太田述正コラム#15046(2025.7.4)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その62)>(2025.9.29公開)
「・・・<更に、>漢人・代<(注74)>人ともに、皇帝権力のもとに家格が序列化され、家格による官人身分序列と統一的な官吏登用および昇進のめやすが構築されたのである。・・・
(注74)「五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続<き、>・・・376年<、>前秦に滅ぼされる・・・
315年2月、<西晋の最後の皇帝の>愍帝は拓跋猗盧を進爵して代王に封じ、代郡・常山郡に官属を置くことが許された。拓跋猗盧は百官を置き、刑法を定めるなど国家としての体制を整えた。これが代国の始まりとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3_(%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD)
「拓跋 什翼犍(たくばつ じゅうよくけん。・・・318年~376年)は、・・・代国の<最後の>王<で、>北魏の太祖道武帝<(魏王:386年~。魏皇帝:398年~)>の祖父<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8B%93%E8%B7%8B%E4%BB%80%E7%BF%BC%E7%8A%8D
孝文帝<によって、>・・・漢化政策がすすんでいた493年、おりしも南斉の政変のあおりをうけて王肅<(注75)>(おうしゅく)(464~501)が亡命してきた。・・・
(注75)「王粛<は、>・・・。南朝斉の武帝に仕えて、著作郎・太子舎人・司徒主簿・秘書丞を歴任した。永明11年(493年)、父と兄弟が処断されたため、北魏に亡命した。孝文帝と面会すると、大軍を動員した南征を勧めた。・・・
<孝文帝の子で次の皇帝の>宣武帝の宰相をつとめる<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B2%9B_(%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D)
漢化政策は、王肅が制定した官制・礼楽によってしあげがおこなわれたのである。
それは「中国」風にすること、すなわち漢魏の古典国制を北魏に導入することを意味した。
この国制は、北魏の東西分裂を機に、まるごと東魏・北斉に継承され、さらに隋がこれを受容することになる。・・・
北魏給田制(「均田制」)が施行されてまもない6世紀初頭、高陽太守(山東省益都県)賈思勰(かしきょう)が『斉民要術(せいみんようじゅつ)』<(注76)>・・・を撰述した。・・・
(注76)「南北朝時代の北朝の各王朝から、唐、北宋に至るまで、政府は彼の著作『斉民要術』を印刷製本して地方官に発給し、これを用いて民間の農業生産を指導させた。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0301-078_1.html
そのなかで注目すべき内容は、華北乾地農法が古典的な成立をみたことである。・・・
北魏給田制の夫婦2人の基礎的給田が正田60畝であったことは、戦国漢代および西晋占田制の基礎的給田が夫婦1頃=100畝であったことと比較するならば、より高度な土地生産性を実現していたことを示している。
河北におけるこの大農法は、13世紀の金代まで基本的に継承される。」(174~178)
⇒前漢の人口のピークが6000万人弱、後漢は5600万人強、南北朝のを経ての唐(玄宗時)が5300万人弱、
https://www.directforce.org/DF2013/02_DF_katsudo/reikai/pdf/2023/kansai/a03-03.pdf
ということは、江南の稲作の反当収量増がなかったとしても、華北(中原)では畑作の反当収量の大幅増があったにもかかわらず、ピーク時の人口は減少しているのですから、むしろ、緩治度というか苛政度が、上昇する一方であったことが分かろうというものです。(太田)
(続く)