太田述正コラム#15068(2025.7.15)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その4)>(2025.10.10公開)

 「『史記』を著した司馬遷は、・・・地域を牛耳るボス・・・のなかでも特に著名だった朱家<(注9)>(しゅか)、劇孟<(注10)>(げきもう)、郭解<(注11)>(かくかい)を遊侠列伝に載せ、その行為には不正義を含むことがあると断りつつ、「その言は信、その行は果」であると認め、身命を惜しまず仲間の窮状に駆けつける点を評価している。<(注12)>

 (注9)「楚漢戦争ののち、・・・朱家を知る濮陽の周氏が、季布を匿ってほしいと伝えてきた。季布は項羽配下の武将で、その任侠を知られた人物だったが、劉邦によって千金の賞金がかけられており、季布を匿った者は三族処刑すると布告されていた。周氏は朱家に身なりのやつれた奴隷を譲り渡したが、朱家はその奴隷が季布であることを察し、丁重に扱った。
 朱家は次に任侠に厚い劉邦の側近である夏侯嬰と面会した。朱家は夏侯嬰に対し「季布は項羽の命に従って劉邦の軍勢を追い回しただけなのに、賞金首にするのであれば、項羽の部下全員皆殺しにしなければならないでしょう。私怨で季布を追い回すのを止め、すぐに放すべきだ」と説いた。
 それを聞いた夏侯嬰は朱家が季布を匿っていると感じ取ると、夏侯嬰は劉邦に季布をゆるすことを説いた。季布はゆるされて郎中に取り立てられ、のちに河東郡守にまで出世した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%AE%B6
 (注10)「呉楚七国の乱の<時の挿話が残っている。>・・・同じ遊侠である魯国の朱家と似たような行いをし、博打を好み、少年のような戯れが多かった。しかし彼の母が死んだ時には遠方より葬儀に駆けつける者の馬車が千台とあるほどであった。・・・劇孟が死亡した際、家には財産が金10斤もなかったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%87%E5%AD%9F
 (注11)「若い頃から密かに人に害を成す一方、意気に感じて節を立てることがあり、意に沿わないことを理由に人を殺すことも多かった。友人の仇討ちを身をもって手助けしたり、亡命や罪科により逃亡してきた者を匿ったり、窃盗や贋金作り・墓荒らしなどを行うこと数知れずであったが、単なる幸運か何らかの裏があるのか、捕まりそうになっても逃げのびたり、恩赦によって助かった。
 年を取ってからは行いを改め、倹約し、恨みにも徳をもって返し、他人に恩を施しても報酬を受けようとしなくなった。しかし、邪悪さはその心根に沁みついていて、些細なことで人に殺意を抱くことは昔と変わりがなかった。任侠を好み、人を助けても功を誇らない一方、郭解が殺意を抱いた人間を、郭解にあこがれる若者たちがときには郭解に黙って殺害した。・・・
 御史大夫の公孫弘は「郭解は無位無官でありながら任侠を行い権力を行使し、睨まれただけで人を殺しておいて自分は知らないでいる。これは自ら知りつつ殺すよりも酷い罪である。大逆無道の罪に当たる」と議論を出し、そのため郭解は処刑され、彼の一族も連座して処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E8%A7%A3
 公孫弘(こうそんこう。BC200~BC121年)。「若いころは獄吏だったが罪があって罷免された。家は貧しく、海のほとりで豚を飼って生活した。40歳を過ぎて『春秋』・『雑説』を学んだ。
 武帝が即位したばかりのころ、賢良文学の士を招聘したが、その際、60歳の公孫弘も賢良として徴用され<た。>・・・
 元朔5年(紀元前124年)、丞相となった。それ以前は列侯が丞相となるのが常であったが、公孫弘は列侯ではなかったため、武帝は公孫弘を平津侯に封じた。それ以降、丞相になると列侯に封じられるのが定例となった。・・・
 公孫弘は粗末な生活を続けたが、一方で裏表があり、自分と仲が悪い者は表向き上手く付き合っても、後で必ず報復した。主父偃を殺したり、董仲舒を左遷したのは公孫弘の力によるものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E5%BC%98
 (注12)「孟嘗君・春申君・信陵君などはいずれも貴族で富裕であったため名声があった。人物として優れてはいるが、それは追い風に乗って叫びを上げたようなものだ。ところが民間の裏町に住む侠客について言えば、己の行いをまっすぐにし、名誉を重んじた結果、評判は天下に広がり、立派だと褒めない者は無かった。これこそ困難なことなのだ。秦より以前の時代では、民間独行の遊侠の事績が埋没し、伝わっていないことを私は極めて残念に思う」(司馬遷)(上掲)

 同様の価値観は、始皇帝暗殺を企てた荊軻<(コラム#15005)>を「壮士」と評する刺客列伝にも表れており、『史記』全体を貫くモチーフになっている。
 これは、後漢時代につくられた『漢書』が、「処士を退けて奸雄を進める」(司馬遷伝)ものとして司馬遷の遊侠評に批判的なのとまったく対照的である。
 そこには、戦国の遺風がまだ残る司馬遷の時代(前漢中期)と、儒教一尊に傾斜した班彪(はんぴょう)・班固の時代(後漢前期)の価値観の違いがよく現れている。」」(28)

⇒朱家、劇孟、郭解、のうち、最も、我々の言う侠客に近いのは郭解でしょうが、郭解は刑死しているのですから、前漢中期においても遊侠は批判的に見られていたわけであり、このような丸橋の総括の仕方はおかしいのではないでしょうか。
 また、司馬遷が、「注12」から分かるように、「秦より以前の時代では、民間独行の遊侠の事績が埋没し、伝わっていない」、と指摘しているところ、これは、春秋戦国時代は、有事が続いた時代で、有事には犯罪率が低下するという事実
https://keizaikakumei.hatenablog.com/entry/2019/07/31/183151
を踏まえれば、天下統一がなされた秦・漢時代は支那における久しぶりの平時の到来であり、犯罪率が上昇し、遊侠が輩出されたけれど、それに対し、いくら緩治とはいえ、国は、犯罪の巨頭は摘発/除去せざるをえず、その結果、匿名集団たる、丸橋の言う幇≒私の言う一族郎党、が生まれた、というのが私の取り敢えずの仮説です。(太田)

(続く)