太田述正コラム#15144(2025.8.22)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その42)>(2025.11.16公開)
「では、中間団体に依存できない中国の場合、流動性の高い社会の荒波から人びとを「保護」してくれるものは何なのか。
それは「個人間の信頼関係」だとしばしば説明される。
本書では、このような「個人間の信頼関係」の連鎖を「幇の関係」と呼んできた。
⇒幇=(私の言う)一族郎党、です。(太田)
人びとは何か困ったことがあると「友達の友達はみな友達」式に伝手をたどって保護を求め、活路を見出す。
頼られた側は「共通の友達」との信頼の証しとして、「友達の友達」の保護に全力を傾ける。
利害を共有する者どうしで目的別の任意団体をつくることもある。
そしてここまで繰り返し見てきたように、「幇の関係」は、士大夫も、編戸も、アウトローも、あらゆる階層の人びとが取り結ぶものだった。
「幇の関係」は、一君万民の原則からは一貫して排撃されつづけた。・・・
国家の立場からすれば、民衆は戸籍に登録された居処に住まって本業に従事し、税役を負担する「編戸」でいてくれなければ困る。
しかし、地域社会における出入り規制が弱いため、民衆は「編戸」状態から容易に離脱し(逃戸)、アウトロー化する。
アウトローたちはしばしば社会秩序の攪乱要因にもなったが、その一方で都市・農村双方における雇用労働の人的資源ともなった。
・・・江南の大都市には日雇いの口がたくさんあったし、募兵になることもできた。
唐宋変革期以降に進展した社会的分業は、一面においてアウトローたちの雇用労働が支えていたともいえるのである。
そして、世の中がきな臭くなれば、盗賊団や秘密結社、地域有力者が結成した私的な軍団に身を投じる者も出てくる。
唐末の反乱勢力や諸藩鎮、北宋末の梁山泊や喫茶事魔、そして南宋初期の岳家軍<(注110)>など、いずれもアウトローたちを収容してふくれあがった軍事集団である。」(167~169)
(注110)「岳飛は遡ること1123年、20歳の時に義勇軍に入隊し、若くしてめきめきと頭角を現し、下級将校になります。1126年、金の侵攻により崩壊した北宋王朝の後を継いで興された南宋王朝のもとで、各地を転戦し、次第に政府軍の中核的な存在にまで成長していきます。
その間も、金からの侵攻が止むことはありません。岳飛の率いる軍はそれを防ぎながら、時に領地を奪還する快進撃を見せ、岳飛は皇帝高宗に首都を奪還するためにも皇帝自ら北上し、金と戦って欲しいと何度も何度も上書を送っていましたが、下級将校の分際で上書を送ってくるなど越権行為だとして高宗は岳飛を解職してしまいます。
居場所を失った岳飛は、各地の戦場を傭兵のように転戦します。相変わらず金の侵攻に怯え、逃げ続ける皇帝。いつしか朝廷との連絡すら途絶え、孤立した状態で金と戦い続け、戦果を挙げる岳飛でしたが、鍛え上げられた岳飛の軍は民衆の支持を集め、戦乱のどさくさにまぎれて各地で跋扈する反乱分子を鎮圧して傘下に吸収し、岳飛の率いる軍はその数4万にものぼる一大勢力となり、この頃から岳家軍と呼ばれるようになります。
岳飛の率いる岳家軍は、その規律の厳しさ[・・スローガンは「家を壊さずに凍死し、略奪せずに飢え死ぬ」・・]と戦場での卓越した戦術で名高く、「撼山易、撼岳家軍難」(山を動かすのは容易だが、岳家軍を動かすのは難しい)と敵に言わしめるほどでした。」
https://note.com/h_conatus/n/n7e74e3834e05
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B3%E5%AE%B6%E5%86%9B ([]内)Google邦訳
⇒「注110」なんだか聞いたようなセリフが登場しますが、岳家軍で検索をかけると、漢語のものはいくつもヒットするのに邦語のものは皆無であることは、日本における支那研究の層の薄さを物語っていて、淋しい限りです。(太田)
(続く)