太田述正コラム#15162(2025.8.31)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その6)>(2025.11.25公開)
「ところが、煬帝(在位604~618)が高句麗遠征に失敗して、隋が一気に瓦解し、混乱に陥った華北に群雄が割拠する情勢となると、東突厥が再度強盛となった。
華北の群雄たちはたがいに争うなかで、突厥にたいして臣を称した。・・・
太原より挙兵して、618年に長安で唐を建国した李淵もまた、当初は突厥に臣従した小可汗であった。・・・
一方、東突厥は、北モンゴルでテュルク系の鉄勒<(注13)>(てつろく)(テュルクの漢字音写)諸族が叛乱を起こし、雪害に見舞われたこともあって危機に陥った。
(注13)「鉄勒の習俗はだいたい突厥と同じであるが、突厥と異なる点はただ、男が結婚の儀式を済ますとすぐ妻の家に住み、出産を待ち、産まれた男女児に乳を飲ませてから自分の家に帰るということ。また、死者を・・・突厥は火葬する<のに対し、>・・・埋葬するということだけである。
初めの頃は君主と呼べる者はおらず、部族長がいる程度であったが、大業元年(605年)、西突厥に叛いてからは自らの可汗を推戴するようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%8B%92
太宗が即位して強盛となった唐は、東突厥の混乱を突いて攻撃をしかけ、窮地におちいった頡利(イルリグ)可汗<(注14)>(在位620~630)は、630年に唐の遠征軍によって捕縛される。
(注14)「東突厥<が>滅<びると、>頡利可汗は千里馬(汗血馬?)に乗り、単騎で従姪の沙鉢羅の部落に奔走した。3月、行軍副総管の張宝の軍は沙鉢羅の陣営に至り、頡利可汗を生け捕って京師に送った。頡利可汗は太宗により右衛大将軍の位を授かった。
貞観8年(634年)、頡利可汗が亡くなり、太宗は詔でその国人に頡利可汗を葬らせ、その俗礼に従って屍を灞水の東で火葬し、帰義王を贈り、諡を荒王とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%A1%E5%88%A9%E5%8F%AF%E6%B1%97
ここに、東突厥は滅亡する。
ここまでの突厥を・・・「突厥第一可汗国」と呼ぶ。・・・
唐の西域支配を安定させるためには、天山山脈に拠った西突厥を統制することが肝要であった。
西突厥は、648年に唐の羈縻支配下に入った。
しかし、その状況は長く続かず、3年後には西突厥を中核とするテュルク系諸族の反唐連合が形成され、唐の西域経営はいったん頓挫する。
そのご太宗の子高宗李治(在位649~683)の代になり、唐は3回にわたって数十万規模の西突厥遠征軍を派遣し、足かけ6年を擁して、657年に西突厥の打倒に成功する。・・・
⇒最初のうちのは高宗単独の事績ですが、655年からのは武則天との共同事蹟と言わなければなりますまい。
(「武則天<は、>・・・655年、唐の高宗の皇后となったが、高宗が病弱であったことから、664年から政治の実権を握って「垂簾の政」(背後の簾(すだれ)の中から皇后が皇帝を操って行う政治)を行った。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-102.html )(太田)
さらに668年には、東方で隋の煬帝も唐の太宗も手を焼いた高句麗を、新羅(しんら)との連携によって滅ぼした。
⇒実は日本も滅ぼしていた、と、私は見ている次第です(コラム#省略)が、これらは武則天単独での事蹟です。(太田)
こうして、7世紀後半に一時的ではあるが、ユーラシア東方を広く覆う唐の大版図が出現することになったのである。・・・
⇒鮮卑たる武則天の事績は、その500年も後のモンゴルたるチンギス・ハーンの事績に勝るとも劣らないと言えるでしょう。(太田)
突厥遺民をはじめとするテュルク系遊牧集団の領袖たる「蕃将」が、自己の配下にあった遊牧部族集団の兵士(蕃兵)を率いて行軍に参加し、おおいに活躍した。
ようするに、突厥移民を始めとするテュルク系遊牧民の騎馬軍団の強大な軍事力こそが、ユーラシア東方における唐の覇権を可能にしたのである。」(37~38、40)
⇒いやいや、唐軍そのものだって、ほぼことごとく鮮卑なる「蕃将」達、と、少なくとも中核部分は鮮卑なる「蕃兵」、によって構成されていた筈であり、古松のこういう言い方には、いささかひっかかります。(太田)
(続く)