への朝貢船を阻害したことなど、その原因は内外さまざまな側面から推測されている。

⇒「『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」および「武」の遣使時期と重なり、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、<支那>皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し、自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B 前掲
ところ、私はこの説乗りですが、それは、日本との提携に及び腰の南朝に見切りをつけた結果である、ということを私としては付け加えたいわけです。(太田)

 ただ南朝の梁は、その建国直後において倭国への冊封を朝貢なしで行っており、・・・倭国はなお冊封体制の一角として認識されていたようである。」(<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』>60~61)

⇒「注2」を踏まえれば、「479年における倭国使の存在<は>証明されて<は>い」ないようですが、遣隋使より前の倭支政府間交流史の最大の注目点は、交流回数ではなく、倭が北朝系諸国と一切交流しようとしなかったことだというのが私の見解である(コラム#省略)ところ、丸橋が、かかる問題意識を全く持っていないことは、まことにもって残念です。(太田)」(コラム#15082)

二 高麗忌避

 日本は、朝鮮半島統一後の新羅(676~935年)と、関係は一貫して必ずしも良好ではなかったけれど、国交を断絶することはなかった。
https://pedia.3rd-in.co.jp/wiki/%E6%97%A5%E7%BE%85%E9%96%A2%E4%BF%82
 これは、支那の全ての王朝で、女性が皇帝となることは認められなかった・・だから、武則天は皇帝になるためには新王朝を建てざるをえなかった・・けれど、新羅は女性の国王が2名もいるし、平和裏に高麗への王朝移行を成し遂げてもいる、
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-083.html
といった点で日本の朝廷が新羅に同胞意識を抱き続けたからではなかろうか。
 そうだとすれば、その新羅に取って代わった高麗(918~1392年)とは、同国が日本としばしば接点を持とうとしたにもかかわらず、日本はついに国交を結ばなかった
https://book.asahi.com/article/12897609
のは、同王朝と同胞意識を抱けなかったからだと考えられる。
 どういった点で?↓

 「918年に・・・建国<された>・・・高麗<は、>・・・936年に・・・朝鮮半島<を>・・・<再>統一<し>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97 
が、この高麗の太祖王建(877~943。王:918~943年)は、「<男系>先祖は、・・・唐の皇帝の粛宗または宣宗で<、母系>先祖は春秋戦国時代の衛国の初代康叔である<ところ、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%A5%96_(%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%8E%8B)
その「衛の始祖は周の文王の九男の康叔であ<って、>・・・周より衛君に封じられ、二分された殷の遺民の一方を民とし・・・河南省の一部<が>支配<地だっ>た<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B
 また、「高麗<は、>・・・<支那>の五代の各王朝から冊封を受け・・・<960年に後周から禅譲を受けて建国した、北>宋に<も>朝貢<するが、その前の、朝鮮半島統一直後の>・・・937年・・・に<、この高麗が、>・・・日本の太宰府を通じて通交を求めた<ところ、日本の>、朝廷はそれを拒否した。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0303-002.html

⇒平安日本の朝廷は、高麗の王室が、騎馬遊牧民系の鮮卑、と、中原人・・どちらも非人間主義者集団・・、の混血から始まったことに、最初から嫌悪感を抱いていたと想像され、案の定、この高麗が、支那の中原人系の後梁、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%A8%E5%BF%A0
突厥系の後唐、同じく後晋、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%94%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%99%8B
から、次々に冊封を受けたことに対し、拒絶反応を示したのだろう。
 その後、高麗は、引き続き、そのいずれもが突厥系であるところの、後漢、後周、そして北宋・・北宋も突厥系であるとみなし得ることに注意!・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2_(%E4%BA%94%E4%BB%A3)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%A8%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4
からも、次々に冊封を受けて行くことになる。
 ちなみに、高麗のその後の推移は、936年に後晋から燕雲十六州を奪い、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E9%9B%B2%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B7%9E
<北>宋の第2代の太宗(皇帝:976~997年)の治世の末期の「993年<に、北宋から乗り換えて>契丹の属国<になり、>994年から毎年朝貢<し、>1016年再び宋の藩属国に戻る<も、>1020年契丹への朝貢再開<し、契丹が金に滅ぼされると、今度は、>1126年金に朝貢<を>開始<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
、という始末であり、日本の朝廷としては、国交を結ぶ気になど到底ならなかったと思われる。
 そんな高麗観が裏付けられた思いがしたのが、高麗が、元寇に積極的協力をした(注3)ことだったに違いない。

 (注3)「高麗王の子(後の忠烈王)は1272年、自ら進んで、フビライ・ハンに日本を攻めるべきであることを以下のように、上奏しています。
 惟彼日本 未蒙聖化 故発詔 使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。惟(おも)んみるに彼の日本は、未だ(皇帝フビライの)聖なる感化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して、軍容を整え、継糴(けいてき、糧食を整えること)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て、(皇帝が)臣(忠烈王のこと)に委(ゆだ)ねば、心力を尽し勉(つと)め、王師(皇帝のこと)を小助せん。――『高麗史』の「元宗十三年」の一部
 王子はこの上奏の2年後の1274年、父王の死により、王(第25代王、忠烈王)に即位します。そして、忠烈王は文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)において、艦船を建造し、兵力と経費を積極的に元王朝に提供し、日本侵攻の主導的な役割を果たします。・・・
 実際に朝鮮兵はモンゴル兵とともに日本に襲来し、乱暴狼藉を働きました。」
https://gendai.media/articles/-/96437

 なお、「1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者<が>・・・返礼として・・・派遣<され、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
室町幕府と高麗が国交を始めたが、これは、「高麗<が>1370年に<・・江南人系王朝にして1368年に成立したばかりの>明<(下出)>へ朝貢してその冊封を受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
からだろう。

三 李氏朝鮮選好

 李氏朝鮮は、1392年に成立し、その王家の出自に問題がない・・太祖・・・李成桂は・・・<高麗の>咸州(咸鏡南道咸興市)で李子春と永興崔氏(<中原人系か江南人系か微妙な、支那>山東半島登州人で咸鏡道に移住していた懿恵王后)の子として生まれた。・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A1%82
上、1403年に、江南人系の明の永楽帝によって正式に冊封を受けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
ことから、室町幕府としても、本来であれば、直ちに国交を樹立してもよかった。
 しかし、「倭寇は元寇以前にも存在して高麗から財産を略奪したがその活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回あり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという。・・・1389年に高麗は倭寇の根拠地と断定していた対馬に軍船を派遣し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出した・・・(康応の外寇)。・・・
 朝鮮沿岸はおよそ10年間倭寇の被害を受けていなかったが、応永26年5月7日(1419年5月31日)、対馬での飢饉によって数千人の倭寇が明の浙江省に向かっていた途中、食糧不足で朝鮮の庇仁県(今の韓国忠清南道舒川郡)を襲撃し、海岸の兵船を焼き払い、県の城をほぼ陥落させ、城外の民家を略奪する事件が発生した。この倭寇は5月12日(6月5日)、朝鮮の海州へも侵犯し、殺害されたり捕虜となった朝鮮軍は300人に達した。<1411年より室町幕府から国交断絶状態にされていた明の、>朝鮮の上王である太宗<永楽帝>は、これが対馬と壱岐からの倭寇ということを知り、5月14日(6月7日)、対馬遠征を決定。<朝鮮>国王・世宗に出征を命じた。
 <という、>応永の外寇<が起こった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%AF%87
という事情から、正式の国交樹立は、1429年(正長2年)の第1回朝鮮通信使来訪
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF 前掲
を待たなければならなかった、ということだろう。
 なお、「1636年(寛永13年・仁祖14年)の通信使・・・において接待、饗応の変更がなされた。これは日本側の主導によるもので、変更の骨子は、第一に、朝鮮側の国書で徳川将軍の呼称を日本国王から日本国大君に変更すること(この「大君」呼称の考案者は京都五山の高僧・玉峰光璘である)、将軍側の国書では「日本国源家光」とした。第二に親書に記載される年紀の表記を干支から日本の年号に変更するということ、第三に使者の名称を朝鮮側が回答使兼刷還使から通信使に変更するというものである。将軍の呼称変更と年紀表記変更の理由については諸説がある・・・。
 その理由としては当時、李氏朝鮮は北方から後金の圧迫に忙殺されていたため、日本側の制度変更にあえて異論を挟まなかった、あるいは挟む余裕がなかったとされる。朝鮮では、仁祖が<1636年4月の、成立したばかりの>清の要求を拒絶したことから<1636年12月1日に清が朝鮮に侵入した>丙子<(へいし)>の乱となっていた。南漢山城の篭城降伏後、<1637年1月30日に>三田渡<(さんでんと)>の盟約が締結され<ることとなっ>・・・た。」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B8
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%99%E5%AD%90%E3%81%AE%E4%B9%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%B8%A1%E3%81%AE%E7%9B%9F%E7%B4%84
は、私見では、李氏朝鮮の窮状に徳川幕府が付け込んで、室町幕府以来の日本側調印者の「官名詐称」を改めると共に、日本側調印者を一私人とまでは言わなくても一家臣とすることで、(相手は朝鮮国王であることから、)日本を(支那王朝の属国である)李氏朝鮮よりも上位に置いたものだ。
 但し、日本側としても、いささかやましい気持ちもあったと思われ、三田渡の盟約でもって、李氏朝鮮が明の属国から、遊牧民系の清へと変わっても、徳川幕府は李氏朝鮮との国交を続けることになる。

四 呉越選好

 もう一度支那に話を戻すが、朝廷は、唐とは、断交することこそはなかったが、敵情視察等を目的とする遣唐使という形での唐への「朝貢」を838~839年の第19回遣唐使でもって取り止めていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF
というのに、唐滅亡後、「藤原氏<(朝廷?)>と呉越とのあいだでは外交<関係があっ>た。<それなのに、支那>大陸が統一されていく中で呉越が北宋に吸収され<ると>、北宋との間では私貿易が継続し<、>次いで南宋の成立後に平氏政権が貿易を担い、鎌倉時代にも民間レベルでの交流があったが、日宋間で公的に国交を結ぶことはなかった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%AE%8B%E8%B2%BF%E6%98%93
のはどうしてだろうか。↓

 「呉越(・・・907~978年)は、<支那>五代十国時代に現在の杭州市を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。・・・
 907年に朱全忠が後梁を誕生させると、これに臣従して呉越王とされ、[ここに呉越政権が誕生した。<そして、>]後梁を後唐が滅ぼすとこれにも臣従して、北の呉と南の閩に対抗した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B6%8A
 「創建者<の>・・・銭鏐(せんりゅう)は、<現在の浙江省杭州市である>杭州臨安県の出身。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E9%8F%90 ([]内も)
 「唐初の功臣の巣国公銭九隴の末裔と<標榜。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%AD%E5%AF%9B
 「錢九隴(せんきゅうろう)<は、>・・・父親の銭文強は南陳の呉明徹の裨将であったが、呉明徹が呂梁の戦いに敗北すると共に長安に連行された。隋に入ると罪によって皇室の奴隷となり、李淵に仕えることとなった。九隴は騎射を善くし、李淵は彼を信愛して常に左右に置いた。太原で挙兵すると軍功を以て金紫光祿大夫を授かり、長安が平定されると左監門郎将となった。李世民の薛仁杲・劉武周征戦に従軍し、擢累して右武衛将軍となった。李世民の竇建徳・王世充征戦、李建成による劉黒闥討伐に従い力戦して敵を破り、策して勲されることは最も秀でていた。郇國公に封ぜられ、本官と苑游将軍を兼ねた。貞観のはじめに眉州刺史となり巣国王に改封され、再遷して右監門大将軍となった。貞観十二年にまた郇國公となり、実封六百戸を加えられた。まもなく死去し、左武衛大将軍・潭州都督を贈られた。謚は勇といい、献陵(李淵の陵墓)に陪葬された。」
https://fudge.mond.jp/archive/proft4/

⇒呉越王家は、直接的にも、また、先祖からしても、江南人系・・人間主義者的集団・・であると見做し得たので、中原人系/突厥系の五代に臣従して皇帝ならぬ王に甘んじていたにもかかわらず、朝廷は、呉越との国交を、友好国として続けた、というわけだ。

なお、言い忘れるところだったが、宋の初代皇帝の趙匡胤の「父は後唐の禁軍将校であった突厥人の趙弘殷」であり、宋は遊牧民族系だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4
ので、朝廷も鎌倉幕府も、宋(含む南宋)と国交を結ばなかったわけだ。(太田)

五 明選好

 明は、支那における、漢(~220年)以来の、久方・・実に実に11世紀半!・・ぶりの江南人系の、すなわち、人間主義者集団系と見做し得る・・単に「見做し得る」だけであることにくれぐれも注意・・ところの、王朝だった。
 明の初代皇帝になる朱元璋(1328~1398年。皇帝:1368~1398年)は、「淮水ほとりの濠州鍾離県(現在の安徽省鳳陽県)<で>生まれ<ている>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
ので、形の上では中原人だが、「朱家は元は劉邦の出身地である<長江の河口域の>江蘇省沛県に住んでいた」(上掲)ので、朱家は江南人系なのだ。
 だから、北朝/室町幕府としては、明とは最初から国交を結ぶ気があったのだが、倭寇の跳梁に加えて、日本が南北朝時代であったことが障害になった。↓

 「洪武帝の即位直後から続けられた<南朝との>交渉において、倭寇取り締まり要求はほぼ無視され、日本側の反応は明の期待はずれだった。業を煮やした洪武帝は、日本を征伐するという恫喝を含んだ国書を送ったこともあったが、倭寇の被害は止むどころか、むしろ増加の一途をたどる。しかも日本国王良懐<(懐良(かねよし)親王)>の(名を騙ってたびたび入貢する)使者らもきわめて傲慢な態度で、上呈する表文も無礼で不遜な文言ばかりであった。洪武13年(1380年)の良懐からの使者がもたらした国書と朝貢は明側の期待に及ばなかったため、即座に追い返された。翌洪武14年7月、良懐からの使者如瑶が寧波に入港したが、君臣の義を弁えず「貪利」のみを目的とする横柄な使者として、明側から露骨に煙たがられ、ついには如瑶を誅殺しようとの意見も出たほどであった・・・。こうした日本側の不誠実な態度に、洪武帝はこれ以上日本と交渉するメリットを認めず、断交に考えが傾くようになる。如瑶の帰国に当り、洪武帝は礼部から良懐を譴責する書を送らせ、「日本は島国の有利な地形を恃んで倭寇を放置し、隣国を侵略している」と強く叱責。さらに室町幕府将軍の足利義満にも、如瑶の非礼を詰問し、再び日本征伐をちらつかせる恫喝の書状を送った。洪武帝の高圧的な国書を受け取った懐良親王は、「賀蘭山の前で博打を行い、勝負を決しよう」と尊大な言辞で洪武帝を挑発する内容の返信を送ることで応酬した。如瑶は日本国内で義満と対立しているはずの懐良親王の使者として来たものであるから、義満への難詰は無意味であるが、洪武帝の日本への怒りは沸点に達していたのである。
 もはや従来の海禁政策だけでは生ぬるいとして、倭寇の活動が活発化した洪武17年(1384年)には功臣の湯和が特命を帯びて浙江に派遣される。湯和は海船を建造して海上警備を強化させる一方、漁民の出漁すら禁止し、浙江沿岸や福建・広東の島嶼部(舟山群島・澎湖諸島・南澳島など)の住民をことごとく内陸部へ移民させるなどの強硬策を施行した。これは住民の安全を図るというより、倭寇と結託を恐れたための措置である。林賢が逮捕されたのは、この湯和による強攻策が展開中の出来事であった。洪武帝は止まらぬ倭寇に怒り、寧波の責任者であった林賢を胡党と見なして・・・、日本との断交に利用したのであった。林賢事件からわずか半月後、またも良懐からの使者として宗嗣亮が寧波に入港する。すでに懐良親王は3年前に薨去しており、送り出した主体は別人で、明らかに貿易の利のみを狙った使者であった。しかし宗嗣亮が持参した表文は受理されず、国交断絶が通告され送り返される。以後、洪武年間に日本からの入貢は全く途絶し、20年に及ぶ国交断絶状態が続く。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1%E8%97%8D%E3%81%AE%E7%8D%84#%E8%97%8D%E7%8E%89%E3%81%AE%E7%8D%84

 日本における1392年の南北朝合一を経て、1398年の明の建文帝の即位で、ようやく事態が動き出す。↓

 「室町幕府3代将軍の足利義満は、・・・1401年(応永8年)に、肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の<建文帝の>国書を持ち帰国する。<翌年の1402年に>明使の在日中に靖難の変<が終わって>永楽帝が即位すると、明は再び国書を送り、日本と明の間に国交と通商の合意が成立した。
 1401年(応永8年)から1549年(天文18年)まで、19回に渡り交易が行われた。1404年(応永11年)以降は勘合を所持した者に限られるようになり、1432年(永享4年)に宣徳条約で回数などが規定される。・・・
 当時の明王朝は、強固な中華思想イデオロギーから朝貢貿易、すなわち冊封された周辺諸民族の王が大明皇帝に朝貢する形式の貿易しか認めなかった。そのため勘合貿易は、室町幕府将軍が明皇帝から「日本国王」として冊封を受け、明皇帝に対して朝貢し、明皇帝の頒賜物を日本に持ち帰る建前であった。日本国内の支配権確立のため豊富な資金力を必要としていた義満は、名分を捨て実利を取ったといえる。しかしこの点は当時から日本国内でも問題となり、義満死後、4代将軍足利義持・・・は1411年(応永18年)[国交を断絶、冊封関係も消滅させ、<それに伴い、>]貿易<も>停止する。・・・
 しかし6代将軍足利義教時代の1432年(永享4年)に復活することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%98%8E%E8%B2%BF%E6%98%93
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%8C%81 ([]内)

⇒文字通りの朝貢貿易しか認めなかった明との国交に、日本側は苦労しつつも、相手が江南人系の王朝であることから、朝貢貿易なるが故の莫大な利益にもつられ、明との国交はかろうじて続いたわけだ。
 (なお、邦語ウィキペディア執筆陣は、明を日本と正式な国交がなかったとしている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF 前掲
が、「正式な国交」の定義いかんによる部分はあれど、誤りだと思う。)(太田)

六 清忌避

 「明の時とは異なり日本側が国交を構築するためのはたらきかけを清王朝に対し積極的にしていたという情報を目にする機会がありません。また清側から政権同士交流しましょうよという江戸幕府に対する働きかけも特に無かったようです。」
https://iineiineiine.net/4519.html
程度で片づけられがちで、しかも、その原因を究明しようとする人も余りいないようだが、明の後を襲った清は、再び騎馬遊牧民系・・非人間主義集団・・と見做し得たことから、当然のこととして、日本は、清と国交を結ぶことはなかった、というのが私の見方だ。

⇒以上を踏まえれば、ヤマト王権成立以来、一貫して日本の為政者達は、江南文化系への同胞感、と、相対的に弥生性をより強く帯びるのが通例である非江南文化系への猜疑心、と、を抱き続けた、との私の指摘に、さすがに同意いただけるのではないか。(太田)

2 節目を通して見た日本史概観

(1)第一次対外戦争開始・建国

 表記を、今回、新たに(プロローグにおいて)取り上げることとした。
 まずは、日本の建国(ヤマト王権成立)を対外戦争開始の後に位置づけたのがミソだ。
 すなわち、時期については、邪馬台国による第一次対外戦争開始が391年、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
応神天皇による日本(ヤマト王権)建国は427~430年頃、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AF%BF%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
というのが、今のところの、私の見立てなのだ。(後で詳説する。)

(2)聖徳太子コンセンサス(日本文明への変貌宣言)

 厩戸皇子は、当時の日本の至上命題は、日本の存立を確保するために、(私の言う)縄文人を(私の言う)弥生的縄文人が統治する(私の言う)プロト日本文明を、(私の言う)縄文人を(私の言う)縄文的弥生人が統治する(私の言う)日本文明、へと変貌させることであるという問題意識の下、弥生的縄文人を縄文的弥生人へと変身させる方法論、と、こうして縄文的弥生人へと変身させられた者の私の言う弥生人への更なる劣化・・取り返しがつかなくなる恐れがある・・を回避させる方法論、とを見出すべく、潜在敵である隋に遣隋使を派遣することにした、と、私が見ていることはご存じの通りだ。
 その上で、日本で精強な騎馬兵力等を養成・維持することに資する国制を模索すると共に、仏教の中から毀損縄文性を修復する方法を模索する、という具体的指示を遣隋使メンバーらに示したのではないか、(そして、隋滅亡後、遣唐使も、この指示の下、引き続き送られたのではないか、)と、私は考えるに至っている。
 そして、後者に関しては、国内で自身ができることもあるとの考えの下、種々模索した結果、一番参考になると思ったのが法華経だったのではないか、と。
 だから、皇子は『法華義疏』を書いたのではないか、とも。↓

 「聖徳太子の著書<である>・・・法華義疏<は、>・・・主として<支那南朝の梁の学僧>法雲の『法華経義記』によっているが,<太子の>一大乗<(注4)>の説や菩薩の不親近処十種<(注5)>の説などは,<支那>高僧の注疏類にはみられない独自な解釈である。そこには現実生活を肯定する立場が認められる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%BE%A9%E7%96%8F-133472

 (注4)「一乗<とは、>仏教の種々の教説はいずれも存在意義があり,それぞれ釈尊が人々を導くために方便として説いたもので,実は唯一の真実の教えがあるのみであるとする思想。『法華経』に非常に顕著に現れ,釈尊の説いたことを聞いたうえでの実践 (声聞乗) ,単独で悟りを開く実践 (縁覚乗) ,自他ともに悟ろうとする実践 (菩薩乗) のすべてが一つに帰する<のであって、>・・・どんな衆生(しゅじょう)も一様に仏になりうると説く教え<。>
 ・・・ 《法華経》(方便品)は,<この>・・・ことを明らかにした<として>有名。これを《法華経》の〈一乗開会(かいえ)〉という。<支那で>唐代以来,天台宗・華厳宗と法相宗との間で,三乗・一乗の方便・真実を争う議論がくりかえされ,これを三一権実論争という。日本では,最澄と徳一との論争が有名である。・・・
 天台宗では『法華経』の思想を体得すればそれがそのまま一乗であるとする。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E4%B9%97-31305
 聖徳太子は、「一大乗・一仏乗など一を冠することばを多用し、一乗思想による日本仏教の特色を示した。法華一乗思想は、男女の在家信者の理想像を説いた『維摩経』と『勝鬘経』<・・どちらも太子が義疏を書いた(太田)・・>のもと、仏教による国民の和の精神を強調することによって平和な国家の建設に力を注ぐために定められた憲法十七条の基調となった。」
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1996
 (注5)「菩薩の付き合いは菩薩に適い、菩薩に相応しいのである。これを菩薩の親近処という。 菩薩は、国王、王子、大臣、官長に近づかない。外道の思想家、世俗の小説家、詩人、また小乗の学者に近づかない。 これらの人々と親しくならない。 また遊興で身を立てるもの、芸人、役者、相撲取りに近づかない。また賎民、屠殺や狩猟や漁を生業 なりわいとするものに近づかない。 ただし時よろしく、これらの人々に請われれば、法を説くであろう。また声聞乗を求める男女の出家・在家に近づかず、 長居しない。また女人の歓心を買おうとせず、見ることを願わず、会釈を返さない。 常に座禅を好み、静かな処で心を修める。これを初めの親近処という。また菩薩は、一切の法は空なり、 如実の相なりと観じて、ただ因縁により仮象として存在していると見るのである。菩薩はここに住す、これを菩薩の第二の親近処という。」(法華経 安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四)
http://www.james.3zoku.com/pundarika/pundarika14.html

 但し、皇子は、法華経が仏陀(悟った人=私の言う縄文人)にどうしたらなれるかを説く法華経を通じ、縄文人を私の言う弥生的縄文人が統治する日本では、人々の大部分が「ほぼ悟っている」か「悟っている」かのどちらかなので、どうやら弥生人が普通人を統治しているらしい、当時までのインド亜大陸北部において、人々を縄文人にするという限りなく不可能に近い困難な課題に応えるために書かれた法華経、を、読む際には大いに注意を要する、ということに気付き、法華経にかかる独特の解釈を施し、その上で、殆どの人が縄文人であるから悟っている日本人が、その一部が縄文的弥生人になった暁に弥生人にまで堕落してしまうのを回避しつつリタイア後は縄文人へと回帰ことができるようにするための解釈を模索したのだろう。
 その結果、毀損縄文性恢復の容易性/困難性、や、可否、は、能力や人格の高低とも、力や財産の有無とも、男女の別や職業の「貴賤」とも、無関係だし、もちろん、そのために出家する必要などない、という解釈に皇子は到達したのだろう。
 そして、皇子は、法華経を踏まえて、日本人の悟り(毀損縄文性恢復)の方法として、縄文性的(人間主義的)言動の実践・・和の実践・・を例示的にひねり出した。
 その上で、皇子は、十七条憲法の第一条で和、第二条で仏教への帰依、を唱えた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95
のである、と。
 「奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD
とされているが、十七条憲法を契機に、日本人は、自称を倭から和へと変更し始めたのではなかろうか。
 かかる皇子の問題意識に応えて、平安時代になって桓武天皇が、法華経を最重視する天台宗の継受を最澄に命じ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87
その成果として、鎌倉時代には、天台宗から出発した明菴栄西が、源頼朝の支援の下(コラム#省略)、禅宗(臨済宗)を継受し、日常や非日常の生活そのものを日本人の悟り(毀損縄文性恢復)の方法へと化けさせる取り組みを始め、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%85%E5%AE%97 ←の禅宗の「日本文化への影響」の箇所参照
また、同じく鎌倉時代には、やはり天台宗から出発した日蓮が、近衛家の支援の下(コラム#省略)、日蓮宗を立宗し、和の実践の日本以外への普及を軍事力の行使も辞さずに行うことこそ日本人の悟り(毀損縄文性恢復)の方法として最も奨励される、と主張する(コラム#省略)ことになったわけだ。

(3)平安構想(桓武天皇構想)

 光仁天皇の時から、同天皇の指示を受け、藤原式家の藤原種継(737~785年)をチームリーダーとして藤原家の中で策定作業が行われ、天応元年(781年)にその子の桓武天皇が即位した直後の782年に、武家創出/封建制移行、及び、(今回初めて述べるが)法華経を最重視する天台宗の継受、をその内容とするところの、(私の言う)桓武天皇構想が固まったことに伴い、平城京からの遷都を決めた、と、私は見るに至っている。
 つまり、桓武天皇構想は782年に策定されたのではないか、と。↓

 「天応元年(781年)4月<に>桓武天皇<は、>即位<するが、>・・・翌天応2年(782年)になると、正月に氷上川継の乱、3月に三方王による天皇呪詛事件と天武系皇統による桓武天皇を否定する事件が立て続けに発生する中、・・・式家<の>・・・藤原種継・・・<が>参議に任ぜられて公卿に列す。・・・4月になると桓武天皇の詔により造宮省が廃止される。これは、遷都を見据えて平城宮にはこれ以上手をかけないことを表明したものであ<る。>・・・
 延暦3年(784年)「天皇はなはだこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されるほど大きく政務を委ねられていた種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議した。・・・同年長岡京の造宮使に任命され、事実上の遷都の責任者となった。遷都先である長岡が種継の母の実家である秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられる。・・・
 <延暦3年(784年)の>遷都後間もない延暦4年(785年)9月23日夜、種継は造宮監督中に矢で射られ、翌日薨去。・・・
 最終官位は中納言正三位兼式部卿。享年49。種継は死後、桓武天皇により正一位・左大臣が贈られ、大同4年(809年)には太政大臣の官職が贈られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E7%A8%AE%E7%B6%99

 だからこそ、初めてでも何でもない遷都ごときに藉口する形で種継は殺されたのだし、殺された種継を桓武天皇はこれほど↑も顕彰したのではないか、と。
 長岡京への遷都は、「既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く<、>新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係<、>父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻ったことによる人心一新<、>難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国が東西間交通の接点としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国の経路が成立したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)<、>などの説がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC
が、私は、この中で人心一新説を採り、その主眼は、天武朝の下で造成された「平城京<が>・・・唐の都長安城を模倣して・・・建造された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
ことを踏まえ、一事が万事の、天武朝の、唐かぶれにして鎮護国家志向性、を批判し排除するところにあった、と、考える次第だ。
 「785年(延暦4年)・・・年9月に造長岡宮使の種継が暗殺された。首謀者の中には、平城京の仏教勢力である東大寺に関わる役人も複数いた。そして桓武天皇の皇太弟早良親王もこの叛逆に与していたとされ幽閉・配流となり、親王は配流先に向かう途中、恨みを抱いたまま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉・疫病の大流行や、皇后ら桓武天皇近親者の相次ぐ死去、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから、792年(延暦11年)6月10日にその原因を陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て親王の御霊を鎮める儀式を行う。しかし、その直後と2か月後の2度の大雨によって都の中を流れる川が氾濫し、大きな被害を蒙った。このことから、治水担当者であった和気清麻呂の建議もあって、793年(延暦12年)1月15日には再遷都のための公式調査が葛野郡宇太村で行われた。2月には賀茂大神への再遷都奉告、3月には再遷都先の百姓に立ち退き補償が行われ、再遷都作業が始まった。そして長岡京への遷都からわずか10年後となる翌794年(延暦13年)に平安京へ遷都することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E4%BA%AC
というのは、私は、ほぼ額面通りに受け止めているが、その際、平和を守る国の首都という消極的な意味の平城京(注6)と対照させる趣旨で、(単なる地名を付した長岡京とももちろん違った、)平和を作り出す国の首都という積極的な意味の平安京と名付けた、と、考えている。

 (注6)「柳田国男・・・は、山中で少しく平らな所を、ナル・ナロと呼ぶから、ナラス(均)という意味であって、奈良に平城の字をあてるのも同じであるとされた。・・・<また、支那>の都城建設の条件である四神相応(ししんそうおう)、すなわち東西南北の守護神(青龍、白虎、朱雀、玄武)に守られた形勝の地で<も>あ<っ>た。」
https://ameblo.jp/honjo207/entry-12621078034.html

 そこで、この際、桓武天皇構想の「正式」名称を、平安構想、と、したいと思う。

(4)日蓮宗立宗

 表記は、1253年のことだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE 
 一体、日蓮は、法華経のどこから、何を導き出したのか?
 長南瑞生(注7)が法華経の概要を説明する下掲↓が、その限りでは的確であるとの前提で、その更にエッセンスを紹介し、同経の核心的主張が一体何だったのかを振り返りながら、上記疑問に答えてみよう。

 (注7)おさなみみずき(1975年?~)。東大教養(基礎科学科第一)卒
https://xn--6kro28etqa384h.com/profile.html
の浄土真宗のインターネット伝道者
https://xn--udsw7h21snjj.jp/about.html

 「・・・「三軌」というのは、3つの規則ということで、法華経を行ずる人は、これができなければならない・・・。
<それは、>衣・座・室の三軌だ。すなわち、>
「室」……一切の人々に大慈悲をもって接すること
「衣」……いかに苦しいことでも笑って忍ぶこと。
「座」……一切のものに対する執着を断つこと・・・

⇒このくだりあたりを根拠に日本では禅宗が起こったのだろう。(太田)

悪人<も>・・・仏にな<りう>る・・・8歳の・・・女<も>救われる・・・

⇒厩戸皇子は、このくだりから「和」の普遍性を読み取ったと思われる。(太田)

たくさんの菩薩や声聞が、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の決意で仏教を伝えることをこのように誓<っている>。

⇒日蓮は、このくだりが一番彼の琴線に触れ、自分が、そして日本が、そのために何ができ、何を行わなければならないかを熟考し始めたのだろう。(太田)

<「>われは、身命を愛せずしてただ無上道のみを惜しむなり。<」、と。>・・・
すでに『法華経』を広める菩薩が存在する・・・。・・・<それは、>久遠の昔から教えてきた弟子<達であり、彼らを>・・・地涌<(じゆ)>の菩薩<と呼ぼう。>・・・。<特に>、その最上位の菩薩の一人<を>「上行菩薩(じょうぎょうぼさつ)」<と呼ぼう。>。・・・
<私、>釈迦如来には、久遠の過去といっても、五百塵点久遠劫という限られた<存在期間>があ<る>が阿弥陀如来は無始久遠<から存在してきた。>・・・
阿弥陀如来の浄土へ往生すること<を>勧め<る。>・・・
阿弥陀如来の救いにあって浄土往生した人は、苦しみ悩みのこの世界にかえってきて、自由自在に衆生を救<うはずだ。>・・・

⇒このくだりを根拠に日本では浄土宗が起こったのだろう。(太田)

<上述した>地涌の菩薩<達>に対して<は、>後の世に<おいても>『法華経』を伝え<よと伝えたい。>・・・
『法華経』の行者が備えるべき4つの法・・・は、以下の4つ<だ>。
1つには、諸仏に護念[・・仏が衆生を心にかけて守護すること。また、守護しようと念じていること。・・
https://kotobank.jp/word/%E8%AD%B7%E5%BF%B5-503502 ]されること、
2つには、もろもろの徳本[・・結果としてすぐれた果をもたらす善根、功徳のこと。また、功徳の本となる善法のこと。・・
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%9C%AC-1189695 ]をうえること、
3つには、正定聚[・・仏になれることが正(まさ)しく定まっている・・・境地・・
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%AD%A3%E5%AE%9A%E8%81%9A ]に入ること、
4つには、一切衆生を救う心・・・
師匠・・・と『法華経』とを供養する為に・・・自ら身に火を放って身を灯明として供養した<者もいる。>・・・」
https://true-buddhism.com/sutra/hokekyo/

⇒日蓮は、こういったくだりから、自らを犠牲にすることを厭わず一切衆生を救おうとすることこそ、仏陀ないしそれに準ずる人(悟った人≒縄文人/縄文的弥生人)が永久に救われる(永久に仏陀化=縄文人化する)ための最高の手段であると考え、日蓮宗を立教開宗した、というのが私の見方だ。
 長南瑞生君は、「『法華経』には、どうすれば仏のさとりを得られるのか説かれていないので、日蓮は、南無妙法蓮華経という題目を唱えれば成仏できるのだと「唱題成仏(しょうだいじょうぶつ)」を創出しました。・・・日蓮は「その根拠は寿量品の文底に秘めり」と言<ってのけ>ました。これを「文底秘沈(もんていひちん)」といいます。」(上掲)と、言ってのけているが、彼の指摘からの、引用前段は法華経の曲解であり、引用後段は方便の意義の無視である、と、あえて言わせてもらおう。(太田)

(5)第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)準備着手

 日蓮が「予言」した元寇(1274年、1281年)・・騎馬遊牧民系弥生人による日本列島侵攻・・の直後に生まれ、表記に着手する意思はあったが未遂に終わったのが、結果として南朝の初代になる後醍醐天皇(1288~1339年。天皇:1318~1339年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87 (※)
だ。
 その根拠は、「日蓮の遺命を受けて京都で布教中だった日像<に対して>、元亨元年(1321年)に後醍醐天皇<が、>寺領を<下>賜<し>て今小路(現・京都市上京区大宮通上長者町)に・・・、日蓮宗で初となる京都での本格的な寺院<である>・・・妙顕寺・・・<を>建立さ<せ、>・・・建武元年(1334年)に・・・<同>天皇<が、この寺を>綸旨<で>勅願寺と<することによって、日蓮宗を、日本の歴史上初めて、>正式に宗派として公認<し>た<ことだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%A1%95%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
 このおかげで、足利幕府や北朝も、公然と日蓮宗を保護する運びとなったと私は見ている。↓
 「本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。そのため、幕府からの支援もあり、日静は光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA
 「妙顕寺<は、>・・・応永18年(1411年)には足利義持の祈願寺となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%A1%95%E5%AF%BA_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82) 前掲
 しかし、光圀が間違いなく注目していたと想像されるところの、この後醍醐天皇の事績、は、同天皇のウィキペディアには全く出て来ないし、研究した論文もなさそうである(※)のは、残念だ。
 後醍醐天皇が、一、日蓮宗を公認し(上述)、天皇親政の延喜・天暦の治を理想として掲げ、「平時には太平を寿ぎ、非常時には勝利を呼ぶ曲と言われ、元寇の時にも宮廷でたびたび演奏されていた・・・「羅陵王」という舞楽曲の一部で秘曲として知られた「荒序」という・・・笛・・・曲を愛好し、たびたびこの曲を演奏し」、宋学(新儒学)に傾倒し、また、二、源氏物語の研究者であったこと、ますらおぶりの和歌を庇護したこと、伊勢神道を振興したこと、臨済宗を庇護し、(※)とりわけ、自ら茶人にして愛石家であったこともあり、無窓疎石を尊崇し「無窓国師」の国師号を下賜した、こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2%E7%AA%93%E7%96%8E%E7%9F%B3
、民衆救済活動を支援したこと(※)についても、同天皇が日蓮主義者であったとすれば、一は第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)準備着手宣言、二は縄文性の称揚、と見ることで、すこぶる腑に落ちるわけだが、そういう観点から研究している人もいなさそうだ。
 後醍醐天皇が偏諱の「尊」を与え、「北畠親房や親房を信任した後村上天皇が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた」足利尊氏(※)は、日静の甥たる日蓮主義者であり、その「後醍醐院百ヶ日御願文」(※)を読めば、それが、同じ日蓮主義者でありながら、同天皇を支えるどころか足を引っ張らざるを得ない羽目になってしまった自らの慙愧の念に基づく衷心からの後醍醐天皇への弔辞以外の何物でもないことが分かろうというものだが、それに気付く人もまた殆どいないようだ。↓

 「古来より、大恩に報いることがないのは徳が無いと申します。かの『後漢書』「楊震伝」注に言うように、雀のような小鳥でさえ宝石の環をくわえて仁愛に感謝するのに、何も言わず恩を返さず、いったい我ら全ての民草が陛下の黄金のような君徳を忘れることがありましょうか。いいえ、決してありません。
 伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、元応以降、18年のご在位をお保ちになったのです。
 陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」王羲之にも迫るという唐太宗を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい笙の響きさえあれば、いまさら漢高祖の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の素盞鳴尊(すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「玄象」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」村上帝の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。
 しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか吉野の都に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。
 ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相(大納言)に進み、征夷大将軍の武職に至りました。この運の巡り合わせは、漢という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。
 わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である鴻(おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。
 陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。
 まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩陶弘景が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。
 すなわちここに、図絵胎蔵界曼荼羅一鋪・金剛界曼荼羅一鋪、図絵観世音菩薩一鋪・摺写大日経三巻・理趣経四巻・随求陀羅尼経三巻を奉り、妙法蓮華経十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、非人救済も実施しました。等持院に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。
 陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに阿彌陀如来の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を八正道へ、すなわち涅槃へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。
                弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白
                — 足利尊氏、「後醍醐院百ヶ日御願文」」

 戦後日本における、後醍醐天皇への無理解ぶりを、さぞや、あの世で光圀が呆れ、嘆いていることだろう。

(6)第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)

 さて、第二次対外戦争(第一次日蓮主義戦争)への事実上の着手は、後醍醐天皇の死の約250年後、織田信長による1581年(天正9年)2月と3月の2回にわたる京都御馬揃え
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E9%A6%AC%E6%8F%83%E3%81%88
である、というのが最近の私見だ。(コラム#省略)
 改めてだが、「この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。ただ、馬揃えの開催を求めたのは信長ではなく朝廷であったとされる。信長は天正9年の初めに安土で爆竹の祭りである左義長を挙行しており、それを見た朝廷側が京都御所の近くで再現してほしいと求めた事による。ただ、左義長を馬揃えに変えたのは信長自身であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
ところ、その目的について定説がないこと、観衆にはバテレン等外国人もいたであろうこと、「黒馬に乗った信長は、頭には唐冠(とうかんむり)、白地の唐草模様に紅梅をあしらったものに唐綿の小袖を重ね、紅緞子(どんす)に桐唐草の肩衣(かたぎぬ)と袴の姿。ヤクのしっぽの腰蓑に、金銀飾りの太刀・脇差を差し、手には白革に桐の紋の入った手袋を着用して梅の生花を挿しました。」
https://xn--u9j228h2jmngbv0k.com/2018/10/%e4%ba%ac%e9%83%bd%e5%be%a1%e9%a6%ac%e6%8f%83%e3%81%88/
という、1回目の馬揃えの際の異国風の信長のいで立ち、がその理由だ。
 文字通りの着手は、秀吉によるところの、1592~1598年の文禄・慶長の役であり、それが秀吉の死で中断し、そのまま不完全燃焼のまま終わったこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
は良く知られている。

(7)太平構想

 私のネーミングによる表記を、今回、新たに(本論において)取り上げる。
 近衛信尋(1599~1649年)/近衛前子(中和門院。1575~1630年)子母、と、島津家久、とが、1621~1622年頃、協議して、内々、これを策定したのではないかと私は想像するに至っている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%AE%B6%E4%B9%85
 後で詳述する。
 なお、太平とは、「世の中がよくおさまっており、平和なこと。」
https://kokugo.jitenon.jp/word/p30710
であって、桓武天皇の「平安」に比して、より、積極性があることに加え、支那において、れっきとした王朝での使用例が2つあり、いずれも、この2つの王朝がどちらも江南文化系である(注8)ことを考慮したものだ。

 (注8)馮跋(ふうばつ。~430年)は、「<南北朝時代、>漢族出身の後燕の将軍であったが、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立て<、>・・・409年<、>・・・慕容雲が近臣に殺された後、馮跋が北燕の・・・第2代天王の位につ<き、>南朝宋へ入朝した<ところ、天王であった間、元号は太平を使い続けた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E8%B7%8B
 また、南朝の梁、敬帝蕭方智が、この元号用いたことがある。(556年-557年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3
 ちなみに、林士弘(りんしこう。~622年)は、江南文化系であるとしか考えられないが、「隋末唐初に割拠した群雄の一人<で、>南越王、または楚帝を称し<たところ、>・・・元号として太平を立て<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E5%A3%AB%E5%BC%98

(8)徳川吉宗誓約

 私のネーミングによる表記も、今回、新たに(本論において)取り上げる。
 これが、1716年4月30日(旧暦)の徳川家継の死~8月13日(旧暦)の徳川吉宗の将軍就任までの間
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97
に、徳川吉宗が、形の上では近衛煕子(天英院)・・徳川家宣御台所で家継嫡母・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
に対して、但し、実質的には、島津吉貴(よしたか)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%90%89%E8%B2%B4
と近衛家久・・従姉が近衛熙子で、正室が島津吉貴の父綱貴の娘で、継室が吉貴の娘・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85
に対して、というか、この両名の要請を飲む形で、行った、と、私は見るに至っている。
 (ちなみに、島津綱貴は、薩摩藩主で初めて家康の血も引いている人物だが、その継室は後に離縁するけれど、吉良義央(コラム#省略)の娘であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4
綱貴が、相当気合が入った日蓮主義者であったことを示している。)
 これについても、後で詳述する。

(9)島津斉彬コンセンサス(第二次日蓮主義戦争指針)

 1833年1月15日の島津重豪の死~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
1858年7月の島津斉彬の死
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
までの間の斉彬の言動のエッセンスがそうだ。(コラム#省略)

(10)第三次対外戦争開始(第二次日蓮主義戦争開始)

 1860年3月24日(新暦)の桜田門外の変に始まるところ、その経緯は以下の通り。
 太平構想/徳川吉宗誓約/島津斉彬コンセンサス、においては、表記における実戦への着手は、当然、対外的な形で行われる筈だったが、結果的には対内的な形で行われることになってしまった。
 しかも、それは、1858年の安政の大獄の開始と将軍継嗣が徳川家茂になったことを受けた、鹿児島からの島津斉彬による藩兵5,000人を率いた抗議の上洛の形をとる筈であったところ、そのための練兵観覧中の斉彬の発病とその8日後の死去
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
により、結果としてその着手が1860年の桜田門外の変によることとなったものだ。
 以上が、第二次日蓮主義戦争遂行指導者達の認識であったと思われ、だからこそ、「桜田門外の変襲撃者・・・らは・・・靖国神社へ合祀されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
わけだ。
 (対外的な形での表記への着手は、これも予想外の出来事ながら、1862年9月14日の生麦事件だろう。これが、翌年の 1863年8月15日~17日の薩英戦争・・薩摩藩(日)対英・・をもたらす。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89
 なお、その間の1863年6月25日~に下関事件・・長州藩(日)対米仏・・が、その後の1864年9月5日~9月18日に四国艦隊下関砲撃事件・・長州藩(日)対英仏蘭米・・が、併せて下関戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
が起こっている。
 先の大戦の最終局面において、日本が宣戦布告・・事実上の宣戦布告を含む・・する諸国が、この時点で早くも「正しく」揃い踏みで登場していることは、象徴的であること以上の意味があり、・・相互の休戦期間が長かっただけだということ!・・興味深い。)
 こんなことになった原因の根本は、徳川家定(1824~1858年)が、太平構想や徳川吉宗誓約を理解する能力を、いや、仮に理解できたとしても遵守するための強い意思を、欠いていた、発達障害者であったからである、と、私は見ている。↓

 「家定<は>幼少の頃から病弱で、人前に出ることを極端に嫌った。
 家定の病状については、大変な癇癪持ちで、目や口が時に痙攣し、それとともに首まで動く奇態を見せる始末だった。おまけに正座ができず、言葉もやや訥して、吃るようだったという。しかも17歳の時には、重い疱瘡にかかり、これは回復したものの、顔全体に痘痕が残ったといわれる。つまり、身体を制御するのがうまくできず、言葉も不明瞭で、身体的な障害があり、家定自身もそれを恥じてか、いささか鬱病的なところがあったという。
 天保12年(1841年)に大御所・徳川家斉(第11代将軍。家定の祖父)の死後、(第12代将軍・家慶の)世嗣となる。しかし家慶は、家定の継嗣としての器量を心配して、一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣にしようと考えたほどである。だが、・・・結局は家定を将軍継嗣とした。・・・
 『安政紀事』には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」と記されている。松平春嶽も「凡庸の中でも最も下等」と酷評したと伝わる。・・・
 黒船来航の19日後にあたる嘉永6年6月22日(1853年7月27日)、家慶が病死したことを受け家定は第13代将軍となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%9A

⇒家慶は、家定がそう長くは生きないと考えていて、仮に将軍の座についたとしても、在任中に、(太平構想を踏まえ、)幕府を消滅させる決断を下さなければならないような事態にはならないだろうと、親バカ的な誤った判断をしてしまったのだろう。
 但し、「家定に不測の事態が起きた際に慶喜を後継とすることと<は>した(<ものの、>公式に確定されてはいなかった)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E7%B6%99%E5%97%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C (太田)

 「徳川家慶<は、恐らくは父家斉を通じて聞かされていた故島津重豪の遺志に添って、>・・・お由羅騒動に介入して<斉彬の父の>薩摩藩主・島津斉興を隠居させ<て、斉彬を藩主につけ>たり、水戸藩主・徳川斉昭に隠居謹慎を命じたりしている。また<、>斉昭の<、幕府を消滅させる役割を担うにふさわしい、>七男・七郎磨(後の徳川慶喜)に一橋家を相続させている。・・・

⇒斉昭の件は、家慶が、幕府の縄文性を喧伝するために斉昭と示し合わせて打った芝居だろうが、そのことを含め、その限りでは、家慶は、太平構想/徳川吉宗誓約を忠実に履行していたと言えよう。(太田)

 ペリーが来航した頃、家慶は既に死の床にあった。このため、ペリー来航を家慶が知ったのは来航から3日後の6月6日、老中首座の阿部正弘による報告であったが、それを聞いた家慶は正弘に「(徳川)斉昭と相談せよ」と述べただけで、他の指示は出さなかったという。それから2週間ほどした6月22日に江戸城で薨去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%85%B6

⇒自分の見通しの甘さを死の床で思い知らされた家慶だったが、そんな状況下で、今更急遽次期将軍候補を差し替えるのはさすがに憚られたので、後事(善処方)を、斉昭を通して、斉昭とツーカーの関係にあったところの、近衛家/島津氏、より端的に言えば、自ら1851年に薩摩藩主に就任させていた島津斉彬、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E6%96%89%E5%BD%AC
に、託したのだろう。(太田)

 老中首座として、家慶ないしは家慶の命を受けた水野忠邦から明かされたところに従い、太平構想/徳川吉宗構想に則り、近衛家/島津氏の指示に従って幕府の舵取りをしてきた、と、私が見ているところの、老中首座の阿部正弘(1819~1857年)が、1855年に堀田正睦に老中首座を譲り・・阿部は1857年に亡くなる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%83%A8%E6%AD%A3%E5%BC%98
、その翌年の「1858年<に、この>・・・堀田正睦が<、>・・・<予定通り(太田)、>孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗し<て>江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、・・・福井藩主・松平慶永を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定が「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言っ<て>、・・・直弼<を>・・・大老に就任<させたものの、家定はもちろん、家定からそうせよと命じられなかったであろう堀田も、「太平構想/徳川吉宗構想に則り、近衛家/島津氏の指示に従って幕府の舵取りを」せよ、と、井伊に伝えなかったと思われ、「家定<が、同年、>自分の死の1週間ほど前に諸大名を招集して、徳川家茂を将軍後嗣の意向を伝え<たところ、>これは人前に出ることを嫌い、ほとんど将軍らしいことをしなかった家定にとって「初めて将軍らしいことをした」と評され・・・た<「事件」だったが、>・・・<更に、>家定は、死の前日に「慶喜を推進する一橋派」の処罰を・・・台命(将軍の命令)<でもって、>・・・徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に・・・隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)<を>・・・発し<、その>翌日に、・・・突然薨去し<て>ま<う>。・・・
 <家定が>徳川慶喜を嫌っ・・・た理由は、・・・「自分より徳川慶喜の方が美形だったから」<らしく、>「慶喜が来ると大奥の女性が騒ぐから面白くないといっていた」と側小姓が明治になってから語ってい<る>。・・・」
https://rekisiru.com/14459

⇒という次第であり、近衛家/島津氏、と、水戸徳川家、は、殆ど予想していなかった困った事態の出来、進展、に大衝撃を受けたに違いない。
 ちなみに、家定が松平慶永(春嶽)を嫌ったのは、慶永の上出発言から推察できるところの、慶永の家定を見下す眼差しにかねてより家定が憤っていたからだろう。
 また、家定による家茂指名の背中を押したのは大奥であるとされているところ、当時の大奥の重鎮で、家定に影響を及ぼし得る下掲の3名は、前2名は単純に「家定に血筋が近い従弟の紀州藩主徳川慶福(後の徳川家茂)」を好み、最後の1名は、これまた単純に「「大奥の粛正」を唱える斉昭に反発」していたことから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E7%B6%99%E5%97%A3%E5%95%8F%E9%A1%8C ←「」内
その(まだ存命であった)斉昭(~1860年)の子である慶喜を嫌ったのだろう。↓

 「母・<跡部堅子(>本寿院<・・日蓮宗信徒ではない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%AF%BF%E9%99%A2_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%85%B6%E5%81%B4%E5%AE%A4)
・・)>や父・家慶が<、>家定の育児を全て・・・乳母<の>・・・歌橋にまかせっきりで<あったため>、家定<は、>歌橋を慕っていた・・・。また家定は人前に出ることを極端に嫌う性格だったと言われ、乳母である歌橋<・・日蓮宗信徒ではない・・>にしか心を開かなかったという。
 <この歌橋は、>家定の後継者争いでは南紀派に属し、・・・本寿院らと共に14代将軍に紀伊藩主・徳川慶福(後の家茂)を推した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E6%A9%8B
 歌橋(1807~1877年)は、伊勢神宮祭主の藤波寛忠の娘で、「家定の後継者争いでは南紀派に属し、瀧山、本寿院らと共に14代将軍に紀伊藩主・徳川慶福(後の家茂)を推した。」(上掲)
 なお、志賀(豊倹院。?~?年)<・・法名が付けられているので日蓮宗信徒・・>は、旗本の子で、「病弱な家定から大奥中でも唯一、側室となる寵愛を受け<た女性であり、>・・・家定の菩提を弔う余生を送り明治維新に至ったというが、一方で身の回りの贅沢品を持って郷里で裕福な生活を送ったともいい、はっきりし<ておらず、>明治初年ころに没したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%80%B9%E9%99%A2

 これでは、せっかく斉彬が送り込んだ篤姫の出る幕はなかったろう。
 なお、井伊直弼以下、殆どの幕臣は気付いていなかっただろうが、紀州徳川家も筋金入りの日蓮主義家である上、家茂は家斉の孫であり、家斉と日蓮宗信徒の登勢(妙操院)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%93%8D%E9%99%A2
の子で清水家を経て紀州徳川家を継いだ斉順(なりゆき。1801~1846年)の子(1846~1866年)・・生母で養育者の美喜(実成院)も法名が与えられているので日蓮宗信徒だったと思われる・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E9%A0%86
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E6%88%90%E9%99%A2_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82%E7%94%9F%E6%AF%8D)
なので、思想的には家茂も慶喜と殆ど違いはないのだが、出来る限り「円滑に幕府を解消」するためには、高度な知力と人生経験と幅広い人脈が不可欠であり、これらの点で、家茂は慶喜に劣っていたわけだ。(太田)

(11)杉山構想

 貞明皇后/牧野伸顕から指示された杉山元が軍事課長になった1923年(大正12年)に策定を開始し、完成は彼が軍務局長時代の1930年(昭和5年)である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83 ←年
と私は見ているわけだ。(コラム#省略)

(12)プロト日本文明回帰

 私は、かねてより、表記の端緒を、張作霖爆殺事件の際の年1928年6月27日の田中義一首相の上奏に係る昭和天皇の不快感表明、としてきた(コラム#省略)が、未だ定説がないこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
を踏まえ、この際、これを変更し、昭和天皇が10歳になった当時皇太子だった上皇の陸海軍少尉任官を許さなかった1943年12月
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-person-04.html
を端緒とすることとしたい。

3 プロローグ–ヤマト王権誕生のゆえん

 江戸時代についての新しい私の史観をまとめようとしていた時、秀吉の行った第一次日蓮主義戦争の開始は戦国時代の終わりを画し、島津斉彬コンセンサスの下に行われた第二次日蓮主義戦争の開始は幕藩体制の終わりを画した。
 つまり、前者は日本が統一を回復した時のことであり、後者は日本が中央集権化した時のことだ。
 その時に思った。
 これらは、日本が行った対外戦争の2番目と3番目だが、1番目の対外戦争である、いわゆる三韓征伐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90
は、ヤマト王権が誕生する前後に起きたのではないか、と。
 そこで、良く知られている下掲の史実↓を振り返るところから検証を開始した。

 「広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪ったという。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、百済と高句麗が倭国も交えて長期に亘り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

⇒しかし、そもそも、当時の日本・・倭。ヤマト王権・・は何の目的で高句麗と戦ったのか、を、(広開土王碑文そのものもそうだが、)誰もまともに論じないのは、一体どうしてなのだろうか。
 そこで、まずは、それまでの朝鮮半島史を振り返ってみることにした。(太田)

 「箕子朝鮮(きしちょうせん、紀元前12世紀? – 紀元前194年)は、<支那>の殷に出自を持つ箕子が建国した朝鮮の古代国家。・・・
 考古学的発見からは、箕の姓を持つ人々が殷朝から周朝にかけて<支那>北部に住んでおり、殷周革命により、満州、朝鮮へと移住した可能性が指摘されている。・・・
 <現在の北朝鮮の西部の黄海から東部の日本海にかけての、朝鮮半島北部に至る地域がその領域だったとされているが、箕子の朝鮮であったかどうかはともかくとして、朝鮮という国があったのは本当らしい。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E5%AD%90%E6%9C%9D%E9%AE%AE

⇒私は、日本列島に水田稲作文化を携えて渡来した弥生人は支那の江南文化系の人々であったと見ている(コラム#省略)ところ、「無文土器時代(<箕子朝鮮成立の少し後の>紀元前850年から紀元前550年頃)に<は、>・・・南朝鮮で大規模な水田も作られ<るに至ってい>た。<日本列島への>稲の伝来経路については、北方から大陸を伝わって来たという説、山東半島から朝鮮半島中部に伝わったという説、<支那>江南から南海岸地方に伝来したという説の3説がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E8%BE%B2%E6%A5%AD
けれど、(私は山東半島から説乗りであるところ、どの説に拠るにせよ、)当時は、朝鮮半島南部と日本列島は、水田稲作を基調とする、同じ江南文化系の人々・・但し、「人種」的には中原人・・が居住するに至っていた、と、見ており、「箕子」朝鮮であったとすれば中原人が支配者であったところの、朝鮮半島北部の朝鮮、と、朝鮮半島南部の日本列島のこれら江南文化系の人々とは、北が南に侵攻したり征服しようとしたりした話が伝わっていないことから、その理由は定かではないものの、北と南は対峙しつつも比較的平和裏に共存を始め、その状態が続いた、とも見ている。(太田)

