太田述正コラム#15078(2025.7.20)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その9)>(2025.10.15公開)

 「この時期を生きた人たちにとって、地域社会で受けた評価–郷論<(注33)>という–は非常に重要なものであった。・・・

 (注33)「後漢末の220年、魏王国内に設けられた九品官人法(きゅうひんかんじんほう)は、のち魏・西晋の全領域に施行され、以後南北朝末まで基本的な文官官吏の登用法として機能した。時期によって内容に変化がみられるところもあるが、魏中期以後西晋時代までのものは、各州の大中正(だいちゅうせい)がそれぞれの州の郷村社会の評判、つまり郷論(きょうろん)を聞き、その程度を官吏の地位と対応させたもので、その基本となるのは、州大中正が郷論によって与えた郷品(きょうひん)の品等より4階低い数字の官品の官職に起家(きか)(初めて官吏となること)する点である(たとえば、郷品一品の者は第五品官に起家し、郷品九品の者は流外第四品等に起家する)。起家の官職はその官吏としての生涯を決定するものである。
 州大中正が郷論を聞いて郷品を与えるのは、各地の豪族層が教養を身につけ、儒教的名教を奉ずるようになったことを踏まえたものであるが、それは、中央官界に生活の根拠を置く上流官吏層(通常、豪族)の政治的特権を世襲的に保証しようとするものであった。それだけに上流官吏層はやがて世襲性をもつ貴族層となった。こうした貴族は士人であったが、士人と庶民とを区別した士庶制は天子も左右することはできなかった。のち貴族層のなかには東晋・南朝の北来貴族層のように事実上郷村社会とつながりのなくなったものもいたが、たてまえ上は州大中正のとる郷論を踏まえてその地位を保つ形をとっている。魏晋南朝の場合、天子の支配権力は、権力それ自体としての独自性をもつ反面、郷論の動向に同質性を示し、それをとくに文官人事に現すといった二面性をもっている。魏晋南朝の貴族制はこうした特殊な政治構造のなかに現れたものである。のち貴族層が官吏として無力化したため、梁時代に天子が独自に任命権を行使し、旧来の貴族層のほかに新貴族層をつくりだした。二つの貴族層はかならずしも融和しなかったが、ともに梁末の激動期にほとんど滅び、陳時代になると新たに一部の地方豪族層が貴族化しつつあった。これらもまた郷論に支えられて上級官吏となる形をとっている。
 北朝の場合、漢人貴族層のほかに北方民族(鮮卑(せんぴ)族)出身の貴族層がいた。華北の漢人豪族層は北魏の孝文帝の治世後半期にやっと中央との結び付きに成功した。そこでは西晋と同じような郷論重視も現れた。北斉はいちおう貴族制を尊ぶ立場をとったが、北周では貴族主義を否定した。これは、<支那>の旧慣に染まっていない北方民族のエネルギーが爆発したものである。ただし、魏晋南北朝を通じ、貴族層、豪族層は郷村社会の人々に対し恩恵を施すことによって共存を図ることが多く、単なる収奪といった観点では割り切れない局面があった。」
https://kotobank.jp/word/%E9%AD%8F%E6%99%8B%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D-1297977

 劉裕<(コラム#14060)>は、・・・<東晋の>恭帝から禅譲を受け(武帝。在位420~422)、宋(劉宋)<(注34)>を建国する。

 (注34)「武帝は在位僅か2年の422年に崩御した。武帝の死後、長男の少帝が第2代皇帝となるが、この少帝は遊興に耽って節度が乏しかったために南朝宋は乱れ、滑台・虎牢などの領土が北魏に奪われた。このため424年に徐羨之・傅亮・謝晦らによって廃位され、第3代皇帝には弟の文帝が擁立された。文帝は先帝を廃立した徐羨之ら3名を殺害し、名門貴族の王華・王曇首・殷景仁らを重用して政務を行った。この文帝の30年の治世は元嘉の治と呼ばれて国政は安定した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%8B_(%E5%8D%97%E6%9C%9D)

 この少し後には北魏が華北の統一を果たしたことから、これ以降は南北朝時代と称せられるのである。
 劉裕は下級豪族(寒門)の生まれで、武人としての功績を積み、皇帝にまで上りつめた。
 東晋一代は、王敦<(注35)>や謝玄<(注36)>のように貴族が武人としても活躍する場面がしばしば見られたが、宋以降の南朝各王朝では、寒門の武人が軍功を背景に実権を握り、新王朝を樹立するというパターンが繰り返された。

 (注35)266~324年。「司馬睿<(しばえい)>(後の元帝)を擁立し、従弟の王導と共に東晋を建国した。武力に優れ、人望があり、機略に富んでいたとされる。また、書家の王羲之は従甥にあたる。・・・妻は司馬炎の娘の襄城公主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%95%A6
 (注36)343~388年。「東晋の武将。・・・孝武帝のとき,・・・383年の淝水(ひすい)の戦いで、謝安・謝石とともに前秦の苻堅(ふけん)の大軍を壊滅させた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AC%9D%E7%8E%84-75881

⇒東晋「建国」の際の後の元帝も、前秦の苻堅自らが侵攻してきた東晋存亡の危機の際の孝武帝も、直接軍の指揮をとっていませんが、そんなことでは東晋は滅ぶべくして滅びる運命にあったと言っていいでしょう。(太田)

 さらには実力主義で上昇を求める寒門・寒人層と、既得権の維持を図る門閥貴族の緊張関係も、その後の政治史の基調となっていく。」(42、52)

(続く)