太田述正コラム#15130(2025.8.15)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その35)>(2025.11.9公開)
「・・・宋以降の科挙官僚は「官僚・地主(資本家)・読書人の三位一体構造」<(注99)>であると言われる。
(注99)「士大夫(したいふ)は、・・・北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。・・・
戦国時代には「士大夫」は軍人を指す語として用いられたが、戦国末期の荀子は「士大夫」を儒家道徳を備えた官僚を指す語に転用した。漢代までには「士大夫」が官僚を指す語として定着し、軍人を指すという原義は忘れられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E5%A4%A7%E5%A4%AB
⇒支那において、エリートの呼称たる「士大夫」から軍人の意味が失われたことが、漢人文明の堕落を象徴しています。(太田)
日本や欧州が職業身分ごとに権能を分け合う(政治は武士、経済は豪農・豪商、文化は公家・僧侶のように)社会であるのと大きく異なり、中華帝国では官僚になれば政治力・経済力・文化力すべての社会的威信を総取りすることができた。
しばしば用いられる「昇官発財<(注100)>(しょうかんはつざい)」という言葉には、中国において政治的成功と経済的成功が密接にリンクしていたことがよく表れている。」(145)
(注100)「支那では学問をすることは官吏になることである。科挙のテストに合格し、官吏になれば金持ちになれる。
科挙に合格した官僚は、地方に3年間飛ばされる。3年間と期限つきなのは、地方に行って中央と対立する権力をもたせないためである。しかし、この間に賄賂などの取り放題で、金持ちになる。
官吏の「官」は高級官僚のことであり、「吏」は下っ端の役人のことである。「吏」は実務をおこない、「官」は遊んでいても金が入る。支那は賄賂社会であるので、「吏」でも賄賂で潤うようになる。「官」は「吏」以上の賄賂を貰えるのは当然。」(長野朗『満蒙新政権』より)
https://ameblo.jp/naitotakaousa/entry-12489526134.html
長野朗(ながのあきら。1888~1975年)は、「陸軍士官学校卒。・・・支那駐屯軍に属し資源調査に従事。陸軍歩兵大尉となるが、大正10年待命。東方通信社員、日本経済連盟嘱託などを経て、昭和14年興亜院嘱託となる。この間大川周明らの猶存社、行地社に加盟。4年寺田稲次郎らと日本国民党を、6年風見章、橘孝三郎らと日本村治派同盟を結成。分裂後農本主義の立場から農本連盟、自治農民協議会などを組織した。7年農村恐慌の激化する中で農村救済請願署名運動を展開。10年自治講究会を結成したが振るわなかった。拓殖大教授をつとめるが、戦後22年公職追放となる。のち、中国調査所を設置し、機関誌「思想戦」を発刊。28年全国郷村会議を組織し、委員長に就任。」
https://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E9%87%8E%E6%9C%97-1096950
⇒丸橋の指摘は、「三部会<は、>・・・1302年、フランス王フィリップ4世が、ローマ教皇ボニファティウス8世と争った<(注101)>際に・・・、王側が国民の支持を得るために、パリのノートルダム大聖堂に各身分の代表を招集したのが最初とされる。三つの身分はそれぞれ、第一身分である聖職者、第二身分である貴族、そして第三身分である平民で構成される。身分毎に各1票の議決権を有していた。王国のさまざまな問題について議論が行われたが、主たる議題は課税に関するものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%A8%E4%BC%9A
ということから、欧州と言っても、典型的には、もっぱらフランスについてだけ当てはまることのようですね。(太田)
(注101)「アナーニ事件(・・・Outrage of Anagni)は、1303年にフランス国王フィリップ4世がローマ教皇ボニファティウス8世をイタリアの山間都市アナーニで捕らえた事件。フィリップ4世はローマ教会にも圧力をかけ、クレメンス5世をアヴィニョンへ移住させ、アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)を引き起こして教皇権に対する王権の優位を確立した。事件は教皇権力の衰退と王権の伸張を印象づけ、近世絶対王政にいたる重大な一里塚となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(続く)