 「前漢の高祖の時代の前202年、燕王臧荼が反乱を起こして処刑され、代わって盧綰が燕王に封じられた<が、>漢で建国の功臣に対する粛清が進展する中で燕王盧綰にも謀反の嫌疑がかけられ、さらに高祖が死亡し呂后が政権を握ると、身の危険を感じた盧綰は前195年頃匈奴へと亡命した。この時、<盧綰>に仕えていた[燕人の]満(衛満)という人物が・・・徒党1,000人を率いて朝鮮へと逃れ<、朝鮮半島北部にかけて>国<・・衛氏朝鮮>を建てたと<されている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE
 その経緯は以下の通りだ。
 ほぼ同じ時期ということになるが、「秦<の>滅亡<時>、<支那>は混乱に陥り、燕・斉・趙の<中原文化系の>民たちは相次いで朝鮮に亡命・避難し<てい>た。さっそく衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王の準王にとりいり、準王は、<支那>の斉・趙・燕の人々が集まっている西部の亡命者コロニーの統治を衛満に任命し、衛満は、朝鮮西部に亡命者コロニーをつくった。秦・漢の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ斉・趙・燕からの<支那>人は数万人にのぼっていた。さらに衛満は燕・斉・趙からの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となった。
 衛満は、朝鮮に隷属しながらも自立した政権を築いたが、それは、朝鮮の国境を漢から守っていたため、軍事的性格が非常に強い、衛満を中心とした在地の漢人豪族との連合政権であった。そして衛満は、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、・・・箕子朝鮮を滅ぼして、衛氏朝鮮を建国した。衛満軍は、王都に進軍し、軍事的優位を活かして準王の政権を滅ぼした<とされているところ>、『史記』には、衛満が準王を滅ぼしたという記述はない<けれど、>・・・箕子朝鮮は、虚構ではないにしても、土着の豪族によるゆるやかな連合体であり、その王は、祭祀同盟の長である「祭祀王」である可能性があり、したがって<司馬遷>は、衛満と箕子朝鮮の交代を王朝の交代ととらえなかったと<も>みられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9B%E6%BA%80 ([]内)
 さて、この「衛氏朝鮮<の>・・・都は王険に置かれた(現在の平壌)<ところ、>衛満は恵帝・呂后時代に遼東太守の仲介により漢の外臣となった。・・・

⇒この頃の朝鮮という国が果たして「衛氏」朝鮮であったかどうかについても、史実ははっきりしないが、仮に、箕子朝鮮が衛氏朝鮮に代わったというのが本当だったとしても、引き続き、朝鮮半島の北部、と、朝鮮半島南部等、すなわち、「朝鮮半島南部と日本列島・・・の人々<、との間で、>・・・比較的平和裏に対峙しつつ<の>共存<が続い>ていた」、ということが、それより前までの時代と同じ理由で、言えそうだ。(太田)

 時が流れて、朝鮮では衛満の孫衛右渠が王に、漢では文帝の孫武帝が皇帝になっていた。・・・
 武帝<は、>・・・紀元前109年から紀元前108年まで・・・衛氏朝鮮遠征<を行い、>・・・王倹城を落とした後、・・・その地に新たに楽浪郡・玄菟郡・臨屯郡・真番郡の4つの郡(漢四郡)を起き、この地を直轄支配下に置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E3%81%AE%E8%A1%9B%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%81%A0%E5%BE%81

⇒武帝によるこの遠征先に衛氏朝鮮があったのか、いや、そもそも、朝鮮という国があったのか、それどころか、国などと呼べるようなものがあったのか、史実ははっきりしないけれど、この時点で、朝鮮4郡、が出来たことは間違いないところ、この朝鮮4郡、と、「朝鮮半島南部と日本列島・・・の人々」との関係は、同じ、(漢は江南文化系なので、)江南文化系同士の、文字通りの「平和裏に対峙しつつ<の>共存」が成立した(へと変化した?)、と、言ってよかろう。
 ここで、留意すべき最も大事なことは、西暦の紀元後になると、三韓(馬韓、弁韓、辰韓)各地域及び日本列島で、小国家が群立するようになっていたこと、と、にもかかわらず、これら小国家相互間で小競り合いはあっても、大規模な戦争はなく、従って、いずれの地域でも、本格的な連合や統一国家形成への動きが見られなかったことだ。
 その理由を解明する前提として、歴史を振り返れば、紀元前10世紀年頃の殷末周初の混乱期に、中原人が、朝鮮半島南部と日本列島に江南文化由来の水田稲作技術を伴ってやってきた・・弥生人の日本列島渡来だ・・が、国を形成するには至らなかったところ、紀元前3世紀末の秦末漢初の混乱期に、旧秦人、但し、被支配者たる江南人、が、春秋戦国時代という小国家並立時代の記憶、と、大規模水田稲作技術を伴って朝鮮半島南部の東部と日本列島にやってきた・・渡来人の日本列島渡来だ・・ので、この時点で、これら地域は同一文化圏を形作り、紀元前後から小国家群を形成し始めた。
 (これが先鞭をつけた形になり、爾後、前漢末から五胡十六国南北朝時代を経て隋による支那再統一までの間の混乱期に、渡来人の日本列島渡来は絶えることなく続くことになる。)
 この影響を朝鮮半島南部の西部も受け、やはり、小国家群を形成し始めた。
 (この地域が、後に統一国家を形成して百済になるわけだ。)
 以上は、「『史記』『漢書』<が>、衛氏朝鮮の時代(紀元前2世紀)に朝鮮半島の南部に・・・辰国<が>・・・存在したとされ<、>・・・<この>辰国は辰韓または三韓の前身であると<し>ている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%9B%BD
ところ、「文献によっては辰韓を秦韓と表記する場合もある」
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%A6%E9%9F%93-1342926
、といったことを踏まえた私の取り敢えずの考えだ。
 そして、この朝鮮半島南部の東部・・辰「国」地域・・のうち、対馬に最も近い地域が弁韓となって、日本列島と最も密な交流を続け、対馬からやや遠い地域が秦韓・・後に辰韓・・になった、とも。
 (前者が、日本に併合されることも統一国家を形成することもないまま、後に任那と伽耶になり、後者が統一国家を形成して後に新羅になるわけだ。)
 「毎年のように外征<を>行<い>、領土を大きく拡大した・・・武帝」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
が、朝鮮半島においては、旧衛氏朝鮮領域(?)を直轄化しただけで、半島南部の併合までは目指さなかったのは、半島南部地域と日本列島においては、漢と同じ、江南文化/弥生的縄文的風土、を基調とする人々が多数を占めている、的な認識があって、治安上、軍事上の脅威を全く感じなかったからではなかろうか。
 これは、見方を買えれば、武王ですら、(漢の歴代皇帝は私の言う弥生的縄文人であったところ、)広義の江南文化系の人間ではあって、せいぜい、縄文的弥生人程度でにとどまっていた、といったところだろう。
 (武帝の母は現在の陝西省の、つまりは戦国時代の秦の領域の、生まれだし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%BC%A2%E6%99%AF%E5%B8%9D)
その彼女の祖父は戦国時代末期の燕の将官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A7%E8%8D%BC
なので、武帝は、拡大中原の軍人の、弥生性に近い縄文的弥生性の影響下で育てられたのではなかろうか。)(太田)


[漢に征服されなかった朝鮮半島南部、と、征服された南越]

 (「南の南越国は秦の崩壊の後に漢人の趙佗によって建てられた国で、文帝時代に漢の外藩国として服属していたが、武帝の代になり、漢朝廷は内藩国となるように南越に圧力をかけた。漢人の南越王趙興とその母の樛太后はこれを承諾しようとしたが、越人の宰相呂嘉がこれに反発して、王と宰相の間で対立が深まった。南越の民は大半が越人であるので呂嘉を支持し、呂嘉は紀元前113年に趙興と樛太后を殺して趙興の庶兄の趙建徳を立てて南越の実権を握った。武帝はこれに対して紀元前112年に路博徳と楊僕を将軍とした10万の遠征軍を送り、南越を滅ぼした。その地に新たに9郡を設けた。またこの出兵の際に西南地方にいる異民族たちに出兵を要請したが、その使者が殺されたので漢はこの地を征服し、ここにも郡を置いた。ただ夜郎と滇だけは残して王に封じた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
 「東南アジア大陸内では、中長江流域の初期モン族・ミエン語族と珠江・紅河流域の初期クラ・ダイ語族、およびメコン川流域の初期オーストロアジア語族の間の河川貿易を通じて、米が広まったと推定される。・・・
 東南アジア大陸における稲作の最古の証拠は、タイ北部のバン・チアン遺跡(紀元前2000年~1500年頃)とベトナム南部のアンソン遺跡(紀元前2000年~1200年頃)で発見されている。・・・」
https://jmedia.wiki/%25E7%25B1%25B3%25E3%2582%2584%25E3%2582%25AD%25E3%2583%2593%25E3%2582%2592%25E6%25A0%25BD%25E5%259F%25B9%25E3%2581%2597/History_of_rice_cultivation

⇒南越国では臣民に江南系文化人や江南人が少なかったこと、それどころか、ベトナム北部へは稲作技術の伝播がタイやベトナム南部よりも遅く、当時、南越での稲作文化の定着度がまだ低かったこと、と、南越の西南に隣接する地方が漢に敵対行動をとったこと、といった点て、朝鮮半島南部とは事情が異なる。(太田)

 「周代以前の「夷」は現在の江蘇省や山東省付近に住んでいた民族を指していた。そのころの「夷」の意味合いとして『後漢書』東夷伝に以下のように記されている。
 「『礼記』王制篇に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とあり、その意味は「恵み育て生命を尊重することで、万物は土地に根ざしてできるものである」となる。そのため、東夷諸民族は生まれつきが従順で、道理をもってすれば容易に治められるといい、君子の国や不死の国があるとさえいわれる。」
 このように初めの「夷」には侮蔑的な意味合いは見受けられず、むしろ好意的な印象を受ける。しかし周代以降、現在の江蘇省や山東省付近に斉や魯といった漢民族系の国々が建国され、東夷と呼ばれた人々が漢民族に同化されていくと、「東夷」という言葉は現在の<支那>東北部や朝鮮半島に住んでいた人々、すなわち濊・貊・倭・韓といった諸民族を指す用語となった。
 しかし、<支那>東北部の東夷においても「東夷は一般に心穏やかに行動し、心に謹むことを慣習としている。これは他の三方の蛮夷(北狄・西戎・南蛮)と異なるところである」と記し、また「東夷諸国は夷狄の邦(くに)といえども、俎豆(そとう)の礼がある。<支那>ではすでにその礼を失ってしまったが、東夷ではそれがまだ信じられている」と記していることから、侮蔑というよりむしろ敬意を感じる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%B7
といったことは、私の、以上のような主張を、概ね裏付けるものだ。
 だから、「前漢の武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされると(前108年)、<支那>東北部の東夷諸族は漢朝に朝貢するようになる。
 新の王莽が帝位を簒奪すると(8年)、貊人は辺境を寇した。
 後漢の建武(25年 – 56年)の初め、東夷諸国はふたたび朝貢した。時に遼東太守の祭肜の威勢は北方の諸族を畏れさせたため、その名声が海の向こうにまで届き、濊・貊・倭・韓といった諸族が万里の果てから<後漢>に朝貢してきた。特に章帝・和帝以後は使節が往来するようになった。安帝の永初年間(107年 – 114年)に後漢の政治が多難になると、東夷諸族が初めて入寇するようになる。桓帝・霊帝の失政では、年ごとにその混乱が大きくなっていった。
 後漢末期の<黄巾の乱以来の>動乱により、遼東地域には公孫氏<(注9)>が三代にわたって割拠していた。

 (注9)初代の公孫度は、幽州遼東郡襄平県の人。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E6%B0%8F_(%E9%81%BC%E6%9D%B1)
 「宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定したため女王<の>・・・卑弥呼・・・は帯方郡に使者を派遣して朝貢した。」(晋書の四夷伝)
https://rekishi-shizitsu.jp/kousondo/

⇒後漢末から三国時代初にかけては、支那が乱れていたこと、(魏と呉のどちらに朝貢すべきかということもあり、)、等、から、倭の諸国を含む東夷諸国からの朝貢が途絶え、入寇する諸国も出てきた、というわけだ。(太田)

 <後漢>の天子はこの地域を絶域とし、その一切を公孫氏に委任していた。そのため<漢>と東夷諸国との国交が断絶してしまった。魏の景初年間(237年 – 240年)、明帝(曹叡)は司馬懿に命じて公孫淵討伐を行い、楽浪郡や帯方郡までを支配することに成功した(238年)。これによって東夷諸国は魏に屈服し、以前のように国交が回復された。」(上掲)

⇒「史料には「穢貊<(わいばく)>」というような形であらわれることが多い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%8A
が、それは、「紀元前2世紀の<支那>東北部にいた<とされる>「濊」「貊」は、濊貊・沃沮・高句麗・夫余の四種族の前身であ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%8A%E8%B2%8A
ところ、どうやら、「穢貊」以外の東夷、と、前漢/後漢の間では、一貫して比較的良好な関係が回復したわけだ
 ところが、再来したそんな比較的良好な関係を断ち切るような形で、「穢貊」たる高句麗が、両者の間の地域に割って入って来たのだ!(太田)

 では、改めて、高句麗とは何か?↓

 「ツングース<(女真)>系民族・・・は、<支那>東北部から極東ロシア、シベリアにかけての北東アジア地域に住み、ツングース語族に属する言語を母語とする諸民族のこと。
 ツングース系民族は、北部 (エヴェンキ=ツングース) と南部(女真-ナナイ)の主要な2系統に分けられ、また、両者の中間グループ(オロチ-ウデヘ)が認められることがある。・・・
 満洲族<が>・・・南方ツングース <の代表例だ。>・・・
 歴史上に登場する民族・国家でツングース系民族に比定する説があるのは、以下の民族・国家である。

●扶余語族<:>・濊貊(濊貊語を使用。濊、貊)
        ・夫余(夫余語を使用)
        ・高句麗(高句麗語を使用)
        ・沃沮(沃沮語を使用)
        ・百済(王族は百済語を使用)
●豆莫婁
●「女真(女真語・女真文字を使用し、金・東夏・後金を建国)
 また、文献資料に登場する民族や国家で、「ツングース系」の可能性が指摘されるものに、以下の民族・国家がある。
●粛慎(しゅくしん)
●挹婁(ゆうろう)
●勿吉(もっきつ)
●靺鞨(まっかつ)(靺鞨語→渤海語)を使用し、渤海を建国)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%B3%BB%E6%B0%91%E6%97%8F
 「百済王族は扶余系の言語を話していたとみられる(扶余系百済語)。一方、百済の民衆は三韓の言葉(韓系諸語)を話していたとみられる(韓系百済語)。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88%E8%AA%9E

⇒だから、高句麗人は、その支配者と被支配者を問わず、(江南文化系の人々ではもちろんないが、)中原文化系の人々(中原人)ですらない、というのが、「朝鮮半島南部と日本列島・・・の人々」の認識であった、と、私は想像している。(太田)

 「高句麗という固有名詞に言及する最も古い記録は・・・『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、前107年である。・・・」
 漢は日本海側へ続く流通路(玄菟回廊)を確保すべく濊貊の地に玄菟郡を設置した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
 「高句麗の産業は多様であったが、重視されたのは農業であった。しかし、鴨緑江中流流域は農業生産力が高くなかった。農業に力を入れても食べるものに不足したという。このため、高句麗は農業だけでなく、狩猟と牧畜も行った。また、戦争と略奪によって不足物資を確保した。しかし、略奪は成功することもあったが、失敗することもあった。略奪のための戦争で負けることもあり、戦争で勝ったとしても奪う物資がないこともあった。略奪による物資の確保は、不安定な手段であったからである。このため、1世紀半ばの太祖大王代からは、周辺地域をむやみに略奪するのではなく、服属させて定期的に物資の供給を受けた。いわゆる朝貢の形である。
 高句麗は、鴨緑江中流を中心に服属集団を広げていった。3世紀までに東海岸の沃沮と東濊、西方の梁貊、北方の粛慎を服属させた。高句麗は自治を認める代わりに、定期的に物資を納めさせた。農業生産物はもちろん、各種特産品を受け取った。沃沮の場合、魚・塩・各種海産物を納めた。このように周辺の服属集団が拡大し、膨大な物資が高句麗の国都国内城に集まった。そして、高句麗の支配層「諸加」は、より広い地域を服属させて経済的富を増やそうとした。征服戦争の欲求が大きくなったのである。
 征服戦争を行うためには、国の体制を整備する必要があった。このため、高句麗は王を中心に政治体制を整備した。」
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.do?levelId=colko_001j_0020
 「紀元前128年に漢は蒼海郡を置いたが、紀元前126年に廃止した。・・・漢四郡(かんのしぐん)は、朝鮮半島の中・西北部にあった衛氏朝鮮を滅ぼした前漢の武帝が紀元前108年に設置した楽浪郡・真番郡・臨屯郡、紀元前107年に設置した玄菟郡の総称である。・・・
 漢四郡のうち、真番郡と臨屯郡は早く廃され、玄菟郡は朝鮮半島から西に移ったが、204年には朝鮮半島に新たに帯方郡が置かれた。楽浪郡と帯方郡は313年まで存続した<が>・・・、高句麗の攻撃により征服された。・・・
 高句麗が漢四郡と遼東を征服した後、遼東と楽浪、大方郡には漢族は断絶し、漢族式墓が発見されない。 その後、高句麗の積石塚だけ発見されるようになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%9B%9B%E9%83%A1

⇒要するに、高句麗、というのは、西欧のヴァイキングのような、掠奪を生業の重要な柱としていた人々の集団名であったところ、西暦紀元初期に国家を形成し、ヴァイキングが遠征先で形成したノルマン公国やキエフ公国が、それぞれ、イギリスと南イタリア、ロシア、を征服しように、後漢の辺境地域を奪取し、更には、三韓にも食指を延ばしてきた、というわけだ。
 高句麗が朝鮮半島北部を占拠してしまい、(江南文化系の楚人が主導権を持っている)漢との、陸路や山東半島との海路による、円滑な通行、ができなくなり、同時に朝鮮半島南部(の馬韓、弁韓、辰韓)に侵攻する可能性が高まったことは、朝鮮半島南部や日本列島の大部分の諸国に強烈な衝撃を惹き起こし、その危機意識を否が上にも掻き立てたに違いなかろう。(太田)

 しかも、悪いことに、それだけではなく、丁度時を同じくして、支那で、もう一つ、朝鮮半島南部や日本列島の諸国にとっては驚天動地の大凶事が起こっていた。↓

 「八王の乱による<晋の>混乱を見た匈奴の大首長劉淵は、304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って匈奴単于氏族たる攣鞮<(れんてい)>氏と漢室劉氏の通婚関係の歴史を背景に国号を漢(後継者で中興の祖となる劉曜の代にこれを廃して趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川で氐族の李雄による成漢(当初大成を、後に漢を称す)が自立するなどした。・・・
 311年・・・4月、司馬越の死を好機と見て匈奴出身の漢の武将の石勒は、司馬越の跡を継いで晋軍元帥となっていた王衍の軍勢10万余を苦県において破り多くの重臣を捕虜にした。これにより西晋は完全に統治能力と抵抗力を喪失、劉淵は先年死去していたため子の劉聡が継いで、劉曜と王弥そして石勒は大挙して311年6月に西晋の首都の洛陽に攻めこみ、略奪暴行の限りを尽くした。・・・
 <こうして、>313年、・・・西晋は事実上滅亡した。・・・
 この一連の動乱は、時の年号をとって永嘉の乱と呼ぶが、西晋側から見て異民族の反乱であり、実質は匈奴の末裔に敗戦し国が滅ぼされたに等しかった。・・・
 <更に、>316年に長安が陥落し・・・西晋<は、完全に>・・・滅亡した。・・・
 <そして、>318年3月に・・・建康<を>都<とする>東晋<が>建国<され、南朝が始まった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%99%8B
 五胡十六国時代に続く「南北朝時代は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が<支那>を再び統一する589年まで・・・<の>時期を指す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)

⇒江南文化系の漢が滅びこそしたけれど、三国時代の最強国であった魏も、その事実上の創始者の曹操は江南・・豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身・・であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E6%93%8D
265年に成立した晋は280年に支那再統一を果たすが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B_(%E7%8E%8B%E6%9C%9D)
王家の司馬氏は中原の現在の河南省の司隸河内郡温県孝敬里
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E7%9C%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%8D%97%E7%9C%81
出身とはいえ、江南文化系の魏を承継したことから、晋もまた江南文化系であると言ってよいだろうが、その晋が、「古代<支那>において北方の中原的都市文化を共有しない遊牧民族<である>・・・北狄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%8B%84
や西戎の氐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%90
に、(その後、東晋という形で南朝を興したとはいえ、)滅ぼされてしまい、北支那が五胡十六国時代に入った的な情報も伝わってきたであろうところ、繰り返すが、高句麗の成立と南進がもたらした大衝撃との「合わせ技」に、超ど級の衝撃を朝鮮半島南部や日本列島の諸国は受け、危機意識で打ち震えたに違いない、と、私は見ている。
 今にして思えば、高句麗の成立と南進、と、北支那における五胡十六国時代の到来、の背景には、寒冷化の影響があったわけだが・・。(コラム#15214)
 この二つの、ほぼリアルタイムの大衝撃が惹起した危機意識は、自分達は広義の遊牧系集団や国家に対する安全保障を確立しなければならないとの認識をこれら諸国の間で生み、多数の諸国が互いに小競り合いを繰り返しながら併存していた三韓中、高句麗に接壌するに至っていたところの、馬韓と辰韓において、それぞれ、連合統一国家を形成して安全保障を確保しようとする運びとなり、馬韓では百済、辰韓では新羅、という統一国家が成立した(後で再述)・・弁韓の諸国では、馬韓の百済と辰韓の新羅が緩衝になってくれている上、日本列島諸国によって守られているという意識から統一国家は成立しなかった・・ところ、同じく、多数の諸国が互いに小競り合いを繰り返しながら併存していた日本列島においては、百済と新羅の防衛努力だけで十分であるとは思えないとの意識の下、邪馬台国の臺與(とよ)または壹與(いよ)(235~?年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E4%B8%8E
の次ないし次の次あたりの女王・・私は神功皇后(注10)に比定・・が、4世紀半ば頃に、馬韓と辰韓に倣って日本においても統一国家形成とその国軍の朝鮮半島への派兵、高句麗の壊滅、ひいては、できうれば東晋と連携して東晋と高句麗の間に盤踞する北狄系/西戎系勢力・・337~370年は鮮卑の前燕、370~383年は氐の前秦・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%87%95
https://jmedia.wiki/%25E2%2580%258B/Former_Qin
の駆逐を図るべし、的な呼びかけを邪馬台国以外の諸国に行い、まずは、先駆けして模範たらんと、北九州及び弁韓地域を対象とした、邪馬台国を中心とする有志連合を形成し、邪馬台国のナンバーツーたる男性にこの有志連合の軍勢を率いさせて弁韓地域に布陣させるつもりだが、邪馬台国等の軍勢の主力を弁韓地域に送り出せば、その背後を中九州以南から脅かし続けてきた熊襲勢力が北九州に侵攻してくるのは必至なので、ヤマト地方の応神天皇を戴く国に対し、近い将来における邪馬台国等を含む全日本列島諸国が参加する連合統一国家樹立を含みとして、本州でも諸国と有志連合を組んだ上で、その本州連合軍でもって、北九州経由でまず南九州の熊襲を壊滅させた上で、朝鮮半島渡洋を決行するよう呼びかけたところ、重い腰を上げた応神天皇(注11)を戴く国、を中心として、本土の過半の諸国がこの邪馬台国の呼びかけに賛同し、実行に移したのではないか、そして、熊襲を壊滅させた後、弁韓地域諸国や百済と連携しつつ、また、日本列島諸国に近親憎悪的メンタリティーを抱いている新羅はアメとムチ手懐けつつ、高句麗に侵攻した、と。

 (注10)「神功皇后<は、>・・・実在したとすれば後述の広開土王碑文、三国史記や七支刀に加えて纒向遺跡の廃絶年代、陵墓の年代などから総合して4世紀後半ごろの人物である可能性があるが、『日本書紀』編者が比定したとされる「魏志倭人伝」にあらわれる卑弥呼の生涯とは約120年の差が生じ<てしまう>。
 <神功皇后の>父は開化天皇玄孫・息長宿禰王、母は葛城高顙媛。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫がい<て、>母方先祖に、新羅王子として播磨国に入った天日槍、また但馬国の清彦<がいる、とされている>。・・・
 渡海の際は、月延石や鎮懐石と呼ばれる石を陰部に挿入して塞いで腹部にさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、<彼女は、>九州北部に縁の深い人物であったと推測される。・・・
 住吉三神とともに住吉大神の1柱として、また応神天皇とともに八幡三神の1柱(祭神)として信仰されるようになる。武家社会の神である八幡神の母にあたる神であり、数多くの武人が神功皇后を崇拝していた。有名なのが八幡太郎こと源義家である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
 (注11)「実在したとすれば4世紀後半〜5世紀初頭ごろの天皇(大王)と推定されている。・・・
 応神天皇陵=誉田御廟山古墳であることはほぼ確実と見られている<ところ、>・・・<その>円筒埴輪は五世紀の第一四半期である。木は401年くらいである。ただし前後60年の誤差がある。・・・
 後世に皇祖神として奉られることになった。・・・早くから神仏習合がなり八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と称され、・・・平安時代後期以降は清和源氏や桓武平氏など皇別氏族の武家が武功を立てる際に氏神として大いに神威を発揮したことで武神「弓矢八幡」として崇敬を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒私は、これを、日本の第一次対外戦争と呼びたい。
 (第二次対外戦争が秀吉による第一次日蓮主義戦争、第三次対外戦争が島津斉彬コンセンサス信奉者達による第二次日蓮主義戦争、だ。)
 「大宰府の前面に築造された水城の築造は3層あり、放射性炭素年代測定により、最下層が西暦100年~300年頃、次の層は西暦300年~500年頃、最上層は西暦510年~730年頃となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C
ところ、最下層は邪馬台国によるもの、次の層は、プロト・ヤマト王権による第一次対外戦争の前半期のもの、最上層はその後半期のもの・・この後半期は663年の白村江の戦いでの敗戦でもって終わる・・と見たらどうか。(太田)

 しかし、やがて高句麗の南進の食い止めには成功しつつも高句麗を壊滅させることまでは(支那の南朝の不甲斐なさもあり、)不可能だと悟った応神天皇らは、対高句麗戦が膠着・小康状態になった時点で、後は、基本的に百済と新羅に任せ、日本列島における連合統一国家樹立を図ることとした、と、考えたいのだ。
 (ちなみに、新羅は独立を保ち続けることになるし、百済は、高句麗と新羅に領土を削られ続けるものの、滅亡の時期を約300年後の660年まで後にずらすことに成功する。)
 そういうわけで、応神天皇は、軍勢をまず九州に引き揚げ、その地で、ヤマト王権連合国家樹立宣言を発すると同時に、自分の隷下の軍勢を東方へ進撃させ、その途上でまつろわぬ諸国を次々と屈服させ、出発地の近畿に戻った、と、想像してみたいのだ。
 (プロイセン王国<は、>・・・1866年、普墺戦争ではオーストリアを破って北ドイツ連邦を結成し、・・・1870年には普仏戦争でナポレオン3世率いるフランス帝国を破ってパリへ入城し、1871年1月18日に、ヴェルサイユ宮殿でドイツ諸侯に推戴される形でプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝となり、ここにドイツ帝国が成立した。・・・
 なお戴冠の「1月18日」は、当時から170年前のプロイセン王国成立(1701年)と同日である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E5%B8%9D%E5%9B%BD
という、勝利した大戦争の後に統一国家を樹立させた、ないしは、統一国家を樹立するために戦争を行った、史実を、ヤマト王権成立のイメージ形成に私が大いに用いたことを、ここで明かしておこう。
 なお、「魏が・・・卑弥呼<に>・・・「親魏倭王の金印」、そして「銅鏡100枚」<を>・・・下賜した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1
ことにヒントを得て、ヤマト王権の歴代首長達が、銅鏡に応神天皇が考案したと想像される三角縁神獣鏡(上掲)(さんかくぶちしんじゅうきょう)の基本的デザインを彫り込んだもの鋳造し、それを、ヤマト王権連合国への加盟を肯んじた国の首長に与えた・・その後はどちらかの代替わりごとに与えることとした・・のではなかろうか。)
 付言すれば、「景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣であ<り、>紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる・・・武内宿禰(・・・たけうちのすくね・・・)」については、「気比神宮(福井県敦賀市、越前国一宮)、宇倍神社(鳥取県鳥取市、因幡国一宮)、高良大社(福岡県久留米市、筑後国一宮)、高麗神社(埼玉県日高市、武蔵国高麗郡)、を始めとする各地の神社で祀られてい<て、>特に高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されて<おり、>その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる」こと、と、「『三国史記』には、倭王の命を受けて新羅を攻め、[新羅の第10代の王<の>]奈解尼師今王の子で舒弗邯<である>〈新羅の軍人・高級官僚<で>第10代の王奈解尼師今[(なかいにしきん。~230年)]の長子<の>〉昔于老〈(せきうろう。?~253年?)〉を処刑した于道朱君(うとうしゅくん)という倭人の将軍が登場するが、復元された上代日本語における「ウチスクネ(内宿禰)」の発音に対応できること、暦年研究から奈解尼師今の後継である助賁王や沾解王の在位年代が神功皇后の活動年代と同時代と見られることなどから、「于道朱君」はすなわち日本書紀の武内宿禰であり、武内宿禰は実在した人物であるとする説が唱えられている」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E8%A7%A3%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A []内
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%94%E4%BA%8E%E8%80%81 〈〉内
から、私は、武内宿禰は、卑弥呼の男性補佐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC
に相当する人物で、当時の邪馬台国の女王から命ぜられて、北九州連合軍を軍司令官として率い、北九州までやってきた応神天皇が邪馬台国の女王から対高句麗戦の総司令官を引き継いでからも、そして、応神天皇が「東征」してヤマトに戻ってからも、対高句麗軍司令官の座にあり続けた人物ではないか、と、見るに至っている。
 (王奈解尼師今や昔于老の生存年代は、新羅の国史の起源を遡らせる形で偽造するために、それぞれ1世紀半超、遡らせた、と、見れば、私の説と平仄があう。)
 以上のように考えることで、例えば、以下のような説明が可能となる。↓

 「宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社<で、>・・・全国最多の約44,000社ある八幡宮の総本社とされる。通称として宇佐八幡とも呼ばれ、石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)と共に日本三大八幡宮の一つで、古代においては伊勢神宮と共に二所宗廟として扱われた。・・・
 称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件でも知られる。・・・
 奈良時代の天平年間から平安時代まで、天皇の代替わりなど重要時には宇佐使(うさづかい)という勅使が朝廷から派遣されていた。・・・
 延享元年(1744年)に復活し、大正時代から皇室から侍従職あるいは掌典職などの勅使が10年おきに派遣される勅使祭となって現在も続いている。

⇒伊勢神宮は天皇家の神棚(神社)、宇佐神宮は日本国(ヤマト王権)の神棚(神社)。(太田)

 主祭神は以下の3柱。一之御殿:八幡大神 (はちまんおおかみ) – 誉田別尊(応神天皇)とする。二之御殿:比売大神 (ひめのおおかみ) – 宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)とする。三之御殿:神功皇后 (じんぐうこうごう)・・・

⇒ヤマト王権樹立の産婆役を果たしたのが神功皇后、そのヤマト王権最初の首長は応神天皇。(太田)

 宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮御託宣集』には、筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあり、筑前国穂波郡(現在の福岡県飯塚市)の大分八幡宮が宇佐神宮の本宮であり、筥崎宮の元宮であるとある。・・・
。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

⇒ヤマト王権樹立宣言は筑紫国で行われ、豊国から軍勢の東方進撃が瀬戸内海海路を用いて行われた、ということが透けて見えてくる。(太田)

 「八幡神は<、>応神天皇(誉田別命)の神霊で<あり、>・・・清和源氏・桓武平氏等の全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E

⇒日本国(ヤマト王権)は戦争・・対熊襲・対高句麗・対日本統一反対諸国の連続する3戦争・・のおかげで建国される運びになった。(太田)

 「神功皇后<は、>・・・母方先祖に、新羅王子として播磨国に入った天日槍<、及び、この天日槍の>[3世の子孫、または、新羅人ないしは新羅の神の天之日矛(アメノヒボコ)の4世の子孫である]但馬国の清彦<がいる>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E6%B8%85%E5%BD%A6 と、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%92%E3%83%9C%E3%82%B3 ([]内)

⇒神功皇后(当時の・・最後の?・・邪馬台国女王)は、朝鮮半島との関係が深かった。(太田)

 「神功皇后<は、>・・・三韓征伐<の数年前に、>・・・<南九州の>熊襲征伐<を行った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E

⇒神功皇后(邪馬台国女王)らは、自らが渡洋するにあたって、熊襲の壊滅は応神天皇に任せ、取り敢えず、熊襲の前進拠点群を無害化した。(太田)


[日本神話]

 高句麗は建国神話を持っていた。↓

 「414年に建立された『好太王碑』に、高句麗の「始祖の鄒牟王<(=東明聖王=東明王=朱蒙)>を顧みれば、<この我らの>聖なる始祖王は<、>北夫余・・・<において、父を>天帝・・・、母を河伯の女郎として<、>卵から生まれた」という一文が刻まれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%98%8E%E8%81%96%E7%8E%8B

⇒但し、高句麗の建国神話においては、世界の誕生や支那東北/朝鮮半島の誕生は捨象されていた。(太田)

 神功皇后(最後の邪馬台国女王?)や応神天皇(ヤマト王権初代首長)は、そんな高句麗に対抗するため、日本も独自の、しかも、より壮大な、天皇家起源神話/建国神話、を創り上げた方が良いと考え、後に、古事記や日本書紀に記されることとなる、神話の原型を作った。
 留意されたのは、一、他国の建国神話を流用せず、日本列島各地の神話や伝承を収集した上で取捨選択し、換骨奪胎し、綜合するよう努めること、二、世界の誕生と日本列島の誕生を入れ込むこと、及び、三、日本国家誕生の時期・・最終的に紀元前660年にした・・を高句麗国家誕生の時期・・「『三国史記』の伝説によれば、初代王の朱蒙(東明聖王)が紀元前37年に高句麗を建てたとされるが、文献史学的にも考古学的にも高句麗の登場はこれよりもやや古い・・・紀元前1世紀頃・・・と見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
・・よりもはるかに古く設定することだった。
 それに加えて、日本の特殊事情を反映させるべく、
・闇(天岩戸)(注12)の前の天照大神:縄文人(日本列島旧人)の日本の象徴
・日本列島に一時的に闇をもたらしたところの(天照大神との誓約(うけひ)後の)スサノオ(素戔嗚尊):弥生人(私の言う弥生的縄文人)(の到来)の象徴
・闇(天岩戸)の後の天照大神:私の言う、弥生的縄文人と縄文人、からなる現在(当時)の(日本列島新人の)日本の象徴(注13)
を、まず創作し、その上で、その前史、後史の諸物語を作って行ったのではなかろうか。
 (注12)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8
 (注13)スサノオ<の>・・・誓約上の「妻」<が>天照大神<。>
     〈その結果としてのスサノオの方の子たる〉男神<の>正勝吾勝勝速日天之忍    穂耳命<が、>[神武天皇の高祖父<の>]正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命[アメノ
    オシミミ] 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%82%B7%E3%83%9B%E3%83%9F%E3%83%9F []内
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%AA%93%E7%B4%84 〈〉内

 応神天皇らは、その上で、この後史の中で、天皇家が天岩戸後天照大神の子孫であること、や、この天皇家を首長家とする日本国が建国されたこと、を、説明することにした。
 (天照大神とスサノオは姉弟だったが、いずれにせよ、婚姻や野合ではなく、誓約(うけひ)<(注14)>で子孫を作ったとした点や、アメノオシミミがスサノオの方の子であるとした点、は絶妙。)

 (注14)「古代日本で行われた占いである。宇気比、誓約、祈、誓などと書く。
 あらかじめ「神意がAにあればA’が起こる、神意がBにあれば、B’が起こる」と宣言を行い、現実にA’とB’のどちらが起こるかによって、神意がいずれにあるかを判断する。記紀における神託が神がかりや夢のような一方通行的なものである場合に、人間の側が積極的に神意をはかるために、自ら現象に対する判断基準を設定した上で、望ましい兆表が出るよう祈りを行う「呪詛的行為」であると言われる。・・・
 天照大神は素戔嗚尊の十握剣(十拳劔)から女神3柱(宗像三神)を、素戔嗚尊は天照大神の八尺瓊之五百箇御統(やさかにのいほつのみすまる)から男神5柱を生んだ。(『日本書紀』巻1・『古事記』上巻)
 うけいは結果的に素戔嗚尊の勝利となるが、その理由付けや事前に判断基準の合意があったかは『古事記』・『日本書紀』本文および「一書」によって差異がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%86%E3%81%91%E3%81%84

 以上のような創作の原点が垣間見えるのが、上出の宇佐神宮の祭神の魔訶不思議さだ。↓

 「神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。
 八幡社では比売大神<(ひめがみ)>を祀る。総本宮である宇佐神宮(大分県宇佐市)や宇佐から勧請した石清水八幡宮(京都府八幡市)などでは、比売大神として>宗像三女神を祭神として祀る。しかし、八幡社の比売大神の正体については諸説があり地域によっても異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%A3%B2%E7%A5%9E
 これら八幡社の総元締めである「宇佐神宮<の>・・・主神は、一之御殿に祀られている八幡大神の応神天皇であるが、ただ実際に宇佐神宮の本殿で主神の位置である中央に配置されているのは比売大神であり、なぜそうなっているのかは謎とされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%A5%9E%E5%AE%AE

⇒この比売大神こそ、天照大神の原型である、というのが私の仮説だ。(太田)

 そして、最後にやったのは、応神天皇を過去に投影する形で神武天皇を創作することだった。↓

 「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命<=神武天皇>)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向(現・宮崎神宮)で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。彼らは、美々津を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現・宇佐市)に着く。・・・彼らはそこから移動して、筑紫国の岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。・・・

⇒実際には、応神天皇による東征は、筑紫・・邪馬台国所在地?・・から出発し、宇佐(宇沙)に向かい、そこから水軍で瀬戸内海を通って行われた(注15)、と、私は見ているのだが、日向国から出発したことにしたため、豊国と筑紫国の行程の順序を逆にせざるをえなくなった、と、私は想像している。

 (注15)(宇佐神宮のある)現在の宇佐市は国東半島の北の付け根にあるところ、その東に豊後高田市が隣接し、更にその東の国東半島先端に国東市が隣接しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E4%BD%90%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%9D%B1%E5%B8%82
この国東市の竹田津湊は、現在、「中国地方から九州中央~南部へ抜ける際の経由地として、重要な交通の拠点となって<おり、>・・・大分県というと、福岡の向こう側というイメージで、本州からだと遠い印象があ<るが>、国東半島は、瀬戸内海に突き出した地形となっていて、徳山港からフェリーでわずか2時間の距離にある」
https://www.arinoki.com/travel/kunisaki/

 その背景として、応神天皇は、朝鮮半島出兵前後に、北九州において、中/南九州の熊襲を攻略した一環として、この攻略を手助けした反熊襲勢力から支援を受けたり妃(達)を娶ったりすることを通じ、彼らと緊密な関係を構築し、東征にあたっても、日向国の勢力から、北九州の邪馬台国系の勢力からのものに勝るとも劣らない、兵力面や平坦面での支援を得た、ということがあったのではないか、とも。
 そういった事情の存在を示唆しているのが、(既述した)応神天皇の「父」の仲哀天皇と「母」の神功皇后共同による九州の熊襲征伐であるし、仲哀天皇の父の日本武尊による九州のクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%88%E3%82%BF%E3%82%B1%E3%83%AB
であり、そのまた父の景行天皇による、「九州に親征して<の>熊襲・土蜘蛛・・・征伐<や、>・・・、熊襲・・・再叛<時の>碓尊(16歳)を遣わして<の>・・・<熊襲>討<伐>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E8%A1%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87
といった、天皇家と南九州との密接な関係を示唆する挿話群だ。(太田)

 浪速国の白肩津に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。・・・
 それで南の方へ回り込んだが、・・・八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。・・・
 その後、登美毘古(ナガスネビコ)と戦った。・・・
 こうして・・・多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81

⇒これを、敵地占領ではなく、応神天皇の、本拠(下述)への帰還、と、私は見るわけだ。
 付言すれば、『古事記』で天下統一を果たしたとされ、また、日本書紀では「戸口を調査して初めて課役を課した。この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている<(注16)>・・・崇神天皇<は、>・・・考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定され・・・、近年発掘の進む纏向<(むきまく)>遺跡との関係からその存在に注目が高まっている天皇の一人である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A5%9E%E5%A4%A9%E7%9A%87
ところ、彼は、私見では、纒向遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BA%92%E5%90%91%E9%81%BA%E8%B7%A1
にかつて存在した集落を本拠としてその周辺地域を領域とする小国を創建したところの、応神天皇の祖先たる王なのではなかろうか。

 (注16)神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」、但し、始馭天下之天皇、だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%97%E3%82%89%E3%81%99%E3%81%99%E3%82%81%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%93%E3%81%A8

 なお、「『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹迹日百襲姫命<(やまとととひももそひめのみこと)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD
「の地位・巫女的性格から、『魏志』倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説・・・がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD

が、この説は恐らく正しいのであって、この国も、創建当時は、邪馬台国同様、祭祀女王と権力王からなる国であったことが示唆されている。(太田)


[日向国・日本建国・第二次日蓮主義戦争]

 日本神話の「創作」を通じて、日向国は、ヤマト王権樹立に大きな役割を果たしたとされたわけだが、その日向国は、実は島津氏のこの姓の発祥の地でもある。

 島津荘(しまづのしょう)<という、>「万寿年間(1024年〜28年)に大宰大監だった平季基とその弟・平良宗が日向国諸県郡にあった島津院を中心に開発し、関白・藤原頼通に寄進して成立した<荘園から話は始まる>。・・・
 <この荘園は、やがて、>薩摩・大隅・日向の半分以上を占める日本でも最大級と言われる規模になっていった。・・・
 平安末期、島津荘の領主は藤原摂関家から平家へと移っていった。・・・
 元暦2年(1185年)6月、源頼朝によって没収された島津荘の領主<(本家)>は藤原摂関家筆頭の近衛家となり、・・・元暦2年(1185年)8月17日付で源頼朝より、摂関家の家司である惟宗忠久(これむねのただひさ)が島津荘の下司職に任命された。忠久は諸国で守護や郡地頭職に任命されているが、その中で最も広大な島津荘を本貫にしようと「島津」姓を名乗った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E8%8D%98
 「季基は島津荘寄進前から、私貿易を行い、唐物を道長に送っている。季基は平氏系図に名前はないが、高棟王の子孫である平季信と世代と年齢、名前から極めて近親者であると想像され、藤原氏と接近できたのは、宮歌人として知られる季信の娘出羽弁<(注17)>の仲介があったといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AD%A3%E5%9F%BA

 (注17)一条天皇の中宮藤原彰子(上東門院)、その妹で後一条天皇の中宮藤原威子、さらにその所生の章子内親王に仕えた。長元6年(1033年)には<藤原道長の正室の>源倫子の70歳の祝賀で屏風歌を進詠したほか、多くの歌合で活躍した。
 『後拾遺和歌集』以後の勅撰和歌集に入集。家集に「出羽弁集」がある。
 なお『栄花物語』続編の巻31から巻37まではこの出羽弁の作という説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%BC%81
 「栄花物語<は、>・・・藤原道長の時代を扱うため道長の叙述が特に詳しくなっているが、いわゆる道長物語ではなく、藤原氏の外戚政治の成功など摂関政治の本質が語られている点に特徴があるとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%8A%B1%E7%89%A9%E8%AA%9E

⇒「中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)に当たる・・・天児屋命(あめのこやねのみこと)<は、>・・・『古事記』には岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大御神が岩戸を少し開いたときに布刀玉命とともに鏡を差し出した。天孫降臨[・・高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降あまくだったこと・・]の際邇邇芸命に随伴し、中臣連の祖となったとある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%85%90%E5%B1%8B%E5%91%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8 ([]内)
ことからも分かるように、(神武東征
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81
の時にこそ登場しないが、)日向国とは縁があり、その日向国の発展が遅れていることを心配し、藤原頼道から出羽弁を通じて平季基に日向国開発を条件に大宰大監に発令して送り出したのではなかろうか。
 (蛇足ながら、島津氏よりも早くから島津荘と関わりを持ち、後に、島津氏と同じく戦国大名になったのが肝付氏だ。
 「肝付氏<とは、>・・・本姓は伴<(大伴)>氏であり、平安時代に伴兼行(伴善男の玄孫、善男 → 中庸 → 仲兼 → 兼遠 → 兼行)が薩摩掾に任命されて下向した。兼行の子に行貞がおり、その子兼貞(妻は島津荘開墾者・大宰大監平季基の娘、又は季基の子・兼輔の娘)は大隅国肝属郡の弁済使となり、その子の兼俊の代に郡名を取って肝付(旧字体:肝属)を名乗った。1036年(長元9年)には肝付氏が居住。・・・
 南北朝時代には南朝方に属し、北朝方と戦った。南北朝の争乱が一段落した後は島津氏に服属していたが、戦国時代に入ると領土問題から島津氏と対立し、日向の伊東氏と手を結んで島津氏と争<った>。・・・
 <しかし、>天正2年(1574年)に島津氏に臣従して、家名こそ存続することはできたが、天正8年12月(1581年1月)には領地も没収されて、島津氏の一家臣となる。これにより、大名としての肝付氏は滅亡した。」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%9D%E4%BB%98%E6%B0%8F )(太田)

 「島津忠久・・・は鎌倉時代以前は京都の公家を警護する武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。
 出身である惟宗家は近衛家の家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。
 惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白・藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。
 また、基実の子である基通については、婚約者であった源<(木曾)>義高を殺害された直後の源頼朝の長女大姫を基通に嫁がせる構想があったことが知られており、最終的には実現しなかったものの、この構想に関して忠久の関与の可能性が指摘されている。・・・
 忠久<は、>・・・文治元年(1185年)8月17日付で、源頼朝の推挙により<その直前に>摂関家領<に復帰していた>島津荘<の>下司職に任命される。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。その後まもなく島津荘の惣地頭に任じられている。・・・
 建久8年(1197年)12月、大隅国・薩摩国の守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。・・・
 頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として連座し、大隅、薩摩、日向の守護職を没収された・・・
 建暦3年(1213年)・・・7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E4%B9%85

⇒この島津氏が、第二次日蓮主義戦争の推進母体となるわけだ。

 となれば、日向国発で、日本建国(ヤマト王権成立)、と、第二次日蓮主義戦争の本格的開始、がなされた、と、言っても過言ではあるまい。(太田)


[中臣氏/藤原氏]

 昨9月26日に気付いたばかりの仮説なのだが、その一部が後に藤原氏となったところの、「中臣氏 (なかとみうじ)<は、>日本古代の豪族<であり、>大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%87%A3%E6%B0%8F-107771 ※
という文章を目にした時、藤波家が伊勢神宮の神功祭主、内宮禰宜、外宮神官を世襲した家系・・それぞれ、大中臣氏、荒木田氏、渡会氏・・である中臣氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B3%A2%E5%AE%B6
は、邪馬台国の王家(「祭祀王」たる女王、と、「政治王」たる男性、からなる)だったのではないかと突然閃いた。
 つまり、卑弥呼の後継たる邪馬台国の女王たる「神功皇后」が、ヤマト王家の「応神天皇」にヤマト王権樹立を促した、いわば、ヤマト王権の産婆役を果たしたところ、そんな「神功皇后」を、ヤマト王権は日本神話の中で天照大神に投影、転写した上で奉ったのではないか、だからこそ、邪馬台国の王家の人々が天照大神を祀る伊勢神宮を管掌することになり、ヤマト王権の歴代天皇は、天照大神を祖先神としつつも、伊勢神宮に斎宮を送ることはあっても、遠慮があって、親拝することが余りなかったのではないか、と。
 こう考えれば、どうして、中臣氏が、当初から、「天皇側近の神官として神託を伝えるという<重要な(太田)>職掌に」あったらしい(※)、というのに、大伴、物部、蘇我、といったところの、ヤマト王権樹立より前からヤマト王家と従属的連合関係ないし従属関係にあったと私が考えている豪族達の方が当初は羽振りが良さそうだった(典拠省略)理由が分かるし、「欽明朝では鎌子(後の鎌子とは別人),敏達・用明朝では勝海(かつみ)が大連の物部氏とともに仏教受容に反対し,勝海は大臣の蘇我氏らに討たれた」(※)りしたのも、物部氏は蘇我氏と権力争いしただけの可能性があるけれど、中臣氏の場合はもっぱら広義の宗教的理由でもって説明がつきそうだし、いずれにせよ、「鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族」になっていた(※)ことなど不思議でもなんでもないことになる。
 そして、中臣改め藤原鎌足を始祖とする藤原氏が、朝廷で天皇家に次ぐナンバー2の座を先の大戦の終戦時まで維持し続けることができた理由も、その間、天皇家と藤原氏の両者がほぼ一体化しつつも微妙な距離感を常に維持してきた理由もまた、説明できそうだ。
 そして、天皇家が、女性天皇は認めても、女系天皇は認めて来なかったのは、邪馬台国の国制を採用したものであって、藤原氏が女性当主すら認めてこなかったのは、ヤマト王家の国制を採用したものである、つまりは、両者がお近づきの印に国制を交換した、ということなのかもしれない、とも。

 更には、藤原氏が、日本の第一次対外戦争の時、「祭祀王」的役割から天皇家にその方向性を指し示し、また、「政治王」的役割から軍事においてその先頭に立った、のと同様に、平安構想や太平構想の策定に携わり、武家創出やの際にその一番手を務めたのではないか、とも。

 ここで、百済と新羅について復習しておこう。
 まず、百済についてだ。↓

 「百済は<支那>の歴史書『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも4世紀前半頃までには成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している。・・・
 韓国の学界では・・・百済の建国<を>・・・3世紀後半に置く説が現在・・・最も有力な説となっている。更に4世紀前半とする説もあるが、どちらの場合でも、中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られている。・・・
 <なお、>『三国史記』[・・高麗<の時の>・・・1143年執筆開始、1145年完成・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98 ]<の>「百済本紀」に記載される神話では初代王である温祚王が夫余の地から遷って建国した際、10人の家臣の助力を得たことから国号を十済とし、その後温祚王の兄の沸流に従っていた人々が温祚王の国に合流した際に、百姓が楽しみ従ったことから国号を百済と改めたという。朝鮮史研究者の井上秀雄は、『三国史記』の訳注にて、これを事実とは認めがたいとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

⇒百済と(後述するが)新羅の成立・・それぞれ、馬韓地域諸国と辰韓地域諸国の統一・・がこの時期だとすると、それだけでも、日本列島において、それより前に、これらの地域の諸国よりも統一するインセンティブなど乏しいとしか思えないにもかかわらず、諸国の統一がなされ、ヤマト王権が成立していたと見るのは、不自然極まりないだろう。(太田)

 「百済は北側で勢力を拡大する高句麗と武力衝突を繰り返した。371年、近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下、高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた。この頃から百済は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝し、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守として封建された。ほぼ同時期に倭国との通交も始まり、七支刀(七枝刀 ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたことが『日本書紀』に見える。
 この刀は現存しており、銘文の分析から369年(近肖古王治世第24年)に作成されたと考えられている。」(上掲)
 「山尾幸久<(注18)>は、裏面では百済王が東晋皇帝を奉じていることから、369年に東晋の朝廷工房で造られた原七支刀があり、百済が372年正月に東晋に朝貢して、同年6月には東晋から百済王に原七支刀が下賜されると、百済では同年にこれを模造して倭王に贈ったと解釈している。

 (注18)1935~2021年。「旧満洲撫順出身。・・・立命館大学・・・文学部日本史学専攻卒、同大修士、助手、・・・名誉教授。・・・専門は日本古代史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E5%B9%B8%E4%B9%85

 また、当時の東晋では、道教が流行しており、七支刀の形態と、その百兵を避けることができるとする呪術力の思想があったとする。浜田耕策<(注19)>は百済王が原七支刀を複製して、刀を倭王に贈るという外交は、当時、百済が高句麗と軍事対立にあったため、まず東晋と冊封関係を結び、次いで倭国と友好関係を構築するためだったとしている。・・・

 (注19)1949年~。北大文(史学)卒、学習院大博士課程単位取得満期退学、九大文教授、学習院大博士(文学)、九大名誉教授。「専門は朝鮮古代史・渤海史。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E8%80%95%E7%AD%96

⇒要するに、百済は江南文化系の新羅と日本のうち、一貫して連携して高句麗に歯向かっていたと思われるのは日本であり、新羅とはそうはいかなったということだ。
 だから、当然、非江南文化系だが、江南文化の継受に努めていたと私が見ている百済は、そんな日本が親近感を覚えている、支那の南朝の方に朝貢せざるをえないわけだ。(太田)

 「3世紀頃の日本を描写した資料である『魏志倭人伝』においても家畜としてのウマやウシがいなかったことを示唆させる記載がされている。・・・
 家畜としての日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)と考えられている。朝鮮半島勢力の協力の下(大和朝廷と親和的な百済など)、軍馬・家畜馬として導入した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC

⇒高句麗が純粋な騎馬遊牧民ではなかったこともあり、プロト・ヤマト王権ないしできたてのほやほやのヤマト王権統一国家による、泥縄式の騎馬部隊編成の試みは、実を結ぶところまではいかなかったであろうものの、しかも、ヤマト王権の支配層は弥生的縄文人だった・・でしかなかった・・ものの、ヤマト王権・百済連合軍・・時にはそれに新羅も加わった・・は、ほぼ騎馬部隊は百済のものだけで、相手を舐めてかかっていた(?)高句麗と初めのうちは五分の戦いができたのだろう。(太田)

 その後の成り行きは以下の通りだ。↓

 「<支那>が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に<支那>の南朝と通交していた。北魏は高句麗がより熱心に遣使していることに触れ、百済への支援は提供されなかった。・・・

⇒上述したことを踏まえれば、当たり前のことだ。(太田)

 蓋鹵王21年(475年)には高句麗の長寿王が自ら率いた大軍によって王都漢城を包囲され、敗勢が決定的となった。蓋鹵王は脱出を試みたが捕縛され殺害された。・・・
 479年、東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり、今一つは南方地域への拡大である。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った。
 権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土したことで名高い。熊津<(ゆうしん)>を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い。513年には伽耶地方の有力国伴跛から己汶、帯沙を奪い、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。

⇒ヤマト王権にとって、任那地域は朝鮮半島内の保護地域、伽耶地域はその緩衝地帯的な地域だったと思われるが、弥生的縄文人らしく、領域拡大とか影響圏拡大とかに殆ど思い入れがなかったのだろう。(太田)

 武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝の梁に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88

⇒百済は、シャカリキに自国の存続を図り、ヤマト王権もそのことによって、(領域等の面ではともかく、)大いに裨益したわけだ。(太田)

 梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%9F%93%E5%BE%81%E4%BC%90

 次に、新羅についてだ。↓

 「辰韓 (しんかん)<は、>古代朝鮮半島の南部に存在した韓族の名称。3世紀初めころの朝鮮半島の状態について最も古く,かつ詳細に記した《三国志》魏志の東夷列伝中の韓伝によると,当時半島南部には3種の韓族が分立し,南西部には馬韓の諸国が存在し,辰韓諸国は馬韓の東方にあって,北は濊貊(わいばく)と接していたという。さらに彼らはかつて秦・漢動乱の際,難を避けて亡命して来たもので,馬韓人がその東界の土地を与えて自立させたことになっているが,もちろん伝聞の域を出ない。またその言語も馬韓とは相違し,弁辰韓(弁韓)と同一であったとされている。しかし韓伝全体の叙述からみると,言語の相違とか類似については学問的な厳密な立場で解釈するのは疑問である。辰韓が古代三韓の中で大きな史的意義をもつのは,おそらく辰韓諸国<(注20)>の一つ,〈斯盧(しろ)国〉が中核になって後年の新羅に発展するからである。なお文献によっては<前述したように、>辰韓を秦韓と表記する場合もある。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BE%B0%E9%9F%93-81436

