太田述正コラム#15058(2025.7.10)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その68)>(2025.10.5公開)

 「唐代前期律令制下の軍制・軍役・・・の転換点となったのは、<玄宗期の>
721年の宇文融<(注82)>による括戸政策であり、国家登録戸数の約1割にあたる逃戸・客戸80万戸を検出し、編戸化した。

 (注82)?~729年。「北周の宗室宇文氏の後裔(こうえい)で、融はその家柄によって官界に入ったらしい。彼の行政手腕を認めた旧上司の源乾曜(げんけんよう)が宰相に昇格すると、融は監察御史(かんさつぎょし)に抜擢(ばってき)された。早速721年正月には、逃戸(とうこ)(逃亡民)の激増に対する処置を上奏し、宇文融の括戸(かっこ)として知られる政策を担当した。この括戸政策を遂行するため、723年に勾当租庸地税兼覆囚使(こうとうそようちぜいけんふくしゅうし)、翌年に勧農使に任命された。短期間に80余万の客戸(きゃっこ)と広い土地を得た功績によって累進を重ね、729年には宰相にまでなった。しかし、わずか100日で宰相の地位を追われ、厳州に配流される途中、熱病にかかって死去した。・・・
 全国80余万の客戸から数百万銭の客戸税銭を徴収し<たが、>・・・客戸税銭はのちの両税法の先例をなす。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%87%E6%96%87%E8%9E%8D-35096

 これに連動して翌722年8月、宰相張説<(注83)>(ちょうえつ)(667~730年)の2つの上奏により、一、60万人にふくれあがった縁辺守備兵20余万人の削減とその帰農、および二、兵士召募による中央南衙禁軍13万人の再編成が実施された。

 (注83)「政治家・詩人。・・・西晋の司空の張華[・・前漢の文成侯張良の8世孫にあたる・・]の[13世孫]・・・にあたる。・・・688年に科挙に第2階級で合格して太子校書郎となる。・・・文官・武官として順調に官職を重ね、工部侍郎・同中書門下平章事・中書令・巡察使・節度使を歴任し、三度も宰相となった。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%AA%AC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%8F%AF ([]内)
 「張良は祖父の張開地が韓の昭侯・宣恵王・襄王の相国を務め、父の張平は釐王・桓恵王の相国を務めるなど、韓の名族の生まれであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%89%AF

 後者の諸衛禁軍兵士の召募による再編は、ただちに府兵衛士の募兵制化を意味する。
 府兵衛士は、723年11月に「長従宿衛」12万人に改められ、さらに翌年2月に彍騎(かくき)と改名されてその実体を失った。
 <まだ玄宗期であった>749年5月、形式化していた折衝府への衛士上番命令の停止によって、府兵制は最終的に抹消される。
 募兵制は中央禁軍から始まったのである。」(218~219)

⇒結局、兵役そのものがどれくらい重かったのかという話はネグられたまま、府兵制の瓦解と新しい軍制の叙述がなされているところ、渡辺に対し、遺憾であると申し上げておきましょう。
 なお、注目すべきは、新しい軍制への転換の方向性を決定した人物である張説が、「注83」から分かるように、れっきとした漢人であったことです。
 しかも、張説の祖先である張良の国で張家が重臣を務めた韓は戦国六国中、秦によって最初に滅ぼされた、弱兵の国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
なのですから、何をかいわんやです。
 唐を建国したところの、勇猛な騎馬民族であった鮮卑系の人々、就中関隴集団の人々が、もはや軍事を担う能力も気概も失ってしまっていたことを、これは如実に示しています。
 唐は、既に滅亡へのカウントダウンが始まっていた、と、言っていいでしょう。(太田)

(続く)