太田述正コラム#15142(2025.8.21)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その41)>(2025.11.15公開)

 「中国の農民が、ピンチになるとしばしば村外に跳びだしていくのにも、そうした背景がある。
 郷里にいられなくなって逐電する者、窮乏緩和のために出稼ぎに出る者、さらには飢饉等になって流民化する者など。
 積極、消極さまざまな理由で村を出る。
 そして富裕層の多角経営も、家産均分対策として、構成員を他地域・他業種に送り込む積極経営に打って出ていた、というのが実情だったのである。
 つまり中国では、家・村・ギルドなどの社会集団(中間団体<(注109)>)が、日本や西欧のように固定的な(裏返せば安定した)枠組みを持たなかった。

 (注109)「『東洋的専制主義論の今日性』の中で、著者のウイットフォーゲルが以下のように「水の管理」から興味深い論を展開しています。
 日本の川は比較的小さいため、農作時に水を管理するのは村など地域共同体レベルでできる。一方、中国やロシアといった大陸国家にある黄河など巨大な川の管理は地域共同体ではできず、何百万人を強制的に動員しないと「水の管理」ができない。日本や欧州では巨大専制国家を作らなくても農業ができるため、村が人間社会の基本単位になり、村々が集まって国民国家ができる。中国やロシアは巨大国家を作って権力を振るわないと何もできないので、個人の所有権や権利はあまり認められない、という論です。「人々が血縁や職業を縁にして中間団体を自発的に作り、中間団体が個人の生活を管理し、さらにさまざまな中間団体をまとめるために国民集団ができ、政府が国民集団の調停役のようになるのが、日本や欧米の社会の基本的な作り方」だそうです。
 「封建的」と言えば、「専制的」「閉鎖的」な悪印象を与えがちです。施教授も「日本だと封建社会は前近代的で非自由民主主義的と言われる」と前置きし、「実は自由民主主義ってそういうものがないところには根付かない」と主張されます。「日本にしても欧州にしても、近代化されるまでは統一国家的な性格は強くなかった。法律にしても貨幣にしても日本だったら藩でやっていた。近代以前は封建社会だったところから、自由民主主義社会というのができてきた。議会制民主主義もギルドみたいな職能団体が王権に対していろいろ文句をつけるところから始まっている。日本で自由民主主義が明治以降簡単に根付いたのも、欧州と似た社会だったから」と封建社会を捉え直し、「今の政治を見る際、そういう面から見えてくるものは大きい」と<。>」
https://www.sankei.com/article/20230306-GMPKUMNR2ZKMZPTZQJBS5LY2LQ/
 「カール・アウグスト・ウィットフォーゲル(ヴィットフォーゲル<。>Karl August Wittfogel<。>1896<~>1988年)は、<独・米>の<支那>学者、社会学者、歴史学者、劇作家。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%AB

⇒ウィットフォーゲルは、支那に関しては、出発点である「水の管理」の話を除けば、私の考えに近いですね。ロシアに関しては、「モンゴルの軛」から出発しなければなりません。(太田)

 「昇官発財」の門戸が広く開かれていることと背中合わせに、家産均分慣行や官僚身分の非世襲化など下降圧力も強く、さらには居処・生業の選択規制も弱いので、中間団体も、そこに属する人びとも、垂直・水平の両方向に激しく動く・・・。
 中国は「社会的流動性」が高いと言われる所以である。
 一方、国家は先述のように極端な「小さな政府」であるから、揉め事が裁判沙汰にでもならない限り、民間社会のこうした浮き沈みにはまるで関与しない。
 これを民衆の側から見れば、国家や中間団体は彼ら・彼女らを「規制もしないが保護もしない」存在ということになる。
 中間団体が生活全般にわたって「規制もするが保護もする」日本や西欧との対比は明瞭である。」(166~167))

⇒何度でも繰り返しますが、漢人文明は、緩治・苛政の下での一族郎党命/裸の個人主義で特徴づけられるところの、阿Q(普通人)達からなる社会の文明なのです。(太田)

(続く)