 (注20)「もともと6国であったが、後に分かれて12国になった。そのうちの斯蘆が後の新羅になった。辰韓人は穀物と稲を育て、養蚕を生業としていた。『後漢書』弁辰伝や『三国志』魏書弁辰伝によると、馬韓人とは言語が異なっていたが、弁韓人とは互いに雑居し、風俗や言語は似通っていたという。ゆえに他国や他民族からは弁韓、辰韓をまとめて『弁辰』や同一発音の故に『秦韓』とも呼ばれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E9%9F%93

 「考古学的には、遼寧省の青銅器が全羅道で発見されており燕の青銅器文化の影響下にあったことが窺える。したがって、辰国は実在したとしても、衛氏朝鮮の衛星国家であるか漢人の文化的影響下に形成された民族といえる。
 『史記』『三国志』によると、箕子朝鮮の最後の王である準王は、衛満に王権を簒奪されると、南走して辰国へと逃亡し、「韓王」として自立した。
 白鳥庫吉は辰国は辰韓のことであり、辰王は辰韓王であるとした。三上次男は辰王は2世紀から3世紀頃に朝鮮半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であったと解釈している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%9B%BD
 「新羅の前身は朝鮮半島南東部にあった辰韓十二国のうちの1つ、斯蘆国である。文献史料からは正確な建国の時期については明確にわからない。・・・
 『三国史記』新羅本紀は、辰韓の斯蘆国の時代から一貫した新羅の歴史として記述されている。しかしながら、史実として確実性が高いのは4世紀の第17代奈勿王<(奈勿尼師今王。在位:356年~402年)(後出)>以降であり、それ以前の個々の記事は伝説的な要素が強く、史実性は低いと考えられている。・・・
 <そもそも、支那>史料では、高句麗、百済、新羅の順に登場する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85

⇒その前身たる(辰韓十二国のうちの1つである)斯蘆国の歴史はもっと古いことになるが、(辰韓十二国を統一した)新羅の建国(統一)時期は、4世紀前半と目される百済の建国よりも後の4世紀中頃以降だろう。
 そして、ヤマト王権樹立は、更にその後だろう、と、私は見ている次第だ。
 もう一度言うが、弁韓と辰韓と日本列島は、江南文化系の文化を共有しており、馬韓はこの文化に強い影響を受けた文化を有していたと私は見ているところ、高句麗等の脅威に直面したからと考えるのが自然だが、その第一線に位置する弁韓で統一国家百済が生まれ、辰韓で統一国家新羅が生まれたというのに、この両地域の「後方」に位置した弁韓ではついに統一国家が生まれなかったのだから、それよりも更に「後方」の日本列島で統一国家が生まれたのは、少なくとも、百済、新羅よりも後だと考えざるを得ない、ということなのだ。(太田)

 ところで、新羅の対日姿勢は定まらないまま推移することになる。↓

 「奈勿尼師今(なもつにしきん、生年不詳 – 402年)は、新羅の第17代王・・・であり、姓は金氏。・・・
 364年甲子4月、日本の侵入を受け、とても敵わないと恐れたが、数千体の草人形に服を着せて兵器を持たせて吐含山の麓に並べ、一方で勇士1000人を斧峴(慶州市南東部?)の東に伏兵としておき、進撃してきた日本兵に不意討ちをかけて敗走させた。

⇒ヤマト王権の攻撃を受けて斯蘆国が辰韓を統一したのかもしれないと誤解させかねない「史実」だが、私は、もちろんそうではなく、対高句麗共同対処呼びかけに返答がなかったため、神功皇后(邪馬台国女王)が(既に成立していた)新羅に威力偵察をかけさせ、それに新羅が慌てふためいた、といったことがあったのではないか、と、見ている次第だ。(太田)

 366年丙寅、368年戊辰、<日本列島諸勢力と連携していた>百済の近肖古王からの使者を受け入れる(羅済同盟)<(注21)>。・・・

⇒要するに、新羅は、少なくとも一度は対高句麗共同対処を飲んだことがある、ということだったのではないか。(太田)

 377年丁丑、高句麗に随伴して前秦に朝貢をしており、382年壬午には前秦に対して衛頭を派遣し、新羅単独で朝貢を行った。『太平御覧』が引用する『秦書』(逸書)には、この時「新羅王楼寒(ろうかん、ヌハン)が国号を斯盧から新羅に改めたことを報告した」とある。

⇒しかし、やがて、新羅は、高句麗が、「376年<末に>・・・五胡十六国時代で唯一となる華北統一を達成した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%A7%A6
ばかりの氐族の前秦(上掲)に朝貢し良好な関係を築いたぞ、との高句麗からの「脅迫」的情報提供に恐れ戦き、高句麗に尻尾をふって百済等を裏切った、ということなのだろう。(太田)

 『好太王碑文』によれば、新羅は高句麗の属国であったが、391年辛卯、日本が海を渡って大量の兵を送り新羅、百済、加羅<(伽耶)>を破り服属させたとする。さらに『三国遺事』には、391年辛卯、新羅は日本への臣従の証として第3王子の未斯欣を人質として日本へ送ったことが記されている。

⇒応神天皇率いる、本州諸王国連合軍が来襲し、新羅を無理やり高句麗から引きはがした、といったことだったのだろう。(太田)

 ところが、その翌年の392年壬辰正月、高句麗からの使者が来た。新羅は高句麗の国力が盛んなことを恐れ、王族である伊飡(2等官)の金大西知の子の実聖(後の実聖尼師今)を高句麗へ人質として送り、高句麗へ再び臣従を誓った。そのため、今度は日本が新羅の非を責めて、393年癸巳5月、再び日本が新羅へ侵攻し、首都金城(慶州市)を包囲した。新羅は籠城戦を余儀なくされたが、日本兵が退却しようとしたところを騎兵200人を送って退路を塞ぎ、歩兵1000人を送って独山(慶尚北道慶州市)付近で挟撃させ、日本軍を大敗させた。399年己亥にも日本からの侵攻を受ける。日本軍が国境に満ち溢れ城池を潰破し民を奴客としたため高句麗に救援を求めた。翌400年庚子になると金城が倭軍に包囲されるが、救援の高句麗軍が迫ると倭軍は任那加羅<(伽耶)>に撤退し<、新羅は>窮地を脱した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%88%E5%8B%BF%E5%B0%BC%E5%B8%AB%E4%BB%8A

 (注21):
〇第1次羅済同盟(366年 – 4世紀末)
 366年、百済の近肖古王と新羅の奈勿尼師今が、高句麗に対抗するため同盟を結んだ。371年には、近肖古王が平壌で高句麗の故国原王を戦死させるなどの戦果を挙げた。しかし、4世紀末には、新羅が高句麗に接近し同盟は壊れた。
〇第2次羅済同盟(433年 – 553年)
 433年に、百済の毗有王と新羅の訥祇麻立干<(とつぎまりつかん)>が、高句麗の南進政策に脅威を感じ、軍事的攻守同盟を結んだ。475年に高句麗の長寿王の攻撃を受けて、百済の首都漢城が陥落し蓋鹵王も戦死し、いったん百済は滅んだとされる。しかし、文周王は新羅の助けにより熊津に遷都しており、同盟は以後も続き、493年、百済の東城王は新羅と婚姻関係を結んだ。551年、百済の聖王は、百済、新羅、伽耶の連合軍により、高句麗から漢江流域を取り戻した。しかし、553年に新羅の真興王は百済から漢江流域を奪い、同盟関係は壊れた。554年には、聖王が新羅との戦いで戦死し、以後、百済の滅亡まで両国は敵対関係を続けた。」(上掲)

⇒応神天皇は、新羅の向背が定かならない以上、高句麗以南の諸勢力を結集できず、高句麗は撲滅できないけれど、百済と弁韓地域と日本列島が共同対処態勢を維持できれば新羅は高句麗による吸収を免れ、ひいては高句麗の抑止はできそうだ、との判断の下、邪馬台国の有志連合軍の大部分を含む、日本列島連合軍の大部分、と共に北九州へと撤収し、ヤマト王権樹立を果し、この抑止体制をより盤石なものにしようと考え、その考えを実行に移した、と、私は見ているわけだ。(太田)

4 やらせ江戸時代史観(Staged Edo Period History Theory)

(1)太平構想の策定

  ア 始めに

 1600年の関ケ原の戦いの後、「秀吉<が>嫡男秀頼の成長まで他の摂関任官を許さず、秀吉没後暫くの間まで空位が続<いていた>・・・関白<に、家康が>・・・九条兼孝<を就かせ>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
1603年にその家康が自身を征夷大将軍に任ぜさせ、次いで1605年に秀忠への将軍職の「譲位」を認めさせたこと等によって徳川幕府の永続性を担保し、更に、1615年に豊臣家を滅ぼし、おまけに1620年に秀忠の娘の和子を入内させ(後述)、徳川本家は我が世の春を迎えたところ、その後の1623年には(近衛家の差し金だと思われる)鷹司孝子の家光への輿入れが決まっている(後述)ことを踏まえ、その間の1621~1622年頃ではないかと私は想像しているのだが、近衛家/島津氏、は、両者の首脳陣、具体的には、近衛信尋(1599~1649年)/近衛前子(中和門院。1575~1630年)母子、と、島津家久(1576~1638年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%81%92
が、密かに、第一次日蓮主義戦争に係る総括と反省を行った上で、慎重に熟慮を重ね、鳩首協議の上、将来における第二次日蓮主義戦争実施を念頭に、徳川本家を利用し倒すことを軸とする、江戸時代史の大まかな流れをあらかじめ決めるための構想・・太平構想と名付けることとする・・を策定した、と、私は考えるに至っている。

  イ 策定者達

 話を島津氏から始めよう。
 島津家久だが、「慶長の役では慶長3年(1598年)、父・義弘に従って8,000の寡兵で明軍数万を破る猛勇を見せている(泗川の戦い)。 ・・・
 慶長4年(1599年)・・・2月20日には義久より・・・正式に島津本宗家の家督を継いだ。
 <同年>3月9日、家老・伊集院忠棟<(いじゅういんただむね)>(幸侃)を京都・伏見の島津邸で自らの手で斬殺した。朝鮮在陣中に石田三成と忠棟が主導した島津家支配体制への介入、あるいは当主権の侵害を、忠恒は家督相続と同時に排除する決断をしたのだろう。・・・
 慶長14年(1609年)、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し、占領して付庸国とした<。>また、明とも貿易を執り行<った。>・・・
 慶長18年(1613年)、奄美群島を琉球に割譲させ、代官や奉行所などを置き、薩摩藩の直轄地とした。」(上掲)
という彼の歩みからすると、信長流日蓮主義であったが故に反秀吉流日蓮主義の立場を取っていた近衛家や島津氏(家久の父の島津義弘(注22)と舅の島津義久(注23))や、近衛家/島津氏の意を受けてやはり反秀吉流日蓮主義の立場を取っていた石田三成(注◎)、とは違って、彼は、一貫して秀吉流日蓮主義者であり続けたように見え、だからこそ、家康/秀忠や諸大名とは違って、大名として、唯一、日蓮主義戦争を、明の冊封国である琉球侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E3%81%AE%E6%9C%9D%E8%B2%A2%E3%81%A8%E5%86%8A%E5%B0%81%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
の形で継続した、という見方ができよう。

 (注22)島津義弘(1535~1619年)は、「天正20年(1592年)からの文禄の役、慶長2年(1597年)からの慶長の役のいずれも朝鮮へ渡海して参戦している。
 文禄の役では四番隊に所属し1万人の軍役を命ぜられたが、旧態依然とした国元の体制や梅北一揆により、豊臣体制下では生存条件とも成る軍役動員がはかどらなかった。
 義弘は軍役を果たすため、大隅国栗野の居城を23騎で出立し、肥前国名護屋に期日までに着到したが、国許の義久らから送られてくるはずの軍勢・軍船が延引した。そのため、義弘は書状に「龍伯様のおんため、御家のおんためと存し、身命を捨てて名護屋へ予定通り参ったのに、船が延引したため、日本一の大遅陣となってしまい、自他の面目を失ってしまった……無念千万である」と書くほど、島津の軍勢は遅陣となった。

⇒恩義のある石田三成(後述)の示唆を受け、義久と義弘が芝居をしながらサボタージュをしたというのが私の見方だ。(コラム#省略)

 その後、島津の軍勢は四番隊を率いる毛利吉成の後を追って江原道に展開した。また、和平交渉中の文禄2年(1593年)9月、朝鮮滞陣中に嫡男の久保を病気で失っている。
 慶長の役では慶長2年(1597年)7月、藤堂高虎らの水軍と連携して朝鮮水軍を挟み撃ちにし、敵将・元均を討ち取った(漆川梁海戦)。8月には南原城の戦いに参加して諸将との全州会議に参加した後、忠清道の扶余まで一旦北上してから井邑経由で全羅道の海南まで南下した。その後、10月末より泗川の守備についた。
 慶長3年(1598年)9月からの泗川の戦いでは、董一元率いる明・朝鮮の大軍(島津報告20万人、『宣祖実録』十月十二日条 中路明軍2万6,800人及び朝鮮軍2,215人の計2万9,015人)を7,000人の寡兵で打ち破り、島津家文書『征韓録』では敵兵3万8,717人を討ち取った記載がある。これは朝鮮側史料の参戦数と照らし合わせれば、夫役に動員された明・朝鮮側の非戦闘員を含めるとしても誇張・誤認の可能性はあるが、徳川家康もこの戦果を「前代未聞の大勝利」と評した。島津側の数字を採用するなら、寡兵が大軍を破った例として類例のない勝利であり、この評判は義弘自身や島津家の軍事能力に伝説性を与え、関ヶ原の戦い、ひいては幕末にまで心理的影響を与えていくことにもなった。

⇒これは、本人は手抜きをしていた可能性が否定できないけれど、同道した自分の息子の家久は真剣に戦ったからもたらされた結果である、と、私は見るに至っている。
 ちなみに、義弘は、家久の兄の久保(ひさやす。1573~1593年)も同道しているが、出征翌年に現地で病死したところ、それまでに家久のような武勇伝めいた話はない。
 この兄が生きておれば、彼の方が義久から家督を継ぐ予定だった。
 (彼の妻は義久の娘の亀寿(かめじゅ)だが、彼女は、久保死後、その弟の家久に再嫁している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E4%BF%9D 
彼女の母である円信院殿(えんしんいんでん)は本能寺に墓所があるから日蓮宗信徒であり、この円信院殿の実父の種子島時尭の種子島氏は本能寺の大檀越
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E4%BF%A1%E9%99%A2%E6%AE%BF
なので、「島津氏が豊臣秀吉に降伏したあと・・・<事実上の>人質として・・・京都に住<まわされた>」彼女
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%BA%80%E5%AF%BF
自身も本能寺と縁を深めたに違いなく、亡くなって「戒名」ではなく「法名」をつけられている(上掲)ことから、日蓮宗信徒だった筈だ。
 だから、彼女の影響で、最初の夫の島津久保も二番目の夫の島津家久・・彼は彼女と不仲だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E6%81%92 前掲
が・・も、日蓮宗信徒にこそなった形跡はないけれど、元々日蓮主義家の島津氏の中でも2人とも熱烈な日蓮主義者になっていた可能性が高い。
 (久保については、そのことを裏付けそうなのが、前者は名前から日蓮宗信徒だし、後者も間違いなくそうであろうところの、「堀之内久規と平山忠続という者が、久保の菩提を弔うために山伏となり(久規は日限坊、忠続は一忠坊と改名)、六十余州を廻歴して一国三部の法華経を納めている 」ことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E4%BF%9D 
 家久の場合は、そもそも、話す機会が山ほどあったはずの朝鮮の陣内で、既に久保から影響を受けていた筈だ。)
 同じことが、彼女が養母となって育てた、家久の子で家久の後を継いだ島津光久(1616~1695年)、についても言える。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%85%89%E4%B9%85
 この光久の後を継いだ(光久の孫の)島津綱貴(つなたか。1650~1704年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%B6%B1%E8%B2%B4
は重要人物であり、後述する。)(太田)

 朝鮮からの撤退が決定し、朝鮮の役における最後の海戦となった11月の露梁海戦では、立花宗茂らともに順天城に孤立した小西行長軍救出のために出撃するが、明・朝鮮水軍の待ち伏せによって後退した。しかし明水軍の副将・鄧子龍や朝鮮水軍の主将・李舜臣を戦死させるなどの戦果を上げた。またこの海戦が生起したことで海上封鎖が解けたため、小西軍は退却に成功しており、日本側の作戦目的は達成されている。これら朝鮮での功により島津家は加増を受けた。

⇒海戦では、旗艦がどう指揮したのかが、自ずから分かってしまうことから、そもそも、日本側は、みんな、真面目に戦ったのだろう。(太田)

 日本側の記録によれば、朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮・明軍から恐れられていたとされている。・・・

⇒だから、その主語は、義弘ではなく家久でなければならないのだ。(太田)

 家康が上杉征伐のために出陣し、上杉征伐を行おうとしていた慶長5年(1600年)の7月15日に、義弘は上杉景勝に対して「毛利輝元・宇喜多秀家・前田玄以・増田長盛・長束正家・小西行長・大谷吉継・石田三成らが『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方する。そして、それに私も加わる。仔細は石田三成より連絡があると存します」という書状を送っており、この頃には、すでに西軍の首謀者の一人として、毛利・石田らと共に、反家康の動きに参加していた。・・・

⇒義弘の本心は、豊臣家に恨みこそあれ、何の思い入れもないが、三成には恩義があるので、三成の味方のふりくらいはせざるをえない、というものだったと想像する。(太田)

 慶長3年(1598年)の秀吉死<直>後・・・の頃の島津氏内部では、薩摩本国の反豊臣的な兄・義久と、親豊臣あるいは中立に立つ義弘の間で、家臣団の分裂ないし分離の形がみられる。

⇒徳川家康の目を欺くための、またもや、兄弟での芝居であった筈だ。(太田)

 義弘に本国の島津軍を動かす決定権がなく、関ヶ原の戦い前後で義弘が率いたのは大坂にあった少数の兵だけであった。 そのため、義弘はこの時、参勤で上京していた甥の島津豊久らと合流し、豊久が国許に要請した軍勢などを指揮下に組み入れ・・・<1500人ほどになっ>・・・た。・・・
 関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった<。>・・・

⇒「関ヶ原の戦い<の前日の、旧暦9月>・・・14日に・・・享保12年(1727年)成立の『落穂集』<で>島津義弘が、美濃赤坂の徳川家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、石田三成がそれに従った結果、作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている<が、>・・・享保12年(1727年)に成立した『落穂集』に<しか言及がない>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
ので論外として、戦いの後における、島津氏側による、「西軍への<加>担は実弟の義弘が行ったもので、島津家の当主である自分(義久)はあずかり知らぬ事であったと」の主張
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
も、「そもそも家康の要請で義弘が伏見城守備に就こうとしたが、鳥居元忠に拒絶されたために止む無く西軍に加担したのであり、積極的な加担ではないと<の>主張」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
も、どちらもウソであって、島津氏が石田三成への義理を果すために、形だけ西軍側で参陣するが、決戦の際には傍観し、万一西軍が勝ちそうになったら戦うが、予想通り負けそうであれば戦わないことし、どっちにしても本領が安堵されるようにした、と、私は見ている。(太田)

 [関ヶ原の戦いで西軍が総崩れになった後・・・義弘も死を覚悟して徳川家康本陣に突入して討死しようとしたが、副将格だった<甥の>島津豊久らの進言を受けて帰国を決断した・・・。・・・

⇒これは、結果として豊久が戦死し、死人に口なしで、後付けでそういう話にしただけで、東軍に降伏することは不名誉だと思い始めた義弘が、東軍内強行突破を決意し、実行したのだろう。(太田)

 島津勢は福島正則勢を突破した後、徳川家康本陣をかすめながら南下。その際、義弘は・・・使者<を>・・・家康の下に遣わし、薩摩国に帰国することと、帰国後に謝罪することを告げさせたとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E3%81%AE%E9%80%80%E3%81%8D%E5%8F%A3 ]

⇒ミエミエ、というやつだ。(太田)

 関ケ原の戦い<後、>・・・薩摩に戻った義弘は、徳川に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で徳川との和平交渉にあたった。・・・近衛前久が(藤原氏への改姓等を世話してやった)家康と親しい間柄ということもあり、両者の仲介に当たったといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
 「慶長6年8月、・・・交渉のために上洛した島津氏の使者鎌田政近は、家康から島津領安堵の確約を得た後に近衛前久・信尹父子に対面している。・・・
 <ちなみに、信尹は、>文禄3年<(1595)の>・・・薩摩配流<の際、>・・・自邸から東寺口まで・・・島津忠恒<(家久の旧名)>に・・・見送られて<いる。>」
https://serai.jp/tour/1018212/2

⇒「家康<が>・・・島津義久討伐を九州の全大名に命じ<た結果、>・・・九州の全大名が兵を動員して出陣し肥後水俣に進軍<までしたが、>・・・義弘が、家康に謝罪の使者を送った、だけで>島津征伐は中止とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 前掲
ばかりか、その後「2年に渡って行われた・・・講和交渉・・・では、家康側から義久の上洛が条件として提示されていたが、義久はこれに家臣の鎌田政近や島津忠長・島津忠恒などを代わりに上洛させ、病気や金銭不足、道を修繕中、上洛を準備中などの様々な理由で固辞するなどして、最後まで家康の要求通りに上洛することはなかった。交渉は、義久が所領の安堵を求め、家康が保証するという段階を経たが、書状が家康直々の起請文でないことを義久が追求したため、家康が自身の名で起請文を再度発給し、所領安堵の更なる保証を与える。といったように、2年の間に家康が島津氏に譲歩を重ねていくという形で進展していった。家康の要求である義久の上洛はついに満たされぬまま、慶長7年(1602年)12月に、義久の名代として島津忠恒<(家久)>を上洛させたことによって、島津領国の安堵が確定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85 前掲
のは、さすがの家康でも、近衛家、ひいては朝廷、までこの時点で敵に回すわけにはいかなかったから、で、決まりだろう。(太田)

 (注23)1533~1611年。島津氏第16代当主。「3人の弟(<義久同様に正室の子である>島津義弘・歳久・<唯一側室の子で豊久の父である>家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐を受け降伏し、本領である薩摩・大隅2か国と日向諸県郡を安堵される。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。・・・
 正室:島津忠良の娘・花舜夫人<、>継室:種子島時尭<(前出)>の娘・円信院殿
 <実>子<:>御平(島津義虎室)、新城(島津彰久室)、亀寿<(前出)>(島津久保室、のち島津忠恒(家久)室)
 養子:久保、忠恒(家久)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85 
 (注24)「<石田>三成は<、>島津<氏>との外交・調整役を務め、<島津氏と>深い信頼関係を築いていた。天正15年(1587年)の九州平定後、島津義久は豊臣秀吉の命により上京の途についた。その道中、義久は筑前国・筥崎で催された秀吉の茶会に招かれ、ついで赤間ヶ関(現在の下関市)に到着した。このとき、三成はすでに赤間ヶ関城に滞在しており、義久の到着に際して出迎えを行い、また人質として薩摩から海路で先に到着していた義久の娘・亀寿と義久とを引き合わせた。義久の一行は高野山の木食上人を案内役とし、赤間ヶ関から瀬戸内海を舟で進み、7月10日に和泉国・堺へ到着した。堺の代官であった三成は、多くの小船を準備して義久の乗船を出迎え、丁重な接待にあたった。この上京を契機として、三成と島津氏の関係は急速に深まり、三成は島津家との間で外交・調整の役割を担っていくこととなる。天正16年(1588年)、三成のとりなしによって義久は大坂城で秀吉に謁見し、1万石の在京料を与えられた。滞京中、三成は細川幽斎とともに義久の支援役を務め、その帰国にも尽力した。幽斎が新納忠元に宛てた書簡では、「万事三成と相談しつつ、しかるべく取り計らっている」と記されており、三成が重要な調整役であったことがうかがえる。
 また同年6月、義久の弟・島津義弘が上坂し秀吉に謁見した際にも、三成は義弘とたびたび会合を重ね、必要な調整にあたった。最終的に義久の帰国が許可され、質子であった亀寿の帰国も特例として認められた。当時の状況下では異例とも言える恩恵であり、三成の斡旋による功績は大きいとされる。この際、三成の父・石田正継も堺において代官を務めており、島津一行を手厚くもてなしたという。義久はこの恩義に報いるため、三成と幽斎に対し起請文を提出し、豊臣家への忠誠を誓うとともに、両名への感謝と今後の関係維持を強く願った。この文書には、「逆心の輩が現れても決して与せず」「不調法あらば幾度でも御指南を仰ぎたい」など、三成への深い信頼が表現されている。
 その後も島津氏と三成の関係は良好に保たれ、慶長3年(1598年)には義久・三成の連署で、薩摩から大坂への米の輸送・販売や、台所方の物資調達・経理処理、領地の免目録の作成など、実務面における指示書が発給されている。これにより、三成は島津家の藩政においても重要な助言者・調整役として信頼を得ていたことが窺える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90#%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85%E3%83%BB%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

⇒「天正14年(1586年)、義久は豊臣秀吉から直書をもって大友宗麟との和睦と豊臣氏への臣従を迫られたが、1月11日に出した書状では宛名を細川幽斎にして和睦・臣従を拒むという返信を送っている。この内容は秀吉の出自の低さを厳しく指摘する内容であり、その後、島津氏に対する秀吉の心証を非常に害した可能性がある。・・・
 島津の本領に豊臣軍が迫ると、出水城主の島津忠辰はさして抗戦せずに降伏、以前から秀吉と交渉に当たっていた伊集院忠棟<(注25)>も自ら人質となり秀長に降伏、家久も城を開城して降伏した。

 (注25)いじゅういんただむね(1541?~1599年)。「熱心な一向宗門徒<。>・・・早くから島津義久に仕え、筆頭家老として島津氏の政務を取り仕切り、武将としても肥後国や筑前国などの出兵で多大な功績を挙げている。また、歌道にも優れ、細川藤孝と親交があり、豊臣秀吉の九州出兵以前から、豊臣氏と和睦の交渉を進めていたという。
 天正15年(1587年)、秀吉率いる大軍の前に島津軍が次第に劣勢となると、忠棟は抗戦を主張する義久やその弟・義弘らに降伏を説いた。しかし、島津氏は秀吉との戦いを継続する。同年4月17日、義久・義弘が2万人の精鋭をもって豊臣秀長の陣を攻撃した際(根白坂の戦い)に、左軍の北郷時久の突撃と声を合図に、右軍を任されていた忠棟が進軍する手はずであったが、忠棟は聞こえなかったなどという理由で全く進軍しなかった。結果、北郷勢からは多数の死傷者が出て島津軍は退却を余儀なくされ、敗北を喫した。戦後、忠棟は剃髪して自らを人質として秀吉に降伏、島津家の赦免を願い出ており、義久らの説得に当たった。この時の忠棟の弁明により、島津氏存続が達成できたと評価する説もある。
 秀吉は忠棟の能力を高く評価し、九州征伐後には直々に肝属一郡を与えられた。以降は島津家の宿老として豊臣政権と直接交渉することが多くなり、石田三成ら奉行衆と昵懇になった。文禄4年(1595年)には領内で太閤検地が行われ、北郷氏に代わり日向諸県郡庄内の地に8万石の所領を与えられた。また、検地後の知行配分の責任者となったため、家中からの不満が彼に集中した。この後、権勢を誇るようになったため、島津宗家からも危険視されるようになった。
 そして、慶長4年3月9日(1599年4月4日)、伏見の島津家邸で義弘の子・忠恒によって殺害された。忠棟夫人はことの次第を徳川家康に直訴すること3日に及んだが、家康は夫人の話す薩摩方言が理解できないとして無視を続けた。・・・
 忠棟の死後、嫡男の忠真<(ただざね)>が家督を継いだが、領地の日向都之城に籠り庄内の乱を起こした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%9B%86%E9%99%A2%E5%BF%A0%E6%A3%9F
 「翌慶長5年(1600年)に徳川家康の仲介のもと一旦は和睦が成立したが、忠真は再び背いた。これは、忠真が島津氏からの支配を離れて他家への奉公を希望していたが、忠恒がこれを絶対に認めなかったためといわれる。そのため、家康が再度仲介し、忠恒が頴娃1万石を忠真に宛てがうことで和睦が成立し、忠真は島津氏に帰属した。忠真は島津義弘の次女を娶っており、乱後は義弘の屋敷に預けられていたようである。しかし、帰属後も島津義久・忠恒はこれを警戒し、関ヶ原の戦い直前において関ヶ原本戦に出陣した義弘が再三にわたり自国に対して派兵を催促したが、乱を恐れて大規模な派兵を行えなかった<。>・・・
 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いでの一件を謝罪するために忠恒は伏見へ上洛することになり、忠真もこれに従ったが、日向野尻での狩りの最中、忠恒の命により討たれた。なお、庄内の乱後にそれぞれ別の島津家家臣の屋敷に身柄を預けられていた弟の小伝次・三郎五郎・千次・忠真の母は、忠真が討たれた日に全員が殺害され、伊集院一族は皆ことごとく粛清された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%9B%86%E9%99%A2%E5%BF%A0%E7%9C%9F

 義久は鹿児島に戻り、剃髪して、名を龍伯と改めた。その後、伊集院忠棟とともに川内の泰平寺で秀吉と会見し、正式に降伏した。義久は降伏したものの、義弘・歳久・新納忠元・北郷時久らは抗戦を続けていた。高野山の木食応其から和議を促され義久は彼らに降伏を命じたが、歳久はこれに不服であり、秀吉の駕籠に矢を射かけるという事件を起こしている。
 秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子の久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に三女の亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵や高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。
 天正16年(1588年)、秀吉から義弘に、羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年(1590年)、義久に羽柴の名字のみ与えられた。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。しかし島津家は刀狩令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。この頃京都では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないという噂が立ち、石田三成の家臣が義弘に内報している。また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。
 秀吉は朝鮮出兵を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人梅北国兼は名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こした(梅北一揆)。これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また文禄2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟の忠恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。
 文禄3年(1594年)、義弘は石田三成に検地実施を要請する。検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われることとなった。これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったためとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた。これを「両殿体制」という。
 秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は5万石の加増を受けた。しかし家中の軋轢は強まり、忠恒が伊集院忠棟を斬殺する事件が起こる。義久は自分は知らなかったと三成に告げているが、事前に義久の了解を得ていたという説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E4%B9%85
と、長々と記してきたが、私が言いたいのは、島津氏が、豊臣秀吉にも徳川家康にも取り潰される可能性があったということであり、伊集院父子が、一種のトリックスターとして、意図的にだったのか結果的にそうなったのかはともかく、近衛家だけでは庇い切れなかったかもしれないところを、見事に補完してくれたおかげで、それを免れたということだ。
 (本筋を離れるが、「慶長2年(1597年)に島津義弘が発した二十か条の置文によって薩摩藩全領内で一向宗が禁制となったが、それ以前の16世紀中頃には島津家領内で弾圧が始まっている。加賀一向一揆や石山合戦の実情が伝えられ、一向宗が大名によって恐れられたことや、島津忠良などの儒仏に篤い武将にとって、忠を軽んじ妻帯肉食する一向宗が嫌悪の対象となっていたことなどが原因と考えられる。また、島津家による公式の禁止令は慶長2年の4年後にあたる慶長6年(1601年)に出されている。これは慶長4年(1599年)日向国において庄内の乱が勃発、この首謀者である伊集院忠真の父・忠棟が熱心な一向宗徒という説があり、乱後に改めて正式に一向宗が禁止されたのはこのことが大いに影響しているものという説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E3%82%8C%E5%BF%B5%E4%BB%8F
ということを紹介しておく。)
 とにかく、この二度にわたる大きな危機を島津氏が乗り切ったおかげで、日本は日蓮主義戦争再開の可能性を絶たれ、一筆書き日本史がその時点で終わり、初めてぶつ切り出たとこ勝負史に堕してしまいかねなったけれど、それを回避できたのだ。(太田)

 近衛家が翻心していったのは、1599年以降の家久の粘り強い働きかけの賜物でもあったのではなかろうか。
 1599年当時は、近衛前久(1536~1612年)も近衛信尹(1565~1614年)もまだ存命だったことが思い起こされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E4%B9%85
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
 なお、信尹が、「左大臣に復職した・・・慶長6年(1601年)・・・<に、>名を信輔から信尹に改名した」(上掲)けれど、「元服<の際、>・・・信長から一字を賜」ったところの、「信」を維持している(上掲)ことに注意。

 既に、言及してしまったが、次に、近衛家の方だ。↓

 まず、「近衛前子<(中和門院)(1575~1630年)については、>・・・天正14年(1586年)12月に豊臣秀吉夫妻の<猶子>となり、後陽成天皇に入内。従三位に叙され、女御となる。摂家からの入内は久しく無く、南北朝期以来の女御再興となった。・・・<彼女は、>後水尾天皇の生母で<もある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
以外に、その事蹟等についての情報がネット上には殆どないが、「朝廷の政治に影響力を持ち続けた教養人」
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000004-I7709364
であった、というのはその通りなのだろう。
 実際、「朝幕関係が不安定、かつ朝廷内の機構がまだ十分に機能していなかった近世初頭においては、院の不荘、院と禁裏との不和などもあって摂家衆としては女院を頼らざるを得ない状況が続いた。一方、幕府としても朝廷統制上、この段階では女院の存在を利用せざるを得なかったのである。したがって、・・・後陽成天皇の生母・・・新上東門院・・勧修寺晴右の女、晴子・・の政務への関与はこうした朝廷内外の政治的事情を背景に、いわば将軍家と摂家衆双方の要請に応えてのものであったと言えよう。次の中和門院の時期においてもなお同様の傾向がみられる」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=d6822a7f42d1dd3934e53fce0d6a3ca9009acccd22878b7c44349213e3b73825JmltdHM9MTc1NzExNjgwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e8%bf%91%e8%a1%9b%e5%89%8d%e5%ad%90&u=a1aHR0cHM6Ly9nbGltLXJlLnJlcG8ubmlpLmFjLmpwL3JlY29yZC8yOTQ1L2ZpbGVzL3RhbmtpZGFpZ2FrdV8zMl8yOF80NC5wZGY&ntb=1
というのだから、近衛前久<(1536~1612年)>の子で豊臣秀吉の猶子であり、当時の朝廷の重鎮でもあった彼女自身、強い関心があったはずの日蓮主義、の今後に係る方針決定に関与して不思議ではないと私は思った次第だ。

 そして、「近衛信尋<(1599~1649年)については、>・・・母<がこの>・・・中和門院<で、>母方の伯父の近衛信尹<(1565~1614年)>の養子となり、信尹の娘(母は家女房)を娶る<が、>妻は青侍と密通する等仲は悪く、死去寸前の徳川家康に仲立ち依頼等を行うも、結局は別居とな<ったことはともかくとして、>・・・書道は養父の信尹の三藐院流(別称:近衛流)を継承し、卓越した能書家だった<ことや、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
「信尹は、先祖である藤原道長が記した『御堂関白記』・・・条の裏に、『後深心院関白記』(『愚管記』とも)を抜書し、自筆本のうちの5巻分を折状の状態にしている<ところ、>この抜書を発見し、表紙の外題に、「裏信尹公手跡/自延文元至三年抜書」と書き付けたのは、・・」近衛信尋であったとい<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
ことから、幼児の時から信尹の薫陶を受けて育ち、信尹を敬愛していたと目され、しかも、実母の中和門院の影響も受けたであろうことから、通常の近衛家の当主よりも近衛家への思い入れが強く、かつ、強烈な日蓮主義者になっていた、と、思われる。

  ウ 策定時期 

 さて、彼らに、太平構想的なものを策定する動機はあったとして、それが冒頭に記した時期だったのではないか、と、私が見ているのはどうしてか。
 第一の理由は、徳川幕府が反日蓮主義を抱懐したまま永続化するのではないかという危惧が、当時、島津氏/近衛家において最高潮に達した、と、想像されるからだ。↓

「慶長16年(1611年)には<中和門院の子の>後水尾天皇<(1596~1680年)>が即位するが、大御所・家康は<秀忠の娘の>和子<(まさこ)>の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院の崩御などが続いたため延期された。
 元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官・四辻与津子(お与津御寮人)が皇子・賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年(1619年)には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継・高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女・梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件)。
 <和子は、>元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に叙せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては天皇に袷百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋と一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家・一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している。入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男・家光が将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石が寄進される。同年11月19日には皇女・女一宮興子<(おきこ)>内親王(後の明正天皇<(在位:1629年12月~1643年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87 >)が誕生する。
 寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%92%8C%E5%AD%90

⇒「頼朝は長女大姫を後鳥羽天皇の妃にするべく入内工作を進めていたが、大姫が死去すると・・・三幡を次なる候補に擬するようになる。『尊卑分脈』によると三幡は鎌倉にいたまま女御の宣旨を与えられ、正式の入内を待つばかりとな<ったが、>・・・<鎌倉で亡くなってしまった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B9%A1
し、「足利尊氏は娘の鶴王(頼子)を妃にすることを計画していたらし<いが、>・・・観応2年(正平6年、1351年)には尊氏が南朝に帰順することで正平一統が成立し、北朝は消滅<し、>11月7日に、崇光天皇は南朝の後村上天皇によって廃位された<ことで沙汰闇になってしまった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%85%89%E5%A4%A9%E7%9A%87
、というわけで、鎌倉幕府の頼朝以降の将軍達は、また、室町幕府の尊氏以降の将軍達も、娘の入内は考えなかったので、和子の入内は、武家政権からの初入内であって、和子が男子を生んでその子が天皇になれば、しかも、そうなれば、その後も将軍家からの入内が続くであろうことから、徳川家と天皇家が一体化し、日本が反日蓮主義政府のまま永久に推移することになってしまう恐れが生じたことに、近衛家/島津氏はこの上もない危機意識を抱いた筈であり、ち密な反撃手段を講じる必要があると考えた、と、見るわけだ。
 実際には、徳川和子が生んだ興子内親王を、後水尾天皇が強引に次の天皇である明正天皇にした結果、同内親王は恒例に従い生涯結婚もできず、しかも、幕府の猜疑心から退位後も隔離状態に置かれることとなり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
これに懲りた徳川本家が二度と外戚化を目指さなくなったのだが、それは結果論だ。
 いずれにせよ、後水尾天皇によって、同内親王へかかる薄情な措置・・それは幕府への対抗措置であった・・がとられたのは、近衛前子(~1630年8月11日)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%89%8D%E5%AD%90
と、どちらも彼女の子である、後水尾天皇(死去:1680年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%B0%B4%E5%B0%BE%E5%A4%A9%E7%9A%87
及び近衛信尋(関白:~1629年9月17日。死去:1649年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%8B
の三人の合議によるものだったに違いない。(太田)

 第二の理由は、北東アジア情勢を踏まえ、島津氏/近衛家が、当時、以下の考えに達し、対処策を考える必要に迫られた、と、想像されるからだ。↓

(一)日蓮主義家である近衛家によるところの、秀吉流日蓮主義戦争に対して天皇制存続を危うくする恐れから反対する天皇家の意向に沿っての、かつ、豊臣秀吉に摂関家でなくされてしまったところの全摂関家の怒りを代表しての、秀吉流日蓮主義戦争サボタージュ、及び、
(二)島津氏によるところの、この近衛家の意向も踏まえ、かつ、日蓮主義氏である島津氏による九州統一を秀吉に妨げられてしまったことを受けての、秀吉流日蓮主義戦争サボタージュ、
は、このサボタージュなかりせばこの戦争を完遂できた可能性が高いことが判明した(注26)以上、適切な対応ではなかったと言うべきであり、慙愧の念に堪えない。

 (注26)1616年に後金が建国され、事実上明に宣戦布告がなされ、1619年にサルフの戦いでこの後金が明に大勝利をあげた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%87%91
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%95%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 なお、かかる北東アジア情勢については、一つは、朝鮮通信使によって幕府等につたえられている・・「朝鮮では、文禄・慶長の役が終わり、国内で日本の行った行為や李朝の対応への批判が高まると同時に、日本へ大量に連れ去られた被虜人と呼ばれる捕虜の返還を求める気風が強くなっていった。朝鮮の援軍として協力した明が朝鮮半島から撤退すると、日本からの再度の侵略を恐れながらも、対外貿易の観点からも日本と友好関係を結びたいと考えていた。北方からの軍事的脅威も日本との国交再開の理由となった。ヌルハチのもとで統一された女真族が南下してきており、文禄・慶長の役では加藤清正軍が女真族と通じる状況もあったため、女真族と日本が協力する危険も朝鮮では検討されていた。そこで日本とは国交をして、南方の脅威を減らすという判断がなされた。・・・
 1604年(慶長9年・宣祖37年)には朝鮮が僧の惟政と孫文或を対馬へ送る。宗義智は使者2名を徳川家康と秀忠に会見させて、幕府はすみやかな修好回復を希望した。・・・
 1607年(慶長12年・宣祖40年)には、江戸時代はじめての通信使が幕府に派遣され、6月29日(旧暦5月6日)に江戸で将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。・・・
 1617年(元和3年)<には、>・・・第2回<通信使がやってきている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
・・し、島津氏は、家久が、明に朝貢していた琉球から、また、明との貿易を通じ、独自にも把握していたはずだ、と、私は見ている。 

  エ 策定方針

 (ア)大方針

 第二次日蓮主義戦争を将来決行するとの方針は上記総括より前から一貫しているが、今度は信長流ではなく秀吉流日蓮主義で行うこととしつつ、それを、日本を完全に中央集権化した上で、天皇を名目上の最高司令官とする形で行うこととする。
 これは、信長流と秀吉流の両日蓮主義のいいとこどりを意図したものだった。

 (イ)日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築

 能力、人格、資金負担能力的に適任であると目される、大名クラスの人物を慎重に見極めた上で、当該人物の説得に成功したら、彼を、人材発掘等に関して全面的に支援しつつ日蓮主義の理論化プロジェクトを推進させ、当該大名家にその諸成果を更に発展させつつ、武士や非武士指導層とメインターゲットに、理論化された日蓮主義の全体ないしはその一部、の普及を推進させ、それにも協力する。

 (ウ)徳川氏を操縦

   a 徳川本家を日蓮主義行動家化

 徳川本家、すなわち、徳川家康は反日蓮主義者であったところ、家康が創った御三家、すなわち、尊皇論者の徳川義直(注27)がその初代となった尾張徳川家(1606年~)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
事実上の日蓮宗信徒で明らかに日蓮主義者であった徳川頼宣(注28)がその初代となった紀州徳川家(1619年~)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B7%9E%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6
同じく事実上の日蓮宗信徒の徳川頼房実質的な初代となった水戸徳川家(1609年~) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%88%BF
・・形式的には、松平信吉が初代(1602年~)、徳川頼宣が2代目(1603年~)だが・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
、に着目し、このうちの尾張徳川家は日蓮主義家化を図ることとし、また、紀州徳川家と水戸徳川家についてはそれぞれの日蓮主義性を堅持させることとし、徳川本家についても、その日蓮主義家化・・後述する理由から、より正しくは日蓮主義行動化家化・・を図ることとする。

 (注27)徳川義直の尊皇思想については、コラム#9902や
https://tsubouchitakahiko.com/?p=5647
参照。但し、「このことや、将軍を出せなかったこと、将軍家から養子を押し付けられ続けたことなどにより、家中に将軍家への不満が貯まり続け、戊辰戦争では官軍につ<くこととなるのです>。」(コラム#9902)については、後述することに照らし間違いなので、注意。
 (注28)頼宣(1602~1671年)は、生母が頼宣と同じで日蓮宗信徒である上に、養母の英勝院に育てられたところ、彼女もまた日蓮宗信徒だ。
https://www.yoritomo-japan.com/jinbutu/eishoin.html
 そして、「徳川家康と加藤清正の合意により・・・<、という他律的な経緯ではあったけれど、日蓮宗信徒にして秀吉流日蓮主義者である>加藤清正<(コラム#省略)(1562~1611年)>の・・・次女・・・<と>婚約」し、両者の死去後に結婚しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
日蓮宗の池上本門寺に紀州徳川家墓所を設けて、先立たれたこの妻瑤林院(1601~1666年)、と、自分の生母の養珠院(1580~1653年)、の墓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A4%E6%9E%97%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2
を設けている。
 ちなみに、この紀州徳川家墓所には、この2人のものを含め、以下の8基の墓がある。
①松寿院 宝篋印塔  
  頼宣の息女・松姫の供養塔。光貞、芳心院の妹。延宝6年(1678)没
  「松寿院法栄日経大姉」 松平(鷹司)信平室。 寛永8年(1631)9月23日生。
②真空院 宝篋印塔
  頼宣の子・修理。紀伊二代藩主光貞の弟。寛永13年(1636)没 4歳
③養珠院 宝塔  
  徳川家康側室お万の方。蔭山殿。頼宣と水戸の頼房の生母。
  「養珠院妙紹日心大姉」承応二癸巳暦八月二十一日 承応2年(1653)没 74歳(77歳)
  お万の方の本墓は山梨県大野の本遠寺(ほんのんじ)にある。
  紀州・養珠寺、水戸・蓮華寺(のち久昌寺)、玉沢・妙法華寺 他多数。
④妙操院 一重塔  
  十一代将軍家斉の側室・お登勢の方。
  「妙操院殿円譽性日良仁大姉」  天保3年(1832) 没
  六男斉順(のち紀伊十一代)、峰姫(嶺寿院・水戸八代徳川斉脩正室)の生母。
⑤天真院 宝塔  
  二代光貞の正室(簾中)。伏見宮貞清親王の姫・安宮照子。
  「天眞院殿妙仁日雅大姉(尊位)」両山23世日潤花押 1625~1707 (宝永4年)没 83歳
⑥瑶林院 宝塔  
  頼宣の正室。加藤清正息女・八十姫。生年:慶長6年(1601)
  「瑶林院淨秀日芳大姉」 寛文六丙午年正月二十四日 没年:寛文6年(1666) (66)
  梵鐘、妙見菩薩像の寄進。
  墓所 和歌山・法恩寺(旧要行寺)
⑦霊岳院 宝塔  
  光貞の三女、吉宗の姉・育姫(のりひめ)。出羽久保田藩佐竹義苗室。
  「霊岳院殿日觀淨境大姉」 日玄花押 1675~1693 (元禄6年) (19)
⑧寛徳院 宝塔  
  八代将軍吉宗の簾中。伏見宮貞致親王の姫・真宮理子(さきのみやまさこ)
  「寛徳院殿玄眞日中大姉尊靈」(文字剥落)  宝永7年(1710) 没」
https://blog.goo.ne.jp/m13239230k/e/1f93a9533a1d0e8b7a19d362be25b40f
 そんな頼宣は、「鄭成功に関する援軍要請の際は、「西国に将軍の身内は自分一人ゆえ、西国大名の全指揮権を名代として自分に与えてくれれば、日本の面子を充分に立てて来る」と乗り気であった」とされる<。>・・<なお、>「出兵しても日本に利がない」として反対だったとも伝わる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
けれど、日蓮主義的発言であるところのより具体的な前者が「史実」に近いと思いたい。
 また「慶安4年(1651年)7月の慶安の変において、由比正雪が頼宣の判物を偽造していた<ので、>・・・幕閣は頼宣を江戸城に呼び出し、不審な点があればただちに捕らえるつもりで屈強な武士を待機させて喚問に臨み、証拠文書を前に正雪との関係を詰問したが、頼宣は「外様大名の加勢する偽書であるならともかく、頼宣の偽書を使うようなら天下は安泰である」と意外な釈明をし、嫌疑を晴らした。外様大名などが首謀者とされていたならば、天下は再度騒乱を迎え、当該大名の取潰しなど大騒動であっただろうが、将軍の身内の自分が謀反など企むわけがないだろうという意味である。・・・幕府は、将軍・家綱が幼年の間は江戸に在府するよう命じ、帰国を許されたのは事件から8年後の万治2年(1659年)になってからだった。」(上掲)

   b 徳川幕藩体制を条件付き維持

 aを前提に、武士(縄文的弥生人)の数を減少させないよう、徳川幕藩体制を維持しつつ、最適なタイミングで幕藩体制を解消して日本を完全に中央集権化した上で第二次日蓮主義戦争に着手する。
 (江戸時代において(その家族を含む)武士階層の人口比率は約7%で、武家奉公人のような存在を武士に含めると、実際には武士階層の割合はもっと多かったと思われるが、1700年頃から明治維新まで約2500万~3000万人くらいであった日本の人口に占める武士階層の割合はこの間ほぼ一定だったと考えられている。
http://kakeizunotobira.denshishosekidaio.com/2016/08/03/post-1757/
 ということは、江戸時代には180~210万人くらいの武士階層がいて、そのうち半分が男性で、うち、適任年齢の者が更にその半分だったとしても、50万人程度の「軍人」を維持し続けたことになるが、「平時」にかくも巨大な「軍隊」を保持し続けたことを、我々が当たり前だと思っていたことは迂闊ではなかったか、ということだ。
 ちなみに、戦前の平時である日露戦争の後から第一次世界大戦の前までの軍人総数は、日本の人口は5000万人になっていたけれど、わずか30万人だ。
https://graph.moo.jp/pdf_essay/takedakazuki_Military.pdf
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%8B%A2%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 ) なお、これは、日蓮主義者の数を減少させないことを必ずしも目的としたものではないことに注意。

   c 幕臣を文官化

 徳川幕府が、日本の完全中央集権化/日蓮主義戦争着手、を行う中心勢力になることは、この幕府を開いた徳川家康に、日本が第一次日蓮主義戦争を再開できなかった最終かつ最高の責任がある以上、あってはならない。
 よって、aが実現した暁においても、この将軍家には幕府に関しては引き続きそれまでの反日蓮主義性を維持させるものとし、そのため、近衛家/島津氏の具体的指示に従い、広義の幕臣の文官化(非武官化)策を推進することをこの将軍家に誓約させ、日本が、完全中央集権化され、日蓮主義戦争を遂行し始めた暁において、旧幕臣及びその子弟達に、この戦争を直接担わせることなく、もっぱらこの戦争に係る効果的な後方支援を行わせること、を目論むこととする。
 (念のための付言だが、日蓮主義幕府になってしまうと、幕臣からの突き上げで、日本が過早な不適切な時期に日蓮主義戦争再開を余儀なくされてしまう恐れ、や、時期を誤らなくても、幕臣達が自分達の特権を維持すべく、不徹底な中央集権化をしただけで、日蓮主義戦争を再開させる恐れもある。)
 なお、日蓮主義家化した将軍家には、適切な時期が到来したと近衛家/島津氏が判断し、この家/氏から指示があった場合、可及的速やかに幕藩体制を解消させることについても、誓約させるものとする。 
 
 (エ)摩擦最小限での徳川幕藩体制廃止を図るための朝廷改造

   a 天皇家の日蓮主義家化とその内の天皇本家の縄文人家化

 朝廷に関しては、天皇家全般についてはその日蓮主義中立家から日蓮主義家への転換を推進しつつ、機会を捉えて、その内の天皇家本家の縄文人家(反日蓮主義家天皇家)への逆方向の転換を実現する一方で、その天皇家本家があたかも日蓮主義家化したままであるかのような印象を武士や非武士指導層には抱かせる、一見、二律背反的なアクロバティックな方策を講じる。
 (これらは、天皇家本家の反日蓮主義家化は、そうすることで、日蓮主義完遂戦争の成否や成り行きいかんにかかわらず、天皇制維持につながる可能性がある、ということを念頭に置いたものだった。
 要するに、これらは、島津氏/近衛家、の、信長流日蓮主義への固執の反省の上に立った信長流日蓮主義へのオマージュ、的な綱渡り的方針だった。)

   b 公家の日蓮主義家化とその内の九条系の一家だけの幕府追随家化

 公家に関しては、まず、摂関諸家については、日蓮主義家である近衛家系を中心にその日蓮主義性を維持しつつ、機会を捉えて、九条系の一家の摂関家を日蓮主義中立家にして幕府追随家へと転換させ、この摂関家に、適切な時期に、摂関をやらせる。
 (天皇家と摂関家に係る以上の狙いについては、後で史実に即して具体的に説明する。)
 その他の公家については、最終的には、その大部分を日蓮主義家化させる。

 (オ)庶民の上層部までを日蓮主義化

 日蓮主義完遂戦争は、秀吉流日蓮主義を極限化した総動員体制で行われることになるので、一般庶民が、自分達の仲間だと思う範囲の庶民エリート達に至るまで、その日蓮主義者化を図る。
 但し、ほぼ全庶民の日蓮主義者化は回避する。
 総動員体制を機能させるためには民主主義的な制度の導入が不可欠だが、予防措置を講じても民主主義が多かれ少なかれ機能してしまいがちであり、その場合にほぼ全庶民が日蓮主義者であったならば、彼らが、日蓮主義完遂当局者から、そのフリーハンドを奪ってしまう恐れがあるからだ。
 (なお、幕臣の過半が日蓮主義者になるようなことも回避する必要があったことについては前述した。)

⇒これらは分かりにくいかもしれない。
 しかし、現実の史実の中に落とし込んだ説明を後で行うので、そこを読めば、さしてややこしい話ではないことがお分かりになるはずだ。
 いずれにせよ、以上だけで、江戸時代の歴史の大宗が、ほぼ自動的に紡ぎ出されてしまう、つまり、日本史はそもそも一筆書き史であるとかねてより私が指摘しているところ、そのうちの江戸時代史に至っては、数名の人々が、共同で江戸時代の初めに文字通り一筆で書き下ろした通りにほぼほぼ進行した結果ではないか、というひらめきの下、少し調べただけで、この説が十分いけそうに見えてきて、私自身がびっくり仰天してしまった次第だ。(太田)

(2)日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築等

  ア 徳川光圀指名  

 かねてより指摘してきた(コラム#省略)ように、「徳川家康の側室養珠院(お万)や英勝院(お勝)<は、>・・・日蓮宗<信徒だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA
 その、「養珠院<(1577/1580~1653年)についての復習<から始める>が、彼女は、>・・・紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母<だ>。・・・
 義父の蔭山家は代々日蓮宗を信仰しており、<お>万もその影響を受けて日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていたため、慶長13年(1608年)11月15日、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者日経を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させた。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、<お>万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると<お>万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。この<お>万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と題目を揮毫し、<お>万に下賜されたという。

⇒今頃気付いたが、この後陽成天皇の動きは、彼の女御の近衛前子の要請を受けたものだったに違いない。
 また、この時以降、前子とその実家の近衛家は、お万が生んだ徳川頼宣(1602年~)・頼房(1603年~)兄弟
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%AE%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%88%BF
に注目するようになった筈だ。(太田)

 彼女は家康が死去した後、元和5年(1619年)8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し・・・た。・・・
 墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。<前者は>承応3年(1654年)に徳川頼宣により建立された墓所<だ。>・・・<法華宗(日蓮宗)の>杉並区理性寺にも分骨されている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2

 次に、今回初めて取り上げるのが、英勝院や三木夫妻及び高瀬局の話だ。
 最初に「英勝院<(1578~1642年)だが、>・・・慶長12年(1607年)1月に、家康最後の子である五女・市姫を30歳で産む。市姫は仙台藩主伊達政宗の嫡男・虎菊丸(のちの伊達忠宗)と婚約するが、4歳で夭折する。不憫に思った家康は<お>万の産んだ鶴千代(のちの徳川頼房)、越前藩主結城秀康の次男である虎松(のちの松平忠昌)、外孫振姫(姫路藩主池田輝政の娘)らの養母とした。振姫はのち、伊達忠宗に嫁ぐ。・・・
 水戸徳川家では頼房の長男である頼重(後に高松松平家・讃岐高松藩主)、三男・長丸(後の水戸藩主・光圀)がおり、頼重は京都の慈済院へ入っていた。『讃岐高松松平家譜』に拠れば、英勝院は将軍・徳川秀忠に対して頼重の帰府を願い、寛永9年(1632年)11月には頼重の江戸の水戸藩邸への帰府が実現したという。さらに、寛永11年(1634年)5月9日には水戸徳川家の世子となった幼い光圀を伴い、新将軍・家光への謁見を行っている。・・・
 同年6月には太田道灌の旧領で以前は屋敷のあった相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)の地を徳川家光より賜り、菩提所として<徳川本家が大檀越である浄土宗の>英勝寺を建立して住持する。
 <但し、>65歳で没<すると、日蓮宗における戒名である>法号<・>英勝院殿長誉清春大禅定尼<が付けられ、その>墓所は英勝寺<だけでなく、上出の>静岡県三島市の<日蓮宗の>妙法華寺<にもある>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E5%8B%9D%E9%99%A2
 念のためだが、「妙法華寺(みょうほっけじ)は、静岡県三島市玉沢にある、日蓮宗の本山(由緒寺院)<で、>山号は経王山<で、>塔頭が一院ある(桜岡山覚林院)<が、>新潟村田の妙法寺と共に日昭門流の本山で両寺は左右牛角の霊地と呼ばれて<おり、>・・・徳川家康の側室養珠院(お万)や英勝院(お勝)らが寺の再興に力を尽くし<ている>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%B3%95%E8%8F%AF%E5%AF%BA

