太田述正コラム#15114(2025.8.7)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その27)>(2025.11.2公開)

 「他方、書画の才において、徽宗は群を抜くカリスマだった。・・・
 <その>徽宗が開封で庭園を造営するに当たり、そこで用いる珍奇な草木・銘石、さらには鳥獣などを江南から輸送するため<の>・・・徴発・・・が民の武装蜂起につながったのが、1120年、「喫菜事魔(きつさいじま)」と呼ばれるマニ教系宗教集団が江南で起こした方臘(ほうろう)の乱<(注80)>である。・・・」(114~115)

 (注80)「花石綱事件を直接の原因とし、徽宗が行った種々の苛政を背景にして、漆園の経営者で「喫菜事魔(マニ教)の徒」である方臘の主導によって発生した。反徒は役所や寺・道観・学校を襲撃して官吏を殺害し、一時期は江南の6州52県(あるいは13州53県とも)が反乱軍の手に落ちた。方臘は自らを聖公と名乗り、永楽という年号を定めた。
 折りしも北宋では、海上の盟に則り、遼攻撃に備えて禁軍遠征部隊を編成していた。そこから15万を割き、童貫を総司令官として南征軍を編成し、方臘討伐を開始した。童貫が長江を渡渉すると、方臘は銭塘江流域の睦州清渓県に移動して童貫軍の攻撃に備えた。童貫軍は信徒数十万人を殺し尽すという過酷な戦の末に、翌宣和3年(1121年)4月には方臘や方肥らを捕え、開封にてこれを処刑した。
 北宋は、この戦線に禁軍を割いたことにより、金との遼共同攻撃に出遅れた。また、禁軍がこの戦線で疲弊したことも、耶律大石戦での敗因の一因となった。
 方臘の反乱と、童貫軍の激しい略奪もあいまって、江南の疲弊は大きなものとなった。これは宋の南遷と、その後の対金戦線での苦戦の遠因となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E8%87%98%E3%81%AE%E4%B9%B1
 「花石綱(かせきこう)は、・・・徽宗が庭園を造るために調達させた珍花・名木・奇石などのこと。あるいは、それを運ぶ船団のこと。・・・
 調達は、主に<支那>南部の江南地方で行われた。目に留まった物は強制的に買い上げ、あるいは強奪し、運河や陸路を利用して首都・開封へ運ばせた。その方法は以下のようものであった。
1.陸路で輸送する際は、邪魔になる民家を取り壊す。
2.運河で輸送する際は、邪魔になる橋を取り壊す。また運河が占有され通常の利用に支障をきたした。
3.運搬に際しては、原型を留めるため、丁寧な梱包(細部が欠けないよう、膠や粘土などの柔らかい物体で凹部などを保護する)が行われた。梱包された物が大きくなり、また梱包に時間がかかることも、庶民の負担となっている(上記1、2に関係する)。
 このような強引な調達方法や、運搬にも多額の費用・労働力がかかったことから民衆の恨みを買った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E7%9F%B3%E7%B6%B1
 「マニ教は・・・ウイグルでも多くの信者を獲得した。唐においては694年に伝来して「摩尼教」・「末尼教」と音写され、教義からは「明教」・「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」と言われた東方のマニ教(明教)は、景教(キリスト教ネストリウス派)・祆教(ゾロアスター教)と共に、三夷教・三夷寺と呼ばれ、代表的な西方起源の諸宗教の一つと見なされた。武則天(則天武后)は官寺として首都長安に大雲寺を建立した。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったとも言われている。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭に長江流域の大都市や洛陽・太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた。
 しかし、843年、唐の武宗によって禁教されるに至った。845年に始まった「会昌の廃仏」では、仏教と三夷教が禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられ、マニ教僧も多くの殉教者を出した・・・。
 回鶻(ウイグル)においては、8世紀後半の3代牟羽可汗時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しにより弾圧されたが、8世紀末から9世紀初頭の7代懐信可汗によって再び国教化された。しかしその後、イラン・アフガニスタンに続いて、ウイグルでもイスラム化が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラム化はさらに進行した。
 三武一宗の法難(会昌の廃仏)後の五代十国時代から宋において、マニ教は仏教・道教の一派として流布し続けた。・・・マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強め、取り締まりに手を焼く権力者から「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりはしばしば江南地方や四川でなされ、その中でマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれた。
 宗教に寛容な元朝のもとでは、明教(マニ教)が復興し、福建省泉州と浙江省温州を中心に教勢を拡げた。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者朱元璋が建てた明の国号は「明教」に由来したとも言われる。しかし明が安定期に入ると、マニ教は危険視されて弾圧された。15世紀には教勢衰退が著しかったが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社の一つと言われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99
 「耶律大石(やりつたいせき<。1087~1143年>)は、西遼(カラ・キタイ)の初代皇帝(グル・ハン)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%B6%E5%BE%8B%E5%A4%A7%E7%9F%B3

⇒北宋末の方臘の乱、元末の紅巾の乱、清末の義和団の乱、と並べると、マニ教が、それぞれ、北宋、元、清、を滅ぼした、とも言えそうですね。(太田)

(続く)