太田述正コラム#15084(2025.7.23)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その12)>(2025.10.18公開)

 「・・・上は国家権力から与えられる官職に依存し、下は小農民を多く含む地域社会の輿論(郷論<(注39)>)に支えられる–中国特有のそうした「領主未満の中間層」に対し、中国史研究は「貴族」<(注40)>という名称を与えてきたのである。」(63)

 (注39)「清議 (せいぎ)<は、>地域社会ないし特定のグループ内において人物批評を中心として形成される輿論。・・・六朝時代の官吏任用法,すなわち〈九品官人法〉が清議に基礎をおいていたように,とくにこの時代の社会のさまざまの方面に機能した。《三国志》の著者陳寿をよい例として,清議によって糾弾された人物は政治的・社会的生命をたたれ,その名誉回復には詔勅の発布をまたねばならぬことがしばしばであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B8%85%E8%AD%B0-85647
 (注40)「<支那>史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年 – 907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。<支那>史学では、貴族が社会の大きな部分を占める体制を貴族制と呼ぶ。
 貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。
 貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い<支那>の歴史学界では士族の語が使われる。ただし、日本の学界における貴族制の理解と、封建地主制を前提とした<支那>の学界における士族制または門閥制の理解には相違があり、現状では完全に同義の用語というわけではない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
 「日本の歴史学界では、古墳時代・飛鳥時代頃までの地方の首長層、中央から派遣された在地勢力を特に豪族と呼ぶ。ただしこれは厳密に定義されたものではなく、慣用的なものである。・・・
 豪族とは、国家や諸侯などの広域政権の領域の内部に存在し、ある地方において多くの土地や財産や私兵を持ち一定の地域的支配権を持つ一族のこと。地域的支配権の源泉は自分自身の所有する財産や武力であり、広域政権の権威を権力の源泉とする地方官は豪族とは呼ばれない。ただし地方官と豪族は排他的なカテゴリーではなく、同一人物が双方を兼ねたり、カテゴリー間を移行したりする例は多くある。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E6%97%8F
 「貴族の母体となったのは、古来より大王に使えた伴造や地方の国造、県主といった豪族階層であった。・・・
 日本の律令制の特徴は貴族の合議機関である太政官が政治決定の枢要とされた点にある。唐律令では天子直属の中書省と貴族代表の門下省とが政治決定の場において拮抗していたが、日本律令では天皇直属の中務省は太政官の下に置かれていた。・・・
 10世紀から11世紀にかけて<の>摂関政治<においても>・・・、通俗的な理解とは異なり、摂関家は専横的に権力を振るったわけではない。摂関といえど独裁的な国政決定を行なうことはできず、重要な国政決定はすべて陣定などの公卿会議を通じて行なわれていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%B4%E6%97%8F
 「中書省<の>官庁名としての起源は、三国時代の魏にまで遡る。・・・
 晋から南北朝時代にかけて門下省が新設される。これは当時勢力を伸ばしていた門閥貴族の牙城となって、中書が起草した詔命を審議の上却下する権限を得た。これによって、一時中書の地位は後退した。唐代では、中書は、門下や尚書と共に三省を形成する。中書の職掌は詔勅の起草であり、また、臣下からの上奏に対する答の草案作成も行なった。また、中書省内には、中書令、中書侍郎以下の官が設置された。唐では皇帝の貴族に対する権限が強化され、貴族の意向を代弁する門下省に比べて皇帝の秘書的存在である中書省の権限が再び増大した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9B%B8%E7%9C%81
 「当時において知識人とはすなわち貴族であり政治家であった。その知識人がもっぱら世俗を離れた清談に終始していた<が、これは、>・・・後漢から魏、魏から晋へと興亡相次いだ乱世にあって、儒教に忠実であること、世俗に関与することが政治的な身の危険に繋がったという事情も存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E8%AB%87

(続く)