 いよいよ、「徳川光圀<(1628~1701年)本人についてだが、彼は、>・・・水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(現在の茨城県水戸市宮町)にある家臣・三木之次<(注29)>の屋敷で生まれ<てい>る。

 (注29)「三木之次<(みきゆきつぐ。1575~1646年)は、>・・・水戸藩家老<で、>・・・娘はそれぞれ、京の公家・滋野井季吉<(しげのいすえよし)>と、水戸藩家臣・伊藤友玄に嫁いだ。外孫(伊藤友玄の長男)で養子の三木高之が跡を継いだ。・・・
 元和8年(1622年)、頼房の第1子・松平頼重が誕生するが、<明らかになっていない>事情から頼房は堕胎を命じており、母の高瀬局は之次夫妻に預けられ、頼重は江戸麹町の之次の別宅で誕生した。寛永5年(1628年)、再び高瀬局が懐妊すると、頼房はまた堕胎を命じて之次夫妻に預け、三男(第7子)徳川光圀が水戸城下の之次の屋敷で誕生した。
 頼重は後に京に送られ、之次の娘婿・滋野井季吉のもとで養育され、出家させるため天龍寺慈済院に入って学問を学んだ。寛永9年(1632年)11歳の時、水戸藩の招きで小石川藩邸に入ったが、痘瘡を病んだらしく、寛永14年(1637年)ようやく父頼房と対面した。光圀は5歳まで水戸城下の三木邸で育てられた。寛永9年(1632年)水戸城に上がり、翌10年(1633年)6歳の時付家老中山信吉と対面して水戸藩の嗣子に選ばれ、江戸小石川邸に移った。
 正保3年(1646年)之次は72歳で没した。墓所は水戸市[の日蓮宗の寺院の]妙雲寺>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E4%B9%8B%E6%AC%A1


[水戸藩における日蓮主義藩意識]

 「司命丸創製者・高倉伴介は生前、広木松之介が直弼の首級を甘酒樽に詰め水戸へ持ち帰ったという話をしていた、とされる。
 1967年(昭和42年)茨城県笠間市・真浄寺の住職で県宗務所長だった小林日芳の元へ、広木松之介縁者の広木妙諦尼から「大老の首級を水戸市内の袴塚町、日蓮宗・本行寺本堂廊下の下に埋めた、という祖先からの言い伝えを確かめてみたい」と相談があった。彼らがここぞとおぼしき箇所を掘った所、しゃれこうべが出てきた。首を懇ろに供養してから、広木が眠る水戸市見川の日蓮宗・妙雲寺へ埋めたという。なお、幕吏の追捕を逃れて、広木松之介とその姉が一時身をかくしていたのが本行寺であったという。
 1968年(昭和43年)3月3日に、妙雲寺の檀家である旧水戸藩士の子孫・三木啓次郎により、井伊直弼の首を供養するための「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」が建てられた。三木啓次郎は井伊家側へ首級の骨の返還を申し出たが、井伊家側からは直弼の首級は当初より豪徳寺に埋葬されているとして断られたという。
 「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」建碑に当たった石材店の高橋三郎によると、直弼の首は1968年(昭和43年)の暮れ、三木啓次郎らによって井伊家菩提寺・豪徳寺へ密かに埋葬されたという。
 2012年6月、東京都世田谷区教育委員会の調査で、同区の豪徳寺にある井伊直弼の墓には、石室などの埋葬施設が地下3メートル以内になかった事が明らかになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89
 広木松之介(1838~1862年)は、「水戸藩士。安政7年(1860)3月3日桜田門外で大老井伊直弼(なおすけ)を襲撃。のがれて加賀,越後などをへて,鎌倉上行(じょうぎょう)寺にいたり,・・・自刃。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%83%E6%9C%A8%E6%9D%BE%E4%B9%8B%E4%BB%8B-1104277
 上行寺 (鎌倉市)は、「旧本山は<日蓮宗>大本山本圀寺<。>・・・境内墓地に<も>松之助の墓があり、1916年(大正5年)には石碑が建造された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E8%A1%8C%E5%AF%BA_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82)

⇒本圀寺党の話(後出)もそうだが、藩主家はもとより、一般の水戸藩士達も、日蓮宗信徒であると否とを問わず、光圀以来、同藩が日蓮主義藩であるとの共通の意識を抱き続けたことがこの広木の挿話からも伺える。
 なお、「桜田門外の変襲撃者と天狗党らは共に靖国神社へ合祀されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%B0%E9%96%80%E5%A4%96%E3%81%AE%E5%A4%89

、つまり、彼らは第二次日蓮主義戦争の最初の戦死者達なのであり、そういった意味で、徳川光圀から貞明皇后/杉山元らまでの近現代日本史は一直線で繋がっている、というのが、今回の「講演」原稿のメインテーマであるわけだ。(太田)

⇒三木之次は、「播磨国美嚢郡三木の浄土真宗光善寺の住職・寂然の次男として生まれる。光善寺は兄の長然が継いだ。若年時については不詳であるが、京に出て、近江国の浄土真宗広済寺の住職・安休の娘で中和門院に仕えていた武佐と結婚し、2女をもうけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E4%B9%8B%E6%AC%A1 前掲
というのだから、之次も武佐も、どちらも真宗から日蓮宗への転向者であるわけだ。
 転向者は、転向後の宗旨の熱烈な信者だと考えてよかろう。(太田)

 「武佐<(むさ。1571~1658年)は、>・・・近江国の浄土真宗広済寺の住職・岡崎安休の娘<であるところ、>安休は浅井久政の落胤で、浅井長政の庶兄であるとい<い、>・・・のちに熱心な日蓮宗の信者となった<というが、>・・・<この>三木之次の妻となり二女を産<み>、後陽成天皇の女御・中和門院<(前出)>に仕え、侍従と称した<折、>語りが上手くよく話し相手をつとめていたので、後陽成天皇から戯れに「夜話しの侍従」と呼ばれたという。
 慶長8年(1603年)8月、伏見城で徳川家康の十一男・頼房が誕生した際、妹の岡崎(勝安寺樹珍未亡人、岡崎綱住の母)が乳母に選ばれた。夫の之次はこの縁で翌9年(1604年)に頼房の家臣となったが、武佐は引き続き中和門院に仕え<てい>た<ところ、>慶長12年(1607年)12月16日、頼房とともに駿府城に移っていた岡崎が病死し<、>5歳の頼房<が>朝夕悲しみ乳母を慕ってやまなかったため、家康は姉の武佐が岡崎と容姿が似ているという話を聞き、天皇の許しを得て武佐を駿府に下向させ頼房付きとした<結果、>武佐を迎えてようやく頼房の機嫌は直ったという。
 頼房が青年期、若気の過ちから異母兄である将軍秀忠の勘気をこうむった際、武佐は老中・土井利勝の邸宅に赴き、懇ろに申し開きしたところ、秀忠の怒りが解け、ことなく済んだという。また、・・・禅の知識も有り、あるとき禅法を学んでいた宗佐という尼僧と禅について論争になったが、武佐の議論にはかなわなかったという。こうした逸話から、物語りばかりでなく説得や議論にも長じた賢夫人であったことがうかがえる。
 元和8年(1622年)の頼房の長男・松平頼重の誕生時と、寛永5年(1628年)の頼房の三男の光圀誕生時、ともに頼房は堕胎を命じて母の高瀬局を之次夫妻に預けた。どちらも頼房の准母英勝院と相談の上、<前述のように、>三木邸で無事誕生させており、頼重は江戸麹町の邸宅で、光圀は水戸城下、柵町の邸宅で誕生した。頼重は後に京に行き武佐の娘婿・滋野井季吉<・・公家で、日蓮主義者であった可能性はあるが、日蓮宗信徒ではない(注30)・・>のもとで養育され、光圀は5歳まで水戸城下の三木邸で育てられた。寛永9年(1632年)頃に状況が変わったようで、両者とも認知の動きとなったようである。頼房は藩の招きで小石川藩邸に入ったが、痘瘡を病んだらしく、同14年(1637年)ようやく父頼房と対面した。その間、光圀は寛永10年(1633年)6歳の時、水戸藩の嗣子に選ばれた。

⇒頼重よりはるかに年少の光圀が嗣子に選ばれたのは、比較して遥かにより優秀であったと想像される(後述)ことに加え、結果としてだが、比較して日蓮宗信徒の影響をより強く受けていた・・頼重が養育された滋野井夫妻は三木夫妻とは違って、三木夫妻の娘である滋野井夫人だけが日蓮宗信徒であったと思われる・・ことも、プラスに作用したかもしれない。(太田)

 正保3年(1646年)、夫の之次が没する。承応元年(1652年)、光圀の庶子・頼常が誕生するが、光圀はこの懐妊の際に〈兄頼重の子を跡継ぎにしようとしていた光圀は男子が生まれることを望まず、〉<かつ、>[その頃、光圀と関白近衛家の娘・尋子<(ちかこ)>との縁談がまとまりつつある、間の悪い時期であった<ところ、>]父と同様に堕胎を命じ、母の親量院を家臣で武佐の娘婿・〔水戸藩・・・大老<で>・・・徳川光圀の三人の傳(ふ、補導役)の一人<であ>った。〕伊藤友玄〔・・水戸城下の三木之次邸の東隣に伊藤友玄邸がある・・〕に預けた。伊藤友玄は頼重と相談<、>・・・〔頼重が光圀を説得して兄弟間で話し合い、父の頼房には秘密にした上で、〕、江戸の友玄の邸宅で無事に誕生させ、頼常は頼重の高松城内で養育され〔<て>養子となり、高松藩第2代藩主<になっ>〕た・・・。・・・<尋子との縁談>の件に関して、水戸藩の伊藤友玄と京の滋野井季吉と、武佐の娘婿同士が書簡を取り交わしており、かつて泰姫の祖母の中和門院に仕えた縁から武佐自身もこの縁談に動いていたという説もある。・・・

 (注30)しげのいすえよし(1586~1656年)。「五辻之仲(当時は元仲)の長男として誕生する<が、>・・・中絶していた滋野井家を再興した。極官は権代納言。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E4%BA%95%E5%AD%A3%E5%90%89
 五辻家は九条家の門流(家礼)だが、滋野井家は近衛家の門流(家礼)。
https://sito.ehoh.net/kugemonryu.html

 <武佐の>墓所は<、夫の之次同様、>〈日蓮宗の〉水戸市妙雲寺。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%BD%90_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%88%BF%E4%B9%B3%E6%AF%8D)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%B8%B8 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8F%8B%E7%8E%84 (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E9%9B%B2%E5%AF%BA_(%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%B8%82) (〈〉内)

 <さて、光圀の生>母は谷重則の娘・高瀬局<(注31)だ>。

 (注31)久昌院(きゅうしょういん。1604~1662年)は、「墓所は初め水戸城下の経王寺であったが、のち水戸徳川家墓所瑞龍山に移された。歴代藩主夫妻が並んで葬られているのと同様、頼房の墓の隣に葬られているが、正室ではなかったため、頼房の基壇より1段低い位置に築かれている。・・・
 茨城県常陸太田市にある久昌寺は、1677年に光圀が久昌院の菩提を弔うために建立した。また頼重も菩提を弔うために、香川県高松市にある広昌寺を建立している。久昌院が生前日蓮宗の信者となっていた・・法号<が与えられている>・・ため、久昌寺・広昌寺ともに日蓮宗である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8C%E9%99%A2

 なお、『桃源遺事』によれば、頼房は三木夫妻に対して高瀬局の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。高瀬局が懐妊した際に、父の頼房はまだ御簾中(正室)を迎えていなかった。<結局、頼房は御簾中なしで生涯を終える。(太田)>
 後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、高瀬局は奥付きの老女養心院の娘で、正式な側室で<すら>なかった。母につき従って奥に出入りするうちに頼房の寵を得て、光圀の同母兄である松平頼重を懐妊したが、高瀬局の母養心院はこのことに憤慨してなだめられず、正式な側室であったお勝の方(円理院)も機嫌を損ねたため、頼房は堕胎を命じた<・・とされているが、すぐ後に出てくる光圀の言等に照らすと、真相は不明だと見た方がよさそうだ。(太田)・・>。頼房乳母で奥付老女の之次の妻・武佐が頼房の准母英勝院と相談し、密かに江戸麹町の別荘で頼重を出産したという。光圀にも同様に堕胎の命令が出され、光圀は水戸の三木邸で生まれた。
 頼重と光圀の間には次男・亀丸を含め5人の兄弟姉妹がいるが、彼らには堕胎命令の伝承はなく、光圀になぜ堕胎の命が出されたかは不明である。母に勢力がなかったためだろうかと、後年の光圀は語ったようである(『義公遺事』)。
 また、当時の江戸幕府が大名の一夫一妻制を進めており、正室以外の妻妾やその子供の存在そのものが武家諸法度違反に問われる可能性があったからとする説もある。この説では頼房の養母となっていた英勝院の奔走で頼重と光圀の存在を公にすることが許されたとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80

⇒光圀は、父の生母たる祖母の養珠院が日蓮宗信徒であった上、父の准母の英勝院も日蓮宗信徒であって、命の恩人がこの英勝院、と、やはり日蓮宗信徒であった三木之次夫妻だったわけだ。
 また、同じ1632年に、6歳も上の兄の頼重は江戸の水戸藩邸に、光圀自身は水戸城に呼び寄せられているが、光圀が翌1633年に世子に決定しているので、上出の、養珠院、英勝院と(三木之次の妻で)頼房の「乳母」を務めた武佐、の3人が、光圀を世子に強く推したと想像される。
 徳川本家の世子であった家光が2歳下の同母弟でより「優秀」であった忠長との世継ぎ争いに家康の介入で勝利して元和年間(1615~1624年)に世継ぎになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
ばかりであり、あえて、この本家の長幼の序を重んじた後継ぎ決定方式を無視して水戸徳川家がかかる決定を行ったことについては、光圀の優秀さが桁外れであったと推察されることはもちろんだが、水戸徳川家の日蓮主義家としての自負と本家への反発が背景にあり、しかも、かかる反発が上出の3人においても共有されていた可能性が高い。
 (なお、上述したように、三木之次夫妻は、光圀の子の頼常の命の恩人でもある。(注40))

 (注40)「松平頼常<(1652~1704年)は、上述した背景の下、>・・・生後間もなく京に、翌春に讃岐国高松に移され、高松城内で養育された。母親は江戸に留まり、のち水戸藩士の望月信尚の妻となった。
 光圀は兄の頼重を差し置いて自身が水戸藩主となったことを遺憾としていたため、頼重の次男である綱條を自身の養嫡子とした。<逆に、>寛文4年(1664年)、頼常は頼重の養子となった。
 延宝元年(1673年)2月19日、頼重の隠居により高松藩主となった。・・・
 元禄7年(1694年)閏5月、光圀の許しを得て、実母の弥智を高松に迎えた。この頃には望月は死去し、母は独りであったとされる。弥智は高松にて藩主生母として遇され20年、頼常より長生きし、正徳4年(1714年)に81歳で死去した。・・・
 頼常の死により、光圀の血筋は断絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E5%B8%B8 )

 それに加えて、この三恩人は、(やはり前述したように、)光圀にとって、近衛尋子との縁談を成立させた恩人でもある、ときている。
 当然、まず、自分が多くの人々の善意によって、殺されなくて済んだだけではなく、育まれ、人となったことに思いを致し、自分が、ひいては、古今東西のあらゆる人々、動植物、自然によって生かされていることに気付き(注41)、私の言う人間主義の存在を体感した上で、今度は、自分が、人間主義に反する殺人を生業とするといっても過言ではないところの、武士、のしかも棟梁家に生まれたこと、その武士の言動を律しているのは私の言う縄文的弥生性という、人間主義(縄文性)とは殆ど対蹠的なものであることにも気付いた筈だ。

 (注41)’It takes a village to raise a child – and that’s why we started talking to each other, argues an evolutionary biologist<.>’
https://www.bbc.com/news/videos/cjr1nn4x1q0o (コラム#15117)
というのは、魅力的な仮説であり、それが正しいとすれば、そして、その当時は狩猟採集時代で戦争はなかったとすれば、人々は皆、間違いなく、人間主義者だったことだろう。
 (戦争がない環境下で、)大人全員が自分を育ててくれたという気持ちに加えて、自然の恵みや犠牲のおかげで生きることができているという思いが、当時の一人一人にあったに違いないからだ。
 但し、そうであった以上は、(非人間主義者や反人間主義者が基本的にいない中で、)「人間主義」に相当する概念、言葉、は、その時点では生まれなかったと考えられる。
 光圀の場合は、非人間主義者である武士であったから、「人間主義」に気付いた、としてもおかしくはないということ。
 ちなみに、「言語は突然誕生したのではなく、数十万年かけて徐々に進化した。完全な音声言語は、5万〜10万年前にほぼ現在の形に近づいた可能性が高い。」(ChatGPT)

 また、光圀は、これと並行して、日蓮宗の教義や日蓮の事績を学んだに違いなく、そこまで来れば、日蓮が鎌倉幕府や朝廷に対して、日蓮主義の実行、すなわち、人間主義の世界への復活的普及を日本の軍事力によって行う対外戦争の実施、を求めた、という理解に達し、後醍醐天皇が初めてその実施準備に着手したが、反日蓮主義の頭目に同じく日蓮主義者の足利尊氏が担ぎ上げられた結果、挫折したこと、室町幕府はついに日蓮主義を実行しないまま終わり、織田信長が、朝廷を捲き込まない形での日蓮主義の実行を構想したが明智光秀によって殺害されてしまい、豊臣秀吉が本来の形での日蓮主義の実行に着手したものの、その途中で本人が死んだために失敗に終わった、的な認識に至ったに違いない。
 そんな光圀に、近衛家/島津氏から、近衛尋子をも通じて、将来の日本における日蓮主義完遂戦争再開のための基礎的構想を策定して欲しいとの依頼があったとすれば、それを受けないという選択肢はなかったのではなかろうか。
 そして、まさに、このミッションを成功裏に成し遂げた上で光圀は大往生を遂げるのだ。(太田)


[徳川頼房の取柄]

 表記の最大のものは、言うまでもなく、凡庸な長男の家光を秀忠の世子に指名したところの、家康、の長子相続によるお家騒動防止策の範例に逆らって、優秀な次男の光圀を世子に指名したことだろうが、それ以外にも取り柄がないのか、振り返っておきたい。
 なお、頼房(1603~1661年)は、「1610年(慶長15年)7月、家康の命により、実子市姫を亡くした於勝(英勝院)の養子となる<のだが、>・・・若年の頃の頼房<には>異様な衣服や刀を纏い、行儀や節度のない振る舞いがあり、幕府が附家老中山信吉を呼んで譴責を加えようとしたので、信吉が命を懸けて諌言し改めた<。>・・・御簾中:なし<。>」と、光圀に似た、半グレ的な幼少期だったが、「1630年(寛永10年)6月、家光が英勝院を通じて、「其方之御事は別而心安思候まま心中をのこさす万談合申事に候、兄弟有之候而もやくにたたす候間、此上は其方を兄弟同前に思候まま、弥万事其心得可有候(そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい)」との書状を送っている(徳川ミュージアム所蔵)。当時、家光の弟は2人いたが、同母弟忠長は改易となり高崎に幽閉中であり、異母弟保科正之は養子先の高遠藩3万石を継いでまだ2年目であった。一方、義直や頼宣には、かつて謀反の疑いがかけられるなど溝があった。こうしたことから、家光は頼房を頼りになる身内として江戸に常住させたようである。水戸家を俗に“副将軍”と称する論拠となった。」という具合に、家光とはウマがあったところの、「御簾中・・・なし」という変わった人物だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E6%88%BF

 その頼房の数少ない「立派な」挿話の一つ目はこうだ。↓

 「駿府城の天守閣に家康が後の尾張藩主徳川義直、後の紀伊藩主徳川頼宣と後の水戸藩主徳川頼房を伴って登ったとき、戯れに「ここから飛び降りた者にすきなものをやろう」と言った所、頼房は「私が飛び降ります!」と言った<ので、>驚いた家康に「何が望みだ」と問われた頼房は言下に「天下」と答えました、この言葉に家康は「天下をとっても死んではなにもなるまい」と聞くと、頼房は「一瞬でも天下取りになれば歴史に名が残る!」と答えたと言<う>。」
https://mito-ibaraki.mypl.net/article/kankou_mito-ibaraki/35424

 二つ目はこうだ。↓

 「頼房の時代、水戸藩中間の茂兵衛が献上鮭を京都に運ぶ途中、岡部宿で十数人の旗本たちにからまれ道を塞がれた。茂兵衛は「公用であるから」と道を譲ってくれるよう頼んだが、旗本たちは刀を抜いて脅し通さなかったため押し問答の末乱闘となった。水戸藩の中間は脇差以外の帯刀を許されていなかったが、茂兵衛はそれでも旗本数人を斬り伏せるなど奮闘した。しかし、応援に駆け付けた旗本たちによって槍で刺され「馬にある荷物は水戸様より朝廷へのご献上品である。このことは必ず伝えおく」と言って息絶えた。頼房は茂兵衛の忠勇を讃え、遺体を手厚く葬るとともに記念碑を建て、以後公用に限り中間が太刀を帯びることを許可した。」(上掲)

 三つめはこうだ。↓

 「承応元年(一六五二)十月、水戸家の鷹師・吉田平三郎が、幕臣の真野庄九郎と争った末、真野を殺害して行方をくらますという事件が勃発した。但野正弘<(注42)>氏は『黄門様の知恵袋』において、この事件をめぐるエピソードを紹介している。

 (注42)ただのまさひろ(1940年~)。茨木大文理学部(史学)卒、高校教諭を経て植草学園短大教授。
http://www.keibunsha.jp/books/9784905849506.html

 幕府は頼房に対して、「陪臣が、幕府の直臣を撃ち殺した場合には、その者を尋ね出して切腹させるのが、神君家康公以来の御諚(ごじょう)である。速やかに吉田平三郎を尋ね出し、切腹させよ」(但野氏訳)と命令してきた。
 頼房は、「陪臣とは、諸大名の家臣のことを言うのだ。我が水戸家の家臣は、神君家康公より直接付属された武士であるから、陪臣ではない。幕府直属の武士と同列である。吉田を尋ね出すことは出来ぬ」と、はねつけた。しかし、幕府は再三にわたって吉田の捜索と処分を要求してきた。
 これに対して、頼房は幕府の要求に反発、屋敷に引きこもり、江戸城に登城しなくなってしまった。この時、尾張・紀州の両家は家老を派遣し、「もし、吉田を尋ね出すようなことがあれば、御三家の面目が立たない。絶対にそういうことは、なさるべきではない」と進言した。さらに、水野監物(けんもつ)や太田資宗(すけむね)ら、頼房と親しい幕臣達も、水戸城に籠城して幕府と一戦を交えることを勧めた。また、奥州の伊達忠宗や九州の鍋島勝茂などの諸大名も、密かに頼房を応援すると申し出て来た。こうして、頼房自身も、幕府の要求は聞き入れないと決めたのだ。
 困った幕府は、松平信綱を小石川に派遣し、頼房を説得しようとした。これを聞いた頼房は、信綱が来邸したならば、「手討ちにしてくれようぞ」と待ち構えていたという。やがて小石川を訪れた信綱は、頼房をはじめ水戸家の緊迫した状況を見て、結局吉田平三郎のことは一言もふれず、型通りの挨拶だけをして退出する羽目となった。
 但野氏はこのエピソードを紹介した上で、〈水戸の頼房が、水戸家の家臣は幕臣と同様で、陪臣ではないという強い意識をもっていたことは注目に値します。則ち「水戸は徳川将軍家の親戚であって、将軍や幕府の家来ではない。」という自負心が極めて旺盛であったことを意味していると思います〉と指摘している。」
https://note.com/tsubouchi2016/n/nf124d894d407

⇒頼房が、紀州藩初代の頼宣ばりの日蓮主義者であったかどうか、また、尾張藩初代の義直ばりの尊皇論者であったかどうか、すら定かではない、上出の程度の「立派な」挿話群しか残していない、取り柄の乏しい父親であっただけに、この父親が兄を差し置いて自分を世子に指名したことに、光圀は、一層釈然としない思いを抱き続けたと想像される。
 (蛇足ながら、島津斉彬は、・・鍋島直正も同様なので、幕末の薩長土肥の大首長達の半分をカバーしたことになるが、・・頼房の女系の子孫だ。
https://bushoojapan.com/bushoo/tokugawa/2025/07/28/169923/3 
 これこそ、光圀には結果的にそういったことができなかっただけに、これも、光圀を世子に指名したことと並ぶ、但し、意図せざる、頼房の大きな取柄、ということになるのかもしれない。)(太田)

 「寛文元年(1661年)7月<に>頼房が水戸城で死去<すると、光圀は、>葬儀は儒教の礼式で行い、領内久慈郡に新しく作られた儒式の墓地・瑞竜山に葬った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 ちなみに、儒式では、「遺体を火葬でなく土葬にすることと遺族が喪に服する期間が長いことを特色とする。・・・
 日本では近世以降に儒教の排仏思想が強まるにつれて葬祭も仏式でなく儒式に改めるべきだという主張のもとに儒葬が行われ始めたが,当時幕府の宗門改めと寺請制度により実際には仏葬が強制されていたこともあって,儒葬を実行する範囲はごく限られていた。最初に儒葬を行ったのは土佐藩の野中兼山で,1651年(慶安4)に母の秋山氏を土葬にして3年の喪に服した。ついで水戸藩の徳川光圀が<後に>彼に仕え<ることとなる>儒学者朱舜水の意見を聞き,《文公家礼》を基にして《喪祭儀略》を作成し領内での普及を図ったが,光圀の死後,幕府の宗教統制に反することを恐れて再び仏葬に戻された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%84%92%E8%91%AC-77780

⇒父頼房に余り敬意を抱いていなかった可能性がある光圀が、亡き父をモルモットにして反幕行為をあえて行った、というのが私の見方だ。

 こういう機会を光圀に与えたことも、強いて言えば、頼房の取柄だろう。(太田)

 先走ってしまったが、「寛永9年(1632年)に水戸城に入城した・・・翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 これは、光圀(寛永5年6月10日(1628年7月11日)生まれ)が6歳の時であったところ、その時点から、島津氏/近衛家は、滋野井季吉/三木夫妻を通じて光圀に注目し、期待し、見守ってきたと私は想像しているのだが、光圀は、「兄(頼重)を差し置いての世子決定が<彼>の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、派手な格好で不良仲間と出歩き、相撲大会で参加した仲間が次々と負けたことに腹を立てて刀を振り回したりする振る舞いを行っており、吉原遊廓へ頻繁に通い、弟たちに卑猥なことを教えたりもした。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。<光圀>16~17歳のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求めた。光国<が、1646年ないし1647年、>18歳のとき、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより勉学に打ち込むこととなる。」(上掲)というのだから、島津氏/近衛家は、一安心し、近衛信尋存命中には、徳川頼房に光圀と娘の尋子の縁談を持ちかけていたと見ている。
 なお、光圀とほぼ同じ年齢だったところの、紀州徳川家の世子の光貞(寛永3年12月11日(1627年1月28日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E8%B2%9E
にも、島津氏/近衛家は注目していただろうが、知的能力や勉学好きの程度等が光圀ほどではないとの判断の下、紀州徳川家を日蓮主義家であり続けさせることだけを目指し、日蓮主義家の伏見宮家から照子女王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
を送り込ませた(後述)、と見る。
 さて、最後に、「近衛尋子<(ちかこ=泰(たい)姫。1638~1659年)についてだが、後陽成天皇の子である>・・・関白左大臣・近衛信尋の娘として生まれ<、>母は権大納言藪嗣良の娘<で、>・・・慶安2年(1649年)10月11日、父信尋が死去<するが、>慶安5年(1652年)8月頃、水戸藩の世継ぎであった徳川光国(後に光圀)との縁談がほぼまとまり、9月には幕府の承認を得<・・>同年の11月に光圀の庶子である頼常が誕生してい<・・たことはともかくとして、今度は、>承応2年(1653年)7月19日に兄の近衛尚嗣が没したため婚礼は延びたようで、承応3年(1654年)春に江戸に下向して水戸藩邸に入り、4月14日、光圀との婚礼が挙行された。・・・
 <時は過ぎ、彼女が赤痢で亡くなり、>年が明けた翌万治2年(1659年)の元旦、光圀は「元旦に藤夫人を祭る文」を書き、夫人の死を悼んだ。「……物換り、年改れども、我が愁は移ることなし。谷の鴬百たび囀れども、我は春無しと謂はん。庭の梅已に綻びたれども、我は真ならず謂はん。去年の今日は対酌して觴(さかずき)を挙げ、今年の今日は独り坐して香を上る。鳴呼哀しいかな。幽冥長(とこし)へに隔つ。天なるか命なるか。維(ただ)霊来り格(いた)れ。(原文漢文)」
 また、実家近衛家に奉ずるため、「藤夫人病中葬礼事略」を記している。
 和歌に優れ学識が高く、光圀との仲は睦まじかった。光圀に仕えた和学者・安藤年山は著書『年山紀聞』の中で、「御生質の美なるのみならず、詩歌をさへこのみ玉ひて、古今集、いせ物語はそらにおぼえ、八代集、源氏物語などをよく覚えたまひしとぞ。また三体詩をも暗記したまひけるとぞ」と記している。また儒学者・辻了的は、その容姿について「天姿婉順」と評している。
 家集として『香玉詠藻』がある。また、漢詩二首が伝わっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90
 この尋子に対しても、光圀に「日蓮主義戦争再開・完遂のための諸理論の構築」を行わせるためだから、と、言い含めて、島津氏/近衛家は、光圀に嫁がせた、と、私は見ているわけだ。

  イ 光圀プロジェクト

 (ア) 日蓮主義日本史編纂

 「徳川光圀は18歳のころに読んだ<『史記』の>伯夷列伝に感銘を受け、自分と兄(松平頼重)の関係に重ね合わせ、それまでの蛮行を改め、学問を目指すきっかけとなり、『大日本史』編纂、さらには水戸学の端緒となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%A4%B7%E3%83%BB%E5%8F%94%E6%96%89
 「伯夷が長男、叔斉は三男である。父の亜微から弟の叔斉に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔斉に位を継がせようとした。しかし、叔斉は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がそうとした。そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れた。叔斉も位につかずに兄を追って出国してしまった。国主不在で困った国人は次男の仲馮を主君に立てた。
 流浪の身となった兄弟は、周の西伯昌(文王)の良い評判を聞いて周へ向かった。しかし、周に到着したときにはすでに西伯は亡くなっており、息子の姫発(武王)が、(太公望)呂尚を軍師に立て、悪逆で知られた帝辛(殷の紂王)を滅ぼそうと軍を起こし、殷に向かう途中だった。兄弟は道に飛び出し、馬を叩いて姫発の馬車を止め「父上が死んで間もないのに戦をするのが孝と言えましょうか。主の紂王を討つのが、仁であると申せましょうか!」と諌めた。周囲の兵は怒り兄弟を殺そうとしたが、呂尚は「手出しをするな! 正しい人たちだ」と叫び、兄弟を去らしめた。
 戦乱ののち殷は滅亡し、武王が新王朝の周を立てた後、兄弟は周の粟(穀物)を食む事を恥として周の国から離れ、首陽山<(西山)>に隠棲してワラビやゼンマイを食べていたが、最後には餓死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%AF%E5%A4%B7%E3%83%BB%E5%8F%94%E6%96%89

⇒ちなみに西山荘(後出)の西山は、伯夷・叔斉兄弟が餓死した首陽山の蔑称(上掲)だが、伯夷列伝を読んだことが、光圀が、それまでの蛮行を改め、「学問を目指すきっかけとな」った・・・・のは<そ>の通りなのかもしれないけれど、「『大日本史』編纂、さらには水戸学の端緒となった。」のは、そうではなく、上述した島津氏・近衛家からの依頼である、と私は見ている。
 というのも、光圀に、そのような史学的にして思想的な営為を行う気にさせた可能性があるところの、史学の師的な人物や思想の師的な人物、が見当たらないからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 強いて言えば、儒学者の藤原惺窩
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%83%BA%E7%AA%A9 
の長男として誕生<し、>・・・正保4年(1647年)、叔父・冷泉為将の死去に伴い、勅命により下冷泉家を相続<し、>後光明天皇の<和歌の>侍講として活躍<した>・・・冷泉為景(1612~1652年)<だが、>・・・[・・光圀<が>・・・19歳の時に・・・、上京した侍読・人見卜幽を通じて・・・<彼と>知り合<った>・・・とき<、>人見卜幽は光圀について、「朝夕文武の道に励む向学の青年」と話している<ところ、光圀は、この為景>・・]と・・・交流を持ち、慶安4年(1651年)朝廷使節団の江戸下向に伴<っていた彼との>対面を果たした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%B7%E6%B3%89%E7%82%BA%E6%99%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 前掲 []内。ところ、為景は儒家としてではなく歌人として有名ながら、光圀は、伯夷列伝に感銘を受けて自分の兄の子を養子にもらいうけることを考え始めていて、その自分の考えを儒教によって裏付けられないか、との思いから為景の儒教の素養を吸収しようとした可能性はあるけれども、為景から受けた薫陶は、せいぜいその限りにおけるものであったのではなかろうか。(太田)

 1654年の尋子との結婚の3年後の「明暦3年(1657年)、水戸藩世子の徳川光圀は江戸<水戸藩>駒込別邸内に史局を開設し、紀伝体の日本通史(のちの「大日本史」)の編纂事業を開始した。<そして、1661年に>藩主<に>就任<した>後の寛文3年(1663年)、史局を<水戸藩上屋敷の>小石川邸に移し、彰考館とした。
 当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。

⇒近衛家が、人材を見つけて送り込んだということだろう。(太田)

 編纂過程においては、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。・・・
 光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多い。・・・

⇒分ける意味も必要もない、というのが私の考えだ。
 (後述するところも参照。)(太田)

 この「大日本史」の編纂事業は、第6代藩主徳川治保<(はるもり)>の治世、彰考館総裁立原翠軒を中心として[天明6年(1786)年に]再開され[、<その子で7代藩主の徳川治紀(はるのり)の時の>文化7年(1810年)・・・朝廷に献上され]る。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6
https://bunkyo-tushin.com/?p=3689 ([]内)
 さて、「水戸徳川家の世子であった徳川光圀は歴史学に強い関心を持ち、青年時代から修史事業を企図していたと言われる。

⇒そんな証拠はない筈だ。(太田)

 光圀は世子時代の明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内の火事小屋御殿に史局を開設し、数人の局員と文庫を設けて修史計画に取り組んでいたが、寛文元年(1661年)には父頼房の死去により水戸藩主に就任し、その後は藩政や公務に忙殺されていた。
 このころ幕府では『本朝通鑑』の編纂事業が行われ、これに刺激を受けた光圀は寛文12年(1672年)史局を江戸小石川藩邸に移転し、「彰考館」と命名した。「彰考」は光圀の命名で『春秋左氏伝』の杜預序の語「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)に由来する。史局には光圀揮毫による扁額が掲げられ、5か条の局員心得も記された。

⇒彰考館の名前の由来は実にイミシンだ。(太田)

 史館員は全国各地に派遣されて史料調査を行い、修史編纂のほか史料収集の過程で立案された朝廷記録の編纂など、各種編纂事業に従事した。なお、光圀期の史館員は水戸藩出身者よりも士分として取り立てられた林家学派の儒者などの来仕者が中心となっている。
 修史事業は天和3年(1683年)に『新撰紀伝』104巻の完成を見るが、南朝を正統とする理念を固めていた光圀は終期の延長と内容の不備を正すため修史事業は継続された。

⇒南朝正統史観は、近衛家によるインプットで間違いなかろう。
 なぜ、北朝正統ではなく、南朝正統でなければならないのか?
 誰でも想像がつく理由は、第二次日蓮主義戦争は秀吉流日蓮主義の究極形態たる中央集権体制・・当然それは、反幕/反院政/反摂関政治、ということになる・・で行われなければならないところ、北朝は、天皇親政なる中央集権体制を追求したことがないからだ。
 親政を行った主な天皇は次の通りだった。
・天武天皇(673年 – 686年)
・桓武天皇(781年 – 806年)
・宇多天皇 – 寛平の治(887年 – 897年)
・醍醐天皇 – 延喜の治(897年 – 930年)
・村上天皇 – 天暦の治(946年 – 967年)
・後三条天皇 (1069年 – 1072年)
・後醍醐天皇 – 第一次親政から元弘の乱まで(1321年 – 1331年)、建武の新政(1333年 – 1336年)、南朝(1337年 – 1339年)
・後村上天皇(1339年 – 1368年)
・長慶天皇(1368年 – 1383年?)
・後亀山天皇(1383年? – 1392年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E6%94%BF
 また、南朝の対外姿勢が強硬であったこも付け加えなければなるまい。
 思い出されるのは、懐良親王の明太祖に対する強硬な姿勢だ。↓
 「明の洪武2年(1369年)、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『明太祖実録』に書かれている。その記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。・・・
 洪武14年(1381年)7月、懐良親王の使者として僧の如瑶が明に入朝した際、明の太祖は日本が朝貢に不誠実であり、倭寇の取り締まりも怠るという理由で懐良親王を叱責する国書を送った。この国書で太祖は「島国の有利な地形を恃んで倭寇を放置している」と指摘し、もしこれを正さなければ禍を受けるだろうと威嚇した。『明史』には太祖から伝わった高圧的な国書に対し懐良親王が大胆に応酬した事実が記録されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B 
 しかし、隠れた最大の理由は、前述したように、南朝の祖となった後醍醐天皇が、日蓮主義戦争の準備に着手したとみなし得ることだろう。
 なお、「『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
が、根拠薄弱な三種の神器論を持ち出したのは、上記のような真の理由を前面に出すわけにはいかなかったからに過ぎない、と、私は見ている。(太田)

 同年には新たに総裁を設置し初代総裁には人見懋斎<(注43)>が選任され、享禄元年には小石川藩邸内の天神坂上に新館を設置する。

 (注43)ひとみぼうさい(1636~1696年)。「京都出身<で>・・・林鵞峰(がほう),・・・朱舜水にまな<んだ>・・・儒者<であり、>・・・水戸藩につかえ,天和(てんな)3年(1683)彰考館初代総裁となった。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E8%A6%8B%E6%87%8B%E6%96%8E-1103617 

 光圀は元禄3年(1690年)に隠居し西山荘での生活を送っていたが、晩年の光圀は紀伝以外の各種編纂事業を中止させ校訂作業を次世代へ持ち越すなど編纂方針を変更させ、史館員を増強させる等事業を促進させている。元禄10年(1697年)には本紀「百王本紀」が完成し、同年2月には残る列伝の完成のため総裁をはじめ主用な史館員を水戸城内へ移転させ、水戸彰考館(水館、水戸史館)を発足させた。
 [<従来の>江戸小石川藩邸の<方は>「江館」と<呼ばれるようになった。
https://yoshiharu-n-2025.hatenablog.com/entry/4bbf484685c0ff8ed0c537d03f3b9df4 ]
 光圀の死後、修史事業は正徳5年(1715年)には完了し、藩主綱條の裁定で書名が『大日本史』(正徳本)と定められる。これは江館の主張した書名で、水館の主張する『皇朝新史』との間で論争があった。正徳本の完成以降にも修史事業は継続され、享保年間には安積澹泊が享保本『大日本史』を完成させ、本記・列伝に続く「志・表」の編纂が懸案事項となっていたが、澹泊の死後に修史事業は実質的な休止状態となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E8%80%83%E9%A4%A8

⇒もっぱら、『大日本史』の話が出てきたが、(後述するところからして、)彰考館江館は日本最初のシンクタンクであった、と言ってよかろう。(太田)

 なお、光圀は、日蓮主義史観に基づく実践も行っている。↓
 「元禄6年(1693年)・・・4月、・・・佐々宗淳・・・を楠木正成が自刃したとされる摂津国湊川に派遣し、正成を讃える墓を建造させた(湊川神社)。墓石には、光圀の筆をもとに「嗚呼忠臣楠氏之墓」と刻まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 これらもそうだ。↓
 「元禄6年(1693年)から数年間、水戸藩領内において、「八幡改め」または「八幡潰し」と呼ばれる神社整理を行う。神仏習合神である八幡社を整理し、神仏分離を図ったものである。藩内66社の八幡社の内、15社が破却、43社が祭神を変更された。・・・
 元禄9年(1696年)12月23日、亡妻・泰姫の命日に出家する。寺社改革を断行した光圀であるが、久昌寺に招いた僧・日乗らと交流し、年齢を重ねるごとに仏教には心を寄せていたことがうかがえる。」(上掲)
 また、第二次日蓮主義戦争の準備行為まで行っている。↓
 「貞享から元禄の初めにかけて、建造した巨船「快風丸」を使い、三度にわたる蝦夷地探検を命じる。二度目までは松前までの航海であったが、元禄元年(1688年)出航の3度目は松前から北上して石狩まで到達し・・・酒などと引き換えに、塩鮭一万本、熊やラッコ、トドの皮などを積んで帰還した。この航海により、水戸藩は幕末に至るまで蝦夷地に強い関心を持った。しかし、この巨船での航海は、光圀が藩主であったから幕府も黙認して実現したようで、これ以降行われず、光圀の死から3年目に快風丸も解体された。」(上掲)

 (イ) 神道的朱子学奨励

 光圀は、冷泉為景との交流を通じ、朱子学に通暁することになった可能性が大であり、「『近思録』は、朱熹と呂祖謙が周濂渓、張横渠、程明道、程伊川の著作から編纂した、淳熙3年(1176年)に刊行された朱子学の入門書である<ところ、その>4章<は>存養・・心の根本を養い育てること・・・6章<は>斉家之道<、>・・・8章<は>治国平天下之道<、を記していて、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2
「君民の関係が親子の間の慈愛と思慕の間柄であること<を>理想<とし、>・・・家の秩序と国家の秩序とを士大夫の当為の意識の下で連続的にとらえ」
https://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB%E6%96%89%E5%AE%B6%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%A4%A9%E4%B8%8B-526978
ていること、から、光圀は、日本において、「君」・・伯夷叔斉にとっての殷王・・に相当するのは「天皇」なので、日本において孝の精神(人間主義)<(注44)>に基づき家の秩序と国家の秩序を整える尊王ならぬ尊皇を唱えることで将来徳川幕府を消滅させ易くすることができるし、その後、観念上、全国民を武「家」化した上でその「家」を天皇と直結させることで、日蓮主義戦争を遂行し易くすることができる、と考え、朱子学を推奨した、と、私は見ている。

 (注44)「孝は、孔子以来、儒教が重視した徳。もともとは親に対する子のふるまい方であるが、中江藤樹は、その孝を究極の原理に高め、親に対する子のふるまい方としての孝を、すべての身分の別に関係のない、共通に万人の心に内在しているものとした。したがって日常的に「孝」を中心とする生活を送ることの大切さを説いた。
 中江藤樹<(1608~1648年)によれば、自分の身は親より受け、親の身は天地から受け、天地は太虚より受けたものであるから、天地万物は同根一体である。その意味で、孝とは永遠の道理である。そしてその道理が人に現れた場合に人倫の道埋とされる。
 孝とは親の子にたいる関係であるが、その前に絶対者への帰属関係であるともいえ、すべてが孝の展開にほかならないととらえた。」
https://hitopedia.net/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9/
 中江藤樹は当時有名な人物であり、光圀は、当然、藤樹のこの主張を良く知っていた筈だ。 
 (光圀は、だからこそ、「孝」を懸命に実践した。
 「父の頼房が死の床にあったとき自ら看病に当たり、死去すると3日も食事をしなかった」のは、単なるパーフォーマンスだった可能性があるが、母や養祖母に対する下掲は、衷心からのものだろう。
 「延宝元年(1673年)、5回目の就藩からの江戸帰府に際し、通常の経路でなく、上総から船で鎌倉に渡り江戸へという経路をたどった。鎌倉では英勝寺を拠点として名所・名跡を訪ね、この旅の記録を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏めた。貞享2年(1685年)、『鎌倉日記』をもとに河井恒久らにより、地誌『新編鎌倉志』が編纂された。創作の『水戸黄門』では日本全国を諸国漫遊しているが、藩主は江戸になければならず、領地を視察や移動中に寄り道することはあったが、光圀は遠出といっても鎌倉にある養祖母・英勝院の菩提寺(英勝寺)に数度足を運んだ程度である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 前掲
 「<また、>1677年(延宝5年) 徳川光圀は≪生母の久昌院の菩提を弔うために≫法華経寺・日忠を招いて<そこに>久昌寺<(きゅうしょうじ)>を建立する。
 ≪<光圀の兄の松平>頼重も<その>菩提を弔うために、<現在の>香川県高松市に・・・日蓮宗<の>・・・広昌寺を建立している。≫
 1683年(天和3年) 徳川光圀は中村檀林・日耀を招いて[久昌寺の前の山に]三昧堂檀林を開檀<し、>・・・常時数百名の学僧<を>学<ばせた>という。・・・
 <(ちなみに、>1843年(天保14年) 三昧堂檀林は廃檀する。1870年(明治3年) 現在の・・・茨城県常陸太田市新宿町・・・に移転し、末寺・蓮華寺と併合する<。)>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%B8%82) 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%98%8C%E9%99%A2 (≪≫内)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%98%A7%E5%A0%82%E6%AA%80%E6%9E%97%E8%B7%A1-3032260 ([]内)
 但し、英勝寺巡りや久昌寺建立/三昧堂檀林開檀は、日蓮主義普及宣伝目的でもあったと考えられる。)

 (なお、『近思録』が斉家を重視しているところ、光圀は、支那では「家」そのものが名存実亡状態なのに日本では武家を中心に確立していることも知っていたのだろう。)
 これは、明や清、そして、李氏朝鮮、更には、徳川本家が、朱子学を、その「身分秩序を肯定し、統治者の権威を理論的に補強する側面」
https://hitopedia.net/%e6%9c%b1%e5%ad%90%e5%ad%a6/#gsc.tab=0
に着目して官学化したのとは、全く異なる朱子学の利用だった。
 こう考えることで、初めて、西郷隆盛が主宰し大久保利通と共に結成したところの、『近思録』を輪読する会・・後世、精忠組と命名された・・の旧会員達が幕末の薩摩藩を主導して行ったり(注45)、明治維新政府が、神仏分離令を発したり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E5%88%86%E9%9B%A2
家制度の全国民への導入を行ったりした
https://jpnculture.net/ieseido/
のはどうしてかが分かるというものだろう。

 (注45)「近思録崩れの秩父季保が愛読した『近思録』を輪読する会を西郷吉之介(西郷隆盛)・大久保正助(大久保利通)・長沼嘉兵衛(早世)・有村俊斎(海江田信義)・税所喜三左衛門(税所篤)・吉井仁左衛門(吉井友実)・伊地知竜右衛門(伊地知正治)らが結成し、後にそれが発展したものである。彼ら自身が「精忠組」、「誠忠組」を名乗った事実はなく、後世の命名である。
 安政の大獄期、僧月照とともに入水した西郷隆盛(蘇生した後、奄美大島潜伏を命じられた)を盟主的存在とし、大久保・堀仲左衛門・岩下方平らが主導した。水戸藩と共同して大老井伊直弼を暗殺し京都への出兵を行おうとする「突出」を計画したが、藩主島津茂久およびその実父で後見役の島津久光から軽挙妄動を抑制されて頓挫した。結局井伊暗殺には有村次左衛門のみが参加(桜田門外の変)し、それを国元へ伝えた兄の有村雄助は切腹処分となる。藩当局の対応に不満を懐く一派はあくまで突出を主張したが、大久保らがそれを抑えた。
 久光はその後、精忠組の取り込みを図り、大久保・税所・堀・吉井らを側近として抜擢し、活躍させた。文久2年(1862年)に久光は、精忠組の主張する「突出」に代わり、幕府改革を企図した出兵を実行に移す・・・。しかし精忠組の中でも有馬新七ら過激派は、真木保臣・清河八郎ら諸国の尊王攘夷派志士らと連携し、孝明天皇奪還計画などに加わり、久光の説諭にも従わなかった。有馬らが集結する旅館寺田屋に向けた久光からの上使として奈良原繁・大山綱良らが最後の説得を行うが、交渉は決裂、精忠組の同士討ちとなる寺田屋騒動が発生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E5%BF%A0%E7%B5%84

⇒「近視録崩れは、・・・文化5年(1808年)から翌6年(1809年)にかけて薩摩藩(鹿児島藩)で勃発したお家騒動<であり、>文化朋党事件、秩父崩れとも言われる<ところ、その>・・・命名の由来は、処分された秩父季保らが『近思録』・・・の学習会によって同志を募ったことから」なのだが、その背景は、「鹿児島藩8代藩主・島津重豪<が>他藩より遅れた自藩の状況に懸念を抱き、計画倒れになっていた藩校・造士館の建立や、天文観測所・明時館や佐多薬園をはじめとする蘭学に関する施設建設、他地域からの商人の招聘などの政策を採った<けれど>、鹿児島藩は江戸時代初期から慢性的に赤字であり、更に先年宝暦治水事業を負わされ莫大な借財を抱えていた<ところ、>その上での文化事業に加え、鳥見職設置による貴重な生物がいる土地の開発を禁止したいわゆる動植物保護政策により、鹿児島藩は農民ばかりではなく、実質的に開墾で生活している郷士を初めとする武士階級にも高負担を強いる財政構造に転落していった。しかし、この現状を全く理解していなかった重豪は娘の茂姫を徳川家斉の御台所とし、他の子女も有力大名と縁組みさせた。これらの縁組みは確かに鹿児島藩の地位向上には寄与したものの、つきあいに伴う出費がかさみ、ますます鹿児島藩財政を圧迫した。」ということがあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%80%9D%E9%8C%B2%E5%B4%A9%E3%82%8C 
 そして、「藩主斉宣が儒教的な理想主義のもとに簡朴な薩摩の古風を復興し、倹約主義で財政復興を試みようと<して、>・・・前藩主重豪が安永・天明期に確定した財政経済政策を転換しようとしたため、隠居重豪によって藩主斉宣とその一派が罷免・処罰された」
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/7178720/19_p061.pdf 
 つまり、朱子学は、重豪/斉彬に敵対する勢力に援用されたり、その逆に味方する勢力に援用されたりしたわけだが、この2つの藩内勢力を分けたものは、第一に朱子学を理想視するのか手段視するのかの違いであり、第二に(理想視したり手段視する)目的が「治国」なのか「治国平天下」なのかの違いであり、第三にその「治国」の「国」を薩摩藩と見るか日本国と見るかの違いだった、というのが私の見方だ。
 もとより、重豪にも、藩の財政危機、や、そのこともあっての藩士の困窮、を見過ごしていた、という問題はあるが、要は、重豪の追求していた諸施策を基本的に維持したまま、財政再建を行う方策を見出し、とればよかったということだ。(太田)

 念のためだが、光圀が朱子学を推奨したのは、紛れもない事実だ。↓

 「山崎闇斎は神儒一致と考えていて、儒家神道の垂加神道を唱えた(垂下は闇斎の神道風の号)。

⇒山崎闇斎は、孔子や孟子の言う仁≒縄文性/人間主義、であることに気付いていたのだろう。(太田)

 例えば『朱子家礼』(朱熹が編纂したとされる冠婚葬祭についての本)の実践に努め、日本古来の神道を結びつけて、儒教式であると同時に神道式でもあるような墓を作るようになる。もっとも、仏教式でない神道式の葬儀というのは律令に定まったもの、・・日本の律令に定められた葬儀<は>儒教式の葬儀の影響を受けている(また、神道の施設に儒教の用語である社や祠を当てはめた)。・・・で儒教の影響を受けているので、両者は似ていた。
 江戸時代は、武士階級では朱子学が力を持っていた。大名の中には特に積極的に朱子学を受け入れる好学大名が現れ、彼らもまた神儒一致を唱え、・・・<徳川光圀のように、>儒教式かつ神道式の葬儀をあげようとしたものもいた。・・・
 徳川光圀・・・は保科正之<・・光圀同様、生母が日蓮宗信徒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%85%89%E9%99%A2_(%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B%E7%94%9F%E6%AF%8D) 
・・>と共に全国に先駆けて藩内で殉死を禁止した大名で<も>あるが、これも儒教精神に基づくものであった。戦国大名の家来は大名個人に仕えていたのだが、これを藩という組織に忠義を尽くすものと変えたのだ」
https://note.com/masssany/n/ncc375ccaea9b

⇒古墳が大量に作られたのは日本列島においてだけのようだが、その前身は、弥生時代前期から見られた比較的小規模な墳丘墓であり、弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなり、その後の古墳時代の古墳へとつながっていく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A2%93%E5%88%B6
 私の仮説は、(古墳を含む)墳丘墓は江南文化系由来であるというものであり、その証拠が、秦による天下統一直前の楚の考烈王の墳丘墓であり、
https://chunichishinpou.com/archives/2024/06/02/6007/
また、古墳はそれを巨大化したものであって、(内実は江南文化系であったと私が見ている)秦始皇帝陵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E9%99%B5%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%85%B5%E9%A6%AC%E4%BF%91%E5%9D%91
や、江南文化系の漢の劉邦のかなり大きな長陵、
https://kang-fu-lu.com/2017/12/08/china-trip_xian_xihan_liubang_chang-ling3/
である、というものだ。
 その上で、支那で殷末周初の時代に、支那の山東半島あたりから稲作技術を身に着けて江南文化系となった人々が、朝鮮半島南部、更には縄文時代末期の日本列島に到来して小さな墳丘墓を作り始めて弥生時代が始まり、次いで、前漢末期以降の戦乱から逃れた江南人・・当然江南文化系・・の人々が、やはり朝鮮半島南部、更には弥生後期の日本列島に渡来して諸小国を作り、それら諸国の首長格の人が亡くなると大きな墳丘墓を作り出し、諸国の規模がそれぞれ大きくなるにつれて古墳が作られるようになり、古墳時代が到来する、と、考えるわけだ。
 ここで言いたいのは、光圀らが作り始めた儒教/神道式墓は、水戸藩士のための常磐(ときわ)共有墓地も、
https://mitokoumon.com/facility/historic/tokiwakyouyubochi/
水戸徳川家墓所も
https://www.tokugawa.gr.jp/zuiryu/
も、墳墓的なものとは無縁であるということであり、(当時は、縄文時代や弥生時代的な観念はなかっただろうが、)光圀らは、漠然とながら、日本の、古墳が作られた時代より前の時代、を理想視していたらしい、と言えそうだ。
 順序が逆になったが、以上に関連して、光圀の神道政策を紹介しておこう。↓

 「静神社(しずじんじゃ)<は、>・・・主祭神の建葉槌命について、『古語拾遺』には「天羽槌雄神」と記載され、倭文の遠祖であり文布を織って天照大神に仕えたとある。また、『日本書紀』神代には「倭文神建葉槌命」とあり、武甕槌神・経津主神の葦原中国平定で従わなかった星神香香背男へ派遣されて平定したという。・・・
 鹿島神宮(一宮)や吉田神社(三宮)とともに静神社は常陸国の二宮として崇敬されたという。・・・
 江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川秀忠から神領150石が寄進された。その後は水戸徳川家の祈願所とされ、維持管理は藩費によってなされたという。寛文7年(1667年)に徳川光圀・・・が社殿を修造し、弘願寺を含めて3寺は廃された<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 「吉田神社 (水戸市)<は、>・・・日本武尊を祀ることから、蝦夷征伐の過程で古くから朝廷からの強い崇敬を受けた神社である。・・・
 徳川光圀は寛文6年(1666年)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し、徳川斉昭は天保15年(1844年)に『大日本史』と社領100石を寄進した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%B8%82)
 「光圀<は、>・・・神社については、社僧を別院に住まわせるなど神仏分離を徹底させた。また、藩士の墓地として、特定の寺院宗派に属さない共有墓地を、水戸上町・下町それぞれに設けた(現在の常磐共有墓地 と酒門共有墓地)。一方で、由緒正しい寺院、長勝寺 (潮来市)や願入寺(大洗町)などについては支援・保護した。神社については、静神社(那珂市)、吉田神社(水戸市)などの修造を助けるとともに、神主を京に派遣して、神道を学ばせている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 前掲

