太田述正コラム#15056(2025.7.9)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その67)>(2025.10.4公開)

 「・・・均田制については・・・、開元天宝年間以降、禁じられていた給田の売買が横行し、官人・富豪層による土地の集積が大々的に進行するようになる。
 百姓の占有地は「永業」「己業」等とよばれ、戸籍に登録する国家成員=人戸には事実上の土地所有が認められるようになる。
 この事実上の土地所有を基盤にして賦課されたのが780年にはじまる両税法<(コラム#14080)>である。

⇒前述したように、均田制そのものが、事実上の土地所有を追認するものであったところ、そうでないかのようなフリをすることを止めた、ということに過ぎない、というのが私の見方です。(太田)

 ・・・唐代百姓の基本負担について、『六典』<(注81)>は、「およそ賦役の制には四種あり、一を租、二を調、三を役、四を雑徭という」・・・と述べている。

 (注81)りくてん。「唐代の法制の書。大唐六典。唐玄宗勅撰,李林甫等注。30巻。開元 26 (738) 年成る。官司官職別に,関係の律令格式やそのほかの法規を盛込み,各官の序列や職掌を判別しやすいように分類し編纂したもの。当初は・・・周代に国を治めるために制定されたとされる六種の法典<に倣って、>・・・理典,教典,礼典,政典,刑典,事典の6部門に分ける企画であったため,六典と名づけられた。しかし完成時には形式を変更して,三師,三公,尚書省,門下省,中書省ほかの諸省,吏部以下の六部,御史台,太常寺以下の九寺,国子監ほかの諸監,左右衛ほかの諸衛などから府州県官にいたる諸官制に分けるものとなった。所載の規定は必ずしも当時行われた法制とはかぎらないが,唐代の制度や特に唐令の研究に重要な資料である。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E5%85%B8-148553

 その具体的な負担内容は、一正丁あたり、租として穀物二石(約120リットル)、調として絹二丈(20尺約5.8メートル、半匹)・錦(まわた)三両(約120グラム)を、麻布の場合は二丈五尺・麻三斤(約2000グラム)を納め、正役として20日間の労働に従事することである。
 正役は、20日間の力役をいう。
 正役は、百姓の戸籍が存在する州をこえて就役するばあいを言い、その大半は租税財物の輸送労働であった。
 州内での輸送労働、堰堤の修理や浮橋修築などの補助的労働に就役するときは雑徭・夫役とよび、正役の半分に換算する。
 したがってざつ雑徭に就役するときは40日が一応の限度である。
 賦役制(租調役制)は、正役を基本に組みたててある。
 正役20日(雑徭40日)をこえて15日(雑徭30日)就役すれば調を免除し、さらに15日就役して30日(雑徭60日)になれば租・調ともに免除する。
 すなわち正役であれば50日、雑徭のばあいは100日就役すれば、賦役負担をすべてはたしたことになる。
 ただ、正役には50日の上限が決められているのに対し、雑徭には上限を明確に設けていないのを特色とする。・・・
 唐の賦役制は、正役を基準に組みたてられている<のであって、>・・・唐代律令制化の負担は・・・「租調役」制とよぶのが妥当であ<り、そもそも、>・・・唐代の農民にとって徭役負担と兵役負担が最も重い負担であった。・・・
 <ちなみに、>租庸調は宋人の言説であ<るところ、>・・・唐初以来、<庸は>代納が基本であったとして・・・いる<が、>・・・唐初以来代納が基本であったことの史料的根拠は示されていない。
 <なお、>庸は正役20日の代替として、一労働日あたり三尺の絹、20日で六0尺(六丈、一匹半)の絹を納入することをいう。・・・
 唐代の正役・雑徭の就役労働の大半は、・・・地域間分業にもとづく租税財物の輸送労働であった。
 辺境への輸送労働はとくに重要で、兵站を兼ねた。
 兵站には、戦闘員の2倍の労役を必要とする。
 ・・・隋の第一次高句麗戦には、113万余の兵士の2倍の労役が用いられた。・・・
 開元年間にはいって顕著な問題となる逃戸・浮戸・客戸現象は、この正役・兵役負担から逃れるための百姓の抵抗運動であり、唐代律令制、いや大唐帝国をその深部で掘り崩していく動因であった。」(215~218)

⇒渡辺による、正役・雑徭の説明、の中では、兵站の話は出てきても、兵役の話は出て来なかったので、渡辺に正役負担の重さとそれへの反発の話の中で、突然、「正役・兵役負担」(の重さ)と言い換えられても、目を白黒させられるだけです。
 漢人諸王朝の軍事軽視を論えないほど、渡辺ら、日本の現在の歴史学者も軍事軽視だねえ、という皮肉の一つでも言いたくなってしまいます。(太田)

(続く)