太田述正コラム#15060(2025.7.11)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その69)>(2025.10.6公開)
「防人戍辺<(注84)>の募兵制化は、府兵宿衛制とは異なる展開を示した。
(注84)防人(ぼうじん)は、「738年完成の大唐六典では「辺要置防人為鎮守」(辺地の防衛のために防人を置く)とされている。防人の数は担当地域の規模によって定められており、上鎮では500人、中鎮では300人、下鎮では300人以下、上戍は50人、中戍は30人、下戍は30人以下とされた。唐代初期には全国で上鎮が20箇所、中鎮が90箇所、下鎮が135箇所、上戍が30箇所、中戍が86箇所、下戍が235箇所との記録があり、合計すると7-8万人の兵力となる。兵士は農村から徴兵された他、犯罪者や無住者など所払いの人達も送られた。任期は3年だが、延長される事もしばしばあった。食料・武器は自弁であった。なお、開元、天宝年間(713年-756年)になると、募集された職業軍人で構成されるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E4%BA%BA
戍辺(じゅへん)は、「辺境守備」
https://kotobank.jp/word/%E6%88%8D%E8%BE%BA-2828065
当初の防人制は、山東地域すなわち河北・河南道を中核とする一般州府の編戸百姓が中心となって負担した。
これは、両都・西北地域にある軍府州の百姓が府兵・衛士をになったのと好対照をなす。
防人の主力は、当初毎年10月1日を期日尾する一年交替制の辺境警備の軍役であった。
しかし<玄宗即位間もない>714年をさかいに交替期間が延長されるようになり、717年に4年交替制、さらには6年交替制へと転換し、交替期間の延長とともに召募による職業兵士(健児)化が進展した。・・・
最終的に編戸農民を対象とする徴兵制の律令制軍役は解体した。
ここに商鞅変法に淵源する「耕戦の士」は最終的に解体し、宋代軍制にまで継承される兵農分業が成立した。」(219~220)
[秦漢兵制]
「 戦国・秦において・・・韓非子<の中で、>・・・農民兵士が「耕戦之士」とよばれている。・・・
秦<・・>漢<も同じだが、・・>において、材官騎士等の世紀の・・・常備軍によって担われる平時編成したの「兵制」と、材官騎士等及び雑多な内容の臨時徴発兵、募兵等によって構成される戦時編成したの「軍制」とは明確に区別して考えなければならない・・・。・・・
<また、>力役、賦(戸賦)、兵役の負担期間は一致していたとみられる。・・・
傅とは国家が成年男(女)から税役を収取するための台帳に登録する意であったとおもわれる<が、>・・・兵士は傅された成年男子の一定部分が選抜されてこれになり、その代わり基本負担(力役、賦)の一部、もしくは全部を免除された上で、兵役に従事した・・・。・・・
漢<においても、>・・・兵役適齢男子の一定部分<だけ>が選抜されて兵役に就いた<。>・・・
正(正卒)は1ケ年の負担義務であ<って、>・・・彼らは一般庶民とは総体的に区別される「兵士身分」とされ、又、それに対応する負担体系の下におかれたと推定される<。>・・・
卒でも精卒(主戦斗員)として活躍する場合は一般に「士」とよばれ、雑卒は「卒」とよばれた。・・・
材官とは一般的に歩兵の意であり、その中の一部が選抜されて・・・強弩や強弓の専門兵集団を構成することになるのであろうとおもう。・・・
騎士も一般に徴兵農民が・・・就役する官役である。
但し北辺の騎士は徴兵であっても特別待遇で「吏比者(吏待遇)」とされていた。・・・
<このほか、>衛士<にされる者もいた。>・・・
このように兵士は一般に士卒と総称されるのであるが、これが軍吏と対比されている。
これらによれば、この「士」「士卒」が総体として官吏でないことが明らかである。・・・
<すなわち、>「士」「卒」の間に明確な区別があったとは考え難く、又材官騎士、衛士等を職業軍人や官吏的存在と考えるのは妥当でない。・・・
老(免老)に至るまでの在役期間中、兵士は毎年1カ月、所属の県の軍府に交替上番し、軍事訓練を受けると共に、県内の治安維持等の諸任務にあたる。
又、歳終には上官立会の下での都試(軍事査閲)を受ける。
これが平時における基本的な負担である。
これ以外に特別任務として、1年間、郡に上番して郡の条鼻閉となり、郡治の警衛等にあたる正(正卒)の義務、同じく1年間の衛士或は戊辺・・・義務があった。・・・
これに対し、<漢においても、>戦時編制下に入り、征討(野戦)郡が編成される場合、それはしばしば正規の常備軍兵士の他に、臨時に徴募された諸種の兵士を加えて構成されるものであり、両者は指揮系統、目的、及び動員方法、構成原理等の点において、明確に区別さるべきものであった。」(重近啓樹(注85)「秦漢の兵制について」(1986年1月)より)
https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/record/3215/files/091208001.pdf
(注85)1951~2010年。明治大文卒、同大修士、博士課程単位取得退学、埼玉大非常勤講師、明治大非常勤講師、東京学芸大非常勤講師、日本学術振興会奨励研究員、静岡大専任講師、助教授、明治大学博士(史学)、静岡大教授。
https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/record/6439/files/63_2-0001.pdf
⇒上記囲み記事を私は説得力ありと受け止めていますが、漢についての記述は前漢時代の典拠ばかりに拠っているところ、少なくとも前漢時までは、潜在的男子皆兵制(潜在的耕戦の士)であったところの、秦の戦国時代末期の軍制、が、維持された、と、見てよさそうであり、前漢、後漢を通じてのその軍事力の弱体化は、主として指揮官・将校の養成システムの欠如、従として軍事訓練の懈怠がもたらした、と、見てよさそうです。
他方、魏から後の軍制は、職業軍人制であり、もはや耕戦の士は解体済みであった、とも。(太田)
(完)