(参考)

 「水戸德川家墓所は、瑞龍山と号し、・・・讃岐松平家以外の3支藩の分家は、本家の水戸藩主德川家と同じ墓所に埋葬されてい<る>。・・・光圀が儒教に基づいて定めた水戸德川家独自の形態<だ>。葬祭は無宗教であるため、墓所内に菩提寺はなく、僧侶の立ち入りは禁じられてい・・・た。墓所は、寛文元年(1661)の初代頼房の埋葬、墓造営に始まり、延宝5年(1677)に頼房側室久子(光圀生母)、初代水戸領主の武田信吉(家康5男)、2代夫人尋子が水戸から改葬され、本格的な墓所造営が開始され・・・た。」
https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-114/
 ちなみに、「大塚先儒墓所<は、>・・・徳川秀忠と徳川頼房の儒師であった人見道生(人見ト幽軒)<(注46)>の邸宅であった<が、>寛文10年(1670年)に道生が没した際、遺体を邸宅内に葬ったのが儒葬墓地の始まりだとされ<、>・・・古賀精里、尾藤二洲ら寛政の三博士(寛政の三助)はじめ木下順庵、室鳩巣らの墓がある。墓石は仏式よりもやや細長い「柱」状のものがある。・・・

 (注46)人見卜幽軒(ひとみぼくゆうけん。1599~1670年)は、「菅(かん)得庵,林羅山にまなぶ。のち・・・水戸藩主徳川頼房の侍講となり,光圀につかえた。・・・京都出身<で、>・・・著作に「五経童子問」「土佐日記附註」「東見記」など。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E8%A6%8B%E5%8D%9C%E5%B9%BD%E8%BB%92-1103618

 <昭和初期に?>近隣の吹上稲荷神社(墓地の入り口から50メートルほど南に所在する。)に管理が委託された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%85%88%E5%84%92%E5%A2%93%E6%89%80
 「江戸時代はいわゆる儒教道徳が興隆し、「家の墓」が登場し始めた時期であるが、「儒教式の墓地」では一般的イメージとは異なり、「家の墓」は採用され<ず、>・・・大塚先儒墓所に埋葬された儒者たちは、あくまで「個人」として葬られた。・・・
 元は「土饅頭」で・・・様々な大きさのシンプルな形状の墓石が建ってい<た>。」
https://www.sougiya.biz/kiji_detail.php?cid=604
 「奥都城(おくつき)とは、上代の墓のこと。・・・、『万葉集』に「奥都城」、『日本書紀』神代巻に「奥津棄戸(おくつ すたへ)」と記されている。本来の意は、死体遺棄による葬法を表しているものであり、一般民衆の死体が遺棄されていた事による(考古学上においても、古代日本において一般人は墓を築いた形跡はなく、遺棄された状態である)。『伊呂波字類抄』、『秦山集』、『伊勢物語』、『古事記伝』などの文献中に葬式の事を「はふる」と記しているが、これも遺棄を意味するものであり、奥都城と同様の意味であるとされる(『古事記伝』での表記は「波夫里(はふり)」と記す)。・・・
 『吾妻鏡』弘長元年(1261年)2 月29日条には、幕府が関東諸侯において、「~死屍(しし)を路地に弃(す)つる事を禁制すべし」と定めている事からも、死体遺棄が中世前半の庶民にとっても一般的な行いであった事が分かる。・・・
 神道墓の形成は、後世の神道家によって大成されたものである。なお、縄文時代に貝塚に遺骸を捨てる風習があるが、これは一説に、貝塚自体が全ての生物の霊魂を他界へ送り返すための祭の場であり、単なるゴミ捨て場ではなく、埋葬場として用いられたとするものがある。・・・
 神社では通常墓地を所有していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E9%83%BD%E5%9F%8E
 ちなみに、「<支那>では古代から埋葬は土葬で行われていて、儒教では火葬は遺体への冒涜という考えがあ<っ>た。」
https://www.cinemart.co.jp/article/news/20211105005000.html
 また、「日本では一般的に個人の墓が多く、家族ごとに区画が分かれていることが多いのに対し、<支那>では家族墓地や風水を重視した墓地の配置が行われることが多い・・・。」
https://lxr.co.jp/blog/11596/

 (ウ) 武家的陽明学奨励

 青年時代の光圀について、人見卜幽は「朝夕文武の道に励む向学の青年」と述べている(前述)ところ、元和偃武(1615年)は、1628年生まれの光圀(~1701年)の生前のことであり、光圀が9歳の時の島原の乱(1637~1638年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E4%B9%B1
以降、日本は戦乱とは無縁の社会になっていたことから、光圀には軍事的な事蹟は皆無だが、文と武への分類が難しいものもあるし、そもそも選者がいかなる基準で「名言格言」を採用したのかという問題もあるけれど、ざっと言えば、戦国時代の末期を生きた徳川家康の名言格言78選中、何と軍事に係るものは6しかない
https://meigenkakugen.net/%e5%be%b3%e5%b7%9d%e5%ae%b6%e5%ba%b7/
のに対し、徳川光圀の名言格言16選中、軍事に係るものは11もあり、
https://meigenkakugen.net/%e5%be%b3%e5%b7%9d%e5%85%89%e5%9c%80/
いかに、光圀が軍事を重視していたかが直観的に分かろうというものだ。
 ところで、「水戸藩第9代藩主徳川斉昭公は<、>北辰一刀流の千葉周作を水戸に招くなど武芸を奨励してい・・・た<ところ>、天保12年(1841)に藩校「弘道館」を設立し・・・た。それに先立つ天保9年(1838)弘道館の教育方針を示した「弘道館記」が藤田東湖により起草されてい<る>がその中に「忠孝無二 文武不岐<(ぶんぶふき)>」という言葉が出て<くる>。」
https://www.shikouken.net/bukimeikaisetu/pdf/zeze.pdf
というのだが、「文武不岐」という言葉、というか観念は、藤田東湖(1806~1855年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96
の父親の幽谷(1774~1826年)が古着屋の出身であったこともあり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%B9%BD%E8%B0%B7
東湖自身のものであるとは考えにくいのであって、恐らくは、水戸藩に伝統的にあった観念で、光圀まで遡ると考えるのが自然だろう。
 朱舜水については、改めて後で触れるが、彼を招聘した目的の一つは、陽明学者ならぬ、「朱子学と陽明学の中間」だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4
ことから、支那事情や支那情勢を把握する目的はもちろんだが、彼から、「本場」の朱子学のほか、陽明学を学べるところにあったのではなかろうか。
 そもそも、(孔子その人はさておき、)いわゆる著名儒家達の中で、陽明学の租である王陽明は「武将としても優れ」ていた、私の知る限り唯一無二の存在である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E9%99%BD%E6%98%8E
上、「[日本における陽明学派の祖とされる・・・中江藤樹<(前出)>」
https://hitopedia.net/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9/#gsc.tab=0]
「の説く所は身分の上下をこえた平等思想に特徴があり、武士だけでなく農民、商人、職人にまで広く浸透し江戸の中期頃から、自然発生的に「近江聖人」と称えられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B1%9F%E8%97%A4%E6%A8%B9
人物だが、その「<藤樹>の言葉に「文武一徳」と言う言葉があり<、>・・・翁問答という著書の中で「文は仁道の異名、武は義道の異名なり。仁と義は同じく人性の一徳なるによって、文と武も同じく一徳にて各別なるものにあらず」と述べて<おり、これは、>「文は仁(思いやり)の道の別名であり、武は義(正しい心)の道の別名であ<って、>仁と義が人間に備わった一つの徳であるので文と武も一つの徳である。」と言う意味<だ>。つまり「文と武は別物ではない」ということで「文武不岐=文と武はわかれない」と同じ意味なの<だ>。」
https://www.shikouken.net/bukimeikaisetu/pdf/zeze.pdf
といったことから、光圀は、このような、武家的陽明学も大いに好んだに違いない。
 つまり、文武不岐という言葉は、私の言う、縄文的弥生性、と意味が殆ど同じであって、日本的陽明学の核心概念なのであって、文武不岐、は、その派生語なのではなかろうか。
 ちなみに、荻生徂徠(1666~1728年)は、「朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜し<、>古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した<ところ、>・・・本居宣長は<この>古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。・・・

⇒どうでもいいが、伊藤仁斎の古義学(古学)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E
に対する古文辞学の徂徠の批判なんて、近親憎悪みたいなものだろう。(太田)

 <銘記すべきは、この徂徠が>兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残し<しており、それは>卓越した『孫子』の注釈書と言われている<ことだ>。・・・
 <また、>元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、・・・、『政談』のうち「四十七士論」(宝永2年)で・・・、「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じている。・・・
 <この荻生徂徠が、>享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った<というのは興味深い>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
ものがあり、吉宗がいかなる人間であったかを(後述するけれど、)教えてくれる。
 とまれ、世情流布しているところの、「明治維新には尊王思想というコンセプトがあったからだ。しかし、その契機となった水戸学を見てみると、好学大名、徳川光圀から始まる朱子学の系譜なのである。そして、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋などを輩出した松下村塾の吉田松陰や、西郷隆盛などは陽明学者として有名である(西郷が陽明学者と言えるかどうかは検討を要するが、少なくともそう見られていた)。」
https://note.com/masssany/n/ncc375ccaea9b 前出
といったことは、以上、私が述べてきた文脈において、理解されるべきだろう。


[朱舜水]

 しゅしゅんすい(1600~1682年)。「浙江省出身。・・・経世済民の志を抱き,一族の期待をうけながらも明末の混濁した官界に違和を感じて度重なる明朝からの仕官要請に応じず,・・・<にもかかわらず、>明の再興をはかったが実現できず,1659年長崎に亡命し,・・・このとき柳河藩の安東省庵(せいあん)の援助をうけた。・・・。’65年徳川光圀に招かれ,儒教的礼儀作法を伝え<ると共に>,・・・「大日本史」編纂に大きな功績を残した・・・安積澹泊(あさか-たんぱく)<のほか、>,・・・木下順庵・山鹿素行らに大きな影響を与えた。・・・<そ>の儒学思想は<,>朱子学や陽明学にとらわれず,実理・実学を重んじ<たものであって、>・・・とくに見るべきものはないが,漢詩文に関心が深く,その面で伊藤仁斎・東涯と交わ<った。>・・・<また、>湯島聖堂を設計し,農事・造園・学制の指導も行った。・・・
 江戸の水戸藩中屋敷(現在の東大農学部の地)で没した。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E8%88%9C%E6%B0%B4-18295

「「知行合一」の理念は、混乱する現実の中で理想と行動を結びつける考えとして、彼に強い影響を与えたと見られます。一方で彼は、王陽明の「心即理」「致良知」といった哲学的中核には距離を置き、朱子学に基づいた理論的構築と倫理的秩序を重視していました。つまり朱舜水は、理論としては朱子学の枠組みを保ちつつも、学問が現実世界に役立たねばならないという点で、実学的視座を深めていったのです。・・・
 朱舜水の思想と人格形成において決定的だったのは、浙江の名儒・劉宗周(りゅう そうしゅう)との出会いでした。・・・
 やがて清軍が明を滅ぼすと、劉宗周は殉節を選び、その死は朱舜水にとって大きな転機となりました。師の信念と死に方を目の当たりにした彼は、「節義を貫くことこそ学問の本懐」という信条を明確にします。・・・
 彼にとって明朝は、王朝というよりも道徳と秩序の体現でした。その崩壊は、自らが信じる倫理の終焉でもあったのです。朱舜水はこうした状況に強い危機感を抱き、書を置いて動き出します。・・・
 明朝の滅亡後、南部各地で遺臣たちによって擁立されたのが「南明」諸政権でした。朱舜水はこの中でも、魯王・朱以海を中心とする政権に加わり、非公式な助言者として深く関与しました。彼は主に政策文書や上奏文の起草、政権の理念整理などを担い、正統性を内外に訴える役割を果たしました。とりわけ、日本への支援要請文の作成にも関わったとされ<ます。>・・・
 朱舜水が思想的に共鳴し、行動を共にした人物の一人が、南明の軍事的指導者・鄭成功でした。彼は福建・台湾を拠点に清への抵抗を続け、明の復興を志していた人物であり、朱舜水はその信念に強く惹かれていました。1659年、鄭成功が南京奪還を目指して出征した際、朱舜水もその行動に同行し、南明の正統を訴える活動に加わったと伝えられます。また、鄭が日本からの援助を求めた交渉において、朱舜水が文書作成や理念的整合の面で関与したことは、『華夷変態』などの史料からも確認されています。・・・
 1659年、南明の再起をかけた南京攻略が失敗に終わると、朱舜水は反清復明の希望が絶たれたことを悟り、日本への亡命を決意しました。それ以前の彼は、1645年から1659年の間に、安南(現在のベトナム)と長崎を7度にわたって往復しながら、交易と政治活動を両立させていました。舟山群島を拠点に、華僑ネットワークや在外の知識人と連携し、軍資金を調達しつつ復明運動を支えていたのです。ホイアンにあった日本人町では、儒者としての知識を活かし、現地の人々と交流を深めました。・・・
 1659年、朱舜水はついに長崎に到着しました。当初は滞在許可が下りず、居住の可否をめぐって幕府の判断を仰ぐ必要がありましたが、柳川藩の儒学者・安東省庵らの尽力によって、1660年から1661年にかけて長崎での定住が正式に許可されました。彼が日本を亡命先に選んだ背景には、単なる逃避ではなく、日本が「礼楽」を尊び、儒学に理解を示す文化的土壌を持っていたことへの共感がありました。・・・
 1665年6月、水戸藩の儒学者・小宅処斎は、一通の命を携えて長崎を訪れました。差出人は徳川光圀。水戸藩主であり、文化政策に深い関心を寄せていた光圀は、当時すでに名声を得ていた朱舜水の招致を熱望していました。その要請に応じ、朱舜水は同年7月、江戸の駒込にあった水戸藩邸<(中屋敷)>に移ります。両者の初対面は、朱舜水66歳、光圀38歳のときでした。・・・
 「君臣の義」を重視する彼の姿勢は、後の水戸学における尊皇思想の源流となり、「忠義」を軸とした武士道教育の原型ともなっていきます。・・・
 「歴史は道徳の鏡である」という朱舜水の史観は、史書の根底にある倫理観を形づくる礎となりました。また、南北朝時代における南朝の正統性を重視する水戸藩の立場にも、朱舜水の「正統論」への共鳴が影響を与えたと考えられています。彼が残した書簡や講義録は、彰考館において史料選定や記述方法を考える際の重要な参照となり、「実証に基づきつつ道義を損なわない」という二重の姿勢が水戸史学の特徴として結晶していきました。」
https://rekishis.com/1713 

⇒この筆者(不詳)は、石原道博『朱舜水』(吉川弘文館、1989年)、片山杜秀は、著書『尊皇攘夷:水戸学の四百年』、に拠っていて、それなりに信用できるものだと思われるが、朱舜水を、あたかも思想家であったがごとく持ち上げ過ぎであり、光圀が彼を招請したのは、彼が、明が抱えていた構造的問題点や清に滅ぼされた理由を、その経歴から熟知していたこと、と、彼が、朱子学と陽明学のどちらについても、教科書的に説明することができたこと、の、二つが重宝されたこと以上でも以下でもなかった、と、私は考えている。

 なお、漢詩文通暁者、そして、技術者、としての舜水は、予期せぬオマケ、といったところだったのではなかろうか。

 (エ) 国学創学

 「契沖<(1640?~1701年)>が古典研究に勤しむようになるのは、・・・延宝7年(1679年)に・・・(現在の大阪市東成区大今里<の真言宗の>)妙法寺の住持となった延宝7年(1679年)以後である。著書は『厚顔抄』『古今余材抄』『勢語臆断』『源註拾遺』『百人一首改観抄』など数多いが、とりわけ『万葉代匠記』と『和字正濫鈔』は、実証的学問法を確立して国学の発展に寄与するなど、古典研究史上において時代を画するものであった。
 徳川光圀から委嘱を受けた『万葉代匠記』<(注47)>は、文献資料に根拠を求めて実証することを尊重した『万葉集』の注釈書である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E6%B2%96

 (注47)「水戸徳川家では、主君の光圀の志により、『万葉集』の諸本を集めて校訂する事業を行っていて、寛文・延宝年間に下河邊長流が註釈の仕事を託されたが、ほどなくして長流が病でこの依頼を果たせなくなったので、同好の士である契沖を推挙した。
 契沖が『代匠記』に着手したのは天和3年(1683年)の頃であり、「初稿本」は元禄元年(1688年)頃に、「精選本」は元禄3年(1690年)に成立した。「初稿本」が完成した後、水戸家によって作られた校本と『詞林采葉抄』が契沖に貸し与えられ、それらの新しい資料を用いて「初稿本」を改めたのが「精選本」である。「初稿本」は世の中に流布したが、「精選本」は光圀の没後における水戸家の内紛などにより、日の目を見ることのないまま水戸家に秘蔵され、明治になって刊行された。・・・
 契沖は「古典の理解にあたっては現在の価値観を読み込むのではなく、書かれた当時の時代を明らかにすべき」と説き、それによって古典の文章の意味を宗教的教義や道徳的教戒へと牽強付会する従来の解釈を排したほか、後世の解釈を無批判に受け入れることを戒めている。「『万葉集』を証拠立てて研究するためには、『万葉集』よりも古い書物を使用しなければならない」という命題は、契沖の文献学の根本原理であるだけでなく、現代の文献学的研究の目指すべきところである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%A3%E5%8C%A0%E8%A8%98

 「国学<は、>・・・それまでの「四書五経」をはじめとする儒教の古典や仏典の研究を中心とする学問傾向を批判することから生まれ、日本の古典を研究し、儒教や仏教の影響を受ける以前の古代の日本にあった、独自の文化、思想、精神世界(道)を明らかにしようとする学問である。・・・
 国学の方法論は、国学者が批判の対象とした伊藤仁斎の古義学や荻生徂徠の古文辞学の方法論から多大な影響を受けている。国学は、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価する。・・・

⇒私見では、縄文性/人間主義は、人間の本来のありのままの感情、ではあるが、人間の現実のありのままの感情、であるのは、有史以来、基本的に日本においてのみであるわけだが、このことを念頭に置いて、こういったくだりを読んで欲しい。(太田)

 国学の源流は、木下勝俊<(注48)>、戸田茂睡<(注49)>らによって、江戸時代に形骸化した中世歌学を批判する形で現れた。

 (注48)木下長嘯子(1569~1649年)。「高台院の甥にあたる。木下姓を称するが、<当然のことながら、>秀吉と血のつながりはない。・・・武将、大名<を経て、>・・・地下<(じげ)>派の雄<たる>・・・歌人として・・・自由で大胆、古語も俗語も無雑作に扱い<、>誹謗も<受け>たが新しい風を吹かせ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E5%8B%9D%E4%BF%8A
 (注49)とだもすい(1629~1706年)。武士で、「致仕後<、>・・・古典の研究を行い、公家の間に伝えられた伝統的な歌学が、秘事口伝を主とし、師の歌説に門弟が盲従することに反対して歌学の革新を主張した。下河辺長流や契沖とともに国学の先駆となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E8%8C%82%E7%9D%A1

 そうした批判は、下河辺長流<(注50)>、契沖の『万葉集』研究に引き継がれ、特に契沖の実証主義的な姿勢は古典研究を高い学問水準に高めたことで高く評価された。

 (注50)しもこうべちょうりゅう(1627?~1686年?)。「1655年(承応4年)頃から三条西家に青侍として仕え、6年後に『万葉集』の書写が許され、さらに8年をかけて書写を終えた。書写のかたわら『歌仙抄』『万葉集名寄』『万葉集管見』などの注釈書を残した。三条西家を辞した後、1670年(寛文10年)に『林葉累塵集(りんようるいじんしゅう)』20巻を刊行した。この作品は、最初の地下(じげ=一般庶民)の歌人による撰集である[要出典]。1678年(延宝6年)『林葉累塵集』の続編とも言える『萍水和歌集』20巻を刊行。その後、徳川光圀から『万葉集』の注釈を依頼されたが、病気のため没する。『万葉集』の注釈は、交流のあった契沖に引き継がれた。・・・大正4年(1915年)、正五位を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%B2%B3%E8%BE%BA%E9%95%B7%E6%B5%81

 彼らの『万葉集』研究は、水戸学の祖である徳川光圀が物心両面で支えた。水戸の『大日本史』編纂と国学は深い関連を持っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AD%A6

⇒国学は、私流に言い換えれば、日本文明について研究する学問、であるところ、光圀が、恐らくは近衛家が見つけた適任者たる下河辺長流や契沖に依頼して・・契沖の場合はパトロンにまでなって・・国学を創らせた、と言っても過言ではなさそうだ。
 このことには、私自身、盲点を突かれたようで、驚いた。
 このことだけでも、光圀の貢献は極めて大きい。
 例えば、下掲参照。↓

 「・・・寛保2年(1742)8月に荷田在満<(注51)>の『国歌八論』が田安宗武に献進された。

 (注51)かだのありまろ(1706~1751年)。「江戸時代中期の国学者。父は荷田春満<(あずままろ)>の実弟多賀道員で、のちに春満の養子となった。・・・
 吉良義央、吉良義周と交際があり、三家老の一人・松原宗許が春満の門下となり国学と神学を学んでいる。・・・
 享保8年(1723年)徳川吉宗の上意により有職故実に関する「御尋之義一々御返答」を提出し、吉宗から祐筆の下田師古に和学を相伝すべしと命じられる。・・・
 この時期、国学の学校建設の必要性を述べた『創学校啓』を吉宗に提出した。・・・
 1728年(享保13年)江戸に出て有職故実について幕府の下問に答え、その後御三卿の一人田安宗武に仕えた。・・・『万葉集』に傾倒する田安宗武や賀茂真淵と対立して国歌八論論争を引き起こし、延享3年(1746年)宗武に真淵を推薦して田安家を辞した。・・・大正4年(1915年)、従四位を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%B7%E7%94%B0%E5%9C%A8%E6%BA%80

 宗武は反論書を書き、宗武に意見を徴された賀茂真淵<(注52)>も反論書を書き奉答する。この論争の最後は延享3年(1746)3月だったといわれている。

 (注52)1697~1769年。「延享3年(1746年)、・・・『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重(万葉主義)を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、「日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿である」として、古道説を確立した。・・・御三卿田安徳川家の和学御用掛となり、徳川宗武に仕えた。宗武の知遇を得たことは世間の信頼をも高め、門人の数も急増したことで、真淵は公用の傍ら歌会や講会にも頻りに顔を出した。
 宝暦13年(1763年)、真淵は宗武の命により大和へ旅に出る。この旅の途中で伊勢神宮への参拝を終えて伊勢松阪の旅籠「新上屋」に宿泊していたところ、情報を聞きつけた本居宣長が訪れ、生涯一度限りの出会いを経験する(「松阪の一夜」)。宣長は後に真淵の門下生となり、以後文通による指導(『万葉集問目』)が続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5

 この論争において、三者はともに堂上旧歌学を否定し、歌学の基礎を万葉集に置くことで一致するが、和歌については異なり、在満は古義学による翫歌説、宗武は朱子学により治道・教誡説、真淵は古文辞学により和歌を道の一つと認める。
 この論争と・・・肥前鹿島藩第6代藩主・鍋島直郷<(注53)の>・・・『席珍』の執筆期間は重なっており、・・・<この>『席珍』の中に、この論争を匂わせる記事がある。

 (注53)なおさと(1718~1770年。佐賀藩の支藩の藩主:1728~1763年)。「財政難に苦し<み続け、>・・・家督は・・・本家の佐賀藩から迎えた養子の直熙が継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%9B%B4%E9%83%B7

 その一は、延享2年(または3年)の在満の詠歌3首と真淵の6首とが並べて書かれている資料である。内容が田安家の和学御用係を辞退する者と新任者の登場を思わせるものがあるからである。その二は、真淵を紹介した文章である。『日本書紀』を用い万葉集を読み解く和学者で、契沖を尊び、「貫之・定家をはじめてみな批判」し、「義理を論ずる」者だと評している。その三は、徳川光圀が契沖を深く信頼した理由を説明した逸話である。光圀は、安藤為章より、紫式部は淫犯の女ではなく、歌に秀で、広く学問を身につけた人間味豊かな女性であることを教えられ、また、この人物評が契沖から出ていることを知り、契沖を「歎慕」したというものであった。この近世和歌史上の大論争のただ中にあった4年間、直郷は苦闘を続け、その果てに堂上旧歌学(=古今伝授)の否定を受入れ、歌学は古代を学ぶことに決し、詠歌については古文辞学の新文学論(人情論)を許容することにしたと考えられる。ただし、真淵の万葉調を取り入れることはなかった。晩年は垂加神道の正伝相承者として、古代史の学びに専念し、自己の存在を大名ではなく、天皇の臣下(まくら)であると臆することなく公言した。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/cabd29af9e97e81f4d43f60ad6af953370954b94 」(コラム#15093)

 この鍋島直郷の養子になって、直郷の薫陶を受けたところの、直煕、のその後の事績を見れば、私の言いたいことがお分かりいただけることだろう。↓

 鍋島直郷、その後改名して「鍋島治茂(なべしまはるしげ)<、>は、肥前鹿島藩7代藩主<を経て>肥前佐賀藩8代藩主<になるのだが、本家の>・・・佐賀藩<自身>の<深刻な財政難を>憂慮し・・・、藩政の抜本的な改革に着手<し、>側近の石井鶴山を熊本藩に派遣し<て>藩政改革の成功要因を視察させ、石井の「藩政改革の成功の秘訣は人材の育成にあり」との復命を受けて、天明元年(1781年)、古賀精里に命じて佐賀城に近い松原小路に藩校弘道館を設立<すると共に、>米筈の発行といった経済政策も積極的に推進し、六府方や徒罪方の設置といった特筆すべき藩の組織改革も進めた。
 <なお、>教養も深く、自らも詩文にすぐれ<てい>た。・・・
 孫の鍋島直正の代には、佐賀藩は藩政改革を成し遂げ、明治維新では薩長土肥で西南雄藩の一角を占める快挙を成し遂げるが、その基盤をつくったのは、この治茂の改革が起源とされ、今日でも名君、中興の祖として評価が高い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E6%B2%BB%E8%8C%82(太田)

 (オ) 徳川本家批判

 「徳川光圀<は、>・・・寛永13年(1636年)には元服し、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改め<、>・・・<更に、>将軍家綱の時の延宝7年(1679年)頃、諱を光圀に改める(光圀52歳)<のだが、>・・・天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80

⇒この改名は、余程の決意の下で行われたもの筈だ、と、我々は受け止めるべきだろう。(太田)

 「紀州藩祖徳川頼宣<(1602~1671年)>の御簾中である・・・加藤清正の娘<たる>・・・瑤林院<は、>・・・明暦2年(1656年)9月17日、生母清浄院が京都で逝去するとこれを深く悲しみ、日蓮宗六条門流大本山本圀寺の清正廟の隣に埋葬。両親に並んで瑤林院自身の逆修墓(生前墓)を建立、墓前に池を配し、加藤家墓地として整備した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%A4%E6%9E%97%E9%99%A2
 「水戸藩主徳川光圀<は、>当寺にて生母久昌院の追善供養を行うと、貞享2年(1685年)に光圀は自らの名から一字を本国寺に与え、本国寺<を>本圀寺と改称<させ>た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9C%80%E5%AF%BA

⇒ここから、改名は、最初から、本国寺の寺名変更も目的としていた見てよさそうであり、光圀本人及び水戸徳川家の日蓮主義者/日蓮主義家宣言であったと言えるのではなかろうか
 同時にそれは、彼が、亡実母追善供養を名目に行ったところの、同じ日蓮主義家と見ていたに違いない、紀州徳川家、へのエールでもあっただろうが、それだけではあるまい。↓

 そもそも、「建長5年(1253年)8月に日蓮が鎌倉松葉ヶ谷に建立した法華堂が本国寺(後の本圀寺)の起源<である>という。・・・日蓮が伊豆国伊東(現・静岡県伊東市)への配流(伊豆法難)から戻った後、弘長3年(1263年)5月に法華堂は再興され、本国土妙寺と改称された。・・・
 <この寺は、>嘉暦3年(1328年)に、後醍醐天皇の勅願所となっている。
 <鎌倉幕府が倒れたのは1333年だが、>本国寺が鎌倉から京都へ移ったのは貞和元年(1345年)3月で、四祖日静上人の時である。日静は室町幕府初代将軍足利尊氏の母・上杉清子の弟で、尊氏の叔父であった。・・・
 そのため、幕府からの支援もあり、日静は<光厳上皇による院政下の北朝第2代天皇たる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 >
光明天皇より寺地を賜ると六条堀川に寺基を移転させた。また、<同>天皇から「正嫡付法」の綸旨も受けている。

⇒時期的には、敵対することになってしまっていたところの、後醍醐天皇、が1339年に亡くなってから6年も経っておらず、しかも、これをやったのは足利尊氏(~1358年)であることから、「尊」の字をもらった後醍醐天皇を、尊氏が、(二人とも日蓮主義者であったわけだが、)どんなに尊敬していたかがここからも分かろうというものだ。(太田)

 寺地は北は六条坊門(現・五条通)、南は七条通、東は堀川通、西は大宮通までの範囲を占めた。以降も寺は足利将軍家の庇護を受けたほか、応永5年(1398年)には後小松天皇<からも>勅願寺の綸旨を得ている。比叡山延暦寺を御所の艮(北東・鬼門)とすると、本国寺は坤(南西・裏鬼門)に当たるため、皇室からも崇敬された。

⇒要するに、足利幕府が、北朝の天皇家に対して、そうさせたわけだ。(太田)

 こうして本国寺は六条門流の祖山として隆盛を誇った。甲斐国の久遠寺が「東の祖山」と呼ばれるのに対し、京都に栄えた本国寺は「西の祖山」と呼ばれるようになる。
 文明14年(1482年)に、後土御門天皇の勅諚により「法華総本寺」の認証を受けている。
 天文5年(1536年)の天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに焼き討ちされて焼失し、堺にある末寺の成就寺に避難した。天文11年(1542年)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、本国寺は天文16年(1547年)に六条堀川の旧地に再建された。

⇒もちろん、足利幕府の要請もあり、天皇はそうしたのだろう。(太田)

 永禄11年(1568年)、本国寺は織田信長の支持によって再上洛を果たした足利義昭の仮居所(六条御所)となる。・・・

⇒これは、義昭も信長も、どちらも日蓮主義者だったからこその措置だった筈だ。(太田)

 加藤清正は当寺を篤く信仰し、開運門を寄進している。・・・
 <ちなみに、時代は飛ぶが、>文久3年(1863年)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩主徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室や徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。」(上掲) 
 さて、松平氏に関して、「同時代の史料によって実在が確認できるのは、<松平>親氏の子とも泰親の子ともいわれる3代の松平信光で、室町幕府の政所執事の伊勢氏の被官となり、京都に出仕したと記録されるのが武家としての松平家の初出である。
 これにより三河の足利将軍家直轄領である御料所の経営に食い込んだ信光は、松平郷から見て南の平野の玄関口である額田郡岩津城(岡崎市北部岩津町)に居城を移すと、西三河の平野部に勢力を拡大し各地に諸子を分封して十八松平と称される多数の分家を創設した。・・・
 広忠(天文18年(1549年)没)は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず、駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B0%8F
 「今川氏<は、>・・・足利義氏の庶長子として吉良家を興した吉良長氏の次男である国氏が、吉良氏の所領から三河国幡豆郡今川荘(いまがわのしょう、2021年(令和3年)現在の愛知県西尾市今川町周辺)を分与されて本貫とし、今川四郎を称したのに始まる(あるいは国氏は長氏の甥で、養子になったとも言う)。・・・
 「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家(室町将軍家系統)の血脈が断絶した場合には吉良家は足利宗家と征夷大将軍職の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わる。吉良家からは守護および管領や侍所所司が1人も出ていないのはこのためである(これらの役職は「家臣の仕事」であり、足利宗家の継承権を持つ家の者は管領などに任じられる身分ではなかった)。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めた。軍功により副将軍の称号をゆるされた今川範政の子範忠は、永享の乱の戦功によって室町将軍家から本人とその子孫以外の今川姓の使用を禁じるとする「天下一苗字」の待遇を受けたため、日本各地で栄えていた今川姓も駿河守護家のみとなったと伝えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D%E6%B0%8F

⇒上記光圀の改名及び本圀寺の寺名改正は、徳川家は、尊氏の時に日蓮主義家となった足利家の陪臣としてスタートを切り、足利家の一族である今川家の庇護下に入った立場なのに、しかも、家康は日蓮主義者たる豊臣秀吉の部下であったにもかかわらず、徳川本家は、家康の時以来、反日蓮主義的なスタンスを取ってきたことに対する、批判でもあった、というか、かかる批判を行うことこそが最大の目的だった、と、言えるのではなかろうか。(太田)

 「<徳川>家綱期には・・・<前出の、日蓮主義史観では全くない>『本朝通鑑』編纂などの文化事業<、や、>・・・対外的には[1669年の]蝦夷地でのシャクシャイン蜂起や、〔1673年の〕イングランド船リターン号による通商再開要求、〈1645~1674年の間の10回に及ぶ〉鄭氏政権による援兵要請などが起こっているが、家光期以来の鎖国政策が堅持された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%8F%B7 (〔〕内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B9%9E%E5%B8%AB (〈〉内))

⇒光圀当時で言えば、こういったもの↑が、徳川本家の反日蓮主義諸政策だ。(太田)

 で、改めて、「圀」についてだが、「武則天は、<支那>史上唯一の女帝<であるところ、>・・・漢字の改変も行い、則天文字と呼ばれる新しい漢字を創ってい<て、>その数は20字程度であり、今日使用されることはほとんどないが、「圀」の字は日本で徳川光圀や、本圀寺に使用されている。この改変は「國」がくにがまえの中に「惑」を含むことを武則天が忌み嫌ったもので、その代替としてくにがまえの中に「八方」を加えたものである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9

⇒つまり、光圀は、徳川本家の国家観は「惑」以外の何物でもない、ために、日本国は今や日本國に堕してしまった、と、断罪しているのである、と思われる。
 付言すれば、光圀は、支那史上唯一の女帝となった武則天を高く評価していたと考えられ、これは、いずれも日蓮宗信徒であったところの、祖母の養珠院の勇気、養祖母の英勝院による自身の庇護、実母の久昌院、英勝院と連携しての父の乳母たる武佐による自身の救命と認知工作と世子工作、更には、正室近衛尋子の英邁さ、等、を通じて光圀が抱懐するに至った、女人への深甚なる敬意の表明でもあり、だからこそ、彼は、『大日本史』において、神功皇后を天皇と認めさせたと考えられる上、将来の日本による日蓮主義貫徹戦争の最終フェーズの総帥となる貞明皇后的な人物の出現・・神功皇后の再来・・への期待表明でもあったとさえ、言いたくなる。(太田)

 (カ) 一君万民思想の普及と実践

 あえて穿った見方をすれば、表記は、光圀が、将来再開される日蓮主義戦争が、徴兵制と総動員体制の下でなされるべきだし、なされることだろう、と考えていたからではなかろうか。
 以下に目を通して欲しい。↓

 「光圀が、隠棲の地として「西山を選んだ理由<は、>・・・母を弔う久昌寺と妻と父が眠る瑞龍山に近いから<(?(太田))です。>・・・
 御殿は簡素な造りで敷居がありません。庶民に分け隔てなく接していたことが想像できます。
 常陸太田をはじめ県北地域に黄門伝説がいくつもあるのは、こうした人柄のせいかと思います。・・・
 黄門とは幕府から<水戸藩主に原則>与えられた役職『中納言』のことで<すが、>・・・11人の藩主<の中>でも中納言でなかった方がいました<が、それでも、>・・・水戸黄門<は>・・・7・・・人<も>い<るけれど、>・・・第2代藩主の徳川光圀だけ<が>黄門様として有名なの<は、>・・・歴代藩主で特に慕われていたことのでしょう。
 そ<もそも、光圀は、>水戸藩主として唯一、生まれた場所と亡くなった場所が水戸藩・・・です。水戸藩は定府制といって藩主が常に江戸にいま<す>ので<、本来、>藩主の子は江戸で生まれ<るというのに・・>。さらに歴代でもっとも水戸に足を運んだ回数が多いのも光圀<です>。・・・
 <さて、>庭園内に<は>・・・ご前田(ぜんだ)<があり、>光圀は隠居したこの場所で領民として年貢を納めていました。そんな必要はまったくありませんので、領民の心に寄り添う気持ちがあったと考えられます。
 <具体的>には5000㎡も耕して太田奉行所に13俵の年貢米を納め<てい>ました<。>・・・
 <そんな>光圀は弱者の救済にも力を入れました。隠居する半年ほど前に役人に対して次のような命令を出しています。
一 各村に常にアワやヒエなどの雑穀を蓄えよ。凶作の年にはそれを与えること
二 家族のいない者や働けない老人、身体の不自由な者には豊作の年でも蓄えから与えること
 ・・・<彼自身、>調査によって明らかになった274名の対象者にお米を与えています。
 また、光圀はたびたび捨子を拾ってきたともいわれています。」
https://ibamemo.com/2018/05/03/hitachiotagw/
 「身は水戸35万石の大名(親藩)天下の副将軍でありながら[元禄3年(1690)冬、]61才にして兄の子綱條<(つなえだ)>に世を譲り西山荘に隠棲した。その住居たるや一・・・茅屋に過ぎず且又閾を設けず<。>其の理由は,大名も国民も平等であるとし茅屋に自由に出入し自由に黄門と歓談出来る様にしたためという。荘には百姓,町人たるを問わず神官,山伏,僧侶等が黄門さんを懐い常に訪れた。百姓の爺さん婆さん等を可愛がった。封建的時代のこととて夢の様な話である。光<圀が>亡くなった時,常陸の民は親を亡くした如く天を仰いで泣いた。常陸風土記に<曰>く天目為に曇る”とある。真に適哉,光<圀>の人格全く敬仰に堪えぬ処である。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/10/2/10_26/pdf/-char/ja  「櫟(くぬぎ)門の「下乗」の立て札は、「どんな人でも ここからは駕籠・馬から下りて歩け」という意味で、分け隔てないお人柄が伺えます。  また、通用門は茅葺きに櫟(くぬぎ)の丸太を柱とした門で、家臣や近所の民が出入りした裏門であります。この通用門が表門よりも立派に作られていることからも、光圀卿の人柄が偲ばれます。」 http://www.seizanso.co.jp/seizanso/ ([]内も)

⇒もちろん、「光圀は他の御三家に対抗するため、当時1間=6尺3寸だったのを6尺に改め、表高が28万石だった水戸藩を見かけ上36万9千石にした。この石高が次代の綱條の代に幕府に認められることとなり、これが・・・『大日本史』編纂事業とあいまって水戸藩困窮の要因となった。
 光圀の学芸振興は「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担が重くなり、農民の逃散が絶えなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 前掲
ということも・・島津重豪と似たような話だが・・忘れてはならないが、とにもかくにも、「光圀が彰考館の学者たちを優遇したことにより、水戸藩の士や領民から、学問によって立身・出世を目指す者を他藩より多く出すことにな<り、>低い身分の出身であっても、彰考館の総裁となれば、200石から300石の禄高とそれに見合う役職がつけられた。光圀時代には他藩からの招聘者がほとんどを占めた<が、領内の>那珂湊の船手方という低い身分から、14歳の時、光圀に認められ、後に総裁になった打越樸斎<ような者も>いる。<ちなみに、>他藩から招聘者のなくなった後期の彰考館員、後期水戸学の学者<についても>、ほとんどが下級武士や武士以外の身分から出た者たちであり、藤田幽谷や会沢正志斎は彰考館を経て立身した典型的な例である。」(上掲)というわけで、光圀は、島津氏/近衛家の期待をはるかに超える結果を残し、爾後、先の大戦の終戦までの日本の歩みを決定した、というのが、私の最新の、そして恐らくはそれが真実であるところの、私の光圀評価だ。

 (キ) 戦後日本における「保守」

 最近気が付いたのだが、戦後の岸カルト中の「右」が標榜する「保守」というのは、肝心の日蓮主義という中核を取り除いたところの、光圀が日蓮主義戦争再開のために取りまとめたイデオロギーの残余を掲げる人々のことだ。
 家だの夫婦同姓だの教育勅語だの靖国だのは、みんなそうだ。
 これらは、上記イデオロギーの一環として打ち出されたのが江戸時代初だからさほど昔からのものではなく、しかも実践されたのは明治維新後のことだし、戦後は実践される基盤が破壊されて現在に至っている、わけだが、もともと島津氏/近衛家及び光圀は、これらを第二次日蓮主義戦争遂行のための手段群とみなしていて、この戦争の諸目的を概ね達成できた暁には基本的にその全てが用済みになると考えていた筈だし、繰り返すがさして古いものではないのはもちろんのこと、況や由緒ある有難いものなどと考えていなかった可能性が大だというのに・・。

 (ク) 後期水戸学?

 以下、まとめを兼ねて、水戸学について触れておく。
 光圀が彰考館で始めたことは、一般に水戸学と呼ばれている。
 その水戸学については、「儒学思想を中心に、国学・史学・神道を折衷した思想に特徴がある。・・・
 光圀を中心とした時代を前期水戸学、斉昭を中心とした時代を後期水戸学として分けて捉えらえることも多<いところ、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6
「尾藤正英氏は「水戸学」という言葉を、天保年間に水戸藩で発達した学風に対して、当時の人々がつけた呼称と限定した上で、徂徠学(儒学)と国学(神道)との影響を無視しては水戸学の成立を考えることが出来ないと主張している。氏によれば、水戸学の成立は『大日本史』の修史事業の進展を基礎とするが、徳川光圀の時代を中心とする前期は人物を中心とする紀伝を、徳川斉昭の時代を中心とする後期には礼楽制度を扱う志表を編纂しており、史学上の関心が移っている。この変化は江戸時代中期における朱子学から徂徠学ならびに国学への転換という思想的動向を反映している。また、氏は、徂徠が「祭政一致」を唱え、祭祀の政治における重要な意味を強調し、こうした考え方は江戸後期の水戸学に継承されたと主張している」
https://core.ac.uk/download/pdf/159504324.pdf
けれど、私は、それを何と呼ぼうと、前期と後期を分ける根拠も意味もないと思っている。
 光圀が、日蓮主義の理論化を図って水戸学的藩論を確立し、その藩論を水戸藩は最後まで堅持しただけだ、と。
 具体的には、尊王(国制の中央集権国家回帰)、孝(「縄文性=人間主義」普及)、文武不岐(「縄文的弥生性」維持)、を唱え、その手段として、日蓮宗振興、朱子学・陽明学普及、神仏分離(神道は孝の維持・補修に係るもの、仏教は孝の普及に係るもの)、以上の研究・・国制は日本史学(考古学を含む)と朱子学、孝は神道学と国学、文武不岐は陽明学、を、振興した、と。
 例えば、「後期水戸学」を藤田東湖と共に代表する「会沢正志斎<(注54)>(1782~1863)・・・は<、>自らの思想的立場を「神儒一致<(注55)>」という語で総括し<、>・・・墓所は・・・水戸市の本法寺[・・日蓮宗・・<にある>
https://www.e-ohaka.com/detail/id1545358210-464279.html?eohaka-ad=1&utm_source=bing&utm_medium=cpc&utm_campaign=bing_reien_flag15&utm_term=%E6%9C%AC%E6%B3%95%E5%AF%BA&msclkid=d07447206c30176e59512fb35b296456 ]という人物であるところ、彼には小光圀という趣がある。

 (注54)「「陽明学派の熊沢蕃山は〈神代には神道といひ,王代には王道といふ,其実は一也〉(《集義外書》巻一)と神道王道一致論を説いた。朱子学派ではあるが広く地誌・教育・経済の領域に業績を残した貝原益軒は神社史の考証とともに神儒併行論を主張した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E5%84%92%E4%B8%80%E8%87%B4%E8%AB%96-1176486
 また、貝原益軒(1630~1714年)は、「祖先が備前(びぜん)国(岡山県)吉備津宮(きびつのみや)の神官であったから、和学にも関心深く、日本人として和学修得の必要を説き、「神儒平行不相悖(もとら)論」を唱えた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B2%9D%E5%8E%9F%E7%9B%8A%E8%BB%92-15644 
 (注55)「会沢家は代々久慈郡諸沢村(常陸大宮市諸沢)の農家で、初代藩主・徳川頼房のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に士分となった。」
https://core.ac.uk/download/pdf/159504324.pdf

 そして、「吉田松陰<(1830~1859年)>・・・がはじめて水戸学に触れたのは、嘉永三年(一八五〇)に平戸で『新論』を読んだ時とされ、実際に水戸に訪れたのは翌嘉永四年である。この時に会沢正志斎・・・に会い、五回にわたって会見したとされる。・・・
 その後松陰は、折に触れて『新論』を読んでおり、松下村塾の教材にも『新論』が使われていることから、一貫して水戸学を支持していた様子が伺える。さらに言えば、後年、萩明倫館の教授である山県太華(一七八一~一八六六)との論争において「本藩にても近来水府の学を信ずる者間々之れあり」という太華に対し、「吉田寅次郎藤原矩方、其の人なり」と言い(3)、また『講孟劄記』で「余深く水府の学に服す。謂へらく神州の道斯に在り、と」(4)と言っているように、松陰自身の認識としても、自分の思想が水戸学につながっていると考えていたことが分かる。・・・
 <なお、>、松陰が・・・藤田東湖<の>・・・『弘道館記述義』を読んだという記録で最も早いのは安政二年(一八五五)とされており、また『新論』の読書回数に比べて圧倒的に少ない<。>」
https://www.kokushikan.ac.jp/gs/department/hs/docs/03_101.pdf
というのだから、徳川光圀→会沢正志斎→吉田松陰、は、一直線に繋がっていて、松陰は、光圀が思い描いていた形で、第二次日蓮主義戦争の開始を実現するための、意識的アジテーターとして、尊皇攘夷の志士達を長州で輩出させる営みにその短い人生を捧げることになるわけだ。

 (ケ) 光圀のその他の事績

 表記のうちの正のものはこれだ。↓

 「下野国(現在の栃木県)で水戸藩領だった那須郡小口村<の近くの>・・・「湯津上村古い碑がある」と聞いて・・・(湯津上村は藩領でなく旗本知行地であった<が、>)・・・光圀は、碑を那須国造の墓ではないかと考え、貞享4年(1687年)に佐々宗淳に調査<させた結果、>・・・碑の近くにあり、那須国造のものと伝承される侍塚(上侍塚古墳と下侍塚古墳)を発掘して鏡、甲冑、石釧、管玉などを見つけたが、埋葬者を明記した墓誌などはなく、光圀は出土品を松の箱に収めて埋め戻させた。・・・<これは、>日本初の学術的着想による発掘といわれる<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80 
 これは、光圀が、「大日本史」の編纂が、文献史料だけに拠っていることに飽き足らない思いを抱いていたことを示しているのではなかろうか。

 次に負のものだ。↓

 「元禄7年(1694年)3月、5代将軍・徳川綱吉の命により隠居後初めて江戸にのぼり、小石川藩邸に入った。11月23日、小石川藩邸内で幕府の老中や諸大名、旗本を招いて行われた能舞興行の際、重臣の藤井紋太夫を刺殺した。光圀が自ら能装束で「千手」を舞ったのち、楽屋に紋太夫を呼び、問答の後、突然刺したという。現場近くで目撃した井上玄桐の『玄桐筆記』に事件の様子が書かれている。幕府に出された届出によると、紋太夫が光圀の引退後、高慢な態度を見せるようになり、家臣の間にも不安が拡がるようになっていたためであり、咄嗟の殺害ではなく、以前からの処罰が念頭にあり、当日の問答によっては決行もありうると考えていたようである。理由の詳細は不明だが、紋太夫が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80
 これは、その理由が何であったにせよ、光圀の人生が、島津氏/近衛家、によって規定された他律的な受け身のものであったことを示唆しているのではなかろうか。
 たまりにたまった鬱憤を、光圀がこういう形で晴らした、と。

(3)徳川本家を日蓮主義行動家化

  ア 徳川秀忠

  「なぜ徳川秀忠は「妻に頭の上がらない恐妻家」だったのか・・・
 秀忠は、自分が将軍という武士の頂点に立つ立場でありながら、戦場で武功を立てたことがないというコンプレックスを抱えてしまっ<ていたところ、妻が(信長と同盟するまで戦で負け知らずだった)浅井長政の子にしてあの織田信長の姪だったからだろう。>・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/de8e987f7ccff1ad3c5b9383fcb20b0dce4fe94e (コラム#15193)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E9%95%B7%E6%94%BF ()内
と、本郷和人東大教授が書いていたので大笑いしてしまった。
 秀忠(1579~1632年)は、生母西郷局(1552~1589年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%B1%80
を、10歳の時に失くし、「乳母・大姥局によって養育される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0
のだが、この大姥局(1525~1613年)は、「法名は正心院日幸尼<で、>・・・池上本門寺の有名な五重塔(重要文化財)<を>慶長13年(1608年)に<同>局の発願、寄進により建立<し>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A7%A5%E5%B1%80
くらいの熱心な日蓮宗信徒だったので、秀忠は、日蓮主義者になっていた、と見るのが自然だろう。
 しかも、秀忠という名前は、20歳の時の1590年に「元服して<日蓮主義者たる>秀吉の偏諱を受け<た>」ものであり、その折に、「豊臣姓を与えられ」、また、日蓮主義者である信長の息子である「織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院〈。1585~1591年〉)」を正室に迎えさせられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%AB (〈〉内)
 そして、この正室の早世後、秀忠は、1595年、(何度でも繰り返すが)日蓮主義者たる信長の姪であるところの、「淀殿の妹・・・浅井江・・・<なる>秀吉の養女<と>・・・再婚する<と共に、>秀吉から、羽柴の名字を与えられ<てい>る。」
 にもかかわらず、秀忠は、1605年に将軍になった後も、大御所家康の指揮の下で、大坂の陣において、1615年、(それまでに将軍の御台所となっていた、)江の、姉の淀君、と、甥の秀頼、と、を死に追いやり、「大恩ある」豊臣家を滅亡させた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0 前掲
のだから、江にずっと頭が上がらなくなったのは当然だろう。
 もっとも、秀忠の恐妻家ぶりが明らかになったのは、それよりずっと以前の1611年の保科正之生誕に際し、そのことを江に対して隠し通したためだが、この誕生は、同年における、かの有名な二条城における家康の秀頼・・その折に秀頼が天稟を見せつけたという評判だ(注56)・・との会見の後であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B
この会見後に、秀忠は、家康から、秀頼を亡き者にし豊臣家を滅亡させなければならないとの意向を聞かされていた可能性が大であることを想起せよ。

 (注56)「家康の感想は<、>「秀頼は愚魯(ぐろ)なる人と聞きしに、一向に然(さ)なく、賢き人なり。なかなか、人の下知など受くべき様子にあらず」(前川和彦著『秀頼脱出』より一部抜粋)<、>「天下人だけが自然に身にまとった悠揚迫らぬ雰囲気<の持ち主である、>と、二言三言会話してみてわかった、その賢さにも舌を巻き、さすがの家康も気圧されたという」(歴史の謎研究会編『誰も知らなかった顛末 その後の日本史』より一部抜粋)
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104008/

 爾来、残りの人生を、秀忠は、日蓮主義者として、この上もなき忸怩たる思いの下、生き続けることになった、と、思われるのだ。
 というのも、家康逝去後と雖も、家康の威光は絶大であるばかりか、幕臣中に日蓮宗信徒は殆どおらず、日蓮主義者もまた極めて少ない、というわけで、秀忠は、重要事項に関しては、家康の遺志の範囲内ないし延長線上のことしか行うことができない、いわば金縛り状態であったはずだからだ。
 「家康死去の・・・年<の>元和2年(1616年)に・・・<反日蓮主義政策たる(太田)支那>商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定した」こと、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%A7%80%E5%BF%A0 前掲
がその典型例だ。
 付言すれば、徳川家は、日蓮宗が敵視する浄土宗と殆ど一体化した大檀乙でもある。
 よって、秀忠は、そして、放置しておけば、それ以降の将軍達も、仮に内心は日蓮主義者であったとしても、一切、日蓮主義的な政策を打ち出す等の日蓮主義的行動をとることができないという状況が続く、と見込まれていたわけだ。
 
  イ 対徳川家光

 私が、「(3)徳川本家を日蓮主義行動家化」のような見出しを掲げたのは、島津氏/近衛家が、摂関家と広義の天皇家の日蓮主義者たる女性を、徳川本家のできれば将軍世子に嫁がせ続けてその世子またはその世子の男の子供達の日蓮主義行動者化を図ること、と、尾張徳川家の日蓮主義家化を果しつつ、日蓮主義御三家の男子を将軍に就ける機会をうかがうこととした、と見るに至っているからだ。
 彼らが、徳川本家で最初に狙ったのは、世子時代(1616年?~)の徳川家光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89
だった。
 そして、鷹司孝子を家光に嫁がせたのだ。 
この「鷹司家<なのだが>、藤原北家嫡流近衛家庶流<で、日蓮宗立宗より前の>・・・1252年<に>・・・創設<されているが、>・・・初代<の>・・・兼平(1228~1294年)<は、彼の存命中に日蓮宗が近衛家の協力の下に、立宗され、生き延びることができたことを知っていたはずで、鷹司家も日蓮主義家になっていたと思われるが、>・・・戦国時代<になって、当時の>鷹司忠冬には嗣子がなく、1546年(天文15年)にその死をもって鷹司家は断絶し<てしまう>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6
 <ところが、>二条信房(1565~1658年)が、「天正7年(1579年)、当時京を中心とした中央政治を支配していた織田信長の勧めにより、鷹司忠冬の死により断絶していた鷹司家の名跡を継いで、これを再興させ<たところ、その>諱の「信」の字は信長から偏諱を受けたものと考えられている<が、>二条家は元々武家と距離が近く、先の足利将軍家や後の徳川将軍家とも密接であり、信房の次兄の二条昭実は天正3年(1575年)に信長の養女を娶っている<という>縁もあり、信房を擁して鷹司家を再興する流れになったと考えられる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF
という運びにあいなるわけだが、これは、どちらも(私の言う)信長流日蓮主義であったところの、織田信長(1534~1582年)が、彼と意気投合していたらしい、同世代人たる近衛前久(1536~1612年)から、近衛家の分家で、近衛家には演じられない、日蓮主義の観点からの汚れ役を演じさせるべく、鷹司家の復活・・所領を信長が与える必要あり・・を依頼されて行ったものである、と、私は見ている。
 というのも、この復活鷹司家は、信房の・・子の信尚は飛ばすが・・孫の鷹司教平以降、房輔、輔信、の三代続けて、その娘を日蓮宗の瑞龍寺門跡に送り込んでいるばかりか、信房自身が信長から偏諱を受けたと考えられる「信」、を、彼に続く4代のうち、実に3名もが用いているからだ。
 日蓮宗誕生以降のかつての鷹司家歴代宗家には、忠冬に至るまで、日蓮宗との直接的な関わりなど皆無であった(典拠省略)、というのにである。
 その後、秀吉による唐入りの試みとその秀吉の死に伴う挫折を受け、近衛家/島津氏は、秀吉流日蓮主義への反発は愚かだったと反省するとともに、いずれにせよ、唐入りの試みは日本の上部構造も下部構造も準備万全とは言えない状況で行われたとの認識の下、江戸時代をその準備期間として活用する決意を固めた、と、私は見るに至っているわけだ。
 そういう次第で、豊臣氏の滅亡を受け、近衛家から信房に課された最初のミッションが、鷹司家に、徳川本家の日蓮主義行動家化を狙って、1623年に将軍になることが決まったばかりの徳川家光に、その正室として、鷹司信房の娘の鷹司孝子・・彼女は、敬遠される可能性があった日蓮宗信徒ではないし、日蓮主義家であることが知れ渡っている近衛家の人間でも「一応」ないばかりか、血筋的にも近衛家に必ずしも近くない!・・を送り込ませることだった・・1623年「婚約」、1624年婚礼・・、というわけだ。
 しかし、このミッションは、孝子が「結婚して間もなく精神的疾病を患<ってしまった>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AD%9D%E5%AD%90
ことによって、その最大の狙いを全く達成できないまま終わってしまう。
 (既述したように、近衛家/島津氏は、その後、日蓮主義家たる水戸徳川家の世継ぎの徳川光国(後の光圀)の正室に近衛尋子(ちかこ)・・彼女も日蓮宗信徒ではない・・を送り込み・・1649年「婚約」、1654年婚礼・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90
光圀の天稟と相俟って、水戸藩において、日蓮主義戦争完遂のための上部構造の構築に期待以上の巨大な成果を上げさせることに成功するわけだ。)


