太田述正コラム#15092(2025.7.27)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その16)>(2025.10.22公開)

 「基層社会も流動化しはじめた。
 9世紀初めの地理書『元和郡県図志<(注48)>(げんなぐんけんずし)』に記載された戸口数が、玄宗時代の3分の1ほどに減っているのは、それを如実に物語る。

 (注48)「宰相の李吉甫(りきっぽ、李徳裕<(前出)>の父)が撰述し、元和8年(813年)に憲宗に進上した。・・・戸数については8世紀はじめの開元戸と9世紀はじめの元和戸の両方を記しているため、時代による人口の変遷を知ることができる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%BF%97

 つまり人口流出が深刻化したのだ。
 流出した人びとの受け皿になったのは、軍隊(禁軍や藩鎮」、流通業、さまざまな秘密結社などであったが、ひとたび無頼化したアウトローたちは、国家機構であれ、民間団体であれ、しばしば受け入れ先の攪乱要因となっていく。
 とりわけ各地の藩鎮は、配下の親衛軍(牙軍<(注49)>(がぐん))や地方基地(外鎮(がいちん))に多くのアウトローを雇った。

 (注49)「唐,五代における藩鎮幕下の軍隊をいう。牙は衙に通じ,衙軍とも記す。軍旗の竿上に象牙を飾ったところから,軍旗を牙旗,軍隊を牙軍といった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%89%99%E8%BB%8D-43894

 また藩鎮が独自に組織した文官機構には、科挙の定着とともに増加した各地の知識人層をスカウトした(これを「辟召<(注50)>(へきしょう)」という。

 (注50)「大将軍や三公九卿、太守や県令などの地方長官が行うことが出来る人材登用制度のこと。」
https://three-kingdoms.net/12923

 節度使のなかには、部下のなかでも特に信頼する者やその子弟を養子(仮子<(注51)>(かし))にして、側近集団を形成する慣習(仮父子(かふし)結合)が広まった。

 (注51)「<支那>の礼制においては伝統的に「他姓不養」の原則があったが、乱世になるとこの原則が必ずしも遵守されなくなる。例えば、蜀漢の劉備が寇封を、後趙の石勒が田堪らを、同じく石虎が冉良を養子に迎えている。これらを本項目の仮子・羲児のルーツとはみなせないものの、先駆的な性格は有していた可能性はある。
 隋末から唐初の混乱期に見られ、その後一旦はみられなくなるものの、安史の乱の前後から再び盛んに行われるようになった。
 仮子・義児の形式としては大きく分けて2つの形式がある。一つは有力者を仮父として配下の部隊のメンバー全員をそっくり仮子として部隊(仮子隊・義児軍)を丸ごと一種の親衛隊として整備する方法である。もう一つは有力者を仮父として個人を仮子とすることで重く取り立てるもので、非血縁者である配下との既存の主従関係の強化(血縁者とは正式な養子縁組もしくは猶子縁組をする場合が多い)もしくは敵の降将を取り込んで主従関係を形成するために行われるようになった。仮子になった者は唐初の段階では必ずしも姓名を改められるものではなかったが、安史の乱以降には姓は仮父のものに改めて場合によっては名も仮父の実子(またはそれと同世代の血縁者)の輩行に則したものに改称する場合もあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%AD%90

 たとえば、唐末の群雄でのちに前蜀(ぜんしょく)を立てる王建(おうけん)は120人の仮子を養っていたという。」(92~93)

⇒戸口数の増減に関わらず、秦による天下統一以来、緩治が続いてきたのであって、世の中が乱れれば、自ずから緩治の程度がひどくなって戸口数が減少するというだけのことである、というのが私の認識です。
 仮子の横行は、甚だしい緩治下にあって、社会における最低限の秩序維持のための人々の方策であった、とも。(太田)

(続く)