太田述正コラム#15166(2025.9.2)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その8)>(2025.11.27公開)

 「・・・突厥では、政権の中枢でブレインとして重要な役割を果たすソグド人が多くいた。
 当初文字がなかった突厥では、商業のために西アジアのアラム文字に由来するソグド文字による書記技術を早くから発達させたソグド人が、行政を担う不可欠の存在となった。
 先に述べた第二可汗国で誕生した突厥文字は、ソグド文字の影響を受けたとされる。
 結果として多くのソグド人がモンゴル高原の草原地帯に住つき、遊牧民の生活・風習を身に着けて騎馬遊牧民となった。・・・
 最近、この突厥化したソグド人を「ソグド系突厥」と呼ぶことが提唱され、学界で受け入れられつつある。・・・
 7世紀後半の・・・突厥第二可汗区の<の>成立・・・を契機として、ソグド系突厥は唐と突厥の南北に分れることになった<。>・・・
 安史の乱を起こした安禄山(703?~757)は、モンゴル高原へ戻ったソグド系突厥の子として8世紀初頭に生まれた。・・・
 安史の乱とは、唐の北辺を守る節度使の軍隊というきわめて似通った軍事集団が、東と西で敵・味方に分かれてたたき合った戦いだった・・・。・・・
 安史の乱以後も、北辺の農耕・遊牧境界地帯に居住したテュルク系の遊牧集団が、唐朝を支える軍事力として機能しつづけた・・・。
 そして、この遊牧民の軍事力を味方につけておくために、唐朝は莫大な財貨を費やしていたのであり、それを下支えする基盤となったのが、両税法や塩の専売の導入といった税制改革なのであった。・・・
 マニ教はササン朝ペルシアに起源をもつ二元論的宗教で、ユーラシアの広い範囲で信仰され、ソグド人によって中国本土などユーラシア東方にも伝えられた。
 ウイグルはマニ教を国教とした世界史上唯一の王朝であった。・・・
 安史の乱以後の760年代から830年代にかけて、およそ70年あまりのあいだユーラシア東方では、東に唐、北にウイグル、西にチベットが鼎立する情勢となった。・・・
 <そして、>822年<以降、>・・・盟約による三国の平和共存が実現した・・・。・・・
 そのご1000年のスパンで続くことになるユーラシア規模でのテュルク化西漸<(注20)>の引き金になる事件として、840年のウイグル崩壊は、結果としてユーラシア史上に重大な転機をもたらすことになった。

 (注20)「西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝とな<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
 「カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%B3%E6%9C%9D

⇒この視点は啓発的です。(太田)

 かたやチベットもまた、840年代に後継者争いから王朝が分裂する事態に陥り、急速に衰退する。・・・
 唐<において>も・・・875年、塩の密売人だった黄巣が起こした叛乱は、唐の国内全土を巻き込む大動乱となった。」(46~48、53、55、57、60~62)

⇒朝鮮半島も、「新羅<で>・・・8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起きて、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年に半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97
という状況となり、(東南アジアまでは論じないことにしますが、)東アジアにおいて、日本だけは無風状態が続いた、というのは面白いですね。(太田)

(続く)