[鷹司家と水戸徳川家]

表記を、まずは、系図で示そう。
 二条改め鷹司信房-信尚-教平—房輔※
               |-信子(5代将軍綱吉の正室)          
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E6%88%BF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%B0%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94
であるところ、※の続きはこうなっている。↓
     
松平頼重—–長姫
 (光圀同母兄) ||
|–鷹司房輔※—兼煕–(養子の)近衛改め鷹司房煕
|–日寿〇   |
|–鷹司信子 –輔信–|–八重姫△
|  ||   | ★  |  ||–美代姫      
| 徳川綱吉 | | || ||
↑ | | || ||
鷹司教平   | | ||  ||—-宗翰—治保 徳川治紀-斉昭-慶喜
↑      |    |  || 徳川宗堯 || ||   ↑       
鷹司信尚   –日顕〇| 徳川吉孚●   || ||    ↑
↑徳川家光  |    |       || ||——-↑
↑  || |    –日慈〇   |–郁子 || ↑↑鷹司孝子   –一条兼香————|–道香—溢子(八代君)

↑ ↑


鷹司信房

〇〇○:瑞龍寺門跡4世、5世、6世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)
https://tracethehistory.web.fc2.com/bikunigosho/zuiryuji.html ←より詳しい
●:よしざね(1685~1709年)。「水戸藩の世嗣。5代藩主徳川宗翰<(むねもと)>の外祖父。・・・徳川綱條<(つなえだ)>の三男として・・・生まれる。・・・綱條の家督相続後にその世子となり、元服して5代将軍徳川綱吉の偏諱を受けて吉孚と名乗る。家臣団の人望も厚く、綱條から将来を大いに期待されていた。しかし家督相続を果たせず、・・・死去した。・・・跡継ぎを失った綱條は、甥である高松藩主松平頼豊の長男宗堯<(むねたか)>を養嗣子とした。綱條の死後、宗堯は吉孚の娘美代姫(血縁上は宗堯の又従姉妹にあたる)を娶り、宗翰をもうけて<吉孚自身のはもとより、その父綱條>の血筋を伝えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AD%9A
△:八重姫(1689~1746年)は、「水戸藩第3代藩主徳川綱條の世嗣徳川吉孚の正室。茶人鷹司有隣軒<(輔信(★))>の長女。母は家女房。関白鷹司兼熙の養女、後に江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の養女。・・・徳川綱吉の御台所鷹司信子(浄光院)の大姪にあたり、父有隣軒の兄である伯父兼熙の養女となったのち、元禄4年(1691年)9月15日、3歳で綱吉の養女となるため江戸に下向した。綱吉の4人の養女のうち、最初に迎えたのが八重姫であった。元禄10年(1697年)2月に正式に綱吉の養女となり、同年4月18日水戸藩主徳川綱條の世嗣・吉孚と婚約した。・・・
 宝永5年(1708年)2月1日、一女・美代姫を産む。・・・しかし、翌宝永6年(1709年)10月12日、吉孚が藩主に就かないまま25歳で死没した。・・・
 正徳元年(1711年)11月、綱條の養嗣子として支藩高松藩より軽麻呂改め鶴千代(後の宗堯)が迎えられる。享保3年(1718年)に綱條が死去し、宗堯が4代藩主となった。享保8年(1723年)11月21日、16歳となった美代姫は宗堯と結婚し、御簾中となった。・・・
 享保13年(1728年)、美代姫は嫡男・鶴千代(宗翰)を産んだが、2年後に宗堯が26歳で死去し、数え3歳の鶴千代が5代藩主<宗翰>となった。・・・
 また、寛保2年(1742年)11月、将軍吉宗の四男・一橋宗尹と、八重姫の叔父一条兼香の娘・俊姫が婚礼する際、俊姫は八重姫の養女となり、水戸藩駒込邸の八重姫の住居より輿入れした。なお、孫の宗翰の御簾中には、同じく一条兼香の娘<郁子>(絢君)を迎えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%A7%AB_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AD%9A%E6%AD%A3%E5%AE%A4)

 既述したように、鷹司家は本来は近衛家庶流
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6
なのだが、1546年に鷹司家は断絶していたのを、近衛家と信長の協力で、九条家の庶流の二条家出身の信房によって1579年に再興されたという経緯がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6
 この際あ、鷹司輔信(★)についても一言。
 父が鷹司房輔で兄は鷹司兼熙だが、銘記すべきは、一つには、彼の姉か妹にあたる日顕が瑞龍寺貫首で当然ながら貫首になるずっと以前から彼女は日蓮宗信徒であった筈であることであり、二つには、彼の娘の一人である日慈がやはり瑞龍寺貫主になっていることであり、三つには、この鷹司輔信の兄の鷹司兼煕が妻に松平頼重[・・徳川光圀の同母兄で水戸藩第3代藩主の徳川綱條の実父・・]の娘を迎えていることであり、五つには、この兼煕が近衛家から養子を迎えたことで、鷹司家が名実ともに近衛家の庶流に復帰したことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%85%BC%E7%86%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E9%87%8D ([]内)
 ちなみに、この鷹司輔信は、水戸藩7代藩主の徳川治紀が、自分自身の子孫である上に、自分の弟の一条兼香を通じても「子孫」であって、その治紀は、9代藩主徳川斉昭が子で、第15代将軍徳川慶喜が孫で、あることだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E8%BC%94

  ウ 対徳川家綱

 次に、家光の子の家綱(1641~1680年。将軍:1651年~)だ。
彼は、将軍になってから、明暦3年(1657年)に伏見宮浅宮顕子女王を正室に迎えている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
が、彼女は、「東福門院の人選によって将軍家綱と婚約<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
とされているが、実態は、前出の近衛尚嗣が、1649年に亡くなる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6
までに、鷹司教平(1609~1668年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AE%B6
が、こうなったら近衛家から直接嫁がせることも考えなければならないけれど、自分にはもはや女の子が残っていないので、鷹司家、や、自分の子を嫁がせている伏見宮家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%97%A3
・・伏見宮家が熱烈な日蓮主義家になった経緯は後述する・・から、女の子を徳川本家の将軍世子や世子たりうる者に嫁がせるよう「指示」されていて、この「指示」に従って人選し、下調整し、その上で、浅宮顕子の場合は、東福門院に正式に幕府に申し入れさせた、と、見ている。
 顕子が選ばれた理由は、彼女の父母や兄を通じて見えてくる。
 すなわち、顕子女王の嫡「母は宇喜多秀家の娘(前田利長の養女)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
なので、彼女は、日蓮宗信徒でこそないが、日蓮主義者ではあった可能性が大だ。
 なお、顕子女王の異母兄でその時点で既に亡くなっていた第11代伏見宮の邦尚親王(1615~1653年)の生母が、まさに上述の宇喜田秀家の娘だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%B0%9A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 なお、顕子女王の、同母弟の第12代伏見宮の邦道親王(1641~1654年)、も、父親の第10代伏見宮の貞清親王(1596~1654年)も、その時点で既になくなっていて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%B8%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
この時点で第13代伏見宮だったのは、顕子女王の異母兄の貞致親王(さだゆき。1632~1694年。家督継承:1654年)(後出)だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E8%87%B4%E8%A6%AA%E7%8E%8B

       伏見宮貞清親王(前出)    |–安宮照子女王(徳川光貞室)
          ||———————–|–浅宮顕子女王(徳川家綱室)
       北野神人・民部焏本郷盛久女。  |–第12代邦道親王

 さて、果たして、顕子のおかげで徳川家綱は日蓮主義者になったのだろうか?
 家綱の治世の前半は(日蓮宗信徒を生母に持つ)保科正之が取り仕切っていたこともあり、その可能性は否定できない。
 しかし、いかんせん、家綱は比較的若年(38歳)で亡くなってしまい、子供もいなかったので、全ては振り出しに戻ってしまった。

  ウ 対徳川綱吉

 綱吉の正室は(前出の鷹司信房の孫である)鷹司教平の娘の鷹司信子・・日蓮宗信徒ではない・・だったが、その時点では将軍になるとは全く予想されていなかったところの、綱吉の上野国館林藩主時代の輿入れ・・1663年「婚約」、1664年婚礼・・であり、綱吉を日蓮主義者にするミッションは彼女には負わされていなかったと思われる。
 ところが、家綱に跡継ぎが生まれなかったために、1680年に綱吉が将軍に就任するという予想外な成り行きとなるが、二人の間に子が生まれなかったこともあり、徳川本家の日蓮主義化に進展はなかった。
 なお、近衛家は、鷹司家に、水戸徳川家の第3代藩主の綱條の子で世継ぎの徳川吉孚(前出)・・24歳で亡くなり家督を継げず・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AD%9A
の正室として、鷹司八重姫(随性院。1689~1746年)・・鷹司家当主兼煕の養女で兼煕の弟の輔信(有隣軒)の娘・・を送り込ませる・・1691年「婚約」、1698年婚礼・・ことによって、分家の鷹司家を介して近衛家と水戸徳川家の紐帯を盤石化させている(注57)が、信子は、「元禄4年(1691年)・・・に・・・、姪孫にあたる<この>八重姫・・・を引き取って<綱吉の養女として>養育し」ており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%AD%90
この紐帯の盤石化に将軍家の箔付けを加えることに貢献している。

 (注57)当時まだ存命であったところの、吉孚の義祖父である光圀は、彼女が近衛家の娘ではない上に鷹司家の当主の実の娘でもないことに対してだろうが、「この縁組を喜ばなかったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%A7%AB_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AD%9A%E6%AD%A3%E5%AE%A4) 
 この背景には、光圀が吉孚の父で自分の養子の綱條(つなえだ)の正室に近衛基煕の娘の近衛煕子(天英院。1666~1741年)・・日蓮宗信徒!・・を迎えようとして基煕に断られた件があったと思われる。
 断った理由は、水戸徳川家に対する近衛家からの「二重投資」になること、そして、基煕が綱條に光圀ほどの才幹がないことを見切っていたからだろう。
 ちなみに、煕子は、幕府からの正式な要請を受け、1679年に甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣。1662~1712年)に嫁いだが、基煕は、「「無念々々」とし<、>・・・熙子<を、内々、>近衛家の門葉である権中納言平松時量の養女<にした上で>嫁<がせ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
、と、憂さ晴らしめいたことまでしているが、これは、彼が、家宣が将軍になる可能性など皆無だと思っていたからだろう。

 しかし、日蓮主義の観点からの鷹司信子(~1709年)の意図せざる最大の貢献は、彼女が、綱吉(~1709年)の側室であった寿光院が、その姪・・後の浄岸院(1705~1772年)・・を養女とすること・・これは綱吉の養女とすることも意味する・・を、宝永5年(1708年)に、綱吉の正室として認め、後の浄岸院の嫡母となった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%AD%90
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
ことだろう。
 信子/綱吉夫妻のそれぞれの死の直前のこの行為が、予期せぬ紆余曲折を経て、すぐ後で述べる近衛熙子の存在と相俟って、後の日本の進路に巨大な影響を与えることになるのだ。(後述)
 この浄岸院<(竹姫)>(1705~1772年)は、「[九条家の庶流の一条家の門流の
https://sito.ehoh.net/kugemonryu.html ]清閑寺熈定の娘として京都で生まれ<たところ、彼女>・・・は、熈定の妹で綱吉の側室であった寿光院の姪にあたり、寿光院に子が無かったため、宝永5年(1708年)、その養女となった」ものだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
 で、
 近衛前久-近衛前子(後陽成天皇女御)-一条昭良(九条家の庶流である一条家は皇別摂家となった。正室は織田信長の弟の織田有楽斎の子頼長の娘)-教輔(のりすけ。1633~1707年)-兼輝(かねてる。1652~1705年)-養子-兼香(鷹司房輔の子。かねよし。1693~1751年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%98%AD%E8%89%AF
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%95%99%E8%BC%94
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%86%AC%E7%B5%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99
という系図を見れば分かるように、浄岸院が江戸城にやってきた1708年の頃の一条家、ひいては清閑寺家、は、織田家の影響も受けただろうが、近衛家の影響も受け、日蓮主義家に近くなっていた可能性があるのだ。
 なお、徳川綱吉の正室(御台所)<の>・・・鷹司信子<(1651~1709年)は、(>・・・寛文・・・4年 (1664年)9月に・・・婚礼を挙げ<、>た元禄4年(1691年)・・・に・・・、姪孫にあたる鷹司輔信の娘・八重姫(徳川吉孚の正室)を引き取って養育し 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E5%AD%90
ていたわけだが、)浄岸院が江戸に下向した1708年に、彼女の嫡母として(夫の綱吉は当然養父として対面したであろうほか、)彼女と対面することができていたと思われる。

  オ 対徳川家宣

 既述したように、「近衛熙子<は、>・・・延宝7年(1679年)6月、甲府藩主であった徳川綱豊(後の家宣)と縁組<し、> 同年12月1日に甲府家の上屋敷である桜田御殿に入り、18日に婚礼の式を挙げた<が、>父の基熙にとってこの結婚は「先祖の御遺戒である武家との結婚の禁忌に背く」と日記(基熙公記)に記しているように不本意なものであり、「飢餓に及んだとしても」承諾できないとしていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
ものだったけれど、あに諮らんや、家宣は、1704年に綱吉の養子/世子になり、1709年に将軍に就任することになり、歴代中最も人格者の将軍であったと言える、この家宣は将軍在任3年でなくなってしまう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%AE%A3
けれど、煕子は、家宣と側室の子である家継(1709~1716年)について、単なる嫡母ではなく自ら育てたこともあり、家継の死亡後、大奥の首座として家継の次の将軍に紀州徳川家の吉宗(1684~1751年)を指名し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90 前掲
その際に、(私が後で述べる)徳川吉宗誓約をさせる(と私は見ているところ、その)ことで、繰り返すが、その後の日本の方向性を決定するという極め付きに重要な役割を果たすことになるのだ。
 (そして、これらに加えて、1728年までに、近衛家22代当主の近衛家煕の二男の房煕が、鷹司家に、その18代当主として送り込まれ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%88%BF%E7%86%99
た結果、近衛家と鷹司家は(1743年に鷹司家が皇別摂家になるまでの間、)完全に一体化した状態が、短期間ながら続くことになる。)
 ここで、話を戻すが、基熙の上述の不本意さは、日蓮主義家であった水戸徳川家への熙子の縁組を恐らく二重投資になるという理由で断ったのと同じく、家宣は、徳川家光の三男の(第4代将軍・徳川家綱の弟、第5代将軍・徳川綱吉の兄であって家綱より先だって死去した)徳川綱重
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D
を始祖とする甲府徳川家の二代目であったところ、この甲府徳川家が既に日蓮主義家になっていたので二重投資になるとも思ったからではなかろうか。
 甲府徳川家が日蓮主義家になった経緯については、下の囲み記事を参照。↓


[甲府徳川家日蓮主義家化経緯]

 話は、徳川家光の乳母であった春日局(1579~1643年。家光の乳母:1604年~)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E6%97%A5%E5%B1%80
まで遡る。
 「斉藤・・・利藤の末子・日運は<、>京都の妙覚寺に入り、後に美濃常在寺4世となった<人物だが、>天文8年(1539年)頃、長井長弘の家臣・長井規秀が頭角を現し、斎藤氏を名乗った(後の斎藤道三)<ことは良く知られているところ、この>道三の父・松波庄五郎は畿内の出身であり、妙覚寺にて日運の兄弟子であったという。
 <以上は前置きだが、>旧<足利将軍直属の>奉公衆の明智光秀の重臣で・・・同じく旧奉公衆であった斎藤利三は道三以前の美濃斎藤氏の一族であ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%B0%8F
 この斎藤利三が春日局の父親だったが、<彼の>正室は<、織田信長と同じく>斎藤道三の娘であり、「<彼>は<、>その無謀さから秀満と共に光秀に対し反対したと言われている(『備前老人物語』)<けれど、>主君の命令には逆らえず、また光秀の恩義に報いるため、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E4%B8%89
ことから、利三は日蓮主義者であった可能性がある。
 (刑死した利三は、友人である「東陽坊長盛が夜間に奪い取り、長盛が住職をつとめる[天台宗・・・真正極楽寺<(>]真如堂<)>へ葬られ」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E4%B8%89
https://shin-nyo-do.jp/ ([]内)
たところ、この寺は日蓮宗寺院ではないし、彼のもう一つ墓があるのも、やはり日蓮宗寺院ではない妙心寺だが・・。)
 春日局の生母は上出の斎藤道三の娘ではなく、利三の側室たる、稲葉一鉄の娘又は一鉄の姉の娘で、一鉄も日蓮宗信徒ではないが、春日局が日蓮主義者であった可能性もまた否定できない。
 というのも、<家光の子である>4代将軍徳川家綱(1641~1680年)の生母の宝樹院(1621~1653年。家光側室:1635年頃以降のいつか~)は日蓮宗信徒だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%A8%B9%E9%99%A2_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%85%89%E5%81%B4%E5%AE%A4)
が、その彼女が「13歳の時、・・・江戸<で>・・・店の手伝いをしていたところを浅草参りからの帰路にあった春日局の目にとまり、大奥に上が<り、家光の側室とな>った〈とされるが、春日局の従兄弟がその父である〉祖心尼の計らいで奥入りしたとする説もある」(上掲)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E5%BF%83%E5%B0%BC (〈〉内)
ところ、仮に祖心尼説が正しいとしても、春日局の了解を得ずにそれを行った筈がないからであり、徳川頼宣・頼房の生母の蔭山殿(や光圀の生母の久昌院)が日蓮宗信徒であってそのことが何をもたらしたかを熟知していた春日局が、後の宝樹院が日蓮宗信徒であるからこそ、そんなことをした、或いは、そんなことをするのを了承した、可能性があるからだ。
 いずれにせよ、家光の側室として、既に日蓮宗信徒である順性院がいたので、日蓮宗信徒であること自体は障りにはならなかった筈だ。
 その順性院(1622~1683年。家光側室1624年以降のいつか~)なのだが、「甲府宰相・徳川綱重<(1644~1678年)>の生母<で、>6代将軍徳川家宣の祖母<だ>。・・・
 <彼女は、>元々徳川家光の<前出の>正室・鷹司孝子<(1602~1674年。家光正室:1624年~)・・「<繰り返すが、正室になって>間もなく精神的疾病を患<う。>」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%AD%9D%E5%AD%90
>付の女中で「御末」という将軍お目見え以下の役職だったが、将軍が大奥で入浴する際に世話をする「御湯殿」を任せられ、その際家光の手がつき懐妊する。・・・
 <この>順性院の死から26年経って<からだが、>5代将軍綱吉が嗣子無く没し、徳川綱重の子である家宣が将軍になった。また、家宣の子で順性院の曾孫に当たる徳川家継も7代将軍に就任<することになり、更に、>家宣の<同母>弟<である>松平清武は後年、館林藩主となり甥の家継を補佐することになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E6%80%A7%E9%99%A2
 順性院が日蓮宗信徒である根拠はこれだ。↓
https://ameblo.jp/hajino-kakimalu/entry-11522338076.html
 家光と彼女との子である徳川綱重だが、彼女が「綱重を身ごもった際、家光は厄年にあたっており、災厄を避けるために姉の天樹院(千姫)を養母とした。これは当時、「厄年の2つ子は育たぬ(すなわち、厄年に生まれた場合、2歳まで育たないということ)」という迷信から、千姫を養母とし<たものであり>、実際には千姫の侍女だった松坂局が養育した。・・・
 [「<ちなみに、この>松坂局<(1598~1688年)>は、畠山義継の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%9D%82%E5%B1%80 ]
〈<だが、この>「畠山義継<は、>・・・政宗の父で隠居の輝宗・・・を拉致して二本松城へ連れ去ろうとしたが、途中の高田原で政宗に追いつかれ、輝宗と刺し違えて死んだとも、あるいはこの時輝宗もろとも射殺されたともいう(粟ノ巣の変)<あの有名な人物だ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%B6%99 〉
 <綱重は、>1661年(寛文元年)、10万石加増され、計25万石を領した。この頃、松坂局の侍女である於保良〔・・「後北条氏の旧臣・田中勝宗の娘とされるが、魚屋の伏見屋五郎兵衛(善兵衛)の娘などとする説もある。・・・綱重より7歳も年長<で、日蓮宗信徒ではない。>」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%98%8C%E9%99%A2 〕
に手を出し、翌年である1662年(寛文2年)4月25日、長男・虎松(のち綱豊、家宣)が誕生した。・・・
 <綱重は、>京都から関白・二条光平の娘を正室に迎えることが決まったので、身分の低い於保良<(長昌院)>との間に生まれた息子たち(後の家宣、清武)らをそれぞれ家臣の養子としている。しかし、正室との間に実子には恵まれず、また正室の死去などもあり、綱重は自らの後継者として庶長子の綱豊を手許に呼び戻して世子とした。
 長兄で第4代将軍の家綱には継嗣が無く、そのため異母弟の綱重と綱吉が後継候補と見られていた。綱重は綱吉より年上であり、そのため次代への有力候補とされていた。しかし、綱重も余り頑健では無く病弱だったとされ、1670年(寛文10年)には病床に臥していたとされている。<結局、>綱重は1678年(延宝6年)9月、兄・家綱に先立って35歳で死去<するのだが、>墓所は東京都港区増上寺<だけなので、日蓮宗信徒ではない。>・・・
 <この>綱重の死去から2年後に家綱も継嗣の無いまま死去し、弟・綱吉が後に第5代将軍となったが、綱吉にも子がなかったため、綱重の長男・綱豊が綱吉の養子となり、家宣と改名して第6代将軍となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E9%87%8D
 で、綱重の長昌院との子のうち、兄の方の徳川家宣は日蓮宗信徒になっていないが、弟の方の松平清武は、何と日蓮宗信徒になっている!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%B8%85%E6%AD%A6 
 後の徳川吉宗家を含む徳川本家の歴代将軍継承候補者達全員の中で、日蓮宗信徒だったのは清武だけではないか。
 「7代将軍徳川家継が危篤状態に陥った時、家宣の正室だった天英院は8代将軍の候補として清武を推したという。清武が家継の叔父であり、血統的に最も近かったのが理由である。しかし清武は、将軍には相応しくないとされる理由が主に2つあった。
 家臣の越智喜清に育てられてその家督を継いでおり、また松平の苗字を許されて大名になったのが宝永4年(1707年)、44歳の時であり、経歴上問題があった。
 既に54歳と高齢であった。
 また、清武自身にも将軍職に対する野心は特になかったといわれる。これらの理由から天英院は清武を将軍にすることを諦め、紀州藩主徳川吉宗を推し、吉宗が8代将軍に就任した。」(上掲)
 という↑のが通説だが、私は、清武が将軍に就任する最大の妨げになったのは、彼が、単なる日蓮主義者であったならばまだしも、日蓮宗信徒になってしまっていたからではないかと考えている。
 松平本家/徳川本家が、浄土宗と切っても切れない深い縁で結ばれてきたこと(前述。コラム#省略)、家康が(日蓮主義に基づく)秀吉の朝鮮出兵に距離を置いていたところの、反日蓮主義者だったことを想起せよ。
 なお、綱重は正室の隆崇院(九条兼晴の養女)との間に子はできなかったけれど、一応、彼女の系図も付しておこう。

 大政所–日秀※–豊臣秀勝※
           ||
          ||–豊臣完子—二条康道—二条光平—
        ||      |-九条道房 |-日通※ |       
織田信秀–お市の方–江     |-日怡※ |–隆崇院
  || |
||————-徳川和子—賀子内親王-
|| (東福門院)
徳川家康–徳川秀忠

    ※:日蓮宗信徒

 島津氏/近衛家、ないし、水戸徳川家、から彼女達に働きかけがあったかどうかはともかくとして、春日局、宝樹院、順性院、らの、徳川本家を日蓮主義家に作り替えようとする執念めいたものが私には見えてくるのだが・・。

  カ 対徳川家継

 徳川家継(1709~1716年。将軍:1713~1716年)は、「母は側室・於喜世之方(勝田氏)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99
だが、後に月光院と呼ばれる彼女は、「父は元加賀藩士で[真宗の]浅草唯念寺の住職勝田玄哲」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E5%85%89%E9%99%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%BF%B5%E5%AF%BA_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA) ([]内)
というのだから、真宗は日蓮宗と犬猿の仲であったこともあり、彼女自身は日蓮主義とは無縁だったろう。
 「家宣の存命中から天英院(近衛熙子)の弟・近衛家煕(摂政・関白・太政大臣を歴任)の娘である尚子との婚約を内々に決めていたが、家継よりも7歳も年上の尚子との年齢差を気にかけた天英院と家煕は、尚子を中御門天皇に入内させて女御にすることで事実上の婚約破棄を行った。尚子に代わる御台所の候補を求めた天英院と月光院は幼少の将軍の立場を強化するため、「家継」の名付け親でもある法皇の皇女を迎えようと考えて幕府を通じて交渉した。法皇もこの要請を受け入れて、正式に婚約をすることになったが、<家継の死という>思わぬ形で皇女降嫁の話は立ち消えになってしまうことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%99
というのだが、家煕としたら、日蓮主義家たる旧甲府徳川家出身の家継が将軍で、姉の近衛熙子が、家継の嫡母として、しかも、大奥の主として、この将軍に影響力を行使できるのだから、年齢的に不釣り合いの娘を送り込むのを躊躇したのだろう。
 ところが、家継が夭折してしまい、その時点で、家宣の男の子は誰もいなくなってしまっていたので、徳川本家が(松平清武はいたが)事実上断絶してしまい、近衛家/島津氏の努力は、一見無になったかのように見えた。
 しかし、その時、まさにこの、近衛熙子が、大活躍をすることになるのだ。

  キ 徳川吉宗を将軍に

 「天英院は当時の江戸城内の最高権力者であったが、<それでも、>彼女が<松平清武を当て馬として推して(上述)すぐひっこめた上で、「姪<の安己君>が嫁ごうとしている尾張家の継友ではなく、紀伊家の吉宗を指名し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B (コラム#14417)
>たことに幕閣や譜代門閥は驚嘆した。大奥の女性が将軍を指名したことはそれまで例がなく、また女性が政治に口出しをすることすら考えられなかったからである。そのため、最初は誰しも難色を示したが、天英院は御台所としての立場を最大限に生かし、「これは先代将軍家宣公の御遺志なのです」と次期将軍に吉宗を強く希望したとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90 (コラム#12455)
 実のところは、徳川吉宗誓約と私が名付けたところの誓約を行うことに吉宗が積極的に応じたことから、天英院は、近衛家の「私事」よりも「公事」を優先して・・むろん、父親の近衛家煕や時の島津藩主の島津吉貴や時の水戸藩主の徳川綱條(光圀の養子)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%90%89%E8%B2%B4
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E6%A2%9D
とも調整の上で・・吉宗を指名した、と、私は見るに至っているわけだ。
 参考のために、吉宗がらみの系図を掲げておく。↓

            徳川家重
              ||
 伏見宮貞清親王——–浅宮顕子女王(母は宇喜多秀家の娘(豊臣秀吉の養女))
    |     |—-安宮照子女王(日蓮宗信徒)★
    |         ||      八十姫(瑤林院。清正娘・日蓮宗信徒)★
    |         ||              ||
    |        徳川光貞(紀州藩第2代藩主)←徳川頼宣(初代藩主)
    |          ↓
| 徳川吉宗(紀州藩第5代藩主。母親は町人出身)
    ↓         ||
 伏見宮貞致親王——–真宮理子女王(日蓮宗信徒)(但し、吉宗藩主時代)★
    ||    |
    ||    ——伏見宮邦永親王–比宮増子女王
    ||                ||
 好君(近衛尚嗣の女)☆        徳川家重

 備考:★は日蓮宗信徒。☆は日蓮主義者


[『大日本史』編纂再開と朝廷献上]

 水戸藩第6代藩主の徳川治保(はるもり。1751~1805年。藩主:1766~1805年)は、嫡母が一条兼香の次女の一条郁子(絢君)で、御簾中が一条溢子(八代君) ・・<兼香の嫡男の>一条道香の長女・・だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D
(下掲系図参照)

 徳川家宣(1662~1712年。将軍:1709~1712年)
   ||
 |-近衛熙子(天英院) 徳川家治(1737~1786年。将軍:1760~1786年)
 |-近衛脩子    ||(1754年)
   ||     |-五十宮倫子女王        
閑院宮直仁親王—-|-閑院宮典仁親王–光格天皇–仁孝天皇–孝明天皇
         |-鷹司輔平—政煕(1761~1841年。関白:1795~1813年) 
               | ||——-福君(近衛基前養女)=尾張11代徳川斉温
               | ||——-鷹司政通(注58)
| || ||
               | 蜂須賀儀子 ||
| ||
| 徳川治紀—清子(鄰姫)
               |     |
| |——-徳川斉昭
|-鷹司富子 ||
||-浅野斉賢正室 ||
|| ||–徳川慶喜
 ||-毛利斉房正室 ||
               ||  ||
               有栖川宮織仁親王—登美宮・吉子女王  
                        |-楽宮喬子女王
                         ||
徳川家慶–徳川家定 

(注58)この系図からも想像できると思うが、鷹司政通の、太閤(前関白)時代の言動は、島津氏/近衛家、と、水戸徳川家、の指示を受けたものであったと見てよい。
 なお、九条尚忠の言動はその時々の幕府の意向に追随しているだけであり、孝明天皇の言動は、縄文人的で、だからこそ、権現様御掟(おんおきて)の墨守を旨としていた。(いずれも後述)↓
 政通は、「当初は開国論に立っており、ペリー来航に際しては「米国国書の内容は穏当で仁愛に満ちている」「往古には外国と国交を持っていた」「貿易は長崎のみで行えばよい」「惰弱な武士では外国との戦争は無理であろう」という見解を示していた。一方で開国の是非を決めかねている幕府に対しては「朝廷は通商を許可しろとか、あるいは撃ち払えなどと指図はしないが、人心が動揺しないようにしてもらいたい」と申し入れている。幕府が日米修好通商条約への事前勅許を求めてきた際には勅許を与えることを主張したが、安政5年(1858年)1月になると孝明天皇は条約への強い反対を表明する。同年2月22日の朝議で政通は孝明天皇に向かい「幕府と対立すれば承久の乱のような事態を招きかねない」と諫言するが聞き入れられず、2月27日には内覧辞退の意向を上奏する。孝明天皇はなおも意志を曲げず、翌日には辞退受理の意向を示し、3月4日には九条関白が以降は太閤と相談せずに天皇のみの意向を伺うことになった。政通の正式な内覧辞退は幕府との調整により7月27日まで延ばされたが、2月末の時点で政通の内覧は有名無実となっていた。こののち、廷臣八十八卿列参事件の前後に政通は一転して攘夷派となるが、これが安政の大獄において幕府から咎められ、落飾・隠居・慎の処分を受けて出家した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A

⇒この徳川治保が、1786年に立原翠軒を彰考館総裁に任じて『大日本史』編纂再開をした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%8E%9F%E7%BF%A0%E8%BB%92
のは、彼が、それぞれ広大院の実父、養父であるところの、島津重豪(1745~1833年)、と、近衛経熙(1761~1799年)、からの、広大院あたりを通じての要請を受けたから、と考えるのが自然ではなかろうか。
 では、どうして、この『大日本史』の朝廷献上が成就したのか?
 近衛脩子(しゅうし)を御息所とした閑院宮直仁親王の閑院宮家が日蓮主義家となっていた(後述)ところ、脩子を嫡母とする閑院宮家出身の(鷹司家を継いだ)鷹司輔平を父とし、娘達の、尾張藩朱徳川斉温、徳川家定、らへの輿入れで近衛家の分家としての立場をはっきりと打ち出すこととなるところの、鷹司政煕<(1761~1841年)>、は、自分の息子の(「注58」に登場した)鷹司政通を水戸藩の徳川治紀の娘と婚姻させるのだが、島津重豪/近衛基前、更には、重豪の義子の徳川家斉、の意向を受け、水戸藩の徳川治保<(はるもり)>によって編纂作業が再開されていた『大日本史』の改訂版がその次の藩主の徳川治紀(はるとし。1773~1816年。藩主:1805~1816年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E7%B4%80
の時に完成したのを見計らい、閑院宮家出身者の中では異質の純粋縄文人で反日蓮主義である光格天皇(後述)の縄文人的言動や幕府への外事等に係る報告要求を家斉が受け入れる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87
見返りに(光格天皇もその一員であるところの北朝の天皇家を否定するに等しい)『大日本史』を同天皇が受け取らざるをえなくなるよう画策し、文化7年(1810年)に至って、見事にそれに成功した
https://bunkyo-tushin.com/?p=3689
、と、私は見ている。
 この鷹司政煕の「正室は蜂須賀儀子であり、本来の蜂須賀氏の血統は絶えていたけれど、「秀吉の死後、形見の木像『木造 豊太閤像』が秀頼により家政と至鎮に与えられた。家政が隠居して蓬庵となり、中田の地に別邸を建てると、その近くに豊国神社を創建。秀吉の17回忌にあたる慶長19年のことである。・・・徳川家の力が大きくなるとともに神社の縮小や社殿取り壊し、神社名変更はあったものの、江戸時代を通じてひそかに祀り続けられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF )ということから、この蜂須賀氏の日蓮主義の影響も多少は政煕は受けていた筈だが、政煕(1761~1841年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95
の父親の鷹司輔平(すけいら。1739~1813年)は東山天皇の子の閑院宮家初代の直仁親王の子で皇別鷹司家の初代であって、輔平は嫡母こそ近衛脩子(八百君)だったが、生母は脩子ではないし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
政煕自身もまた嫡母こそ日蓮主義もどきの毛利氏の毛利文子だったが、生母が不詳の家女房だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E7%85%95

にもかかわらず、彼は、筋金入りの日蓮主義者だったということのようだ。(太田)

(4)天皇家を日蓮主義家化

  ア 伏見宮家

 「江戸時代において、伏見宮の歴代当主は、その時々の天皇の名目上の養子(猶子)として親王の身位を与えられた(親王宣下)。・・・幕末の宮廷においても、伏見宮は「伏見殿」と呼ばれ、近世歴代天皇の祖である後花園天皇の出身宮家として天皇と同様な存在とみなされていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE
というのだから、伏見宮家を日蓮主義家化することは、殆ど、天皇家を日蓮主義家化することに等しかった。
 ここで、下掲の家系図をご覧いただきたい。↓

                                         宇喜田秀家--おなぐ

                              ||–第11代邦尚親王
                             ||
                              ||
                              || 近衛尚嗣–好君
                              ||      ||
 伏見宮第7代邦輔親王–第8代貞康親王–第9代邦房親王–第10代貞清親王 ||
            | || ||
|–邦茂王——安藤定実(武将)※ ||–第13代貞致親王
|(安藤惟実)| ||
  安藤宗実–女——- ☆ |-安藤定元———-安藤定子
                           |-安藤?子
                       ||
                            埋忠(明珍)(刀鍛冶)◎

  ※–安藤了翁(師:藤原惺窩)–安藤朴翁(師:冷泉為景・木下勝俊)-|-安藤抱琴
○ ● | △
|
                                   |-安藤年山
                                     ▲
                                     ↑
                                2人とも儒学者
 (備考)
※:安藤定実(さだざね。?~1605年)。「武将。・・・丹波国桑田郡小口村・・・の・・・領主であり、南隣の出雲村に城砦を築いた。天正7年(1579年)には、織田信長の命を受けた明智光秀に攻められ、城を捨てて逃げた。のち小口村に帰<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E5%AE%9A%E5%AE%9F_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3)
○:安藤了翁(1577~1637年)。「安藤定実<の子。>・・・武士・儒学者。・・・藤原惺窩に<師事>した。のちに伏見宮家に仕え、その後は桑田郡に帰り、禅に傾倒した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E4%BA%86%E7%BF%81
●:安藤朴翁(1627~1702年)。「安藤了翁<の子。>・・・冷泉為景や木下勝俊に和歌を学び、伏見宮家に仕えた。子の安藤抱琴,安藤年山の「礼儀類典」編集をたすけた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%9C%B4%E7%BF%81
△:安藤為実(抱琴)(1655~1717年)「安藤朴翁・・・の長男。弟年山とともに,・・・徳川光圀にまねかれ,彰考館で「礼儀類典」などの編集にあたった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%8A%B1%E7%90%B4-1051814
▲:安藤為章(年山)(1659~1716年)。「兄の為実とともに最初は伏見宮に仕え、後に2人とも水戸藩の徳川光圀に招かれて彰考館の寄人となり『大日本史』『礼儀類典』『釈万葉集』の編纂に従事した。光圀の命令で契沖のもとに万葉集の註釈を教わりにたびたび出かけることとなり、ついには契沖の門人となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E7%82%BA%E7%AB%A0

  伏見宮貞致親王<(ふしみのみやさだゆきしんのう。1632~1694年)は、以下のような経緯で奇跡的に伏見宮第13代になった人物だ。
 彼は、「12~13歳の時(寛永20年(1643年)~正保元年(1644年)に、丹波国から上洛し、京都西陣の刀鍛冶である埋忠(明珍とも)<(◎)>の弟子となり、18歳の時(慶安2年(1649年)まで長九郞と称した。・・・慶安2年(1649年)には明珍の弟子を辞めて丹波国の伯父・安藤定実(安藤定次とも)<(※)>の邸宅に戻った。・・・
 慶安4年(1651年)には、安藤定明の子で安藤一門の本家である安藤定為が、分家出身の従姉・安藤定子と彼女から生まれた貞致親王を預かっている。・・・
 貞致親王は、承応元年(1652年)に、21歳にして邦尚親王派の働きかけもあり、父・貞清親王の招きによって帰洛した。
 しかし、まもなくして貞致親王の後ろ盾である異母兄の邦尚親王が死去したことで貞致の立場も危うくなり、承応2年(1653年)には、再び讒言により出奔した。・・・
 この際、貞致親王を引き取ったのは、かつての師匠である明珍<(◎)>であり、承応2年(1653年)から万治3年(1660年)に親王宣下を受けるまで明珍<(◎)>は貞致親王を保護した。
 承応3年(1654年)に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面した。邦道親王派の諸大夫達は、貞致親王の家督継承を阻止するために後水尾法皇の皇子を伏見宮家に迎え入れ、貞致親王を出家させる計画を立て、法皇からも認められたという。安藤定為は庭田雅純や三木冬仲に相談し、武家伝奏であった清閑寺共房と野宮定逸が江戸幕府に訴えたところ、幕府の命によって京都所司代・板倉重宗が精察することとなった。これにより伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。万治3年(1660年)10月17日に親王宣下<。>」(上掲)
 つまり、貞致親王は、武士的に育てられたわけだ。
 注目すべきは、幕府が介入したおかげで9回裏逆転ホームラン的に伏見宮第13代貞致親王が実現したことだ。
 当時の第4代将軍徳川家綱(1641~1680年。将軍:1651年~)の時代だったが、1654年当時、家綱は、就任3年目で、まだ12~13歳だったことから、将軍代理職である大政参与
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%8F%82%E4%B8%8E
であった保科正之が、文字通り幕府の全権を行使しており、正之が貞致親王を実現させたことになる。
 その背景だが、第一に、秀忠の隠し子であったこの正之の生母の静(浄光院)が日蓮宗信徒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%85%89%E9%99%A2_(%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E4%B9%8B%E7%94%9F%E6%AF%8D)
であったことから、正之が日蓮主義者になっていた可能性があることだ。
 第二に、当時、(家光の乳母の)春日局も(家綱の実母の)宝樹院も他界していたけれど、(綱重の生母の)順性院は存命であって、(綱重は家光の三男だが四男の綱吉の生母の)桂昌院より上位だったと思われることから大奥を取り仕切っていて、側面から正之の動きを支えた可能性もあるが、恐らくは、家光が兄弟扱いをして事実上の江戸常住(定府)徳川頼房(1603~1661年)・・日蓮主義者だった筈だが、頼房の背後には、1659年に近衛尋子を失ったばかり
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%8B%E5%AD%90
で彼女の影響で一層強固な日蓮主義者になっていたと想像される嫡子光圀がいたと考えるのが自然だろう。なお、この頃の近衛家当主は世代交代期(典拠省略)だったのでこういった画策は直接はできなかった・・と正之が連携しての動きだったと思われる。
 後出し的で恐縮だが、私は、貞致親王実現の決め手となったのは、「「伏見殿」と呼ばれ、近世歴代天皇の祖である後花園天皇の出身宮家として天皇と同様な存在とみなされていた・・・伏見宮・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE
を、秀吉の薫陶を受けた熱烈な日蓮主義者だった宇喜田秀家の娘を母とする代邦尚親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%B0%9A%E8%A6%AA%E7%8E%8B
を当主とする伏見宮家を、日蓮宗信徒であったと思われる貞致親王によって、強固な日蓮主義家へと変貌させることができる、と、近衛尋子/徳川光圀らが期待したからである、と、言いたいのだ。
 貞致親王が日蓮宗信徒であったことの根拠は、貞致親王の母方の曽祖父の邦茂王(安藤惟実)(☆)が日蓮宗信徒だったことがはっきりしているからだ。(注59)

 (注59)法号が恵日光院。
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%89%E8%97%A4%E6%83%9F%E5%AE%9F-1051718
 ちなみに、「法号とは「ほうごう」と読み、日蓮宗で故人に授与される仏名(仏の弟子になったことを意味してつけられる名前)のことを意味してい<る>。」
https://ikikata.nishinippon.co.jp/term/1564/
 この「日蓮宗の法号には、「妙」「法」「蓮」「華」「日」「円」といった、法華経や日蓮聖人の教えに関連する文字がよく使われ<る>。」
https://temple.nichiren.or.jp/1041067-myodenmyoukouji/2025/07/id219/

 だから、貞致親王の祖父の安藤定元は間違いなく日蓮宗信徒であった筈だし、母の安藤定子(1603~1636年)は法号が与えられているのでまさに日蓮宗信徒だった。
 (慈眼院心和光清大姉。これには日蓮宗っぽさがないし、彼女は「京千本浄光寺に墓があるという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E8%87%B4%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前掲
が、この寺は浄土宗の寺
https://4travel.jp/dm_shisetsu/11366089
ではあるものの、前者は無視してよいだろうし、後者は誤伝ではないか。)
 貞致親王自身については、「円実照院」という称号を用いており、日蓮宗信徒っぽい「円」が使われている一方、墓所は不明で、日蓮宗寺院であるという話はないので、恐らくは、「伏見宮<の>・・・菩提寺<である>広義門院創建の[臨済宗]大光明寺なのだろうが、これは致し方ない選択だったのではないか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E8%87%B4%E8%A6%AA%E7%8E%8B 前掲 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA ([]内)
 驚くべきは、その後の伏見宮家に起こったことだ。
 それまでの伏見宮家は、初代以来、日蓮宗や日蓮主義とはほぼ無縁で推移していた(典拠省略)というのに、まず、日蓮主義家の総元締めとも言うべき近衛家から、近衛尚嗣の娘の好君(1641~1676年)が貞致親王に嫁いでいる。
 ちなみに、好君の生母である女二宮の両親は、近衛前子の息子の後水尾天皇、と、徳川和子だ。
https://familytree-social.com/keizu-output.php?keyword=10757
 この好君の墓所は、臨済宗の東福寺の塔頭の海蔵院
https://ryobo.fromnara.com/kyoto/211.html
https://kyotofukoh.jp/report1537.html
だが、生母の女二宮(光明心院宮)の隣で眠りたかった(上掲)だけかもしれず、彼女が日蓮宗信徒でなかったと断定はできない。
 そして、1657年に貞致親王の異母姉の照子女王(安宮。1625~1707年)・・日蓮宗信徒!・・が紀州第2代徳川光貞の正室になり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
更には、1659年に貞致親王の異母妹の顕子女王(浅宮。1640~1676年)・・照子女王と同母。なお、日蓮宗信徒ではない・・が徳川家綱の正室になるのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
 そして、上出「備考」から分かるように、光圀が、伏見宮家に仕えていた安藤朴翁の2人の息子を彰考館で重用したわけだ。

  イ 桂宮家

 「正親町天皇の第一皇子の誠仁親王の第六皇子の智仁親王を祖とする。智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため豊臣家を離れてあらたに秀吉から邸宅と知行地を献じられ、一家を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE
ということから、最初から日蓮主義家だ。

  ウ 有栖川宮家(高松宮家)

 実質的には第5代の職仁親王(1713~1769年)から始まるが、彼の嫡母は霊元天皇の中宮の鷹司房子である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87
ことから、彼は日蓮主義者であったと思われる。
 そのことは、彼が、王女の職子女王を紀州藩主徳川重倫(しげのり)と婚約・・後、重倫の素行の悪さが知られ、婚約破棄・・させたり、王女の董子女王を近衛経煕の正室にしたりしたこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%81%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
が示唆している。
 また、皇子の織仁親王は、妃が鷹司富子で、王女の喬子女王が徳川家慶の御台所、王女の吉子女王が徳川斉昭の正室(徳川慶喜生母)だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 
  エ 閑院宮家

 上述した諸家に続く4番目の世襲親王家であり、「宝永7年(1710年)、東山天皇の第六皇子・直仁親王を初代として創設され<たが、>・・・東山天皇<が>家宣の舅でもあ<り、そもそも、>[信任して<いた>]関白・近衛基熙を通じて、実子である秀宮(直仁親王)に新宮家を創設させるための財政的支援を<幕府・・新将軍徳川家宣・・に>求めて<実現したもの>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
であり、この直仁親王の妃は近衛脩子<(しゅうし)>[・・近衛基熙の娘で、姉<が>江戸幕府6代将軍徳川家宣の正室・近衛熙子・・]である、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%9B%B4%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E8%84%A9%E5%AD%90 ([]内)
ということから、同家は、バリバリの日蓮主義家としてスタートを切った。
 (ところが、という話をすぐ後でする。)

(5)天皇本家を縄文人家化

 これは、意外な成り行きで実現した。
 言うまでもなく、光格天皇の誕生によってだ。↓

 後の光格天皇は、「明和8年8月15日(1771年9月23日)、閑院宮典仁親王(東山天皇の皇孫)の第6王子として生まれる。誕生の翌年、聖護院宮忠誉入道親王の附弟となり、聖護院に入寺。 将来出家して聖護院門跡を継ぐ予定であった。
 安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いと評価されたものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。
 安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚。直前に儲君に治定されていたものの、立太子はなされなかった。
 <ちなみに、この時の将軍は徳川家治だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7 >」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒これは極めて異常な出来事だったと言わざるをえない。
 第一に、「<後桃園天皇>の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳<。1779~1846年>)を新帝の妃にするという構想」自体がおかしいのであって、当時の乳幼児死亡率の高さから、実際に彼女が入内したのは1794年であったところ、その頃まで生存しているかどうか保証の限りではなかったことに加えて、「内親王の中宮立后は、後醍醐天皇の中宮珣子内親王(後伏見天皇の第一皇女、新室町院)以来実に460年振りのことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A3%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
という異例さも指摘しなければなるまい。
 (もとより、女一宮の生母は近衛内前の娘の近衛維子だったから、近衛家がこのことにこだわったという解釈も、論理的には不可能ではないが・・。(上掲))
 よって、これは、美仁親王を候補から落とす結論が先にあったにもかかわらず、そのことを隠蔽することを目的とするところの、世間向けの(へ?)理屈であった可能性が大だ。
 第二に、時の上皇、と、その前年の3月6日まで関白太政大臣で当時は准三宮(じゅさんぐう)であった近衛内前
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%94%BF%E3%83%BB%E9%96%A2%E7%99%BD%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%86%E5%90%8E
が、時の関白の主張を退けられなかったとされていることもおかしい。
 「<当時、>院政の慣例は依然存在したものの、すでに公的な政治運営の体制とはいえなくなっていた<とはいえ、>・・・後桜町・・・上皇<は>、政治的な活動はあまり知られない<けれど、>・・・仁孝天皇や関白の相談をしばしばうけ重きをなした」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=e49a81c2225921f7ba8fa7b9babc728c6e8d2a853f732e3f8db132f4f4943a0dJmltdHM9MTc1NTMwMjQwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e6%b1%9f%e6%88%b8%e6%99%82%e4%bb%a3+%e4%b8%8a%e7%9a%87+%e5%a4%a9%e7%9a%87&u=a1aHR0cHM6Ly9yZXBvc2l0b3J5LmRsLml0Yy51LXRva3lvLmFjLmpwL3JlY29yZC8yMDAwMjIyL2ZpbGVzL3NjZTMyMDA5LnBkZg&ntb=1
ところ、これは、そんな彼女に加え、自分の前任者で、かつ彼女の母親格の近衛内前、の意見に九条尚実ごとき「無資格」関白(後述)が一人で抗しうる筈がないのであり、今度は、九条尚実の「剛腕ぶり」を対世間的にPRして、新九条家を強力な摂関家化するために、伏見宮家の嘉禰宮を候補から落とす結論が先にあったにもかかわらず、そのことを隠蔽することを目的とするところの、世間向けにでっち上げられたストーリーであった可能性が大だ。
 (日蓮主義家の近衛家の内前が、後で説明するように、実は同じく日蓮主義家になっていたところの、伏見宮家の嘉禰宮を推すのは対世間的には自然なことだった。また、後桜町上皇についても、彼女の(父親の桜町天皇の女御たる)祖母は近衛尚子だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
ので、彼女が推していた嘉禰宮を推すこともまた、対世間的には不自然ではない。)
 では、近衛内前が、そこまでして、光格天皇、つまりは光格天皇家、を誕生させたのはなぜか?
 それは、光格天皇以下の光格天皇家の歴代天皇に、幕府への注文権、幕府からの政情報告聴取権、と、その系としての幕府の重要対外政策変更に対する拒否権、とを与えた(注60)上で、近衛家/島津氏、及び、御三家、並びに、徳川本家・・吉宗からは徳川吉宗家・・、としては、いざという時に、新九条家のように、無条件で幕府(徳川吉宗家)の言うことを聞くのではなく、吉宗が標榜したところの、私の言う縄文人好みの祖法(「権現様御掟(おんおきて)」)の墨守を主張して上記拒否権を発動してくれるであろうところの、縄文人天皇家、を、創ることができると値踏みしたからだ、と、私は見るに至っている。

 (注60)「天明7年(1787年)6月、天明の大飢饉の際に御所千度参りが行われると、後桜町上皇はりんご3万個を民衆に配布。光格天皇は事態を憂慮し、朝廷が幕府の方針に口出しをしないという禁中並公家諸法度の定めを破り、幕府に民衆救済を申し入れた。そのため、天皇の叔父でもある関白・鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。ゴローニン事件の際には交渉の経過を報告させるなど、朝廷権威の復権に努める。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「ゴローニン事件・・・は、1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニン(・・・Vasilii Mikhailovich Golovnin・・・)らが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルド(ロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 その結果は期待以上だったのであり、上述したように、新九条家の九条尚忠は、幕末において、徳川本家の注文通りの言動を続けたために、縄文人たる光格天皇家の孝明天皇の逆鱗に触れ、馘首され、その結果、日本全国の尊皇攘夷の志士達は崛起する、というか、崛起せざるを得なくなる、こととなり、徳川幕府の瓦解が(後述するように、トンデモ将軍たる徳川家定の出現によって暗転しつつも、それでもなお比較的、)「円滑に」実現することになったのだ。(太田)

(6)公家の日蓮主義家化

 作為と偶然両方によるものだろうが、近衛家によって日蓮主義家として再興されたと私が見ている鷹司家(前述)の鷹司信尚(前出)の子の「鷹司教平<(前出)(1609~1668年)>の男系の孫(鷹司兼熙・一条兼香・九条輔実・二条綱平)が・・・18世紀初期に・・・<鷹司家の本流の>近衛家以外の摂関家の当主全てを・・・占めていた時期がある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%95%99%E5%B9%B3
ことによって、達成された。
 「基本的に堂上公家は非藤原氏でも・・・門流<(家来・家礼)として、>・・・五摂家のいずれかの下に所属<しており、>・・・非門流<の>・・・15家<以外の117家は、>・・・元服するにも嫁を貰うにも養子を取るにも、一切摂家の同意を得ねばならなかった」
https://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
ことを想起して欲しい。

(7)九条家の幕府追随家化

 九条尚実を九条家当主にすることができたことによって、表記を達成した。↓

 「九条尚実(くじょうひさざね/なおざね<。1717~1787年>)は、・・・始めは尭厳<(ぎょうげん)>と名乗り、門跡である<真言宗の>随心院に入り、権僧正に任じられる。27歳の時に兄・九条幸教の子・稙基が没したため、寛保3年(1743年)5月9日に還俗し九条家を継ぐ。なお、当時の関白である一条兼香は有職故実を知らない尭厳が摂関家の当主になることに反対して桜町天皇の弟である政宮(後の遵仁法親王)に九条家を継がせようとしたが<、>〈母<が>近衛家熙の女<子の>・・・近衛尚子<で>・・・家煕らが養育<にあた>った〉桜町天皇と<尭厳の亡兄>幸教<の>未亡人[・・尾張4代目徳川吉通の長女・・]である信受院からの反対を受けて<この工作が>失敗に終わ<ったことから>、他の摂家と相談して尭厳が将来摂関に就くこと及び尭厳の子孫が九条家を継ぐことを認めないことを<、せめてもの、>相続の条件としようとしたが、江戸幕府《・・徳川吉宗・・》から尭厳の相続に特別な条件を付けるべきではないという意見が出されたため、これも認められなかった。・・・

⇒ここで脱線させてもらうが、上出の徳川吉通の「尾張藩の藩祖、義直はその著『軍書合鑑』に「王命に依って催さるる事」と記し、これが藩の秘訓として歴代の藩主に教え込まれてきた。万が一、幕府と朝廷が争う事態となったら、尾張は迷わず朝廷側について戦え、という内容である。<(コラム#9902も参照。)>」
http://sigehiro.web.fc2.com/owari5_2.htm
というのは良く知られている話であるところ、「当初、この遺訓は歴代の藩主にだけ口伝で伝えられてきたが、<まさにこの>第四代藩主・吉通の時代に明文化への道が開かれた。病にあった吉通は、跡継ぎの五郎太が未だ三歳の幼少だったため、遺訓の内容を侍臣の近松茂矩(しげのり)に伝え、後に残・・・したからである。
 <この>茂矩は<、>吉見幸和に師事した崎門学派で、吉通の遺訓を明和元(一七六四)年に『円(えん)覚(かく)院(いん)様(さま)御(ご)伝(でん)十五ヶ条』として著した。「王命に依って催さるる事」に関わる部分は以下のように書かれている。
 「御意に、源敬公<(徳川義直)>御撰の軍書合鑑巻末に、依二王命一被レ催事といふ一箇条あり。但し、其の戦術にはそしてこれはと思ふ事は記されず、疎略なる事なり。
 然れども、これは此の題目に心をつくべき事ぞ。其の仔細は、当時一天下の武士は、皆公方家を主君の如くにあがめかしづけども、実は左にあらず。既に大名にも国大名といふは、小身にても、公方の家来あいしらひにてなし、又御普代大名は全く御家来なり。三家の者は全く公方の家来にてなし。今日の位官は、朝廷より任じ下され、従三位中納言源朝臣と称するからは、是れ朝廷の臣なり。然れば水戸の西山殿(<徳川>光圀)は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし由、然ればいかなる不測の変ありて、保元・平治・承久・元弘の如き事出来て、官兵を催さるゝ事ある時は、いつとても官軍に属すべし、一門の好を思ふて、仮にも朝廷に向うて弓を引く事ある可からず、此一大事を子孫に御伝へ被レ成たき思召にて、此一箇条を巻尾に御記し遺されたりと思ふぞ」」
https://note.com/tsubouchi2016/n/nf124d894d407 前掲
 それに続き、「ここに、「水戸の西山殿<(徳川光圀)>は、我等が主君は今上皇帝なり、公方は旗頭なりと宣ひし」とあることに注目したい。」(上掲)とあるところ、まさにその通りであり、義直と全く同じことを言っているに過ぎないのに、わざわざ光圀もそう言っていると書いたのは、それ以外のことも、吉通は光圀の思想に拠るに至っていたからである、と私は見ている。
 すなわち、吉通の時までに、尾張藩の藩是は水戸藩のそれと同じく、日蓮主義になっていた、と。
 (付言するが、尾張藩に、3代近くにわたって、歴代藩主間で口伝だけで伝えられる「藩の秘訓」、すなわち、秘匿された藩是、があった、ということは、私が、かねてより、口を酸っぱくして力説してきたように、各藩や公家の各家にもそれに類するものがあっても全く不思議ではないことはもとより、それに類したものの存在を前提にしなければ、およそ日本史の解明などできない、ということだ。)
 これを踏まえ、桜町天皇を通じて近衛家が、また、九条幸教未亡人を通じて尾張徳川氏が、更に、近衛家の意向に沿うことを誓約している将軍徳川吉宗(後述)、という、日蓮主義勢力が、本来、九条家の後嗣たりえない尭厳を強引に後嗣に据えたのは、尭厳改め九条尚実が幕府に恩義を覚え、爾後の九条家に、無節操に常に幕府の指示に従う形で歴代天皇を補佐するような言動をとらせることで、極力維新なる日蓮主義革命を円滑・・結果としては「円滑」にこの革命がなったことについても後述・・に成し遂げる一助にしたいと考えたからだ、というのが私の、相当ぶっとんでいることは重々承知しているが、見解なのだ。(太田) 

