太田述正コラム#15140(2025.8.20)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その40)>(2025.11.14公開)
「・・・『名公書判清明集』<(注107)>・・・の地域社会像から、改めて気をつけておきたい点を二つほど確認しておこう。
(注107)「南宋後期の福建の建寧府の人士である・・・朱熹、真徳秀、呉潜、徐清叟、王伯大、蔡抗、趙汝騰など、二十八の地方官の訴訟処理の判例集である。・・・封建思想も窺い知ることができる。例えば、知識人が妓女を妻として娶る場合は、罪人と認定される、という事例や、婦女の再婚は不実とされる、などの事例がある。また、・・・愚孝思想(親不孝)を語っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%85%AC%E6%9B%B8%E5%88%A4%E6%B8%85%E6%98%8E%E9%9B%86
⇒漢人文明社会は、家父長制社会ではないくせに、ひどい女性差別社会ですね。(太田)
一つ目は、民間社会で起こるさまざまな揉め事が、県や州という国家権力に持ち込まれ、調停が図られているということ。
二つ目は、豪民たちが多角経営によって生業を維持していたことである。
一見無関係な両者には、共通するバックグラウンドがひとつある。
それは、家(血縁集団)や邑(地縁集団)、ギルド(職能集団)など、さまざまなレベルで結成される社会集団(中間団体)が、中国の場合、「法共同体」としての自律性を持たないのではないか、という<こと>・・・である。・・・
<例えば、>家庭内の些末ないざこざが役所にまで持ち込まれ、国家権力の審判を仰いでいるケースが数多くある。
それは家父長の「鶴の一声」で家内が粛然と収まる伝統的な日本のイエを見慣れた目には、にわかに馴染みがたい光景である。
中国伝統社会には家父長制が存在せず、むしろ国家権力が家の内部まで介入する専制的な国制であるといわれる所以である。
村においても、構成員の利害を調整したうえで集団としての意思決定を行うような機構がなく、共同業務もせいぜい農作物の窃盗防止のための監視(看青<(注108)>(かんせい))程度に過ぎないといわれる。
(注108)「看青活動は初めに民間の活動として始まり,その後に国家行政によって管理されてきた。旗田巍は看青の発展過程について,次のように認識した。看青は四つの段階を経ており,それはすなわち看青を必要としなかった時代,個々の農家が看青した時代,光棍,土棍の私的看青の時代,村民協同して看青する時代である。村民の協同する看青制度としては,寺北柴村は「公看荘稼」と「公看義坡」という慣行があった。2~3軒の農家が共同で看青夫を雇って,これらの農家の畑を一緒に見張ることは「公看荘稼」と呼ばれた。しかし,農家と看青夫との間によくトラブルが起こるので,農家が交代で見張りをするようになって,これは「公看義坡」と呼ばれた。しかし,「公看義坡」はその後,機能を果たさなかった。その理由は,この「協同関係の内容は,村民の自発的奉仕的な協同ではなく,自己本位の打算的協同であり,その背後には相互の不信不安がある。」
清末以降,看青慣行は大きな移り変わりが生ずる。国家権力と村民の要望が結合されたといえる。とくに,国家権力が徐々に介入の度を深めているという点は見逃すことができないであろう。看青を組織して,盗人を罰することや看青の範囲と青苗銭等はすべて国家(県知事)の命令に従って行われた。」
https://reposit.sun.ac.jp/dspace/bitstream/10561/685/1/v11p249_qi.pdf
日常の農作業からインフラ保守、さらには冠婚葬祭まで、構成員の生活を丸ごと面倒見る伝統的な日本のムラとは大違いである。
こうした集団は、団体としての輪郭も曖昧である。
村を例に取れば、・・・聚落に居住する人間の出入りが頻繁で、それを規制するハードルも極めて低い。
新参者がいつの間にか我が物顔で居座ることもあるし、反対に内部構成員の出奔も禁止されない。
中国では、村の内・外に明確な境界を見出すことは困難なのである。」((161、)165~166)
⇒漢人文明社会においては、日本の社会制度で言うところの、ムラもイエも存在せず、地域的制度でも疑似血縁制度でもないところの、宗族を上澄みとする一族郎党、しか存在せず、しかも、一族郎党に所属しない、所属できない、バラバラの砂のような人々も多かった、と、言えそうです。(太田)
(続く)