太田述正コラム#15102(2025.8.1)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その21)>(2025.10.27公開)

 「・・・北宋時代(960~1127)は、日本でいえば藤原摂関家の全盛期から院政前期までとほぼ重なる。
 「遣唐使廃止」以降、朝貢使節の派遣は途絶えていたものの、民間の海上交易はますます活発化しており、また仏僧の渡航も盛んだった。
 仏僧たちはしばしば公的使節に準ずる待遇で宋朝に迎えられた。
 延暦寺では源信<(注61)>(941~1017)が中心となって学僧の派遣や著述のやりとりを継続し、日本における浄土教成立が促されていく。

 (注61)「貞元三年(978)三七歳、・・・『因明論疏四相違略註釈』を著して陽仁紹に托し、宋慈恩寺弘道の門下に贈る。・・・寛和二年(九八六)宋の周文徳に托し『往生要集』や良源の『観音讃』等を送ったが、周は国清寺に納め道俗は鑽仰したという。・・・長保・・・五年<(1003)>寂照入宋のとき『天台宗疑問二十七条』を托し知礼に送る。」
https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%BA%90%E4%BF%A1
 「『往生要集』は、・・・宋にも広まり、時の皇帝もこれを読んで深く源信僧都を敬っていました。
 源信僧都のお弟子が宋に渡り、都で皇帝に謁見すると、
 「往生要集に深く感動した。このような方が日本の地におられようとは。ぜひ源信僧都を宋にお招きしたい」といわれます。
 「それはかないません」とお弟子がお断りすると、「ならばお姿を写した絵だけでも見せてはもらえぬか」と言います。
 弟子の帰国後にそれを聞いた源信僧都は、自ら筆をとって鏡に映して自画像を描き、皇帝に送りました。
 受け取った皇帝は、大いに喜んですぐに寺院を建立し、源信僧都の自画像と『往生要集』を安置して、「源信如来」と礼拝したといわれます。如来というのは仏のことですから、<宋>の皇帝が仏のごとく敬ったということです。」
https://true-buddhism.com/history/genshin/

 また京都の名刹清涼寺<(注62)>、通称「嵯峨釈迦堂」の本尊、国宝釈迦像を持ち帰った人物として知られる奝然<(注63)>(ちょうねん)(938~1016)は、983年に自ら渡宋し、北宋二代皇帝の太宗(在位976~997)に直接謁見する機会に恵まれている。」(97)

 (注62)「宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台宗、真言宗を兼ねた。室町時代より融通念仏宗の道場として発展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%87%89%E5%AF%BA
 (注63)「東大寺の三論宗の僧。・・・清凉寺木造釈迦如来立像の胎内より発見された「義蔵奝然結縁手印状」によれば俗姓は秦氏。しかしながら、宋では五位藤原真連の子を称している。・・・永観元年(983年)、宋に渡った。天台山を巡礼した後、汴京を経て五台山を巡礼している。太宗から大師号や新印大蔵経などを賜って日本への帰途についた。途中でインドの優填王(うでんおう)が造立したと言う釈迦如来立像を模刻し、胎内にその由来記などを納めて、寛和2年(986年)に帰国した。・・・永祚元年(989年)から3年間東大寺別当をつとめた。・・・
 奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%9D%E7%84%B6

⇒繰り返しになりますが、重要なことは、天皇家/藤原摂関家が、交易や仏僧の交流を通じて、宋や遼の実情や動向を把握していたに違いない、ということであり、だからこそ、武家の創出/封建社会化、の推進を加速化させたであろうことです。(太田)

(続く)