 <九条尚実は、>宝暦9年(1759年)から安永7年(1778年)にかけて左大臣を務め、同年から後桃園天皇の関白を務める。・・・
 安永8年(1779年)、後桃園天皇が崩御<し、>・・・尚実<は>新帝<(光格天皇)>の摂政に就任した。翌安永9年(1780年)には太政大臣を兼ねて、新帝の加冠を担当する。天明5年(1785年)には再び関白に転じた。天明7年(1787年)に関白を辞任して准三后に叙せられるが、同年死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%AE%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B9%B8%E6%95%99 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7 (《》内)

⇒その九条尚実が、幕府・・実は日蓮主義勢力・・の要請、というか、指示、を受け、行った大仕事が、光格天皇の誕生だったわけだ。(前述)

(参考系図)

 霊元天皇—広幡忠幸———-新君
       ||     ||
徳川義直-|-京姫 ||
|-光友 ||
|| ||
||————–徳川綱誠—徳川吉通※
||            |-徳川継友     
 徳川家光—千代姫(霊仙院) |-徳川宗春

←九条輔実

↓ ※徳川吉通(尾張4代目)–徳川三千君
→九条師孝 || ||
| ↓  || ||
|   ↓ ||      ||
→→-|-→九条輔子 ||
|  ↓ ||
| (養子) ||
| ↓ ||
→九条幸教================
| ↓
| (養子)
|  ↓  
→九条尚実——-道前
         ||
||–輔家———————————|          ||                    |
←二条治孝 徳川譲子(尾張8代目徳川宗勝の子) |
|  || | ↓
| ||——-九条輔嗣←—————(養子)←————
| || | ↓
| || | (養子)
| || |  ↓
| || |—→九条尚忠(関白:1856~1862年)–英照皇太后
|  ||                    ||
| 徳川翰子(水戸5代目徳川宗翰の子)   孝明天皇
|
|-→徳川治国(一橋家世子)正室
|-→徳川斉敦(一橋家3代目)正室
–→松平頼縄(常陸国府中藩9代目)継室
 (このほか、大名としては黒田斉清正室、鍋島直与継室も。全部で23人の子あり。)

 ここで時間を早回しするが、せっかく誕生の運びとなった新九条家は、尚実の孫の輔家に男子が生まれなかったために、断絶の危機に直面した時、九条家の分家の二条家から、何と、水戸5代目徳川宗翰(むねもと)の娘の翰子が産んだ輔嗣を、彼に言いくるめた上で九条輔家の養子に送り込んだことで、事なきを得る。
 悪いことは続くもので、この輔嗣もまた男子の後継が得られなかったので、今度は、輔嗣の異母弟の二条尚忠を輔嗣の養子に送り込む羽目になる。
 しかし、尚忠は輔嗣によって養育され、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E5%B0%9A%E5%BF%A0
新九条家の家是は無事引き継がれたと目される。
 そして、九条尚忠は、「[安政3年8月8日(1856年9月6日)<という、クリティカルな時期に、>]長期間関白職を務めた鷹司政通から同職を受け継<がされる>こととなったが、女癖の悪さもあり、各方面より警戒された。安政5年(1858年)、<米国>を始めとする諸外国との通商に際して、幕府が日米修好通商条約の勅許を求めてきた時、幕府との協調路線を推進して<孝明天皇に>条約許可を求めた。また、将軍継嗣問題では徳川慶福の擁立を目指す南紀派<・・要は、13代将軍徳川家定の意向、遺志を尊重する派(太田)・・>についた。
 しかし同年、幕府との協調路線に反発する<圧倒的多数の日蓮主義者たる公家達中、最過激な>88人の公卿たちの猛烈な抗議活動により条約勅許はならなかった(廷臣八十八卿列参事件)。更に尚忠が<幕府による鎖国祖法(後出)廃止を承認する(太田)>勅許を認めようとしていたことを知った<縄文人たる(太田)>孝明天皇は立腹し、<尚忠の>関白の内覧職権を一時停止した(関白の地位にあっても、その最も基本的な職務である内覧職権が停止されれば、事実上の停職処分に相当した)。
 その後、幕府の援助により復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の尊皇攘夷過激派から糾弾されて、文久2年(1862年)6月には関白・内覧をともに辞し、出家・謹慎を命じられて九条村に閉居した。」(上掲)と、九条尚忠は、見事なまでに幕府・・その時々の将軍・・の意向べったりに関白業務をこなし、倒幕維新機運を醸成させることに「大成功」を収めさせられるのだ。(太田) 

(8)徳川吉宗誓約

  ア 始めに

 改めてだが、近衛熙子(天英院。1666~1741年)は、「近衛基熙<の娘で>・・・6代将軍徳川家宣の正室<になったところの、>・・・日蓮・・・宗<・・後の島津斉彬と同じ日蓮正宗の方だが・・信徒だ。>・・・
 [享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世<した後、>]第8代将軍に徳川吉宗を指名したのは天英院だ<った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90

⇒天英院が日蓮宗信徒の松平清武を忌避した理由は前述した。(太田)

 「御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通<(前出)>とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの<近衛基熙の長男の>近衛家熙の娘の安己君と婚約し、間部詮房や新井白石らによって引き立てられており、8代将軍の有力候補であった。しかし吉宗は、天英院や家継の生母月光院など大奥からも支持され、さらに反間部・反新井の幕臣たちの支持も得て、8代将軍に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 ([]内も)
 どうして、天英院が姪が嫁ぐことになっていた尾張の継友を忌避したかだが、尾張徳川家が、当時、まだ日蓮主義家ではなく尊皇家にとどまっていたのに対し、紀州徳川家が日蓮主義家だったからだ、というのが私の見方だ。↓
 霊元天皇(1654~1732年。天皇:1663~1687年。院政:1687~1732年)の「父の後水尾法皇は天皇の即位をきっかけに、清涼殿・紫宸殿における仏教祈祷を廃止して禁中での祈祷は内侍所の御神楽のみに限定して、国家的な祈祷は上七社(伊勢神宮・石清水八幡宮・賀茂別雷神社・賀茂御祖神社・松尾大社・伏見稲荷神社・平野神社・春日大社)と七大寺(延暦寺・園城寺・興福寺・東大寺・東寺・仁和寺・広隆寺)に固定することにした。これは朝儀再興の一環として中世後期以来の朝廷における祈祷の無秩序状態を解消することを目的としていたが、禁中における仏教色の抑制や将軍家の病気平癒の祈祷が禁中で行われている状況を解消して朝廷権威の回復を目指す意図も含んでおり、法皇が以前から抱いていた構想の実現であったとは言え、後に天皇が目指すことになる朝儀復興と朝廷権威の回復政策の先鞭をつけるものとなった。・・・
 貞享4年(1687年)、朝仁親王への譲位が行われることとなった。霊元天皇はこれに伴い、長年中断していた即位式と共に行われる大祭大嘗祭を行うことを強く要望した。大嘗祭再興については朝廷内にも財源と準備が不足であるとした、左大臣近衛基熙をはじめとする強い反対派が存在した。更に神仏分離を唱える垂加神道を支持してその教義に基づく大嘗祭を行おうとする一条冬経と神仏習合を唱える吉田神道を支持する近衛基熙という対立構図も存在していた。・・・

⇒後水尾の母親は近衛前子であり、後水尾の影響で、その子である霊元天皇も日蓮主義者になっていて、だからこそ反幕であったと考えられる。
 しかし、近衛家/島津氏は、天皇本家は、いずれ反日蓮主義家へと転向させたいと考えていた上、いずれにせよ、天皇本家が、(時が至るまでは、)反幕であることには反対だったので、霊元天皇/法皇とは対立せざるをえなかった、と、私は見ている。(太田)

 <やがて、>霊元が近衛家への厚遇と幕府との連携に転じたことで、近衛家や幕府の不満は和らいでいった。
 しかし霊元自身の近衛家に対する憎悪は残っており、享保17年(1732年)2月に書かれ、下御霊神社に奉納された自筆願文の中で「執政すでに三代」を重ねた「私曲邪佞の悪臣」「邪臣」を神や将軍の力で排除されるよう祈願している。これは基熙の孫に当たる当時の関白近衛家久を指したものと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%85%83%E5%A4%A9%E7%9A%87

⇒近衛家は、吉宗が日蓮主義者であること、だから、もはや反幕的姿勢を維持する意味はないと霊元を説得し、ある程度それに成功したけれど、霊元の近衛家に対する不信感は払拭できなかった、ということだろう。
 近衛家側としても、霊元、ひいては天皇本家に対する警戒心を維持し続けていて、だからこそ、日蓮主義抜き尊皇であった尾張徳川家が、1713年に亡くなったばかりの第4代の吉通
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E9%80%9A
の時までに日蓮主義家になっていたことが、第6代の徳川継友の正室に娘の安己君を送り込んでいた近衛家煕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%99%E5%8F%8B
にすらまだ完全に探知できていなかった可能性があるところ、そんな尾張徳川家から将軍が出ることは好ましくなかったのだろうし、継友が「幼少より金銭を蓄積することに熱心、「性質短慮でけち」と領民の評判は今ひとつ<だったし、>・・・伊勢神宮への参拝とその大麻札を将軍家に上程した日<が>朝廷の制中であ<った等>、時を弁えていない行動も少なからずあった。」(上掲)こともマイナスに働いたのだろう。
 こうして、近衛家/島津氏は、享保元年(1716年)に、紀州徳川家の徳川吉宗を8代将軍に就任させたわけだが、就任の条件として、私の言う徳川吉宗誓約を、爾後徳川吉宗家に変わる徳川本家が彼自身を含めて遵守すべきものとして、口頭で彼に行わせた、と、私は想像するに至っている。

  イ 『大日本史』の幕府の受け入れと朝廷への受け入れ働きかけ

 さて、この誓約の中身なのだが、その第一は、『大日本史』の幕府の受け入れと朝廷への受け入れ働きかけだったと考えられる。
 その主たる狙いは、天皇家が日蓮主義を推していること、つまりは、日蓮主義家であること、を、日本の比較的高い知的水準を備えた人々が理解できる形で宣明させ、そのことを幕府からリークすることによって、これらの人々に周知させるところにあり、その従たる狙いは、近衛家/島津氏として、近い将来に、日蓮主義家になっていたところの天皇本家を反日蓮主義家へと転換させ、この本家の爾後の歴代天皇に、これまたそう遠くない将来に開始される日蓮主義完遂戦争から心理的に距離を置かせる誘因を提供するところにあった、と、私は見るに至っている。
 で、話を戻すが、当時の天皇家(北朝系)が抱懐していた日本史観は、「後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた『帝王系図』など多くの皇室系図を照合勘案、これに天神七代と地神五代を併せて、応永33年(1426年)に成立した・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E7%9A%87%E8%83%A4%E7%B4%B9%E9%81%8B%E9%8C%B2
北朝正統史観であったところ、例えば、これによれば、
 仲恭天皇 <日蓮主義南朝正統史観では>85<代>―九条廃帝 承久の乱にて廃位され、歴代天皇に含まれず。即位礼等も無し。・・・
 後村上天皇 <南朝正統史観では>97<代>―義良親王 「南方で天皇と称し、後村上天皇と号した人」と注意書きがなされている。
 長慶天皇 <南朝正統史観では>98<代>―寛成親王 「南方で自ら勝手に天皇と名乗り、長慶天皇と号した人」と注意書きがなされている。
 後亀山天皇 <南朝正統史観では>99<代>―熙成王 「吉野で降伏したあと、本当は天皇でなかったのだけれど便宜的に太上天皇とされ、後亀山院と号した人」と注意書きがなされている。・・・
 <他方、南朝正統史観では、>後小松天皇<は、>100<代だが、本朝皇胤紹運録、すなわち、南朝史観では、光厳天皇96代、光明天皇97代、崇光天皇98代、後光巌天皇99代、後円融天皇100代、に続く、>101<代となる>」(上掲)
ことから、南朝正統史観と北朝正統史観とを比べると、後者が1代多い代数になるわけだが、享保誓約当時の天皇は中御門天皇(1702~1737年。天皇:1709~1735年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
であったところ、その長男の桜町天皇(1720~1750年。天皇:1735~1747年)は、生母が近衛尚子・・後の桜町天皇誕生から20日で死去・・であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E7%94%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87
けれど、「延享4年(1747年)5月2日<に>・・・自身<で>「人皇百十六代孫昭仁」と署名している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
ことから、このことだけからでも、北朝正統史観を当然視していたことが分かる。
 そんな天皇家を向こうに回して、吉宗は、南朝正統史観に拠っている『大日本史』を、就任4年目の享保5年(1720年)に幕府で受け入れ、というか、上記誓約に基づき、幕府で受け入れさせられた上で、朝廷への受け入れ工作を開始した、というか、上記誓約に基づき、開始させられたのだ、と、私は見ているわけだ。↓
 ちなみに、「『大日本史』は・・・南朝を正統として扱った<結果>、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、<さすがに、>現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、<中御門天皇当時の>朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った<(注61)>。

 (注61)時の関白・・摂政から続投・・は九条輔実(すけざね)であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E8%BC%94%E5%AE%9F
前の摂政は天英院の弟である近衛家煕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99
だったが既に退いており、また、九条輔実の後の関白は、二条綱平であったので、その間近衛家は天皇への影響力を低下させており、その後、1726年になってから、やっと、家煕の子で正室と側室がどちらも島津氏であるところの近衛家久が関白になっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E4%B9%85

 当時<の関白は九条輔実だったが、>博識として知られた権大納言<の>一条兼香<(注62)>(後、<1737~47年の間>関白)は<、>この問い合わせに驚き、北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。

 (注62)かねよし(1693~1751年)。「鷹司房輔の末子として誕生。・・・一条兼輝に男子がいなかったために、元禄14年(1701年)に養子として一条家に入った。蔵書家として知られた養父の影響で学問に励み、後に政敵となる近衛家熙からも「当世の才」として高く評価された。また、養父ともども、垂加神道の理解者であ<った>。・・・宝永2年(1705年)に養父が薨去し14歳(数え歳)で一条家を継いだ。当時、近衛基熙・家熙父子が江戸幕府将軍徳川家宣の外戚である事を背景として 院政を行っていた霊元上皇と対立し、家熙の娘を中御門天皇の女御にするなど朝廷内で絶大な力を振るっていた。これに対して兼香は実兄の鷹司兼熙、父方の従兄弟である九条輔実・二条綱平兄弟(兄弟の父である九条兼晴は兼香の実父・鷹司房輔の弟)と結んでこれに対抗した。その後、享保7年(1722年)に内大臣に任じられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%85%BC%E9%A6%99

⇒鷹司家の出身者が近衛家と対立するなどということは、本来ありえない上、この頃、全摂関家が日蓮主義家しつつあった(後述)ことを勘案すればて、一条兼香は、中御門天皇等、天皇本家の人々を説得できる見込みが全くなかったので、「注62」のような話を世間に流布させたのだろう。(太田)

 この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって<、中御門天皇が、>現在の皇室に差しさわりがあることを理由に<受け取らぬ、また、>刊行<も>相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して<、改めて>朝廷への取次を要請した。これが<ついに>嘉納されたのは<光格天皇/将軍徳川家斉の時であり、>実に<、7>9年後の文化7年(1810年)のことであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96

⇒1731年に朝廷が受け取り拒否回答を行った時の関白は近衛家久(1687~1737年)だったが、その母が霊元天皇の皇女で異母妹が中御門天皇の女御の近衛尚子、という、時の天皇との極めて近しい関係ながら、第6代将軍徳川家宣の「正室の近衛熙子が伯母にあたる縁から、・・・家宣の猶子となってい<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%B0%9A%E5%AD%90
という、家久の幕府との近し過ぎる関係もあり、いくら日蓮主義家になっていたとはいえ、南朝史観の『大日本史』なんぞを受け入れたら、その存立根拠が失われてしまいかねない、と(正しく受け止めていた)天皇家本家、の、中御門天皇(1702~1737年。天皇:1709~1735年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%A4%A9%E7%9A%87
を説得するのを断念せざるをえなかったのだろう。(太田)

  ウ 幕府の基本政策に係る近衛家/島津氏の指示の実行

 (ア) 享保の改革

 誓約の第二は、「幕府の基本的政策に係る近衛家/島津氏の指示の実行」であった、と私は見ている。
 表記改革(1716~1735/1745?年)は、これを踏まえ、島津氏/近衛家が、彼らにとって関心ある以下のものを含む諸政策を、徳川吉宗に、直接実行させたものだと私は見ている次第だ。↓

 〔「将軍に就任すると、第6代将軍・徳川家宣の代からの側用人間部詮房や新井白石を罷免したが、新たに御側御用取次という側用人に近い役職を設け、事実上の側用人政治を継続した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E5%BF%A0%E7%9B%B8 〕

⇒わざわざ職名を変えたのは、職の実体を変えたからなのであって、自分の後継たる将軍達の時代に、この御側御用取次を通じて、将軍をすっ飛ばす形で、近衛家/島津氏の意向が直接幕政に反映できるようにしたからだ、というのが私の理解だ。(太田)

 <そして、>水野忠之<(注63)>を老中に任命して<自分自身が、島津氏/近衛家のエージェントとして、享保の改革>を始める。・・・

 (注63)徳川秀忠-娘-前田利次-娘-水野忠之(水野家は於大の実家)
 天保の改革の水野忠邦は形の上では子孫だが血の繋がりはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%AC%A1
http://chrono2016.blog.fc2.com/blog-entry-752.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%BC%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E5%85%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%82%A6

 〔ちなみに、有名な、大岡忠相(1677~1752年)は、「高祖母<が、家康の生母の>於大<であり、>・・・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛、奏者番、寺社奉行を務めた<ところ、その>墓所は<大岡氏>代々の領地のあ<った>神奈川県茅ヶ崎市堤の<浄土宗の>窓月山浄見寺<、と>、東京都台東区谷中の<日蓮宗の>慈雲山瑞輪寺<、にあるので、彼は日蓮宗信徒だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E5%BF%A0%E7%9B%B8 〕

 当時幕府は幕領からの年貢、主要鉱山・御林などからの収入が頭打ちとなると共に、「米価安の諸色高」によって産業間の需給バランスが崩れ武家庶民共に生活が不安定になりつつあった。幕府財政収支にいたっては六代家宣の時期には収入が76万両程であったのに対し、支出は140万両にも及んでいた。
 その対策の為に・・・年貢を強化して五公五民<(注64)>に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法<(注65)>を採用して財政の安定化を図
 (注64)「豊臣秀吉は二公一民を基準とし[た定免法],江戸時代初期には四公六民,享保年間 (1716~36) 以降五公五民になったとされている。」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%85%AC%E4%BA%94%E6%B0%91-64520
 「<但し、>開墾や農法改良等による増分は、従来の検見法とは異なりすべてが百姓の収入とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%85%8D%E6%B3%95 ([]内も)
 (注65)「享保の改革の一環で・・・享保7年(1722年)・・・<に>導入された。・・・過去5年間、10年間または20年間の収穫高の平均から年貢率を決めるもので、豊凶に関わらず数年間は一定の年貢高を納めることになった。しかし、余りにも凶作のときは「破免」(年貢の大幅減)が認められることがあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%85%8D%E6%B3%95

 その対策の為に年貢を強化して五公五民に引き上げて、検見法に代わり豊凶に関わらず一定の額を徴収する定免法を採用して財政の安定化を図<ったが、>・・・農民にとっての過重負担となった。建前上は1割の上昇だが、四公六民の時期において実質は平均2割7分6厘程度の負担だったため、引き上げの際の再計算で実質的に5割の負担が課せられたため、2倍近い増税となった。あわせて定免法が採用された時も、特に凶作時においての負担増につながった。この結果、人口の伸びは無くなり、一揆も以前より増加傾向になった。<(>次の家重時代には、建前上は五公五民の税率は守られたが、現場の代官の判断で実質的な減税がなされている。<)>・・・

⇒将軍家、親藩、譜代、の家臣団勢力(武士の数)を日蓮主義完遂戦争開始時まで維持させるための財政措置であり、同時に、「注※」に出てくるように、増産意欲を助長する面もあったが、総じて言えば、徳川幕府に対する負の印象を、将軍家、親藩、譜代の領域の領民に抱かせた・・抱かせるための?・・措置でもある。(太田)
 これらの施策は、外様藩にとっても、「範例」となったと考えられる。
 戦国時代よりやや減らしただけの武士(軍人)の数を抱えつつ、初期の幕府は、農民の税負担を低減させていたわけだが、それでは、赤字財政になるのは必定だったので、戦国時代の時に近い水準の税負担に戻したということ。
 (徳川家康の慶長4年(1599年)時点の駿河国一帯に出した法度では、「年貢の免合(税率)を55%と定めつつも、不作の年は領主と相談の上、3分の1は百姓が取っていい(税率66%)と定めています。不作の年の方が税率が高いというのは、どんなに不作でも実収値の最低33%は百姓側が取っていいということなのでしょう。さらに、家康は同様の文書を近隣の村ごとにも出していますが、それぞれに税率は異なり、「七ツ」(税率70%)、あるいは「六ツ」(同60%)と示されています。ここからわかることは、往々にして高い税率をかけているのですが、地域ごとの田畑の良し悪しを考慮して、細かく税率を変えているということです。まさに「百姓は生かさず殺さず」を細かく実践していたと言えるでしょう。」
https://miyatohru.hatenablog.com/entry/ieyasunengukan4 )
 結果から見ても、幕臣だけでなく全ての藩の武士の数が吉宗の将軍時代以降削減されなかったところ、その狙いは、対外的な日蓮主義戦争を再開するまでの間、幕府、ひいては日本全体の軍人総数(縄文的弥生人の数)が減らないようにするところにあった、と、考えられる。(太田)

 <以上と並行して、>新しい土木技術や河川管理技術、勃興する商人たちの資本力を活用した町人請負制型の新田開発の方式を導入によって、幕領の石高はこの時期に約50万石の増大をみて450万石ほどに上った。・・・
 <結果、流通する米がどんどん増えたので、>米価は下がり続けた。そのため、・・・金銀の品質を悪くして通貨供給量を増や<すとともに、>・・・鉄銭を大量に鋳造し流通させた。
 これ・・・によって米価・物価が上がり幕府財政は黒字になった。ただし、武家の経済は回復したが米価高は庶民の生活を圧迫することとなった。・・・
 <なお、>、賤民層に対しては、居住や服装等に制限を設け、農工商との接触を禁止する等、厳しい差別政策を以って臨んでいる。・・・
 
⇒(諸藩に幕府に対する反感を醸成させるとともに、)日本の武士以外の全ての人々に幕府に対する反感を醸成させる狙いがあったと見る。(太田)
 
 これまで能力がありながら禄高が足らず適当な役職に就けない者達を登用するため、享保8年6月、基準石高より禄高が低い者が役職についた際に、就任期間に限り禄高を引き上げるという足高の制を設けた。また、親が隠居しないため家督を継げない惣領(部屋住み惣領)に出仕の機会を与える惣領番入制度を設けた。改革において、旗本御家人の気風を引き締めるべく武芸が奨励されたが、惣領番入にあたっては、事前に課される「武芸吟味」という試験を勝ち抜く必要があり、武芸奨励と人材登用に寄与した。惣領番入において、その禄は、相続まで家禄との差額を足高の制により支給した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
 「吉宗治世下で行われた主な武芸奨励策は以下の通りであった。
1,武 芸上覧(主に旗本に対して〉…弓 ・馬 ・剣 ・槍 ・炮術、水練等が対象
2,武 芸見分(御家人に対して)… 弓術見分、炮術見分
3,武 芸出精による在野登用、幕臣の出世
4,武 芸吟味(旗本の跡取りを採用する際の試験)… 弓 ・馬 ・剣 ・槍術が課題
5,狩 猟…勢子や「御供弓」
〈考察、結諭〉
 同時期の幕府武芸奨励の特徴は、武芸上覧に代表される模擬的 ・仮想的武芸と、狩猟に代表される実地的 ・実践的武芸という二本柱によって成 り立っていた。端的にまとめれば、吉宗治世下の武芸奨励は「気品ある強さ」、「武士の伝統的所作に基づいた力強さ」を求め、それを制度的にも裏打ちするものであったといえる。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/40/Supplement/40_2/_pdf/-char/ja

⇒縄文的弥生人であった幕臣達について、彼らの縄文人化を食い止めつつ、その弥生的縄文人化を図る施策の第一歩であった、と、私は見ている。
 要するに、武芸吟味において筆記試験が課されなかったことから、戦略・戦術、軍事科学技術を身につけるインセンティヴが幕臣に生まれないようにする一方、彼らが縄文人化までしてしまうことを防止した、と、見るわけだ。(太田)

 生類憐みの令によって撤廃されていた軍事調練としての側面を持つ鷹狩<も>復活させた。<この>鷹狩に関する施策は見分などの名目で江戸周辺各所の実情を把握する効果もあった。同時に自らの手足となって社会の動きや幕臣・大名等の動向を把握するため、紀州藩で隠密御用を務めていた藩士達を幕臣に取り立て将軍直属の隠密として従事させることにした。彼らは御庭番と呼ばれ、諸藩・遠国奉行所・代官などの動静や、幕臣達の評判、世間の風聞などを調査し、これを「風聞書」にまとめ提出された。

⇒諸藩の反感を買う政策をあえてとったということだ。(太田)

 <また、>親が隠居しないため家督を継げない惣領(部屋住み惣領)に出仕の機会を与える惣領番入制度を設けた。改革において、旗本御家人の気風を引き締めるべく武芸が奨励されたが、惣領番入にあたっては、事前に課される「武芸吟味」という試験を勝ち抜く必要があり、武芸奨励と人材登用に寄与した。惣領番入において、その禄は、相続まで家禄との差額を足高の制により支給した。・・・

⇒幕臣団(武士の数)を爾後も維持する計画に伴う、幕臣達の精神衛生上の措置であると同時に、平時においても武を怠るなとの日蓮主義的アッピールを全国の武士や庶民の上層部を念頭に行ったものだ。(太田)

 <そして、>キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入<を>緩和<した。>・・・

⇒言わずと知れた、将来の第二次日蓮主義戦争のための準備の一環としての海外動向情報の収集と軍事等に関わる科学技術情報の収集を全国的に奨励するための措置。(太田)

 その他、将軍の足元固めのために行ったこととして、貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置や、火事対策として町火消しの制をもうけ、防火建築の奨励や火除地の設定などを行なった。

⇒前段は大増税政策を断行した(前述)ことに伴う見かけ上の人間主義的施策、後段は遅ればせながらの江戸大火事対策、に過ぎない。(太田)

 <また、>吉宗が紀州藩時代に採用していた「投書箱」の制度を応用した目安箱の設置などを行った。目安箱の設置は、捨文などによる庶民の政治批判を抑止し、将軍の元に直訴を集中させることで自身の権力強化を図ったものと今では理解されている。・・・

⇒穿った見方をすれば、不満を将軍、すなわち、幕府そのものにぶつけさせることで、将軍/幕府そのもの、がトカゲの尻尾切りで責任逃れをすることを困難たらしめた、ということだ。(太田)

 そして、この「享保の改革に倣って、寛政の改革や天保の改革が行われ<ることとなった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9 前掲


[天英院の死後の偉業]

 徳川本家が断絶した以上、御三家のどれから将軍が出ても日蓮主義将軍になる筈だったが、一番、近衛家/島津氏のお眼鏡にかなったのが紀州徳川家の徳川吉宗であったところ、天英院が吉宗を将軍に指名したことで、近衛家/島津氏の指導の下、徳川本家は日蓮主義完遂戦争の環境整備を行うことを約束した、と私は見るに至っているわけであり、これが天英院の生前の最大の業績だが、彼女は、結果として、その死後も偉業をなし遂げている。
 「<まず、>竹姫(浄岸院)<の話から始めるが、彼女>は、<清閑寺>熈定の妹で綱吉の側室であった寿光院の姪にあたり、寿光院に子が無かったため、宝永5年(1708年)、その養女となった<人物だ>。
 同年(宝永5年)7月25日に、会津藩藩主松平正容の嫡子の久千代(正邦)と縁組するが、同年12月、久千代は早世した。
 宝永7年(1710年)8月19日、有栖川宮正仁親王と婚約し、同年11月2日、結納。しかし享保元年(1716年)9月24日、入輿を前に親王は死去した。
 8代将軍吉宗の代になると、既に正室を亡くしていた吉宗に継室にと望まれたというが、実際の血縁は一切ないとはいえ、5代綱吉の養女という立場の竹姫は吉宗にとって義理の大叔母ということになるため、当時大奥の首座であり6代家宣の正室(御台所)であった天英院から「人倫にもとること甚だしい」と反対された。
 享保年中、改めて8代将軍吉宗の養女という身分となった。吉宗は新たな嫁ぎ先を探すものの、過去に2度も婚約者が没しているということで不吉な噂も立ったらしく、さらに一説には竹姫と吉宗は男女関係にあったともいわれ、どの大名家・公家も敬遠したため、婚家探しは難航した[要出典]。
 <結局、>天英院の縁故により、享保14年(1729年)6月4日に島津継豊<(1702~1760年)>と縁組が成立した。同年12月11日、入輿した。
 継豊の父の島津吉貴の友人である老中の松平乗邑<(のりさと)>の斡旋もあり、さらに天英院が実家の近衛家を通してまで縁談を持ちかけてきたため、近衛家と婚姻関係が深い島津家は断り切れなかったといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
 その上で、天英院の1741年の死の後に生まれた島津重豪(1745~1833年)の話なるのだが、彼は、この「[島津継豊の次男<である島津藩主>]島津重年<(1729~1755年)>・・・の長男<だ>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA
 彼は、「島津都美<(とみ。1727~1745年)の>・・・子<でもある。彼女は、>・・・延享2年(1745年)に長男・重豪を出産するもその日のうちに19歳で死去<してしまい、>・・・重豪は義理の祖母<である上出の>浄岸院と父の継室となった村<の2人>に養育された。・・・
 <ちなみに、>都美は吉貴<(前出)>の孫にあたる。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%83%BD%E7%BE%8E
 そして、重豪は、「徳川宗尹<(一橋宗尹)と>由加 (・・・宗尹側室)<の>・・・女<子で一橋治済の姉にあたる>(異説あり)保姫<(やすひめ)・・生年不明・・>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%8A%A0_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9%E5%81%B4%E5%AE%A4)
と、「宝暦12年(1762年)に・・・婚姻・・・<する。ちなみに、彼女は、>明和6年(1769年)9月26日、死去<する>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%A7%AB

⇒重豪生誕は天英院死去の4年後だが、もともと、島津継豊との婚姻以降、浄岸院は天英院のエージェントとして生きたと私は見ており、重豪と一橋保姫との婚姻も、浄岸院が天英院の遺志を忖度して決めたものだろう。
 では、どうして、浄岸院は、御三家筆頭の田安家を忌避したのか?
 「幼少時よりその聡明さから、第8代将軍であった祖父・吉宗の期待を一心に受け寵愛されて育った<のが家治であり、>吉宗は死亡するまで、家治に直接の教育・指導を行った<ところ、それは>、言語不明瞭だった<、子の>家重に伝授できなかった帝王学の類を教えるためでもあ<り、>家治は文武に明るかったが、これ<は>吉宗の影響が非常に大きい。・・・
 <さて、家治は、>父<家重>の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ<ものの、>松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。竹内誠は家治が親政しなかった理由について・・・家治は聡明であって政治的にそれなりの野心があったとしても、当時の官僚機構が既に将軍をして政治的行動を十全に発揮させぬ仕組みになっていたと<ころ、>・・・家治を鎌倉幕府の第3代将軍・源実朝と同様の、政治家が政治活動できぬ立場に閉じ込められた状態で、そのために文化的行動に活動を見出したのだとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%B2%BB
という解釈は必ずしも正しくないのであって、吉宗は、近衛家/島津氏との間で、日蓮主義家に転じた徳川本家は、近衛家/島津氏の指導の下、受動的立場に徹するとの誓約を結んでいて、決して将軍の後継争いや、優秀かつ積極的な将軍が能動的に政策を打ち出すことがないよう、あえて、「無能」な長男家重を後継とし、優秀な孫の家治にも、将軍になっても受動的であるように言い含めた、と、私は見るに至っている。
 (もちろん、幕府を解消させる時期が到来したならば、その時点での将軍は、受動的でなければならないのは相変わらずだが、優秀でなければ務まらないのだが、それは、また別の話だ。)
 で、田安家についてなのだが、初代の田安宗武は「幼少より聡明で、・・・自身も将軍就任を望んでいたため、家重の欠点を列挙して諌奏した。そのためかえって大御所となっていた父の吉宗に咎められ、延享4年(1747年)から3年間も謹慎の沙汰を受けた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6
人物であるところ、かかる、吉宗の宗武への厳しい姿勢は、先述の誓約あればこそであるとも言えそうだ。
 このため、宗武の正室は近衛家久の娘の通姫(1721~1786年)だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%93%AE%E9%99%A2
が、そんな、上述の誓約に基づいた受動的な将軍に徹してくれそうもない宗武、の、娘を島津重豪に嫁がせるのは忌避された、のではなかろうか。
 (ちなみに、この通姫の子が田安治察(はるあき)であり、通姫が侍女として連れてきた山村氏の子が松平定信だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%AD%A6 前掲) 

 この後、どういう成り行きになったか、は、「べらぼう」等を通じて、皆さん、ご存じのことも少なくなかろう。(太田)


[田沼意次と松平定信の近縁性]

 私は、徳川家重と家治の時の田沼意次も徳川家斉の時の松平定信も、どちらも、島津氏/近衛家が指名したところの、幕府内のエージェントであったと見るに至っている。
 (徳川吉宗の時は、吉宗が誓約を行った本人であったこともあり、島津氏/近衛家は、吉宗本人に直接指示を行った、と、見ているわけだ。)
 その根拠は以下の通りだ。↓

 まず、田沼意次<(1719~1788年)の方だが、彼は、>享保4年7月27日(1719年9月11日)、<日蓮主義藩である(太田)>紀州藩士から旗本になった田沼意行<(おきゆき/もとゆき)>の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。・・・意行は紀州藩の足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第2世代に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ。
 意次の死後広まった小説『相良海老』においては、意行は息子を授かるために七面大明神<(注66)>に帰依し、その功徳によって一子・意次が生まれた。意行は七面大明神に深く帰依し、意次にもその信仰を継続するよう求め、没する直前に田沼家の定紋を七曜星に、替紋を「丸に一字」に変更したとされている。・・・

 (注66)「七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297年)9月19日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。
 七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があった。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒やされた姫君説話の舞台でもある。・・・
  日蓮の死後、身延山初祖日興と・・・南部実長<(日円)>・・・の間に、日蓮によって禁止された『四箇の謗法(神社への参詣、神社への寄進、釈迦立像建立の可否、念仏道場の造立)』についての論争を生じ、その結果日興は身延を離山した。この論争については、未だに富士系日蓮の派(いわゆる勝劣派)と身延系日蓮の派(いわゆる一致派)との決着をみていない。はじめは日興によって教化され、日興が身延の初祖の時は師としていたが、次位の日向が神社参詣、神社への寄付などを認めたので、日向に師を変更した。このため、日興との間に確執を生み、日興は身延を去って、富士に移った。・・・
 本化妙宗連盟など、日蓮系新宗教では、山頂の同不動尊が「法華経の聖地」となっている。日蓮系新宗教、特に霊友会、及び一部の霊友会系教団では、身延団参という年間行事があり、七面山中で題目を唱えながら久遠寺集団参拝と同時期に七面山中を登る法華経修行がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%9D%A2%E5%A4%A9%E5%A5%B3
 ちなみに、すぐ上に登場した南部氏の「南部信順(・・・のぶゆき)は、・・・薩摩藩主・島津重豪の十四男として誕生した。・・・天保9年(1838年)に八戸藩の第8代藩主・南部信真の婿養子として迎えられる。重豪の息子の養子先は中津藩、福岡藩、外様ながら幕閣に列していた丸岡藩など有力藩が多く、2万石しかない小藩・八戸藩への養子は異例であった。お由羅騒動では、島津斉彬が薩摩藩主を継ぐよう実兄の黒田斉溥と共に尽力し、幕府に運動した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E9%A0%86
 但し、信順の正室の鶴姫もその父親で信順の養父の南部信真(のぶまさ)も臨済宗信徒であることに注意。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%A7%AB_(%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E9%A0%86%E5%AE%A4)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9C%9F

⇒田沼意行は事実上の日蓮宗信徒であったし、意次も(日蓮主義者であった上に)そうであった可能性が高い。(太田)

 元文2年(1737年)、従五位下・主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1,400石を加増され、宝暦5年(1755年)にはさらに3,000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆(郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。
 宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、その子の第10代将軍徳川家治の信任が厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)には御側御用取次から板倉勝清の後任として<復活していた>側用人へと出世し、5,000石の加増を受けた。さらに従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増でわずか600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。・・・

⇒意次は、1767年から、将軍家治をスルーして島津氏/近衛家から受ける指示を、そのまま幕府で実行するようになったと見る。(太田)

 墓所 [臨済宗妙心寺派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%9E%97%E5%AF%BA_(%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E5%8C%BA) ]万年山勝林寺(東京都豊島区駒込)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1

⇒意次が形の上では日蓮宗信徒でなかったことに、我々は惑わされてはならない。(太田)

 次に、松平定信<(1759~1829年)だが、彼>の父である田安家の徳川宗武の母である(徳川吉宗の側室の)本徳院は日蓮宗信徒であり、この宗武の御簾中(正室)は近衛家久の娘の近衛道子(宝蓮院)・・田安家第2代の徳川治察の実母。墓所はともかく、法蓮院と号したことから日蓮宗信徒っぽい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BE%B3%E9%99%A2
 宗武がらみの話を続けるが、まず、「賀茂真淵<(1697~1769年)は、>・・・『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重(万葉主義)を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、「日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿である」として、古道説を確立した。・・・
 延享3年(1746年)、すでに50歳となっていた真淵は、御三卿田安徳川家の和学御用掛となり、徳川宗武に仕えた。宗武の知遇を得たことは世間の信頼をも高め、門人の数も急増したことで、真淵は公用の傍ら歌会や講会にも頻りに顔を出した。
 宝暦13年(1763年)、真淵は宗武の命により大和へ旅に出る。この旅の途中で伊勢神宮への参拝を終えて伊勢松阪の旅籠「新上屋」に宿泊していたところ、情報を聞きつけた本居宣長が訪れ、生涯一度限りの出会いを経験する(「松阪の一夜」)。宣長は後に真淵の門下生となり、以後文通による指導(『万葉集問目』)が続いた。なお、真淵が江戸に戻ってきたのは同年の夏頃で、足かけ半年にわたる大旅行であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E7%9C%9F%E6%B7%B5

⇒宗武は、光圀が創始させたと言ってよい国学の発展に決定的な役割を果たしたわけだ。(太田)

 次に、「大塚孝綽(おおつか たかやす<。1719~1792年>)は、江戸時代中期の儒学者・田安家家臣。・・・尾張藩士大塚嘉保の子として江戸に生まれる。朱子学を学んで、寛延元年(1748年)に田安宗武に仕官して大番となり、儒学のみならず、漢詩や武芸にも秀で、特に弓術は家中屈指であったことから、次第に宗武の信任を得て子供たちの教育を任されて、更に田安家の用人・番頭として家政を仕切った。宗武の子である松平定信も孝綽に学んで生涯師として仰いだ。天明7年(1787年)、定信が老中に就任すると、江戸幕府に召されて定信の顧問として寛政の改革に関わったが、定信の辞任後は職を辞して田安家に復帰した。・・・
 田安家は徳川将軍家の藩屏として幕藩体制の擁護する立場から朱子学の振興に務めるべきであるとする考えから、朱子学的な主従関係を否定する国学を宗武が保護していることには懸念を抱き、田安家に仕えていた賀茂真淵が宝暦10年(1760年)に『万葉考別記』を刊行しようとした際には、真淵に刊行を差し止めるように手紙を送っている。こうした、孝綽の儒学・国学観は松平定信にも大きく影響を与えたとされている。なお、大塚の死後、定信が著した『田安府故大番隊帥大冢君墓碑記』が残されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%AD%9D%E7%B6%BD 

⇒これまた、光圀に倣ったと思われるところの、宗武の朱子学重視の意味するところが・・大塚「ごとき」には全然分からなかったようだが・・分からないような定信ではない、と、私は考えている。(太田)

 話を戻すが、「松平定信<の>・・・生母は香詮院殿(山村氏・とや)で、生母の実家は尾張藩士として木曾を支配しつつ、幕府から木曾にある福島関所を預かってきた。とやの祖父は山村家の分家で京都の公家である近衛家に仕える山村三安で、子の山村三演は采女と称して本家の厄介となった。とやは三演の娘で、本家の山村良啓の養女となる。宗武の正室は近衛家の出身であるため、とやも田安徳川家に仕えて宗武の寵愛を受けた。定信は側室の子(庶子)であったが、宗武の男子は長男から四男までが早世し、正室の五男である徳川治察<(はるあき)>が嫡子になっていたため、同母兄の六男・松平定国と1歳年下の定信は後に正室である御簾中<の>近衛<道子>が養母となった。・・・

⇒定信の実母も養母も、どちらも日蓮主義者で、もちろん、父宗武も日蓮主義者なのだから、定信が日蓮主義者以外である筈がない。
 定信が日蓮主義者であったからこそ、日蓮主義者たる澁澤榮一が、定信を敬愛した
https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page006962.html
わけだ。(太田)

 幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。
 しかし宝暦12年(1762年)、家治に嫡男家基が誕生し、将軍後継問題は解消されることになる(ただし、元服後に18歳の若さで死去)。・・・
 <ちなみに、この、>[宝暦12年(1762年)に・・・一橋宗尹<(むねただ)>の娘<の>・・・保姫と<島津>重豪の婚姻が成立し<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E5%A7%AB

⇒ちゃっかり、その年、即刻、「薩摩藩は・・・2月に焼失した江戸上屋敷再建のために、幕府より拝借金を得ようとしたが、この時・・・<一橋家家老の田沼>意誠<後出)を通じて一橋家へ工作を行っ<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E8%AA%A0 (太田)

 <そして、その、翌年の1763年に、薩摩藩主の>重豪<(1745~1833年)は、>親政を開始<する。>・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E9%87%8D%E8%B1%AA

⇒この宗尹だが、「吉宗が将軍時代に武芸奨励を政策に取り入れていたことは有名ですが、そんな父の影響を受けてか、宗尹が最も熱中した趣味は「鷹狩り」でした。当時、鷹狩りへ出掛けるのは年に10回までというルールがあったのですが、なんと宗尹は兄・宗武に交渉し、何度か鷹狩りの回数を譲ってもらっていたほど。1755年(宝暦5年)には、兄に獲物の鶴2羽を贈った記録も残されており、回数を譲ってもらったお礼だったと考えられるのです。また、宗尹は多趣味だったため、武芸だけでなく工芸にも精通していたようで、陶器作りや染色も行なっていました。ときには自身で染めた手ぬぐいを家臣へ与えたことも。さらに、手作りの和菓子を兄・家重将軍や大御所となった父・吉宗に献じていた記録も残されており、1751年(宝暦元年)には病に臥せる吉宗に手作りの陶器も献じています。宗尹がいかに多芸多才な人物であったのかがうかがえる記録です。実は、父・吉宗においても、宗尹の三男の御宮参りの際、手作りの人形を贈ったというエピソードがあります。お互いに手作りの物を贈り合う、仲睦まじい親子関係を築いていたのでしょう。吉宗は、自分と似た感性を持つ宗尹に対して、格別に愛情を注いでいたように感じられます。病床にある父・吉宗の面会に宗尹が訪れた際には、喜んで宗尹を病室に招き入れたそう。この翌日吉宗は亡くなりました<。>」
https://www.touken-world.jp/tips/14520/
といった愚にもつかないエピソードしか残されていない、凡庸な人物だったようだが、恐らくは、そこを、重豪の養育に携わったところの、重豪の天稟に瞠目していたであろう浄岸院(~1772年)が、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%B2%B8%E9%99%A2
天英院(~1741年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%86%99%E5%AD%90
とタッグを組んで、島津氏に一橋家を事実上乗っ取らせることを目論んで、宗尹を篭絡したのだろう。(太田)

 <ちなみついでだが、一橋宗尹が亡くなると、その四男の>徳川治済<(注67)が>・・・済明和元年(1764年)・・・閏12月19日、一橋家の家督を継いだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88 ]

 (注67) 徳川治済(はるなり。1751~1827年)。「田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟・意誠や、甥・意致が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反・田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍家治が亡くなり、家斉が11代将軍に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。
 天明8年(1788年)に家斉は治済を「大御所」待遇にしようと幕閣に持ちかけるが、当時朝廷で光格天皇が実父・閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしてこれに反対した老中の松平定信と対立する尊号一件が発生していた。その結果、治済の大御所待遇もできなくなり、治済・家斉父子の怒りを買った定信は失脚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88
 「<その生母の>由加(ゆか、(? – 文化7年3月17日(1810年4月20日))は、御三卿・一橋徳川家初代当主・徳川宗尹の側室。・・・
 父は細田時義で、母は笠井武熙の娘。細田時義の先祖である平岡家は源頼光の流れを引く名門で、元は武田信玄に仕え、武田氏滅亡後は徳川家康に仕えるようになった家柄であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E5%8A%A0_(%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E5%B0%B9%E5%81%B4%E5%AE%A4) 前掲
 この細田時義は、日到という法名を持っている
https://note.com/hima0112/n/nebb85d3fdf17
ので日蓮宗信徒だ。

⇒この治済も父同様凡庸であった上に意地汚い人間だったようであり(上掲)、彼より、遥かに年上の義兄であるところの、しかも、超絶的に遥かに優秀な、島津重豪、の操り人形として、この重豪の指示を、田沼意次や松平定信らにおうむ返しに伝える役割を担った、トホホな人生を歩まされた、というのが私の見方だ。(太田)

 [安永5年(1776年)、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉<(注68)>)<が、島津重豪<(注68)>娘である後の近衛寔子と婚約し、彼女と>・・・共に・・・江戸城内の一橋邸<で>・・・養育された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%A4%A7%E9%99%A2 ]

 (注68)中野清茂(1765~1842年)は、「500石旗本<で、>・・・十一代将軍徳川家斉の側近中の側近であ<り、>また、家斉の愛妾・お美代の方(専行院)の養父でもあ<って、>新番頭格を最後に勤めを退いて隠居、剃髪したのちは碩翁と称した<が、>隠居後も大御所家斉の話し相手として、随時江戸城に登城する資格を有していた。このため諸大名や幕臣、商人から莫大な賄賂が集まり、清茂の周旋を取り付ければ、願いごとは半ば叶ったも同然とまでいわれた。本所向島に豪華な屋敷を持ち、贅沢な生活をしていたが、1841年に家斉が死去し、水野忠邦が天保の改革を開始すると、登城を禁止されたうえ、加増地没収・別邸取り壊しの処分を受け、向島に逼塞し、その翌年に死去した。戒名は高運院殿石翁日勇大居士。
 漢学者・五弓久文の『文恭公実録』によると、当時その豪奢な生活ぶりから、「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁の一人に数えることわざが作られたという(残り二人は一橋穆翁こと徳川治済、島津栄翁こと島津重豪。一方、「天下の憂に先んじて憂う」という正反対の人物として白河楽翁こと松平定信が挙げられている)。
 子供のころから家斉の遊び相手であった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E6%B8%85%E8%8C%82

⇒「注68」からだけでも、家斉の人物像が見えてくるが、この婚約は、真偽不明の故浄岸院の遺志の力も借りたところの、有無を言わさぬ、島津氏の重豪の近衛家の影響力も借りた「命令」に治済が従わされたものだろう。(太田)

 明和8年6月4日(1771年7月15日)・・・<定信の実父の>徳川宗武・・・死没<。>・・・
 定信<は、>17歳(満15歳3ヶ月)となった安永3年(1774年)3月15日、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まっ<た>。

⇒もちろん、これも、重豪→治済→田沼意次、ルートで計画されたことなのだろう。(太田)

 兄・<田安>治察は自身にまだ子がなかったので、これを望まなかったが<、>将軍・家治の命により決定される。

⇒上記ルートが機能しなかった場合に限って、不届き者を従わせるべく、将軍が担ぎ出される、というわけだ。(太田)

 これは、後年寛政2年(1790年)に一橋治済が尾張家、水戸家の当主に語ったところによると、<白河藩主の>松平定邦が溜詰への家格の上昇を目論み、田沼意次の助力により田安家の反対を押し切って定信を白河松平家の養子に迎えたという。

⇒意次は、これが定信をやがて自分の「後任」するための措置だと恐らく分かっていて、その実現のために働かされた、ということだったのではないか。
 なお、一橋家の家老を、1759年からは意次の実弟の田沼意誠(おきのぶ。1721~1774年)が、1779年からはこの意誠の子の意致(おきむね。1741~1796年)が、務めていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E8%AA%A0
ことに注意。(太田)

 白河藩の養子になった後も<、定信は、>しばらくは田安屋敷で居住しており、同年9月8日(実際は8月28日)の治察の死去により田安家の後継が不在となったおりに養子の解消を願い出たが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。定信の自伝『宇下人言』によると治察臨終の際、養母の宝蓮院は御側御用取次の稲葉正明から定信が田安家を相続する話を取り付けていたが、後に田沼意次らが約束を破ったと書いている。

⇒意次が失脚した後、「悪事」は全て意次がやったことにされたのだろう。
 (その理由は後述するが、)吉宗の孫という権威を帯びてはいるけれど、老中にも側用人にもなれない御三家や御三卿の人間でもない者が意次の後任にならなければならない、ということを聞かされていたと私が見ている意次が、そんな話を請け合うわけがないからだ。(太田)

 定信にとってこの養子入りはかなり不本意だったらしく、後年に『宇下人言』で「もと心に応ぜざる事なれども、執政邪路の計らいより、せんかたなくかくなりし」(もともと養子になることは本意ではなかったが、老中たちの悪だくみにより、止む無く養子になったのだ)とある。・・・

⇒養子に出された時点では、まだ定信に意次後継話は開示されていなかったろうし、いずれにせよ、定信として、後になっても本当の話を書くわけにはいかなった筈だ。(太田)

 なお、この頃、朝廷では、大きな動きがあった。↓
 [安永8年10月29日(1779年12月6日)、後桃園天皇が崩御したときに皇女しかおらず、皇子がいなかったため、世襲親王家から新帝を迎えることになった。後継候補者としての伏見宮邦頼親王の第一王子・嘉禰宮(5歳、のちの伏見宮貞敬親王)、閑院宮典仁親王の第一王子・美仁親王(23歳、のち閑院宮当主)、第六王子・祐宮(9歳、光格天皇)の3人があげられた。先帝の唯一の遺児女一宮(欣子内親王、1歳)を新帝の妃にするという構想から既婚の美仁親王が候補から消え、残り2人のうち近衛内前と後桜町上皇は嘉禰宮を、九条尚実は祐宮を推薦した。会議の結果、嘉禰宮が門跡の附弟になっておらず、年下で女一宮とも年が近いと評価されたものの、世襲親王家の中で創設が最近で、後桃園天皇の再従叔父にあたる祐宮が選ばれ、急遽養子として迎え入れられた。
 <そして、>安永8年11月25日(1780年1月1日)、践祚<された>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%A0%BC%E5%A4%A9%E7%9A%87 ]

⇒この話は既述した。(太田)

 [家治は安永10年(1781年)2月に家基の3回忌法要を済ませた後、4月に将軍継嗣となるべき養子の人選係を老中の田沼意次、若年寄の酒井忠休、留守居の依田政次の3名に命じた。この結果、閏5月18日に御三卿の一橋徳川家の徳川治済の嫡子である豊千代<(家斉)>に決定し<たところ、その>・・・立役者は田沼意次であり、天明元年(1781年)7月15日に将軍養子人選の労を家治に賞されて、1万石の加増を受けている。竹内誠はこの継嗣決定に何か裏があり、意次の弟・意誠やその子・意致らが家老として一橋徳川家と通じていたことから、意次と治済が必然的に将軍継嗣を出す素地を作り出していたとしている。

⇒そうではなく、島津重豪の指示に基づく決定なのだ。(太田)

 <家斉は、>天明6年(1786年)、家治が50歳で病死したため、天明7年(1787年)・・・4月15日・・・に15歳で第11代将軍に就任した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 ]
 <定信は、>天明7年(1787年)6月19日 – 老中上座。勝手方取締掛となり、・・・天明8年(1788年)3月3日 – 将軍輔佐を兼ねる。・・・
 [御所千度参り(ごしょせんどまいり)<が、その直前の>天明7年6月7日 (1787年7月21日)に発生し<ている。これは、>京都御所の周囲を多数の人々が廻り、千度参りをした事件<だ>。
 この御所千度参りは、天明7<(1787年)>年6月7日頃から始まった。初めは数人だったが、その数は段々増えて行き、6月10日には3万人に達し、6月18日頃には7万人に達したという。御所千度参りに集まった人々は、京都やその周辺のみならず、河内や近江、大坂などから来た者もいたという。
 京都は人であふれ、後桜町上皇からは3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。他にも、有栖川宮や一条家などでは茶が、九条家や鷹司家からは握り飯が配られた。
 光格天皇がこの事態を憂慮し、京都所司代を通じて、江戸幕府に飢饉に苦しむ民衆救済を要求する。これは、禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して、同様の申し入れを行った。これに対して、幕府は米1,500俵を京都市民へ放出することを決定、法度違反に関しては事態の深刻さから、天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした。
・・・朝廷の行動が実際の救済行動に結びついたことで、尊王論の興隆の一因となった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%80%E5%8D%83%E5%BA%A6%E5%8F%82%E3%82%8A ]

⇒幕府の文字通りの祖法の一つである禁中並公家諸法度の規定の一つが事実上廃止されるのを認めるという大きな意思決定を、将軍補佐どころかまだ老中首座でもなく平老中でしかなかった定信を含めた老中達が合議しただけで行い得たとは思われない。
 もちろんまだ将軍になったばかりの15歳の少年の家斉は判断を下せるほど成熟していない。
 となれば、家斉の許嫁の父である島津重豪の意向が、義弟である一橋(徳川)治済を通じて、御三卿・・当時は二卿体制だったが・・、御三家の了解を取った上で、ストレートに貫徹したのではなかろうか。(太田)

 [家斉<は、>・・・寛政元年(1789年)、近衛寔子(島津重豪の娘、<内前の子の>近衛経熙の養女)と結婚<した。>(前述)]
 定信は、寛政2年(1790年)5月24日に大学頭・林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた(寛政異学の禁)。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。・・・

⇒これは、島津氏/近衛家が、将軍補佐にして老中首座の・・以下では省略する・・定信に指示し、幕臣達に対し、天皇の命令に将軍は従うべきでその将軍の命令に幕臣達は従うべきであるとの観念を朱子学を叩き込むことで徹底的に植えつけると共に、軍事軽視と緩治に翻弄された漢人王朝の科挙とほぼ同じ学問吟味を導入し、幕臣達の意識を文官化してしまおうという政策であり、これは、日蓮主義戦争再開のための王政復古を円滑ならしめるのと戦争再開後の広義の兵站面を文官化した旧幕臣達に担わせる、という目的の下に行われた、というのが私の見方だ。
 (そうだとすれば、当たり前のことだが、「武官」登用試験は導入されなかった。
 言うまでもなく、外様を中心として、こんな幕府の幕臣たる武士登用政策の転換を見習う藩は殆どなかったし、また、昌平黌とは違って、大部分の藩の藩校では文武両道の教育が行われた。(コラム#省略))
 意次は、将軍が変わったのだから、いずれにせよ、辞任は避けられなかったわけだが、「足軽」上がりの意次的人物ではなく、吉宗の孫のような「貴種」が意次の「後任」にならなければならなかったのは、このような、幕臣の意識の大転換をもたらすような政策にもっともらしさを付与するためには、起案者が「貴種」である必要があった、ということなのだ。(太田)

