太田述正コラム#15054(2025.7.8)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その66)>(2025.10.3公開)

 「しかし国制の基盤となる律令法制と礼楽典章は、漢魏古典文化を継承する北魏の孝文・北斉系統と南朝梁・陳系統との2系統の政治文化によって再構築されたのである。・・・
 <隋の>文帝は、587年、諸州から毎年3人の貢士を中央に推薦させ、試験を課す貢挙<(注79)>(科挙)を開始した。

 (注79)「地方から文武にすぐれた者を選抜して、中央政府に推薦させ、これを登用したこと。」
https://kotobank.jp/word/%E8%B2%A2%E6%8C%99-494665
 「<支那>の官吏登用の選挙制度は、その起源は『周礼』の地官司徒篇や『礼記』の王制篇にあるが、漢ではこれは郷挙里選の名称で行われた。それが三国魏に至って九品中正法に変わり、この九品中正法は晋・南北朝を通じて行われたが、西魏の権臣であって北周の始祖となった宇文泰が、周礼学者の蘇綽や廬辯を重用して『周礼』を直訳したような制度を造らしめて実施したことによって、九品中正法は廃止となり、新らたな『周礼』による官吏登用制度が生まれ、その制度は西魏・北周から隋に及び、更らには唐・五代・宋に継承されて、その間に『礼記』の制度も加味され、名称も初めは貢挙と言われたものが、段々と科挙と称せられるようになった。」
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390009224845962752
 「隋代の科挙は、秀才・明経・明法・明算・明書・進士の六科からなり、郷試・省試の二段階であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99

 さらに595年、・・・九品官人法<(注80)>を廃止した。

 (注80)九品官人法=九品中正制=(?)九品中正法。「魏晋南北朝時代に行われた官吏登用法<であり、>三国時代の魏・文帝の220年に始められ<た。>・・・
 この法は官僚を最高一品官から最低九品官までの9等に分類する(これを官品と呼ぶ)。同時に郡ごとに中正官と呼ばれる役職を任命し、管内の人物を見極めさせて一品から九品までに評価する(この人物への評価を郷品と呼ぶ)。後に中正官は司馬懿により郡の一つ上の行政区分である州にも置かれるようになり(州大中正。郡ごとの中正官は「小中正」と呼ばれた)・・・
 この制度の目的は、後漢から魏へと移行するに際し、後漢に仕えた官僚たちの能力と魏に対する忠誠度を見極めて人材を吸収する事。漢代の郷挙里選制では地方の有力者の主導で官僚の推薦が行われていたがこれを政府主導に引き寄せること、漢代の徳行主体の人事基準から能力主体の基準へと移行することなどがあると言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%93%81%E5%AE%98%E4%BA%BA%E6%B3%95

 貢挙は、試験制度による開かれた自薦制の登用法である。
 それは、秀才科・明経科・諸科などの科目を立てて貢士を試験し、合格者に官人資格をあたえる制度である。
 煬帝は、さらに詩賦の能力をも試験する進士(しんじ)科をもうけた。
 唐代にはいって、則天武后の治世期に進士科が重視されるようになると、貢挙は、その基盤を拡大し、門閥を解消する橋頭保となっていった。」(190、195)

⇒「注79」の2番目の典拠は、「試験」を伴う貢挙が隋より前から存在したようにも読めることはともかくとして、九品官人法が廃止されたのは西魏時代であるとしているので、渡辺の記述と齟齬が見られます。
 また、「注79」の1番目の典拠は、「文武にすぐれた者を選抜」としていますが、隋の時代に「武」に係る試験が行われたとは、列記された試験科目から見て考えられないところ、仮に登用試験が行われたとしても、文官官僚に比しての軍事官僚の軽視・・無視?・・は明らかですね。(太田)

(続く)