太田述正コラム#15104(2025.8.2)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その22)>(2025.10.28公開)

 「・・・<宋の>太宗は、兄<の太祖(注64)>と異なり沈着な実務家タイプ。

 (注64)「石刻遺訓は、<太祖>趙匡胤が石(鉄という説もあり)に刻んで子孫に伝えた遺言である。先祖代々を祀る御霊屋である太廟に置かれ、普段は密封されていた。宋朝の皇帝が即位する際、必ずこれを拝み見ること、更には季節の祭りのときに必ず拝礼することが慣わしとなっていた。ただし、その存在は秘中の秘とされ、ごく一部の宮中の人間にのみ伝えられた以外は、趙普・王安石・司馬光のような歴代の宰相ですら知らなかったという。金軍の侵入で王宮が占領された際に発見され、初めてその存在が明るみに出たと、南宋の陸游の著と伝えられる『避暑漫抄』は伝えている。。
 そこに刻まれていた遺訓の内容は以下の2条である(『宋稗類鈔』巻一「君範」、陶宗儀『説郛』によれば、正確には3つあり、第3条は上の2条を子孫代々守れという内容であった)。
・趙匡胤に皇位を譲った柴氏一族を子々孫々にわたって面倒を見ること。
・言論を理由に士大夫(官僚/知識人)を殺してはならない。
 この2つの遺訓が歴代の宋王朝の皇帝たちによって守られたことは、南宋が滅亡した崖山の戦いで柴氏の子孫が戦死していること、政争で失脚した官僚が処刑されず、政局の変化によって左遷先から中央へ復帰していること(例:新法旧法の争いでの司馬光や対金講和派の秦檜など)が証明している。趙匡胤の優れた人間性が後の宋王朝の政治に反映されたことを、この石刻遺訓は物語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4

 不透明な即位過程の影響を微塵も見せることなく、早々に呉越を帰順させ、北漢の制圧にも成功する。
 ところが余勢を駆って試みた燕雲十六州<(注65)>の奪還作戦は不調に終わり、全土の統一は成らなかった。

 (注65)「10世紀の五代十国時代、モンゴル系契丹(キタイ、キタン)人王朝の遼(915年 – 1125年)が沙陀族王朝の後晋(936年 – 946年)より割譲されて新たに支配した16の州のこと。・・・
 遼の燕雲十六州獲得以前も、遊牧民系統の支配者層が中華世界を統治する王朝を打ち立てたことは数多くあった。たとえば、南北朝時代に鮮卑の拓跋氏の建てた北魏とこれに前後して華北を支配した諸政権は異民族王朝が続いた。また、隋も唐も、王朝の始祖は西魏に仕えた軍人であり、鮮卑人もしくは鮮卑化した漢人であった。五代にあっては、後唐・後晋・後漢は沙陀族の王朝で、後梁・後周は漢民族の王朝であったが、これらの天子はいずれもほとんどが節度使の出身であった。また、後漢の残党が建てた北漢も沙陀による建国で、後周の建国者である郭威も後漢の武将であるところから、必ずしも純粋な漢族王朝とはいえない。さらには趙匡胤も後周の重臣であったから、後梁をのぞく五代・宋の諸王朝はいずれも沙陀ないし沙陀系の王朝といっても言い過ぎではない。
 しかし、北アジア遊牧社会に基盤を置く王朝が、北方の版図と遊牧経済、遊牧国家固有の統治制度を維持しつつ、一方で都市をともない、定住農耕経済の中華世界を支配したのは遼の燕雲十六州獲得に始まり、このような王朝を「征服王朝」と称することがある。対して、それ以前の遊牧民系統の支配者層を戴く王朝を「浸透王朝」、ないし「胡族国家」などと称する。
 五代の沙陀チュルク人の軍閥系諸王朝や後続する宋朝は自政権を「中華王朝」とみなし、北方遊牧国家を蛮族(北狄)とみなしてきたが、そうした相手に領土を割譲することは屈辱的なことであり、この地の奪回こそが後晋以後の「中華王朝」の懸案事項であり、悲願となった。この地はまた、長城に南接する軍事上の要地であり、十六州の喪失により、以降200年近く華北の北方防御はきわめて困難となり、国土防衛上重大な欠陥となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E9%9B%B2%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%B7%9E

 これ以後、北宋は「契丹に燕雲十六州を奪われたままの不完全な統一王朝」としての屈折を抱え続けていくこととなる。」(100)

⇒浸透王朝/胡族国家は漢人文明で「征服王朝」は非漢人文明で異なるとはいえ、秦による天下統一時点ではまだ漢人文明は成立しておらず、他方、現在は、私見では、中共政権は漢人文明を日本文明に切り替えつつある、ということを勘案すれば、漢人文明と非漢人文明の並立時代だって、支那における広義の南北時代と呼んでよいのではないでしょうか。
 その上でですが、人口も経済力も北をはるかに上回る南が支那統一を諦めた、というか、諦めざるをえなかったのは、宋の国制に致命的な欠陥があったからだということにならざるをえないでしょうね。
 宋は、太祖はもちろんのこと、太宗もまた、弥生性が不足していたため、ついに、強力な軍事力を擁する国制を整備できなかったわけです。(太田)

(続く)