 ラクスマンの事件により海外の脅威を実感したためか、事件後の定信は蝦夷地を不毛のままとし開発しないことでロシアの進出を阻む構想を捨てさっていた。この頃には長崎以外に海防体制のない日本の海防の欠陥を痛感した結果、「北国郡代」設置による北方防備を構想するようになり、松前藩が蝦夷地の防衛に疲労しているなら「北国郡代」が全体を統括し、奥羽大名に分担させて蝦夷開発を行わせる構想を漏らすようになっていた。
 幕府はロシアをはじめとする諸外国からの防衛のため海防掛を新設し定信をその職に任じた。定信は、みずから伊豆、相模を巡検して北国郡代・江戸湾防備体制の構築を練ったとされ、江戸湾防衛の為、奉行所を伊豆4ヶ所、相模2ヶ所に設置することを唱えている。また、蝦夷地の防衛に関しては、蝦夷地の支配は、従来通り松前藩に任せる。数年に一度、幕府役人を巡回させる。大筒を配備する。御救貿易を行う。
 蝦夷地に渡航するための陸奥沿岸の要衝である三馬屋を天領とするため、盛岡・弘前両藩から3千石~4千石ずつ領地を収公し、そこに「北国郡代」を設置する。また、有事の際は、盛岡・久保田両藩に出兵を命じて対処する。
 オランダの協力の元、洋式軍艦を建造し浦賀や北国郡代に配備し、半数を北海警備に充てる。
 このような基本方針を決定し、海防強化にあたった。・・・
 寛政5<(1793)>年正月には洋式船の模型の入手のため大工の派遣が計画されたり、東インド総督府が艤装済の船を日本に提供する用意があるかの打診、2月には若い日本人に帆船航海術を教授させる計画が進められていた・・・
 しかし松平定信が老中の職を退くと、これらの蝦夷地防衛の基本政策は中止となった。・・・

⇒これは、(改めて記さなかったが、)田沼意次が幕政の事実上の責任者としてやろうとした財政再建目的の倹約政策を定信も踏襲したことは問題がなかったものの、日蓮主義者だったからこそやろうとした田沼の蝦夷政策は問題であったところ、定信のもそれと同工異曲の蝦夷政策であり、意次の定信への交代によって実行されないままであったのを定信が実行しかけたので、このこともあって、島津氏/近衛家は、定信を解任させた、というのが私の見方だ。
 問題であった理由は、蝦夷政策を含め幕府に十全な海防政策を遂行させてしまっては、将来、外敵の脅威が募った際に王政復古を行うつもりなのに、そのインセンティブを日本全般において減殺させてしまうからだ。(太田)

 寛政5年(1793年)7月23日 – 将軍輔佐・老中等御役御免。・・・
 定信の辞任は「尊号一件」が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である徳川治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。また、治済の実兄である松平重富の官位昇進や治済の二の丸への転居も企てており、これを定信は尾張・水戸両家と共にこれを却下していた。以下の逸話が伝わっている。将軍・家斉と対立し、怒った家斉は小姓から刀を受け取って定信に斬りかかろうとした。しかし御側御用取次・平岡頼長が機転を利かせて、「越中殿(定信)、御刀を賜るゆえ、お早く拝戴なされよ」と叫んだために家斉も拍子抜けし、定信に刀を授けて下がったという。・・・
 尊号一件は、成長した家斉が、厳格で形式を重んじる定信を嫌い、疎んじていた時に、タイミングよく起きた事件を巧みに利用して、定信を遠ざけたのだという指摘もある[要出典]。・・・

⇒島津氏/近衛家が定信を馘首したことを隠し通すために、こういった御伽噺がでっち上げられたのだろう。
 そもそも、尊号など、仮に定信がどんなに反対しようと、既に成人になっていた家斉が定信に命令すればよいだけなのにそれをしていないし、定信が馘首されてからも家斉はやろうとしなかったのだから、御伽噺としてすら、筋が悪いと言うべきだ。(太田)

 定信引退後も幕府には、松平信明、牧野忠精をはじめとする定信の政治方針を引き継いだ老中達がそのまま留任し、その政策を引き継いだ。彼らは寛政の遺老と呼ばれ、寛政の改革の路線は維持されることとなった。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。・・・
 [聖堂を林家の家塾とする従来の位置づけを改めることとし、1797年(寛政9年)までに「聖堂学規」や職制の制定など制度上の整備を進め、幕府の直轄機関「昌平坂学問所」(昌平黌)を設置した<のもそうだ>。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%9D%82%E5%AD%A6%E5%95%8F%E6%89%80 ]

⇒そんなことは当然だ、と、もう皆さんはお分かりのことだろう。
 なお、既に触れたが、昌平黌は幕臣のための、諸藩の藩校に相当する教育機関だが、大部分の藩校では「武」の教育も行ったが、昌平黌では行わなかった(コラム#省略)ところ、その理由の説明も、もはや不要だろう。(太田)

 通説の中の松平定信といえば朱子学狂いとの印象が強い。だが、実際の定信の主義思想は老中に就任す5年前に書かれた『修身録』にて、「朱子学は理屈が先に立ち、学ぶと偏屈に陥る」「学問の流儀は何でもよい。どの流儀にもいいところ、悪いところがあり、学ぶ側がいいと思えばいい。流儀にこだわるのは馬鹿の詮索だ」などとむしろ朱子学に批判的な意見を述べている。このことから、朱子学推進はあくまで官僚の統制に利用しただけで、むしろ本人の主義思想は朱子学ではなく、当時流行していた折衷学派の思想に近く、通説における朱子学を盲信する人物像と乖離した実像が見てとれる。

⇒定信の朱子学への姿勢は光圀同様、プラグマティックなものだったわけだが、2人とも日蓮主義者なのだから、これも当然だろう。
 但し、後述するように、私は定信を理系人間と見ているところ、仮にそうだとすれば、朱子学の理気二元論の形而上学体系だけは定信が好んだ可能性が高い(太田)

 また、寛政の改革では、卑俗な芸文を取り締まった定信であるが、私人としてはこうした芸文を厭っていたわけではなく、むしろ好み楽しむ一面を持っていた。例えば、『大名かたぎ』(天明4年頃)という大名社会を風刺した戯作や『心の草紙』(享和2年自序)など、自ら執筆した黄表紙風の未刊の戯作が存在する。また、長じて執筆した膨大な随筆類には、市井の話題を熱心に取り上げるなど、公私で矛盾した一面があったものの、為政者としての立場から世情を理解しようとする側面が見える。
 老中退任後の定信は、老中時代の規制とは正反対の文化活動への擁護者としての立場に立っている。定信は当時はまだ庶民の物とされていた浮世絵を収集しており、老中退任後、愛蔵した浮世絵の詞書(前書き)を上巻は「田沼こひしき」と揶揄したと噂された大田南畝、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった処士横断の禁の際に処罰された者へ依頼し、さらには、北尾政美、山東京伝に依頼し両名の合作で『吉原十二時絵巻』を製作させている。これは「十二時(昼間)の遊女」をテーマとしており、この絵巻の吉原の時間の推移を追いながら表現して行く手法は、京伝が咎めを受けた洒落本『錦之裏』と全く同じ趣向であった。・・・

⇒後で再述するが、定信が行った文学弾圧は、島津氏/近衛家から命じられていやいや行ったもの、で、決まりだろう。
 目的は、島津氏/近衛家が田沼意次に命じて蔦谷重三郎らにやらせた、文学を通じての、日蓮主義の、武士を含む日本の上層部への普及宣伝、が、概ね目的を達成したので、それ以下の層まで日蓮主義が普及しないよう、ドラスティックな形での政策転換を定信にやらせた、ということだというのが私の見方だ。(太田)

 [「長崎は、異国船が入港し、異国人が居留する地でありながら、日本人が出て行くことは許されていなかった。つまり、長崎口は「入口」としての機能しか持っていなかったことになる。
 「玄関口」の長崎に対し、松前口・対馬口・薩摩口は、幕府から特別な許可を受けた者のみという制限あるが、日本人が交易などを営むために外(蝦夷地・釜山・琉球)へ出て行く出口でもあり、同時に異国人が外から訪れる入口でもあるという、双方向性の強い人的移動が特徴である。松前には蝦夷地から和人地へ出入りするアイヌが、対馬には訳官使(やっかんし、朝鮮から対馬に派遣される使節)が、また鹿児島には「国質(こくしつ。人質)」あるいは使者として鹿児島へ送られた琉球人が来訪し、時に逗留するのであった。したがって、松前・対馬・薩摩それぞれの口<は>「出入り口」<であり>、「玄関口」の長崎と区別<される。>・・・
 <寛政4(1792)年、>ロシアのエカテリーナ皇帝が、軍人のアダム・ラクスマンを特使として日本へ派遣<し>、漂流民の大黒屋光太夫を手土産として同道させ<、>・・・通商を求め・・・た時、・・・。定信の考えは、翌寛政5<(1793)>年6月21日付の「異国人に、御国法を諭される書」にまとめられ、ラクスマンたちに渡された。
 その中で定信は、日本の対外関係は「古(いにしえ)より、通信(国家間の外交関係)・通商(商業貿易のみの関係)」の2種類に限定されているとし、「通信通商のことが定めおかれた外(の国は)、みだりに許し難い」と、新しい関係は容易に許すことができないと説明する。そしてエカテリーナからの国書は、「通信なき国」を理由に、受理することを拒否した。
 同時に定信は、諸外国との交易は、長崎一港に限定していることを知らせるとともに、ラクスマンに対し、長崎入港を許可する「信牌(通行証)」を発給して、これ以上のことを望むなら、「長崎に至って、そこの沙汰に任せよ」と指示して、ラクスマンを退去させた。定信の構想は、「通信・通商」という対外関係は、「国初より」つまり徳川家康・秀忠・家光の始祖三代からの「祖法」(御国法)であるからだ、というものだった。この整然とした構想は、それ以前にはなく<(注69)>、定信独自の新しい発想であった。

 (注69)「まず、確認されるのは天明期における鎖国祖法観の不在である。ラクスマンとの交渉がはじまる少し前の天明6(1786)年、田沼意次政権の勘定奉行・松本秀持がロシアとの交易についてある伺書を記している。そこでは、現在の長崎における貿易は中国とオランダとの交易によって充足しており、新規にロシアとの交易をおこなうと国外へ金銀銅が流出してしまう恐れがあるために必要がないと書かれている。つまり、この段階では、ロシアとの新規の交易は、幕末にみられるような「鎖国の精神」や「鎖国の大法」を理由に退けられたのではなく、あくまで貿易上の理由から否定されていたのである。
 その後の松平定信政権でも「鎖国の大法」という考えはまだみえないが、鎖国祖法観の起点となった事例をみてとることができる。寛政4(1792)年、来日したロシア使節ラクスマンに送った諭書では、通信関係のない外国船が日本にやって来たとき、船を打ち払うのが国法であること、および、これまでの国以外との通信・通商を猥りにおこなわないのが国法であることが述べられている。しかし、実のところそれらは歴史的事実ではなかった。たとえば前者について、実際に打ち払がおこなわれたのは歴史上一回のみで、それ以外は穏便に処置するのが基本であった。つまり、定信はラクスマンに国法の規定に沿って対処していることを示すために、寛永鎖国令から約150年の歴史的事実を部分的に脚色することによって、「国法の創出」をおこなったのである。」
https://hirofujimoto.hatenablog.com/entry/20131014/1382022251

 すなわち、「通信」「通商」という枠組みを設けて、関係を持つ国をその枠組みの中に限定し、これを「祖法」とみなすことで、「鎖国」を見いだしたのが、松平定信だったのである。・・・・
定信の姿勢は、「国を鎖す」のではなく、「通信の国」と「通商の国」という枠組みに当てはめてつきあう国を決定し、その枠組み内での外交を行おうとしたものだと思われる。<(注70>」
https://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_14.pdf ]

 (注70) 鎖国祖法観が<完成>したのは、文化元(1804)年のレザーノフとの交渉時である。そのような見方を最初に示したのが、幕府から対ロ関係について諮問されていた林述斎であった。彼は新規に通信関係を結ぶことは、「祖宗之法」により禁止されていると述べている。その際、具体的に「唐山、朝鮮、琉球、紅毛」という四つの国との通信・通商関係しか持たないことが明言されており、このような記述が幕末にまで引き継がれることになった。林述斎がそういった回答をおこなった背景には、寛政11(1799)年に幕府が蝦夷地を直轄化しようとしたときに直面した問題が関係していた。カラフトでは、大陸からやって来た山丹人や満州人とアイヌとの間でおこなわれていたが、もし幕府がカラフトを直轄化すれば、幕領で外国貿易がおこなわれることになってしまう。そうなると、定信の時代にラクスマンに長崎以外での交易がないと言ったことに反するため、ロシア側が不満をあらわにしてくることが危惧される。そこで、幕府内部では山丹交易と今後の対外関係について三奉行と林述斎との間で議論し、既存の貿易国以外に新規に交易を開始すべきではないという合意が形成された。そしてここでの合意が、レザーノフへの通商拒否という回答につながり、鎖国祖国観の<完成>へと結びついたのであった。」
https://hirofujimoto.hatenablog.com/entry/20131014/1382022251 前掲

⇒上出の四つの口という幕府の方針・・19世紀にはいるとこれが鎖国の方針と呼ばれるようになる・・を、定信は「祖法」としたのだが、そもそも、松前藩は松前口を、対馬口は対馬藩が、薩摩口は薩摩藩が、それぞれ「幕府の御恩に対して、・・・海外の国と貿易して、必要な情報やモノなどを調達・提供するという「役割=奉公」が求められてい<た>」(上掲)以上、かかる「鎖国」方針を「祖法」としたことを、少なくともこの3藩には伝達する必要があるところ、時の薩摩藩主が島津重豪であったことから、島津重豪には、ロシアに通商を求められた時点でそのことを報告していると思われ、その折に対処方針を指示され、必ずしも全面的に賛同したわけではなかった可能性すらあるけれど、やらされた、と受け止めた方がよいと思うのだ。
 そうだとして、重豪は、どうしてそんなことを定信にやらせたのだろうか?
 それは、光格天皇家の歴代天皇は縄文人になるであろうから、この「祖法」に入れ込み、やがて、幕府が外圧を受けてこの「祖法」を廃棄して開国しようとした時に反対して幕府を窮地に陥れ、王政復古が行われる契機になることを期待したのである、と。
 「カント<が、>『永遠平和のために』で・・・、(引用)中国と日本は、外国からの客を一度はうけいれてみた。しかし後に中国は来航は認めても入国は認めなくなった。日本は来航すら、ヨーロッパのオランダに認めるだけで、来航したオランダ人をまるで捕虜のように扱って、自国の民の共同体から切り離したのだが、これは賢明なことだったのである。・・・と述べている<ところ、>その前段で、・・・永遠平和のための第三確定条項として「歓待の権利」であるとして、「開化された民族、とくにヨーロッパ大陸で商業を営む諸国」は、ほかの大陸や諸国を訪問する際に、きわめて不正な態度を取っていたことを批判する。彼らの訪問とは、「征服を意味していた」のであり、「これらの諸国がアメリカ、黒人の諸国、香料諸島、喜望峰を発見したとき、これらは誰の土地でもないとされ、そこに住む住民は全く無視され」、軍隊を導入し、住民を圧迫し、人類を苦しめるあらゆる種類の悪の嘆きをもたらしたのだ、と告発する。そのような「歓待に欠けた」態度を取る国に対しては、国を閉ざすことが賢明であり、正しいのだと・・・指摘している。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0801-119.html
ことを想起せよ。
 これぞ、まさに縄文人的発想なのだ。
 (カントが縄文人だったのかどうか、は、疑問ながら、機会があれば、追究してみたい。)(太田)

 〈「定信は天明8年(1788年)8月、家斉に対して「御心得之箇条」(『有所不為斎雑録』第三集所収)の中で「六十余州は禁廷より御預り」したものであるから「将軍と被為成天下を御治被遊候は、御職分に御座候」と説き、若い将軍に武家の棟梁としての自覚を促すとともに、将軍は朝廷から預かった日本六十余州を統治することがその職任であり、その職任を果たすことが朝廷に対する最大の崇敬であるとした。

⇒「大政委任論<を打ち出す>・・・必要<が生じた>・・・理由としては、多くの儀礼や象徴によって支えられていた将軍の「御威光」の低下がまず挙げられる。「御威光」低下の原因としてはさまざまな要素が考えられるが、その大きなものとして当時の政情不安がある。定信就任以前に田沼意次が老中を務めていた時期から続いていた天明の大飢饉のために、地方では農村部の荒廃が進んで一揆が頻発していた。さらに江戸をはじめとする都市部でも打ちこわしが起こり、治安の悪化が進んだ。その結果、意次は失脚して定信が老中になったが、定信は失墜した将軍の「御威光」の回復を意図して、朝廷の権威を利用しようとした。また、定信当時の朝廷側の要だった光格天皇の性格も関係している。光格天皇は、それまで幕府に抑制されていた天皇の権威を回復するために積極的に動いた天皇で、彼が活動していた時期がまさしく寛政期だったのである。
 そして、将軍の権威回復のために対朝廷政策の一環として出てきた考えが大政委任論である。」
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/71311/kaitokuken09-011.pdf
とする説があるが、説得力がない。
 天明の大飢饉による政情不安については、この大飢饉のうちの、恐らく最大のものとはいえど、あくまでも、「寛永の大飢饉(1642-1643年)・・・享保の大飢饉(1732年)や天明の大飢饉(1782-1787年)、天保の大飢饉(1833-1837年)」
https://webizist.com/historical-research/the-great-kanei-famine-changed-japanese-society/
という、江戸時代の4大飢饉の一つであるに過ぎず、しかも、天保の大飢饉のときの大塩平八郎の乱
https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/1310/
に匹敵するような政情不安は起きていないからだ。
 また、「朝廷の権威を利用しようとした」と言っても、「江戸期の一般民衆にとって、朝廷や天皇は「遠くにある神聖な存在」ではあるものの、日常生活には直接関わりが薄い存在だった」
http://iyasi-tokimeki.ddo.jp/AI_tono_taiwa/CatGPT/edojidai_niokeru_ippanminsyu_no_tennokan.html
のであり、当時の天皇は、まさにその程度の存在に過ぎなかったからだ。
 定信が上出のレクチャーを家斉に行ったのは、時期的に家斉の将軍就任直後であり、レク内容は、事前に家斉の父の徳川治済や家斉の義父にして叔父の島津重豪の了解をとってなされたに違いないのであって、大政委任論は、重豪から盛り込むことを指示された、と、見るのが自然だろう。
 というのも、これは、(私も同意見なのだが)藤田覚によれば、天皇を持ち出す国学的委任論に拠っており、天の意思を持ち出す儒学的委任論に拠っておらず、後述するように国学も朱子学も嫌いだけれど朱子学には利用価値を認めていたと思われる定信が自ら国学的委任論に拠るとは考えにくいからだ。(太田)

 定信は、当時台頭しつつあった尊王論を牽制するために、天皇(朝廷)自身が大政を将軍(幕府)に委任したものであるから、一度委任した以上は天皇といえども将軍の職任である大政には口出しすることは許されないという姿勢を示したものであり、さらに武家も公家も同じ天皇の国家である日本に住む「王臣」であるという論法から、将軍すなわち幕府は武家や庶民に対する処分と同様に公家に対しても処分の権限を持つと唱え、尊号一件に際して公家の処罰を強行した。・・・

⇒私は、尊号一件は、島津氏/近衛家が、光格天皇が全能感を抱かないように、舞い上がらないように、定信に指示して、光格天皇に対応させたものだ、と、見ており、そもそも、大政委任論は、天皇が必要だと思ったら委任を取り消すことができる、という建付けである以上、本件で大政委任論が援用される余地はないからだ。(太田)

 もっとも、「大政委任」の考えは定信のような要人や学者の間で唱えられることはあっても、江戸幕府として正式に認めたものではなかった。

⇒そんなこと言っても、上出のレクには陪席者が何名もいただろうし、そもそも、レク原稿は定信以外の全老中を含む幕閣にも開示された筈なので、あっという間に広まって行ったに違いない。(太田)

 公式の朝幕関係の場でこの大政委任論が確認されたのは、文久3年(1863年)3月7日に京都御所に参内した将軍・徳川家茂が孝明天皇に対して、直接政務委任の勅命への謝辞を述べた時であったとされている。

⇒ということは、少なくとも、歴代天皇にも歴代の摂関クラス等にとっても、大政委任論はそれまでに常識化していた、というわけだ。(太田)

 しかし裏を返せば、幕府の権限は全て本来は天皇が有していたものであり、幕府はそれを委任されたものに過ぎないという論理も成立してしまい、天皇が幕府の上位に立つものと解する余地を与えることになった。さらに、本来朝廷が担っていた国家統治に対する責任を幕府が全面的に引き受けることを意味することになり、19世紀に入って国内における経済・社会問題や外国船の来航など内外の問題が深刻化すると、幕府がその政治的責任を問われることとなった。」〉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A7%94%E4%BB%BB%E8%AB%96
という、まさに効果を狙って、そもそも、島津重豪は、定信に上出レク原稿を作らせた、ということだ。(太田)

 定信は軍事関係の知識を中心に洋学に強い興味を持っていた。寛政元年(1789年)、北方の地理やロシアについての情報を得る為、『ニューウェ・アトラス』という地図を入手しオランダ通詞の本木良永に訳させている。さらに、田沼時代の幕府に折る改暦事業を引き継ごうとして、寛政3年(1791年)には自らが所蔵する天文書をこれもまた本木良永に訳させ寛政5年(1793年)に幕府に献上している。
 定信はオランダ語を学ぼうとしたものの、蘭書を読む域には達せなかったため、寛政4年(1792年)に元オランダ通詞である石井庄助を、寛政5年に蘭方医である森島中良を召し抱えている。石井は定信が収集した洋書の翻訳を命じられ、軍事関係の事項を抜粋した『遠西軍書考』を編纂している。石井は白河藩校である立教館の蘭書局でオランダ語を教える傍ら、寛政6 – 7年に『蘭仏辞典』を訳しており、これに稲村三伯らが手を加え、日本最初の蘭日辞典である『ハルマ和解』が完成した。
 自然科学についての関心も深く、ガラス製のリユクトポンプ(空気ポンプ)を作らせ、鳥などを入れて空気を出し入れすることで、生き物にとって空気が不可欠であることを証明する実験を行っている。洋画収集を趣味として持っており、亜欧堂田善に洋式銅版画の技術を学ばせている。これは地図など海防上での利点の効果も期待していた。・・・

⇒いかに、定信の文教政策が、彼の考えからかけ離れたものであったかが明らかだと思わないか。(太田)

 父の徳川宗武は国学を保護したことで知られているが、定信は逆に『花月草紙』において本居宣長の「もののあはれ」を批判するなど、反対の態度を取っていた。・・・
 なお、宣長の方は寛政の改革に強く期待して著書の『玉くしげ』を定信に献上するなど、自己の考え方が政治に生かされることを願ったが、失敗に終わることとなった。・・・
⇒定信は、恐らくは(キリスト教のような教義宗教以外の)宗教や(朱子学の形而上学部分といったものを除く)思想や歴史が余り好きではない、いわゆる理系人間だったのではないか。
 そうだとすれば国学嫌いも説明がつく。
 「寛政12年(1800年)に定信は、文献から白河神社の建つ位置が白河の関であるとの考証を行った。」とされているが、これは、「職人に作らせた白河だるまは白河市の特産物で今でも毎年2月11日には「白河だるま市」という祭りで売られている。白河そばを特産物としたのも定信である。」の並びの挿話なのであって、要は、自分の白河藩のPR活動の一環であって、定信が歴史好きであったことにはならないと思う。 
 (なお、定信が理系人間であったとして、そのこと、と、彼が文学や絵画好き人間であったこと、とは全く矛盾しない。)(太田)

 大名ながら起倒流柔術の鈴木邦教(鈴木清兵衛)の高弟で、3,000人といわれる邦教の弟子のうち最も優れた3人のうちの1人が定信だったと伝わる。自らも家臣に柔術を教え、次男の真田幸貫にも教えたという。隠居後も柔術の修行を怠らず、新たな技を編み出した。なお、定信が柔術を志した背景には、自身が病気がちで自己の鍛錬に努めたことにあったという。
 藩祖・松平定綱が家臣の山本助之進とともに編み出したと伝わる甲乙流剣術が廃れていたが、山本家に残っていた伝書をもとにこれを復元し、起倒流柔術を合わせて工夫を加え、甲乙流を剣・柔を融合させた内容に改めた。それ以前の甲乙流と区別するため、定信が改変した以降のものは「新甲乙流」と呼ぶ場合もある。
 藩校・立教館で指導されていた山本流居合術に、定信が編み出した技を加え流派の改良を行った。定信が加えた技は「御工夫の剣」と呼ばれた。
 砲術についても、三木流、荻野流、中島流、渡部流の4流全ての皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を寛政年間に開いたが、その後、さらに多くの砲術流派を研究し、文化年間に御家流砲術を開いた。
 弓術においては、幼少より日置流を修行し、師の常見文左衛門から書を授けられるほどの腕前であったが、独自に工夫して流派を開いた。その後、さらに日置流を加え御家流弓術を開いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1

⇒定信が理系人間であったとして、そのことと、彼がスポーツ大好き人間であったこと、もまた、全く矛盾しない。

 以上から、定信は日蓮主義者と言っても、極めて即物的な日蓮主義者であって、国土防衛に遺漏なきを期した上で、勢力圏や緩衝地帯を広げ、望むらくは、潜在敵そのものを無害化する必要を訴えたもの、として日蓮主義を受け止めていた可能性が高い。(太田)

 (イ) 寛政の改革 

 既に、すぐ上の囲み記事の中で、全て述べてしまったけれど、もう一度簡潔に要点だけを説明しておこう。
 表記改革(1787~1793年)は、島津氏/近衛家が、以下のような、「足軽上がり」の田沼を、より権威ある(、しかし、将軍の徳川家斉をすっ飛ばして、)「吉宗の孫」の松平定信で置き換えることによって、初めて大真面目で実施できたところの、「高次元」のものを含む諸政策、をやらせたものだと私は見ている。
 寛政の改革は、「江戸幕府の崩壊を50年ほど引き延ばしたともいわれる。・・・

⇒外圧を受けて日本が反撃に立ち上がり、第二次日蓮主義戦争を開始する、という島津氏/近衛家のシナリオを実現させるために、当分の間、幕府が崩壊しないようにするための措置も当然とられたということ。(太田)

 対外関係や朝廷との関係を鎖国の法と大政委任論によって明確にした・・・

⇒全国に攘夷論者を蔓延させ、やがて反日蓮主義家へと転換させる天皇家本家を外圧の時代において開国に反対させ、攘夷論者達を激発させることで幕府を追い詰め、大政委任論を逆手にとって、幕府に朝廷へ大政奉還をさせることで、円滑に、幕府を終息させ、日蓮主義者達の新政府を樹立するための布石を打たせたもの。(太田)

 柴野栗山や西山拙斎らの提言で、朱子学を幕府公認の学問と定め、聖堂学問所を官立の昌平坂学問所と改め、学問所においての陽明学・古学の講義を禁止した・・・<、すなわち、いわゆる>寛政異学の禁・・・<を行うと共に、>学問吟味<を導入した。>・・・

⇒言い出しっぺは島津氏/近衛家に決まっているのであって、「柴野栗山<は、>寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導<した>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E6%A0%97%E5%B1%B1
くらいが正しい表現だろう。
 「西山拙斎<は、>・・・昌平坂学問所の儒官であった柴野栗山に朱子学を官学とするよう説得した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E6%8B%99%E6%96%8E
の方はいただけない。
 いずれにせよ、この2人は、それぞれ、「明治44年(1911年)、従四位を追贈された。」、「大正8年(1919年)、正五位を追贈された。」(それぞれのウィキペディア)のは、朱子学を幕府の官学にし、それが学問吟味・・要するに科挙・・の幕臣への導入と相俟って、倒幕を容易にしたことをブラックユーモア的に評価したものだろう。
 というのも、既に、光圀は、科挙が長袖流を蔓延らせて軍事軽視を招き、歴代漢人文明諸王朝を破滅させてきた(典拠省略)上に、(元から始まったことだが、)明が空理空論を伴っているところの、朱子学(典拠省略)、を官学化したことが科挙の弊害を極大化させた、との認識を抱くに至っていたと私は見ており、幕府を骨抜きにするためにこそ、かかる制度の実施を島津氏/近衛家は求めたに違いない、とも、私は見ているからだ。(太田)

 処士横議<も>禁<じた。>・・・

⇒将来、尊皇攘夷の志士達を取締る布石を打たせたということ。
 言うまでもなく、そうすれば、尊皇攘夷派は一層過激化し、その弾圧を行わざるを得なくなった幕府は倒れやすくなる、というわけだ。(太田)

 <また、>海防強化計画<を立てたが計画だけに終わった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%94%BF%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9

⇒鎖国は祖法であると言っていて、鎖国を継続するための手段を確保することは怠ることで、これも、将来、尊王攘夷派を過激化させることに資することになった。(太田)

 (ウ) 天保の改革

 表記については、本来、取り上げなくてよいのだが・・。
 表記(1841~1843年)は、島津氏/近衛家が、家斉の「大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した」ことから、このままでは、外圧が生じる前に幕府が瓦解しかねないとの危惧の下、「頽廃した家斉時代の幕閣たちの多くの処分」を行う
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BF%9D%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9
のを主眼とする諸施策を、島津氏/近衛家が、(やはり、将軍の徳川家慶も床の間に置かれていただけの状態であったところ、)水野忠邦にやらせたものだと私は見ている。
 水野氏は、「戦国時代には三河国刈谷城主であり、徳川家康の母・於大の方(伝通院)の実家にあたり、桶狭間の戦い後に家康に仕えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E6%B0%8F
が、「藤原北家近衛家と称<していたこと>」(上掲)、「田沼意次の四男<で>・・・水野忠友(のち老中)と養子縁組し、その娘と結婚して水野忠徳(みずの ただのり)と名乗<っていたが、>・・・意次の失脚により、養子縁組を解消されて田沼家に戻された・・・田沼意正(たぬま おきまさ)<を>・・・元来田沼派であった水野家の後継養子の忠成<(ただあきら)が将軍家斉の信任を受けて老中・側用人として栄達し、家斉の同意の下で意正を引き立てた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AD%A3
ところ、「忠邦は<、この、遠い>親戚筋の老中・水野忠成(水野隼人正家)に取り入って、11代将軍・家斉のもとで頭角を現し<た>」
https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12868515340.html
ということくらいしか、島津氏/近衛家との接点がなく、しかも、忠邦の方は、あの反日蓮主義者の浅野長政(コラム#省略)の子孫でもあり、代々の菩提寺である、旧護龍山萬松寺
http://chrono2016.blog.fc2.com/blog-entry-752.html
も確認はとれなかったけれど、日蓮宗寺院ではなさそうであるので、忠邦自身も日蓮主義者ではなさそうだが、天保の改革の目的が、極めて即物的なものであったこともあり、島津氏/近衛家は、自らしゃしゃり出てきた忠邦にやらせたのだと思われる。

(9)庶民の上層部までを日蓮主義化

 実は、この箇所が膨らんで、今回の「講演」原稿になったという経緯がある。
 それは、NHK大河ドラマ「べらぼう」で取り上げられているところの、蔦谷重三郎(1750~1797年)とその妻貞(?~1825年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8E
のどちらも日蓮宗信徒(コラム#15033)であったことを知り、重三郎は、一橋家のエージェントであった田沼家(前述)のエージェント、つまりは、一橋家のまたエージェント(工作員)だったのではないか、と、思ったのがきっかけだった。
 つまり、平賀源内が、田沼意次、とも、蔦谷重三郎、とも、深い関係を持っていた(注71)ことは、「べらぼう」でも描かれていたけれど、「べらぼう」でのように、意次から直接ということはありえないとしても、源内等の仲介者を通じて、「べらぼう」に出てきた様々な話よりも遥かに大きな話に関し、蔦谷が田沼の意向に沿った活動をしていた可能性が大いにありうると思ったのだ。

 (注71)「田沼の庇護を受け、源内は二度目の長崎遊学を行い、 そこで得た知識を基に多くの発明や事業計画を実行<する>。・・・田沼意次は、経済政策の一環で鉱山開発を奨励していた。秩父の山に入った源内はそこで金の鉱脈を発見。鉱山師という新しい肩書を得る<ことになる>。・・・
https://animexdrama.com/berabou-hiraga-gennai-tanuma-kankei/
 「平賀源内は江戸文化の発展にも大きな影響を与えた人物<であって、>多色摺りの浮世絵「錦絵」の技術向上に関わった<り、>独自の作風を持つ作家・俳人としても活躍<したところ、蔦屋に>・・・「自分もこういう新しい文化を作る人間になりたい!」と<いう>・・・影響を<与え>た<可能性があるのであって、その傍証が、蔦谷が、自分が出版した>・・・『吉原細見』・・・の改訂版『細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)』<の>序文を・・・平賀源内<に>・・・書い<てもらっていることだ。>」
https://tx-seiyukai.com/tsutaju-gennai/

 というのも、比較的最近、田沼意次は日蓮主義者ではないかという問題意識を私が持つに至っていた(コラム#15065)ところ、上記ドラマで我々もおなじみになった、蔦谷のオトモダチの面々にまで、やたら日蓮宗信徒が多いことに気付いたからだ。
 まず、朋誠堂喜三二こと、久保田藩士で江戸留守居役の筆頭を長く務めた平沢常富(1735~1813年)は、墓所が江戸の一乗院なのだが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%A2%E5%B8%B8%E5%AF%8C
一乗院は日蓮宗寺院なので、
https://tesshow.jp/koto/temple_miyoshi_ichijo.html
彼は日蓮宗信徒であったところ、彼の書いた<天明8年(1788年)刊行の>黄表紙の『文武二道万石通』・・「べらぼう」でも登場・・は、「鎌倉幕府は将軍源頼朝の時代。頼朝は重臣畠山重忠を呼び、今のように治まった天下では「文武」の道のうち「武」がおろそかになる、鎌倉にいる大名小名で「文」と「武」どちらの武士がどれだけ多いか明らかにせよと命じ、重忠は「文」と「武」のいずれにも属さぬ「ぬらくら武士」もお目にかけましょうと答える。
 重忠は富士山の中に不老不死の薬ありと鎌倉の大小名たちに言うと、大小名たちはその薬を得ようとみな富士の人穴に入りその中を進む。そして「文」に優れた者、「武」に優れた者、そして「ぬらくら武士」の三つに分けることができた。「武」の者たちが「文」の者たちより数が勝ったので喜ぶ頼朝であった。しかしぬらくら武士たちは「文」や「武」の者よりもはなはだ多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%BA%8C%E9%81%93%E4%B8%87%E7%9F%B3%E9%80%9A
と、彼が奉じる日蓮主義が最重視する武の重要性を訴えたものだ。
 そもそも、彼の安永6年(1777年)の〈鱗形屋刊の〉黄表紙の『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』は、恋川春町(下出)画で、「民話「かちかち山」の後日譚として、兎にひどい目に遭った狸の息子が兎を親の敵と付け狙<い、>・・・苦労の甲斐あって狸の息子は兎を追い詰め、・・・一刀両断、見事本懐を遂げる・・・という話」だし、安永八年(1779)の[鱗形屋刊の]黄表紙の『案内手本通人蔵』は「『仮名手本忠臣蔵』のパロディで・・・大石を初めとする四十七士の忠義は抜群でも、もとは浅野内匠頭が通でなく、また世間知らずにも吉良上野介への賄賂が少なかったことによる悲劇であり、世間の人がみな通なら、つまらぬ争いもなく太平だ、という堂々たる思想<を展開する>話であり、
https://iwamakokugo.plala.jp/wordpress/?p=735
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c14904/ (〈〉)
http://altmetrics.ceek.jp/article/publisher/%5B%E9%B1%97%E5%BD%A2%E5%B1%8B%E5%AD%AB%E5%85%B5%E8%A1%9B%5D ([]内)
前者は武士のカッコよさをアッピールしているし、後者は日蓮主義者の立場から赤穂浅野氏を批判しており、だからこそ、朋誠堂喜三二や恋川春町は、鱗形屋から、日蓮主義者の蔦谷重三郎の(田沼意次から与えられたという触れ込みの)ミッションに共感して、耕書堂に乗り換えることになった、と、私は見るに至っているのだ。
 ここで、黄表紙なるものは何だったのかを振り返っておこう。
 「黄表紙は、近代文学の論理的整合性とはかけはなれたナンセンスなダジャレやぶっとんだ展開が楽しい、コミカルな作品群で・・・特に古典などをもじって遊ぶパロディーの面白さ、そして現代の漫画のように絵と文を一緒に読む楽しさ、そんな中にも人間や社会に対する鋭い視点(うがち)がキラリと光る点が特長。
 また、黄表紙は正月に売り出される縁起物でもあることから、どんな話も最後は必ず「めでたしめでたし」とハッピーエンドで収めるのが基本とされ・・・た。
 黄表紙は毎年、正月に発行されるのが慣例で・・・貸本屋も地本問屋から仕入れて貸出を行うほか、江戸に来た地方の人々がお土産として買うこともあ<っ>た。
 地本問屋とは江戸中期ごろに江戸に登場した、江戸オリジナルの本(地元の本=地本)を作って販売する出版社兼本屋のこと。それ以前は、本はすべて上方(京・大坂)から下ってくるもの<だっ>た。
 黄表紙が流行した約30年間の間に、2000種以上も出版。一作品の発行部数は1000部も売れれば大当たりだったものの、当時は一部を数十人が回し読みしたとされるため、かなりの読者がいたことにな<る>。また、中には芝全交の『大非千禄本(だいひのせんろくほん)』のように7000~8000部出たとされるものもあり、現代の20万部、30万部の売上に匹敵するとされ<る>。」
https://note.com/daiwadou/n/n9825ff587b92
とされることから、読者はもちろん武士だけではなく、広く、庶民にも、但し、「古典などをもじって遊ぶパロディーの面白さ」が分かり、「人間や社会に対する鋭い視点(うがち)」を読み取れる知的能力の高い非武士にも、読まれた筈だ。
 で、話を戻すが、黄表紙の祖と評される恋川春町こと小島藩士で藩の重臣にまで上り詰める倉橋格(くらはしいたる。1744~1789年)は、墓所が江戸の成覚寺で、浄土宗の寺院
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E8%A6%9A%E5%AF%BA >
なので日蓮宗信徒でこそないが、日蓮主義藩の「紀州徳川家附家老の安藤次由(帯刀)の家臣・・・の次男として誕生<し、後に>・・・<親藩の>小島藩士<になった人物であることに加え、>10歳近く年上の狂歌・戯作仲間の<日蓮宗信徒の前出の>朋誠堂喜三二・・・とは特に仲がよく、喜三二の文に春町の画というコンビ作も多<く、>再婚相手も喜三二の取り持ちという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%94%BA
ことから、日蓮主義者であったと思われるところ、彼の(やはり、「べらぼう」に登場した)『鸚鵡返文武二道』は、「本作より先、前年に刊行された・・・朋誠堂喜三二<の>・・・黄表紙『文武二道万石通』<が>、・・・同じく寛政の改革を風刺する内容が好評を博した<ところ、>『鸚鵡返文武二道』の「鸚鵡返」とはその『万石通』の後編であることを示すとともに、定信著の『鸚鵡言』(おうむのことば)も風刺して<いて、実に、>・・・一万五千部前後<も売れた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B8%9A%E9%B5%A1%E8%BF%94%E6%96%87%E6%AD%A6%E4%BA%8C%E9%81%93
 また、蔦谷重三郎の下で花開いた喜多川歌麿の「墓所の<浄土真宗の>専光寺<だが、同寺については>、寛政2年(1790年)8月26日、妻「戒名:理清信女」死去の際に菩提寺が無く神田白銀町の笹屋五兵衛の紹介で<歌麿が>檀家とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF
に過ぎないというのだから、歌麿もまた、蔦谷夫妻の影響を受けた日蓮宗信徒ならぬ日蓮主義者であったと見てよい。
 というのも、彼には、ずっと後のことだが、「1804年(文化元年)5月、<日蓮主義者の代名詞たる(太田)>豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした「太閤五妻洛東遊観之図」(大判三枚続)を描いたことがきっかけで、幕府に捕縛され、入牢3日・手鎖50日の刑を受ける。織豊時代以降の人物を扱うことが禁じられていたからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E5%A4%9A%E5%B7%9D%E6%AD%8C%E9%BA%BF
という事蹟があるからだ。
 もう一つ。
 太田南畝ないし蜀山人ないし四方赤良こと、「勘定所勤務として支配勘定にまで上り詰めた幕府官僚であ<った>・・・太田覃(あかし。1749~1823年)は、・・・墓<が>小石川の本念寺(文京区白山)にあ<り、>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E5%8D%97%E7%95%9D
この本念寺(ほんねんじ)は、<江戸の>日蓮宗の寺院
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BF%B5%E5%AF%BA_(%E6%96%87%E4%BA%AC%E5%8C%BA)
なので、彼も日蓮宗信徒だった、ときている。
 反日蓮主義と日蓮主義、と、思想信条こそ違え、多摩の豪農の家に生まれた近藤勇(1834~1868年)が、江戸の天然理心流宗家四代目になったり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87
血洗島の豪農の家に生まれた澁澤榮一(1840~1931年)が、「元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学<び、>・・・江戸・・・お玉が池の千葉道場・・・に入門し、剣術修行<に励び>」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B2%A2%E6%A0%84%E4%B8%80
どちらも国事に奔走したのは、蔦谷重三郎の蒔いた種が結実した証であると言えよう。
 (近藤勇は、日蓮主義者の加藤清正を尊敬していて反日蓮主義者になったことからも、澁澤榮一ほど日蓮主義黄表紙的なものを読みこなす能力がなかったということなのだろうが、そんな近藤の孫だって日露戦争で戦死しており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%97%A4%E5%8B%87 前掲
近藤家は日蓮主義完遂戦争にちゃんと貢献している。)
 ちょっと待った、以上は全て田沼意次が天明7年(1787年)10月2日に完全失脚した後のことではないか、という声が聞こえるが、『文武二道万石通』を天明8年(1788年)正月に出版するのに、企画・執筆・作画等に着手するのが前年の10月2日以降で間に合う筈がないので、田沼時代の出版と言ってよいのであり、重三郎としては、この類のものを出版してベストセラーにすることを目指して、それまでは、自分自身と自分の作った出版社である耕書堂の宣伝に努める共に、日蓮主義者の作家達と誼を通じて協力関係を構築してきたところの、助走期間だったという受け止め方でいいと思うのだ。
 ここまで来て、本当に重三郎は田沼家のエージェントだったと言えるのか、という声が聞こえてくる。
 では、改めて説明するが、最初に押さえておかなければならないのは、そもそも、田沼意次の政策なるものは、概ね吉宗の政策の延長線上のものに過ぎなかった、ということだ。↓

 「・・・将軍直属の密偵とも言われる幕府御庭番の1人・梶野平九郎は、・・・
 倹約令こそ山師がはびこった要因であると報告しています。田沼時代というと、・・・活気があり、消費生活も華やかとイメージされがちですが、倹約令が出された時代でもあるのです。
 幕府は財政悪化を受けて、倹約令を出したのです。小普請(旗本・御家人のうち、家禄3000石以下で無役の者)の植崎九八郎は、意見書の中で「御入用金(幕府の支出)を出さないことを第一の勤めとしているので、諸役人はおのおの互いに争い、御益と称して幕府の収入を少しでも増やすことを御奉公だと思っている。よって、その場その場で取り立てを厳しく行い、その手柄により転役」していると主張しています。
 つまり、幕府の役人は、倹約や取り立てに血眼になり、それがうまくできた者は出世しているということです。
 ちなみに、取り立てにより利益を上げようとする者は、先程の「山師」ということもできるでしょう。倹約と利益追求が同時に行われていたと見ることができます。
 さて、その田沼時代を主導したのが、意次ですが「大立者にしては一体の仕打ち小さく、金銀の世話事細か過ぎて、とかくこせついて見えます」との批判もありました。要は、お金のことにこだわり過ぎという非難です。
 旗本や大名家の財政と、幕府の財政を同列に置いたような財政運営を意次はしていると非難されることもありました。
 田沼時代は、商品生産の発展により、貨幣経済が拡大し、大都市を中心にして豊かで華やかな暮らしが営まれていたのは、一面の事実ではあります。しかしその一方で、幕臣(旗本・御家人)や諸藩の藩士は経済的苦境に立つことがありました。
 江戸時代の初期は、幕府の財政は非常に豊かでした。天領(幕府直轄領)からの年貢、金銀の鉱山からの収益、外国貿易により、財政は潤っていたのです。
 ところが、明暦3年(1657)、江戸で大火が発生し、甚大な被害を与えます。いわゆる明暦の大火です。江戸城や大名屋敷、市街が焼かれ、その再建に多くの金銀が必要でした。元禄時代(1688〜1704)は、5代将軍・徳川綱吉の治世ですが、この頃、物価の上昇、寺社の造営、贅沢などにより、幕府の支出はどんどんと増えていきます。
 それにもかかわらず、鉱山は枯渇、貿易は縮小していたので、収入は減っていき、幕府財政は赤字になってしまうのです。幕府の収入は、鉱山収入と貿易収入が減少したことにより、天領(元禄時代には400万石)からの年貢収入が拡大していきます。天領を増やすこと、年貢を増やすことが課題となるのです。
 8代将軍・徳川吉宗の享保の改革(1716〜1735)においては、厳しい倹約令と共に、年貢増徴策が推進されました。新田開発も奨励されました。
 こうした政策により、天領は463万石、年貢量は180万石(1744年)にまで増加するのです。厳しい倹約令の甲斐もあって、幕府の財政も黒字となります。
 しかし、成長には限界もありますし、年貢増徴策にも限界があります。年貢量も徐々に減っていくのです。
 田沼時代が始まる前には、10万石も年貢量が減っていたと言われています。幕府財政をどうするかということが、意次に突きつけられた課題でもあったのです。もっと言うと、年貢以外からの財政収入をどのように増やすかが課題でした。そのための方策としては、新たな鉱山開発、輸入品の国産化、新産業の創出などがありました。」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%81%B9%E3%82%89%E3%81%BC%E3%81%86-%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E3%81%8A%E9%87%91%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%83%AF%E3%82%B1/ar-AA1Kc2TW?ocid=msedgntp&cvid=3b9d54d82c2b4c698ac3434128ee74b6&ei=62 (コラム#15119)
 それに、思い出して欲しいのだが、田沼意次は、吉宗の子の家重の遺言に従って家治が重用した人物に他ならない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%B2%BB
 やがて、家治は、「田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。」(上掲)というが、それは、自分が、基本的な政策については近衛家/島津氏の指示に従わなければいけない立場であることを正しく理解するに至り、当然のことながら統治することに興味を失くし、爾後、父があてがった田沼意次に、この指示を踏まえた諸政策の実施を無条件で委ねることにしたからだろう。
 他方、素性もはっきりしない一介の町人であった重三郎が、上述したような大それた、幕府の基本的な政策と言ってもよさそうな、ことを、自分の個人的発意で試みるようなことは極めて考えにくい。
 よって、近衛家/島津氏→田沼意次→蔦谷重三郎、というエージェンシー関係の重層構造が浮かび上がってくるわけだ。
 同じことは、家治の後を継いだ一橋家出身の徳川家斉についても言えよう。
 家斉も家治的統治を行ったのは、最初は若年だったから当然と言えば当然だが、そもそも、成年になってからの彼だって、一貫して、近衛家/島津氏の指示をその時々の幕府の老中首座が実施するの横目で見ているだけの存在だったのだ。
 さて、では、どうして、松平定信が、そんな蔦谷を弾圧したのだろうか?
 『文武二道万石通』の出版は天明8年(1788年)1月、『鸚鵡返文武二道』の出版は寛政元年(1789年)1月だったが、定信がこれらに発禁処分を下したのは寛政2年(1790年)で、重三郎に身上半減の処分を下したのは、山東京伝<(注72)>の洒落本3作(注73)を問題にしての寛政3年(1791年)になってから・・京伝は手鎖(注74)の処罰を受けた・・であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A6%E5%B1%8B%E9%87%8D%E4%B8%89%E9%83%8E
要は、最初の2冊が売れすぎて、「庶民の上層部までを日蓮主義化」という目的が達成されたどころか、全国民が日蓮主義化することすら懸念され始めたことから、近衛家/島津氏から定信にプロジェクト停止指示がなされ、定信はいやいやそうした、と、いうのが私の現在の考えだ。

 (注72)1761~1816年。「父は伊勢国の出身で江戸深川に質屋を営<んだ。>・・・[<本人は、>京橋・・・で京屋といって煙管、紙製煙草入れなどを商<った。>]・・・若くして北尾重政に浮世絵を学び,北尾政演(まさのぶ)の名で,1778年(安永7)黄表紙《開帳利益札遊合(かいちようりやくのめくりあい)》の画工として出発,80年ごろから山東京伝の名で作者を兼ね,82年(天明2)《御存商売物(ごぞんじのしようばいもの)》が大田南畝に認められて出世作となり,画師として狂歌絵本にも活躍した。85年《江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)》が大評判をとるにおよんで,恋川春町,朋誠堂喜三二のあとをうけて,黄表紙の中心作者となった。・・・1785年《息子部屋》を初作として,洒落本に進出<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BC%9D-18131
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BC%9D ([]内)
 (注73)『錦之裏』、『娼妓絹籭(しようぎきぬぶるい)』、『仕懸(しかけ)文庫』の3冊。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E4%BC%9D
 『錦之裏』は、「自序のあとに後叙、自跋のあとに付言あり。・・・錦の裏とは、華やかな錦の表にたとえられる夜の廓に対し、昼の廓を意味する。従来の洒落本が扱わなかった情景である。」
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/html/tenjikai/tenjikai98/syosetu/syarehon.html
 「洒落本<(しゃれぼん)は、>江戸中期以後行われた小説形態の一種。遊里に取材し、遊里の習俗、遊客遊女の風俗言動などを、会話を主とした文章で精細に描き、簡単な小説的構成をとったものが多い。また遊里案内や遊客心得、遊興論などの形をとるものもある。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B4%92%E8%90%BD%E6%9C%AC-76487#E6.94.B9.E8.A8.82.E6.96.B0.E7.89.88.E3.80.80.E4.B8.96.E7.95.8C.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8
 (注74)てじょう。「江戸時代の未決勾留および刑罰。前に組んだ両手に瓢箪型の鉄製手錠をかけ、一定期間自宅で謹慎させる。主に牢に収容する程ではない軽微な犯罪や未決囚に対して行われた。戯作者の山東京伝が1791年に、浮世絵師の喜多川歌麿が1804年にそれぞれ五十日手鎖の刑を受けたことで有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E9%8E%96

 定信が、浮世絵や黄表紙大好き人間であったことは、「べらぼう」を通じて知れ渡るに至っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1#HeroSection
ところ、処分が、ある意味、微温的だった(注75)し、恋川春町の死だって自殺という確証があるわけではないばかりか、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E7%94%BA
「定信は当時はまだ庶民の物とされていた浮世絵を収集して<いたところ>、老中退任後、愛蔵した浮世絵の詞書(前書き)を上巻は「田沼こひしき」と揶揄したと噂された大田南畝、中巻は朋誠堂喜三二、下巻は山東京伝といった処士横断の禁の際に処罰された者へ依頼し、さらには北尾政美、山東京伝に依頼し両名の合作で『吉原十二時絵巻』を製作させている。これは「十二時(昼間)の遊女」をテーマとしており、この絵巻の吉原の時間の推移を追いながら表現して行く手法は、京伝が咎めを受けた洒落本『錦之裏』と全く同じ趣向であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0 前掲
と、定信が老中退任後にわざわざ処分関係者を「重用」したのは、蔦谷の処分が自分の本意では全くなかったことの表明だったに違いないのだ。

 (注75)このケースと比較してみよ。↓
 「・・・将軍嫡子・徳川家治と閑院宮倫子(ともこ)との結婚の内幕も書く。「倫子に付いて京都から下ってきた公家の広橋中将殿の息女は今日日本第一の美女という。倫子はこの美女を家治に進ぜようとしたが、お付きの女中衆が止めた。あまりに美しいので、もしや倫子様の身代わりになってはと考え、田安徳川家の奥に預けた。それで田安さんは幸せだ、と、専らの噂(うわさ)」(「宝丙密(ほうへいみつが)秘登津(ひとつ)」)。・・・馬場文耕<(1718~1759年)>・・・はこれを実名で書いた。・・・」(コラム#15095)
https://news.yahoo.co.jp/articles/af9abae48827b94e8453810bb98fe41a0752cd9b
 この馬場は、「世話物講談の分野を開き、「近世講談の祖」とも評価される。また、その作品を理由に処刑された近世日本の言論統制の犠牲者としても知られている。・・・
 伊予国出身で、徳川吉宗の時代に江戸幕府の御家人だった時期があり、職を失って浪人となり、一時は出家したり、還俗して易占いで生計を立てたり、白兎園宗瑞(中川宗瑞)に俳諧を学ぶなどしていたとされている。後に書本作家・講釈師として「世話物」で高い評価を得、更に講釈師として武家の下に出入りしているうちに幕閣や大奥、大名を批判する「政事物」と呼ばれる作品も著すようになった。
 作品はその内容から無署名・別号のものや写本のみで伝えられるものも多く、文耕の著作を確定することは難しいが、代表的なものとしては『当世武野俗談』『近代公実厳秘録』『近世江都著聞集』『明君享保録』などが知られている。『名君享保録』は徳川吉宗伝で、後に幕府が編纂した『徳川実紀』にも引用されている。
 宝暦8年9月16日(1758年10月17日)、榑正町(現在の東京都中央区日本橋3丁目)の文蔵宅で、当時評定所にて審理中であった金森騒動についての講談を行った上に、それを実録本に著した『平良仮名森の雫』を頒布していたところを捕らえられ、12月29日(一説には25日)、江戸市中引き回しの上、打ち首獄門の判決が言い渡され、その日のうちに小塚原刑場にて処刑された。享年41歳(44歳説もある)。森川馬谷の菩提寺である浅草涼源寺に葬られたとも言われるが、過去帳や墓碑が存在せず、確たる証拠はない。
 文耕の処刑の理由については、金森騒動について評定所の判決が出される前に講談の場において私の裁決を行ったことや、江戸幕府や諸藩などに関する機密情報を書本や講談の形で公開したことが江戸幕府の怒りを買ったとも言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E6%96%87%E8%80%95
 金森騒動とは、郡上一揆の結果、郡上藩主金森氏が改易されたことを指す。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86

 だから、定信は、重三郎に、それぞれの処分前に、何らかの形で、処分の必要性を説明し、納得させた上で処分をした筈だ、と、私は想像している。

5 終わりに

 自分の備忘録的な「講演」原稿になってしまったので、読み通した方は・・殆どいないかもしれないが、いたと仮定して・・さぞやしんどい思いをされたのではないかと心配しているが、この原稿をマンガにすれば、手塚治の『火の鳥』に負けないくらい面白いものになるのは必至だ、と、勝手に自負している。
 しかも、『火の鳥』はフィクションだけど、私のはノンフィクション、だぜ、と。

 とまれ、拾い読みをされた方、一部だけ目を通された方、を含め、どんなものでも結構なので、コメントを寄せていただければ幸いだ。
 (それにしても、今回、「べらぼう」で最初に問題意識が閃いた時のことと、最後の最後の瞬間に、[中臣氏/藤原氏]の囲み記事で書いたことが閃いた時のこと、の2つは強く印象に残っている。)
最後に自戒の念を。
 池上本門寺はウチから歩いて行ける距離にあって、その五重塔は何度も見ているし、その案内板だって目を通していた筈なのだが、この塔と徳川秀忠との関係に、今回の「講演」原稿を書くまで、全く気が付かなかった。
 当然、案内板にだってそんなことは書かれていたに違いないのだが、問題意識が不足していたから見過ごしてしまっていたのだろう。
 一事が万事だ。
 まことに僭越ながら、皆さんにも、たった一度きりの人生なのだから、漫然と生きるのは止めた方が、と、申し上げて本日の私の話を終えたいと思う。