太田述正コラム#15112(2025.8.6)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その26)>(2025.11.1公開)
「・・・科挙制度では、進士科という募集枠において詩を課すことをやめ、経義(けいぎ(経書解釈とそれを踏まえた献策)に軸足を置いた出題に転換した。<(注76)>・・・
(注76)「宋の科挙制度も開始時は進士・明経その他の科が設けられていたが、王安石の改革で明経などの諸科が廃止されて、進士科一科となった。元で科挙が開始された時も進士科のみで、明・清もそれを受け継いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%A3%AB
「進士科の試験では従来課せられていた詩文の作成試験はなくなり、経義(経書の解釈)・論策(時事問題の小論文)が課せられることとなった。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-038_3.html
⇒作詩も能力を見極めるものでしたが、献策/論策、は、まさに官僚としての能力を見極めるものであり、科挙が暗記力を見極めるだけのものではなかったことは、銘記すべきでしょう。
最大の問題は、累次指摘してきているように、これは文官登用試験であったことであり、軍人登用のための科挙も一応あるにはあったけれど、武術力をある程度見極めるだけで、軍人としての戦略/戦術に係る潜在能力を見極めるものどころか戦略/戦術に係る知識を見極めるものですらなかったことです。(太田)
また・・・河倉法は、胥吏利権の透明化という面以外に、科挙官僚と同じ俸給を胥吏に与えることで、実務能力に富む胥吏を官僚と同じように処遇し、両者の区別を解消していくねらい(吏士合一策)も含まれていた。・・・
徽宗<(注77)>・・・(在位1100~1125)・・・といえば、『水滸伝』における幾多の迷走で、日本人にもおなじみ。
(注77)1082~1135年。「書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と言われる。一方で政治的には無能で、彼の治世には人民は悪政に苦しみ、『水滸伝』のモデルになった宋江の乱など、地方反乱が頻発した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%97
取り巻きには宰相の蔡京<(注77)>(さいけい)(1047~1126)、宦官の童貫<(注78)>(どうかん)、高太尉こと高俅<(注79)>など、すこぶる付きの「奸臣」がひしめき、最後には外敵に国土の大半を奪われる始末。
(注77)1047~1126年。「熙寧3年(1070年)に進士及第。・・・行政官僚として有能であったが、権力欲の強い人物で、主義主張に節操がなかったといわれている。・・・
徽宗朝において蔡京は、延べ16年間太師(宰相)の地位に就くほどに権力を一身に集めた。・・・
書道の達人であり、宋代の蘇軾・黄庭堅・米芾と合わせて四絶と称された。しかし蔡京は人柄に問題があるとして、宋の四大家には彼の同族の蔡襄が代わりに数えられている。他にも絵画や文章・詩なども巧みな才人であった。これらの素養が風流天子などと称される徽宗と馬の合った理由ではないかといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%A1%E4%BA%AC
(注78)?~1126年。「童貫は宦官ではあったが軍人の道を選び、・・・20年にわたって兵権を掌握した。・・・書画骨董の目利きであったことから徽宗に気に入られ<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A5%E8%B2%AB
(注79)こうきゅう(?~1126年)。「生来放蕩無頼の気質があり、様々な有力者の間を食客として転々としていた。英宗の女婿の王詵の食客になっていた際、当時端王だった趙佶(後の徽宗)に使いし、蹴鞠の才を披露して気に入られ側に仕えるようになった。趙佶の即位後、資格なくとも勤まる武官として宮中に昇り、以降とんとん拍子に出世して殿帥府太尉まで上り詰めた。・・・
禁軍の最高指揮官である童貫と結託して軍政を握り、軍費を着服し、兵士を私用の使いや自宅の改修工事などに使い、さらに他の高官や有力者の私用のためにも兵を出向させたため、禁軍の弱体化を招いたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E4%BF%85
暗君の代名詞のような人物である。」(111~113)
⇒蔡京、童貫、高俅、の事績だけからも、いかに軍人の登用がいい加減になされていたかが分かろうというものです。(太田)
(続く)