太田述正コラム#15164(2025.9.1)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その7)>(2025.11.26公開)
「唐による羈縻支配が半世紀近くに及ぶなか、7世紀後半になると、突厥遺民のあいだで独立を目指す動きが現れてくる。
679年、陰山南麓の突厥遊牧集団が、東突厥王族を可汗に擁立して唐に叛旗をひるがえす。
唐は大軍を用いてこの動きを封じたものの、突厥遺民の独立への志向は根強かった。
682年には、東突厥王族の骨咄禄<(注15)>(クトゥルグ)が擁立されて、イルテリシュ可汗(在位682~691)を名乗り、突厥の復興が実現したのである。
(注15)阿史那骨咄禄(あしなこちとちろく。?~692年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8F%B2%E9%82%A3%E9%AA%A8%E5%92%84%E7%A6%84
復興後の突厥は「突厥第二可汗国」と呼ばれる。・・・」(42)
⇒当時は武則天の時代((唐高宗の皇后:655年・)垂簾政治(660年頃~)(・683年高宗崩御)・武周皇帝(690~705年))でした。
https://historicalfact.net/busokuten/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9
<やがて、>8世紀前半のユーラシア東方で、唐と突厥が南北に対峙・共存する状況が生まれたのである。
ビルゲ可汗<(注16)>時代に特筆すべきなのは、古代テュルク語を表記する突厥文字を石に刻んだ突厥碑文が作られるようになったことである。
(注16)毘伽可汗(683~734年)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E4%BC%BD%E5%8F%AF%E6%B1%97
もっとも有名な碑文のひとつとして、732年に立てられた闕特勤(キュルテギン)碑文<(注17)>が挙げられる。
(注17)「ホショ・ツァイダム碑文は、8世紀に建てられた東突厥第二可汗国時代の碑文で、発見地であるホショ・ツァイダム・・・からその名がつけられた。ホショ・ツァイダム碑文にはビルゲ・カガン(・・・毘伽可汗)を称えた碑文と、<その弟の>キュル・テギン(・・・闕特勤)を称えた碑文の2種類あるので、それぞれビルゲ・カガン碑文、キュル・テギン碑文と呼ばれる。また、オルホン川流域にあることからオルホン碑文とも呼ばれる。・・・
この両碑文の執筆者はビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟の甥にあたるヨルリグ・テギンであ<り、>・・・建立・・・は<、それぞれ、>・・・732年と735年であると思われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BB%E3%83%84%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%80%E3%83%A0%E7%A2%91%E6%96%87
この碑は、ビルゲ可汗の弟で重臣のキョル=テギンが亡くなったあと、唐の玄宗皇帝がその死を追悼するためにみずから撰述・書写して贈った御製・御書の漢文の文章を正面に刻み、側面と背面には突厥文字が刻まれている。
まさしく唐と突厥の友好関係を象徴するモニュメントである<。>・・・
突厥第二可汗国はの繁栄は長くは続かず、ビルゲ可汗の死後、急速に衰えていく。
突厥の配下にあったテュルク系遊牧民のパスミル・カルルク・ウイグルの三部族の連合軍に敗れたのち、最終的には744年にトクズ=オグズ(九姓鉄勒)<(注18)>の部族連合体をまとめあげたウイグルの君長キョル=ビルゲ可汗(在位744~747)が即位して、突厥第二可汗国は滅亡する。<(注19)>」(42~44)
(注18)「<後に>主要な9部族<が台頭したことから、>・・・鉄勒<のことを>・・・〈九姓鉄勒〉と呼<ぶようになった>。」
https://kotobank.jp/word/%E4%B9%9D%E5%A7%93%E9%89%84%E5%8B%92-1300331
「突厥ではトクズ・オグズ(Toquz-Oγuz:九つの部族)と呼んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%8B%92
(注19)「742年、回紇(ウイグル)部は葛邏禄(カルルク)部とともに、抜悉蜜(バシュミル)部を盟主として反東突厥同盟を結び、抜悉蜜大酋の阿史那施を立てて賀臘毘伽可汗(頡跌伊施可汗、イルティリシュ・カガン)とした。三者は協調して東突厥を攻撃し、東突厥の烏蘇米施可汗(オズミシュ・カガン)を殺した。744年、回紇部と葛邏禄部は盟主である頡跌伊施可汗を殺し、代わって回紇部の頡利発(イルテベル:部族長)[21]であった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が骨咄禄毘伽闕可汗(クトゥルグ・ビルゲ・キョル・カガン)となり、唐に遣使して懐仁可汗(在位:744年 – 747年)の称号を賜った。745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼし、ついにモンゴル高原の覇者となった。」(上掲)
⇒「「史記」は、「匈奴人は書面の約束も言葉でする」とし、後漢書も「匈奴は罪人に対する訟事を単于に口頭で報告し、文書や記録を残さない」と書いた。・・・古代シルクロードに進出した漢は行政記録と保管に少なからぬ人と時間を消耗した。広い砂漠地帯で、戦略のために警戒所を移す度に手押し車何台分もの木簡をいちいち積み出さなければならなかった。一方、広大な地域を移動する遊牧民を治めた匈奴は、単純化した命令を口頭で速かに伝える方法を取った。・・・匈奴<の>・・・古墳の副葬品に刻まれたタムガのように各種儀礼や身分象徴の道具にだけ字を使った・・・。・・・匈奴は文字に基盤を置いた行政組織と官僚制を捨てたおかげで迅速に草原帝国を興すことができた」
https://web.archive.org/web/20240502103526/https://www.donga.com/jp/article/all/20170504/914818
という見方もあるようですが、突厥第二可汗国の場合はどうだったのでしょうね。(太田)
(続く)