太田述正コラム#15172(2025.9.5)
<古松崇志『草原の制覇–大モンゴルまで』を読む(その11)>(2025.11.30公開)

 「・・・<やがて>オルドは親衛軍団を供出するのみならず、有事のさいの皇帝による軍隊動員に応える機能も持つようになった。
 オルドは代替わりごとに増えていき、契丹の末期には、歴代皇帝のほかに一部の皇太后などのものも含めて、合計13のオルドが存在し、所属戸数は20万を超え、動員可能な騎兵の数は10万あまりに達した。・・・
 阿保機の契丹建国のもうひとつの革新性は、遊牧王朝であるにもかかわらず、王朝の中心部に定住農耕民を大規模に入植させ、もともと遊牧民がくらしていた草原地帯のなかに城郭都市を数多く建設したことである。・・・
 <その結果、>10世紀前半には華北北部から契丹本拠地一帯へと向かう人間集団の大規模な移動という現象が生じていたのである。・・・
 <なお、>11世紀以後に北宋との交流により契丹の文化が進歩したとする<のが>かつての通念<だったが、>・・・近年・・・<の一連の>墓葬の発見<により、>・・・草創期の段階で契丹の文化・経済がいち早く発展を遂げていたこと<が判明している。>・・・
 数多くの城郭都市のなかで象徴的な意味を持つのが、阿保機の皇帝即位後に創業の地・・<現在の>内モンゴル自治区巴林左旗林東鎮・・に造営を開始した「皇都」・・次の堯骨<(ぎょうこつ)>時代に・・・上京<(注26)>(じょうけい)と改称されて都城となる・・であった。・・・

 (注26)「上京は周囲14km,宮城・皇城および漢城からなっていた。皇城は北部を占め,ここには官庁や寺院,また契丹族の住居が建てられた。その中央にある宮城が皇帝の官殴の建てられた区域である。遼の支配下には漢民族をはじめ多くの異民族があったので,その住居は漢城と呼ばれて,上京の南部を占めていた。」
https://abc0120.net/words/abc2007040501.html

 <但し、>都城へは時々立ち寄るのみで、宮殿は皇帝の居住空間としての意味をほとんど持たず、実際に用いられるのは主に特別な儀礼のときであり、契丹王権の富と権威を象徴するものであったと考えられる。
 一方で都城には定住民を居住させるとともに、政府の官庁を設け、唐制にもとづく官僚機構を整えていった。・・・
 唐の滅亡と前後して、華北の一代軍事勢力として台頭したのが、沙陀<(さだ/さた)(注27)>(さだ)と呼ばれるテュルク系遊牧集団を中核とする軍事勢力であった。・・・

 (注27)「突厥はかつて唐と並ぶ巨大帝国を築いていたが、8世紀半ば、ウイグルに滅ぼされる。しかし西突厥の構成員でテュルク系遊牧集団のひとつで処月と呼ばれた部族が華北地方に南下し、後世のオルドスを中心とした地域に盤踞し、沙陀突厥と称された。はじめ吐蕃に属していたが、8世紀半ば安史の乱が起きると、潼関を守る哥舒翰の軍に従軍し、唐と関係を持った。868年、龐勛<(ほうくん)>の乱が起きると、朔州刺史になっていた沙陀族の朱邪赤心がこれを鎮定し、唐の皇帝より、唐室の姓である「李」と、「国昌」の名を与えられ「李国昌」と名乗り、有力軍閥となった。
 つづいて875年、黄巣の乱が起きると、李国昌の子・李克用が黒い軍装で統一した鴉軍を率いて、山西から南下、黄巣を破って長安を奪回する功績を挙げる。黄巣軍はやがて朱全忠の寝返りによって瓦解するが、その朱全忠によって唐自体も滅亡させられる。「李」姓を嗣ぐ沙陀族は、自らを「唐の正統を継承する者」と位置づけ、李克用・李存勗の2代にわたって朱全忠の後梁と対立し、また北方の新興勢力契丹(キタイ)と連携・対立を繰り返しながら後梁を倒し、後唐王朝を建設する。・・・
 いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝のうち<、この>後唐<を始めとする>、後晋、後漢の三つは沙陀人の君主が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国しており、漢人系とされる孟知祥の地方政権である後蜀をはじめ、郭威、柴栄といった君主を戴く後周ですら、彼ら王朝創始者たちは沙陀族の劉知遠に見出されて沙陀系軍閥の一員として台頭し、やはりこの軍閥の軍事力を背景に建国している。その後全中華を統一した趙匡胤の宋朝もこの後周の国軍から台頭しており、沙陀系軍閥の系譜を濃厚に継承している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%99%80%E6%97%8F

 沙陀の中核部分に組み込まれたソグド系突厥は、このあと成立する沙陀系王朝のなかで要職を占め、石敬瑭(せきけいとう)のような皇帝さえ生みだすことになる。
 ようするに沙陀とは、朱邪部(李氏一族)を指導者とする狭義の沙陀を中核に、代北<(注28)>の多様な集団を糾合した一種の連合体なのであった。」(76~78、80、83~85)

 (注28)’The Hexi 河西 (around the Ordos) and the Daibei 代北 areas in the northern peripheral belt of China during the Tang dynasty’
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/items/cbacd192-eb4a-4618-94b0-a845a858430a

⇒「注27」を踏まえれば、漢のような漢人系の統一王朝は、(中華民国以降を除けば、)明だけだ、と、いうことになりそうですね。(太田)

(続く)