太田述正コラム#15050(2025.7.6)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その64)>(2025.10.1公開)
「・・・六鎮<(りくちん)>の反乱<(コラム#13658)>をきっかけとする混乱のなかで、北魏は東西に分裂する。
東西にわかれた魏では、代国の体制を評価する勢力と「漢魏の法」にもとづく孝文帝の国制を評価する勢力とが対立した。
禅譲を受け、北斉(550~577)<が>建国<され>た。
北斉は、官制・法制・礼制にわたって孝文帝の国制を基本的に継承した。
しかし、宮廷内でも権力上層は鮮卑語を話し、漢人が出世するには西域に由来する琵琶<(注78)>を演奏し、鮮卑語を話す必要があったという・・・。・・・
(注78)「北魏時代の敦煌莫高窟壁画に5弦の琵琶が描かれており、現在につながる琵琶はこのころ<支那>大陸に伝わったもののようである。・・・
現存する世界最古の四弦琵琶は、今のところ正倉院に保存されている数面の琵琶であると思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6
⇒音楽は言語同様、コミュニケーションの道具である、ということですね。(太田)
楊堅は、王莽と同様の手順をふみ、581年、・・・北周・・・から禅譲をうけ、隋を建国した。・・・
総じていえば、隋・唐初期の政治権力は、軍事力を関中に凝集させる関中本位政策=府兵制のもとに結集する関隴地域集団が掌握した。」(184~185、187、190)
⇒関隴集団(武川鎮軍閥)が「西魏・北周、および」隋・唐初期の政治権力を掌握し続けた、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B7%9D%E9%8E%AE%E8%BB%8D%E9%96%A5
ということは、軍事力こそが権力の基盤である、という、普遍的真理に照らせば、当たり前のことです。(太田)
——————————————————————————–[府兵制]
「府兵制は、・・・南北朝時代の西魏から唐代まで行われた兵制。・・・
前期府兵制<:>
府兵制以前に行われていたのが兵戸制である。これは特定の家に対して永代の兵役義務を負わせるもので、その元は魏の曹操が黄巾党の残党30万を配下に入れた青州兵である。その後、兵戸制は南朝・北朝に受け継がれ、南朝では文治重視をして武を軽視する考え方から兵戸の没落を招き、宋代に崩壊していた<(※)>。
⇒漢人文明度が濃厚なほど軍事軽視、ひいては緩治になる、ということを如実に示している。(太田)
しかし北方では諸民族・諸勢力が交錯し軍事的需要が常に高かったため、尚武的な気風が継続され、兵戸の地位は概して高く比較的長い間保持されていた。北魏での兵戸は鎮と呼ばれ、特に首都・平城を北の柔然から守る六鎮の地位は高く、領土の統治権も持っていた。しかしその北魏でも孝文帝の漢化政策により、文治の思想が広まり、兵戸の地位は次第に下がり、更にそれまで領土の統治権も中央からの郡県に奪われ、その生活は郡県からの援助を以て成り立つようになった。特に首都が平城から洛陽に遷ったことで六鎮の地位は暴落し、これに不満を持った鎮の構成員たちは六鎮の乱を起こす。
北魏分裂後、西魏の宇文泰の元には4万ほどの兵しか集まらず、東魏との間には歴然とした兵力差があった。西魏は東魏と対峙して当初は善戦するものの534年(大統九年)の邙山の戦いにて大敗して宇文泰は根拠地の関中に逃げ帰る。この時に当地の名望ある豪族を「郷帥」に任じて、その下に「郷兵」を結集したのが起源である。550年頃までにこうした郷兵部隊が「二十四軍」に編成され、郷兵たちは一般戸籍から軍府(儀同府)の特別な戸籍へと移動した。
[東魏に一敗した西魏は,関中地方の豪族に郷兵(郷民の招募による軍団)を組織させ,従来の胡族部隊とともに中央軍に編制した。柱国大将軍6人-大将軍12人-開府儀同三司24人という指揮系統を構成し,開府儀同三司が1軍を掌握した。1軍は多数の団を含み,儀同三司以下の将官がこれを率いた。各級の将官はそれぞれ軍府を開き,府兵は一般民籍を脱してこれに所属した。
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6-620185 ]
(続く)