太田述正コラム#15110(2025.8.5)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その25)>(2025.10.31公開)

 「・・・青苗法<(注71)>・均輸法<(注72)(コラム#13798)>・市易法<(注73)>はいずれも、地主や富商が利益を独占する民間経済に政府が介入し、彼らが高利貸しや投機を通じて得ていた利益を、国家収入に転化したうえで、中小の農民・小人に再配分するものである。

 (注71)「植付前に農民に銭・穀を貸し付け、収穫時に低利で償還させた。大地主の高利貸による農民の没落を防止し、政府の歳入増加を計る策。」
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 (注72)「1069年(熙寧2年)7月施行。当時、大商人に握られていた物資の運輸を発運使という役を使うことで政府の統制の下に置き、中央への上供品の回送を行って財政収入確保の効率化を図るとともに物価の調整を行う。旧法派の反対により頓挫し、下の市易法に吸収されることになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84
 (注73)「大商人に買いたたかれる商品を政府が適正価格で買い上げ,規定の担保もしくは保証人のある中小商人に低利でそれを売りさばかせた。主要都市に市易司が設けられ,効果をあげたが,豪商の反対でつぶされた。・・・
 1070年、西北辺の茶・馬貿易の要所に市易司を置き、貿易を統制して豪商を締め出し、その利益を辺境経営にあてた。ついで72年、開封(かいほう)とその後背の大運河流域などに市易司を設け、政府が介入して滞貨を買収し、市易司の傘下に再編されたギルド商人を通じて流通させ、官用品の調達にも市易司が介入し、大商人の暴利を抑えた。」
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 募役法<(74)>と河倉法<(注75)>は、役法改革の一種である。

 (注74)「1069年(煕寧2)に施行された募役法は,四等以上の農村主戸から相応の免役銭を徴収し,従来,免役の特典のあった官戸などからは半額の助役銭を徴収,それで必要な役人(えきじん)を雇った。旧法党はこれを廃止したが,以後の大勢は募役の方向に進んだ。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%9F%E5%BD%B9%E6%B3%95-132558
 (注75)倉法とも。「1070年(熙寧3年)8月施行。河倉法とも。官の下で実務を取り仕切っていた胥吏<(しょり)>の腐敗を防止するための法律。従来無給だった彼らに俸給を支給する代わり、賄賂を取れば厳罰に処す。募役法と共に実施する事で効果を発揮した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%B3%95%E3%83%BB%E6%97%A7%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BA%89%E3%81%84 前掲
 「唐・宋以後官僚機構を実際に支えた事務処理者の総称。〈胥〉とは《周礼(しゆらい)》では庶人が官司に出て使役される者をいう。また<支那>では時代がさかのぼるほど官と吏の溝は小さかったが,秦・漢以降,〈刀筆の吏〉といった言葉があるように,しだいに吏は庶民が,官は選良がつくという傾向が生じた。魏・晋以後九品官人法が行われると,九品以内に入る者は官,それ以外は吏という観念ができあがり,庶民が到達しうる地位は令史どまりとなり,それが胥吏の代名詞として定着した。隋・唐時代,政治,経済が複雑多様化するいっぽう,科挙の実施で文化的教養のみ高く実務にうとい士人が官員に選抜される構造が固まると,実際政治の事務手続はすべて胥吏にまかされるようになり,宋に至ってその体制が確立した。官員はなるべく本籍地を回避しつつ,3年の任期でポストを転々とするのに対して,胥吏は一地方,一官署で一生をすごし,戸籍徴税,裁判など,人民と官のあいだに立ってあらゆる事務をとりしきった。〈官に封建なし,吏に封建あり〉とは,南宋末の葉適の言葉であり,科挙官僚は,部下の胥吏たちとどのように協調してゆくかが出世の要諦とされた。
 胥吏は本来は庶民が無償で知的労働奉仕をする徭役の一種といえるが,行政の複雑化にともなって専門化してゆき,残った部分は戸等などによって主として自営農民に賦課される差役となる。宋代では,両者を吏人と役人(えきじん)(公人)と名づけて区別している。この役人もしだいに銭納化され,専門の人間を雇用する方向にあった。胥吏は官署や地方によってその名称は雑多であるが,一種のギルドができあがり,親方の地位は株となり,またその出身地も一定する傾向が強かった。南宋の台州天台県(浙江省)を例にとれば,一県の官は知事,主簿,県尉ら数名にすぎないが,胥吏は,人吏,貼司(じようし),郷書手,手力,斗子,庫子,搯子(とうし),秤子(しようし),攔頭(らんとう),所由(しよゆ),雑職など総計120人をこえる。また中央の官庁でも中書省の堂後官をはじめ各官庁それぞれに何十,何百人の各種各様の胥吏がいた。胥吏はおかみから俸給を支給されるのではなく,その任用にも官はタッチできない。彼らの収入はすべて手数料という名目のわいろとピンはねでまかなわれた。
 ・・・胥吏といえば官と人民両方に寄生し,悪事を働くものの代名詞であった。・・・
 宋代,王安石は新法の一環として胥吏に給料を与え,わいろをとれば厳罰に処す倉法を行ったが成功しなかった。モンゴル族王朝の元は,胥吏の実務機能を重視し,科挙の代りに吏員歳貢法をつくって胥吏の官員任用をはかったが,明・清時代にはもとにもどる。科挙を通過して皇帝の手足となった士大夫官僚をかげで支えたものが胥吏であり,宋以後の中国の政治は胥吏政治ともいえる。文化,伝統,生産力,さらに言葉などの隔差の大きい広い中国では現実の政治において地方の特性を無視できない。そうした問題と皇帝支配下の科挙官僚という均一要素が結ばれるところに胥吏が存在する一つの理由が求められよう。」
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 役法は、近代的な公民義務の体系からはイメージしにくいが、あえて近いものを探せば、現代日本の各地に置かれている自治会の役員が終身化したような状況を想定すればよい。
 要するに地域に関わる末端の行政事務を、住民自身に無償・輪番で担わせる仕組みである。
 こうした負担は宋代には「職役(しょくえき)」と呼ばれ、相対的に富裕な層の民に課されていた。」(109~110)

⇒役人の大部分が無給で手数料/賄賂制であったことだけからでも、漢人文明が緩治/苛政の文明であったことが読み取れるというものです。(太田)

(続く)