太田述正コラム#15082(2025.7.22)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その11)>(2025.10.17公開)
更に付言すれば、「高句麗王は、395年に慕容宝によって「平州牧」となり「封遼東・帯方二国王」に封ぜられ、413年に東晋の安帝より「使持節 都督 営州諸軍事 征東将軍 高句麗王 楽浪公」に封冊され、420年には宋の武帝より「征東大将軍」に、422年には「散騎常侍」を加え「督平州諸軍事」を増され、時の高句麗王の称号は「使持節 散騎常侍 都督 営平二州諸軍事 征東大将軍 高句麗王 楽浪公」ということとなった。この称号の意味するところは、高句麗王の「楽浪」地方の支配権はもとより、<北朝の>北燕勢力下の「営・平二州」の軍事権をも認めたもので、実力が伴うならば、この地方を征服して治下におさめてもよろしいという宋の承認を、高句麗王は得たこととなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B 前掲
という、宋の高句麗まかせでかつ及び腰の北朝対策を正確には知らなかったとしてもうすうす気が付いていたであろう倭は、呆れ、かつ、焦燥感にかられてるに至っていた可能性がある、とも。(太田)
「五王による長江の最終例とされる478年の使節を倭王の武が派遣した翌年、479年には宋から・・・斉への王朝交代が起こった。・・・
<この>479年における倭国使の存在が証明されている。<(注38)>
(注38)「479年と502年の記録はそれぞれ斉帝国(南斉)、梁帝国の建国時(479年・502年)のもので、これらは帝国建設・王朝交替に伴う事務的な任官であり、前王朝の官位を踏襲したものと考えられ、倭国の遣使があったか否かは明らかではない。確認できる最後の遣使は478年であり、史料上確実な倭国の次の遣使は600年・607年の遣隋使まで途絶えることとなる。ただし『愛日吟盧書画続録』収録の「諸番職貢図巻」題記における「倭が斉の建元年中に表を持ってきた」という記述から、斉への遣使を事実とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
「『梁職貢図』は、南朝梁の武帝(蕭衍)の第7子、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた時代に作成されたと伝えられる。・・・
原本は失われており、模本が次の四種ある。
・唐の画家閻立本による模本(「王会図」とも。台湾国立故宮博物院蔵)
・南唐(937年 – 975年)の画家顧徳謙による模本(台湾国立故宮博物院蔵)
・北宋の熙寧年間の『蕭繹職貢図』(中国国家博物館蔵)
・清代の画家張庚(1685年 – 1760年)による『諸番職貢圖巻』(『愛日吟廬書畫續録』所収)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3
この479年を最後に、倭国からの朝貢はまた途絶える。
倭王権が不安定になったことや、北魏が山東を占領して南朝への朝貢船を阻害したことなど、その原因は内外さまざまな側面から推測されている。
⇒「『日本書紀』における21代オホハツセノワカタケル=大迫瀬幼武天皇(雄略天皇)の在位期間は「興」および「武」の遣使時期と重なり、このワカタケルと思しき名が記された稲荷山古墳出土鉄剣の銘文では、中国皇帝の臣下としての「王」から倭の「大王」への飛躍が認められる。また、江田船山古墳出土鉄刀の銘文には「治天下大王」の称号が現れている。このことから、倭王が中華帝国の冊封体制から離脱し、自ら天下を治める独自の国家を志向しようとした意思を読み取る見方もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B 前掲
ところ、私はこの説乗りですが、それは、日本との提携に及び腰の南朝に見切りをつけた結果である、ということを私としては付け加えたいわけです。(太田)
ただ南朝の梁は、その建国直後において倭国への冊封を朝貢なしで行っており、・・・倭国はなお冊封体制の一角として認識されていたようである。」(60~61)
⇒「注38」を踏まえれば、「479年における倭国使の存在<は>証明されて<は>い」ないようですが、遣隋使より前の倭支政府間交流史の最大の注目点は、交流回数ではなく、倭が北朝系諸国と一切交流しようとしなかったことだというのが私の見解である(コラム#省略)ところ、丸橋が、かかる問題意識を全く持っていないことは、まことにもって残念です。(太田)
(続く)