太田述正コラム#15220(2025.9.29)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その2)>(2025.12.24公開)

 「・・・16世紀の大航海時代から本格化したグローバル化は、かくて18世紀を経過して、いっそうの深化をとげた。
 近年はそれを「大分岐(グレート・ダイヴァージェンス)」という。・・・
 「大分岐」学説で変わったのは、アジアの位置づけだった。
 18世紀のおわり、その分岐が生じる前のヨーロッパと、とりわけ東アジアが経済的に同じ水準、ひいては均質だったとみなしている。
 だからこそ「分岐」したというのであって、その点、アジアを端から異質で、落伍した存在とみていた従前とちがって、確かに新しい、西欧中心史観の非を悟りはじめた西洋人なりの反省なのであろう。・・・
 しかし<、このような見方は>・・・経済指標に目を奪われるあまり、社会構成・統治体制のありかたに対する洞察に乏しい<。>・・・

⇒しかし、我々は、まずは、経済指標を熟視するところから、実は、Great Divergence観念を見直さなければならないのです。
 このグラフ↓を見れば、
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Divergence#/media/File:Maddison_GDP_per_capita_1500-1950.svg
イギリス・・アングロサクソン文明・・、と、プロト欧州文明を含む、その他の全ての諸国/文明、との間の一人当たりGDPなる経済指標の大分岐が、どうやら、1500年よりずっとずっと前から・・恐らくは、5世紀にアングロサクソン文明が誕生した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%BA
瞬間から・・生じていたらしいことが分かります。
 私は、ここから、むしろ、アングロサクソン文明、からすれば、超長期にわたって、その他の世界が、「端から異質で、落伍した存在とみ<え続けて>いた」筈だ、と、考えたわけです。
 しかし、イギリス人は、決して、その考えを口に出すことはなく、「その分岐が生じる前の大ブリテン島中/南部とその他のヨーロッパ、就中西ヨーロッパは、「経済的に同じ水準、ひいては均質だった」ケルト文化の下にあったとみなしている旨語るにとどめてきたのです。(典拠省略)(太田)

 豊臣秀吉の朝鮮出兵・・・に対抗して、明朝<は>半島に派兵し、莫大な人員・物資が動くと、経路にあたる遼東地方はいっそう経済的に活気づき、ヌルハチの勢力<が>・・・大きくなった。
 朝鮮出兵の終結は、とりもなおさず17世紀の幕開け<をもたらした>。
 当時のマンジュ<(満洲)>集団は、近隣のジュシェン<(女真)>部族を圧倒して勢力を拡大、全ジュシェンの統合も見えてくる。
 こうなると、ヌルハチの存在を許容していた明朝も警戒を強め、1610年代に入ると、衝突はもはや時間の問題であった。
 1616年、ヌルハチが即位したのも、明朝との来るべき対決にそなえて、体制の整備、内部の結束をはかったからである。

⇒いや、大胆不敵にも、明に対し、宣戦布告した、と、解すべきでしょう。(コラム#省略)(太田)

 両者の激突は1619年、サルフの戦いで現実となった。
 ヌルハチは明朝と朝鮮の聯合軍を破って大勝し、さらにジュシェンのうち、最後までしたがわなかったイェヘ部を打倒、併呑する。
 そして「辺牆」<(注2)>を越え、明朝が領有し漢人が多数をしめる南方の地域に進攻、1621年には瀋陽・遼陽を陥れ、まもなく遼東に居住する漢人をも支配下に置いた。・・・」(Viii~iX、4)

 (注2)へんしょう。「明代国境線に築いた牆壁 (柵,垣) 。山海関以西の辺牆は万里の長城といい,ウリヤンハンや女真に対して満州に築かれたものは遼東辺牆という。明は宣徳年間 (1426~35) 以後,ウリヤンハン,女真,モンゴル人に対して消極策をとり,その前線を漸次南方に後退させ,辺牆によって彼らを防衛しようとした。山岳では自然の地形を利用し,石を積上げ,泥煉瓦などで牆壁を築き,平野では木柵を編み,要所には警報を伝える 墩 (とん) 台が造られ,将兵が駐屯して防備にあたった。」
https://kotobank.jp/word/%E8%BE%BA%E7%89%86-131201

⇒その1500年近く前に、ローマは、紀元122~132年に大ブリテン島でハドリアヌスの長城を設け、明とは違って、その前線を北方に前進させ、142~144年にアントニヌスの長城を設けた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%8C%E3%82%B9%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E
けれど、すぐそれを放棄してハドリアヌスの長城まで後退しています。
 つまり、こういった静的な防御方法を採らざるを得なくなったこと自体が、その勢力が最盛期が過ぎてしまったことを示しており、ローマは、その後、410年に大ブリテン島から全面撤退し、476年には(西ローマ部分ですが)滅亡してしまうわけであり、明も同じ経過をもっと早く辿り、滅亡してしまうわけです。(太田)

(続く)