太田述正コラム#3132(2009.3.4)
<イスラム・中世のイギリス・中世の欧州(その5)>(2009.9.1公開)
 「・・・光が小さい穴から暗室に差し込む際に、外の光景が壁に投影されるところの一種のピンホールカメラであるカメラ・オブスキュラ(camera obscura)は、最初に11世紀、ハッサン・イブン・アル=ハイサム(アルハゼン)(Hassan ibn al-Haitham (Alhazen) )によって実験を通して研究された。                       ロジャー・ベーコン(前述)は、後にこの器具を日食の研究に用いた。また、ファン・アイク(Van Eyck<。1395頃~1441年。オランダの画家>)からフェルメール(Johannes Vermeer<1632~75年。オランダの画家>)に至る古の大画伯達は、この投影手法を活用して彼らの細密リアリズムを達成した可能性がある。・・・        
 金属の錬金術的変成の標準理論は、8世紀のペルシャ人であるジャビール・イブン=ハイヤーン(Jabir ibn-Hayyan)が書いたものとされるものに展開されている。窒素の、塩化水素の、そして硫黄の酸・・当時も現在も応用化学にとって必須・・がその中で初めて登場した。
 イスラム教徒達は支那との接触によっても裨益した。
 支那から彼らは製紙法を学び、インドからは算数の計算をする時に面倒くさいローマ・システムより優れている「アラビア」数字を、ゼロ(この言葉そのものはアラビア語だが)の概念とともに獲得した。
 これらとその他の諸発見は、今度は西側世界に伝えられた。・・・
 ロジャー2世(前述)自身、アラビア語を完璧にしゃべり、アラブ文化を好んだ。
 彼は、アラブ人部隊やアラブの攻城機を南イタリアの彼の諸戦役で用いた。
 彼はまた、アラブの建築家達を動員してアラブ-ノルマン様式の記念物をいくつも建設した。
 それ以前の<イスラム領当時の>2つの時代にシチリアにアラブ人達によって導入された農業的・工業的諸技法は維持され、発展せしめられ、この島に瞠目すべき繁栄をもたらした。・・・
 <しかし、>地球上で最も寛容な社会の一つが<スペインの>コルドバで終焉を迎えた。それが多様性と同化力を欠いていたからではない。終焉を迎えたのは、その土地のすべてのユダヤ人とイスラム教徒を力または武器でもって殺害するか追放した野蛮人達によってだった。・・・
http://www.zimbio.com/member/moinansari/articles/4574079/Book+Reviews+West+debt+Islamic+science前掲
6 イスラム科学の衰退
 「・・・どうして<イスラム世界における>科学と学問がかくも急速に衰退したのだろうか。
 エーサン・マスード(前述)は・・・もっともらしい一つの解答を示している。・・・
 ・・・イスラム諸文化の中において、科学は、社会的・制度的基盤を欠いていた。
 科学者達は大学の中で働いたのではなく、金持ちのパトロンの宮殿の中か近くで働いた。
 また、研究の多くは、宗教的財団であるところのワクフ(waqf<。建物や土地などを寄進することで成立する>)のような慈善的かつ社会的財源から資金提供を受ける資格がなかった。
 資金提供は個々の支配者達に依存せざるをえず、当該支配者達が亡くなったり他に心配事が生じた場合、絶たれがちだった。
 しかも、最も強力な科学のパトロン達の多くは、同時に最も強烈に専制的な人々だった。
 カリフのアル=マムーン(前述)は、リヨンズに言わせれば、「生来的に糾問的」であり、科学に憑かれており、彼の合理主義を力によって強制した。
 チンギス・ハーンの孫のフラグ(Helagu)はバグダッドを破壊したが、その彼の傍らに立っていたのは彼の科学顧問のナシルッディン・トゥシー(Nasiruddin Tusi)だった。トゥシーは、コペルニクス革命の基礎を敷く業績を残している。
 この結果、公衆のイメージの中では、科学はしばしば独裁者達と結びつけられていた。・・・
 今日においてさえ、<イスラム世界の中では、>科学は、エジプト、パキスタン、そしてイランといった独裁的体制の諸国において比較的盛んだ。・・・」
http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article5569107.ece前掲
 「・・・ファラシーファ(falasifa<=哲学者達>)はいつもイスラム思想においては傍流でしかなかった。彼らはシーア派のようなセクトの一種であるという理解がせいぜいのところだった。だから、異端の嫌疑をかけられるとひとたまりもなかったのだ。・・・」
http://www.guardian.co.uk/books/2009/feb/28/house-of-wisdom-review前掲
 「・・・12世紀末までには、イスラム世界は次第にキリスト教徒の軍隊の脅威に晒されるようになり、イスラム教徒の指導者達は原理主義的な宗教的価値に回帰することでこれに対応した。
 科学者達と神学者達との間の戦いは、最終的には後者の勝利でけりがついた。
 しかし欧州では、魔神は瓶から抜け出てしまった。アラブ人達から遺贈された合理主義的アプローチは、西側世界の思想の風景を永久に変えてしまい、それから科学革命までは一直線だった、とリヨンズは記す。・・・
 マスードによれば、イスラム世界の歴史を通じ、科学は圧政的に合理主義的な支配者達または植民地権力と結びつけて受け止められて来た。これが、今日においても科学のイメージがよくない原因の一つなのだ。・・・」
http://www.newscientist.com/article/mg20126962.400-time-to-acknowledge-sciences-debt-to-islam.html前掲
 「・・・<イスラム科学はどうして衰退したか>の答えは複雑だが、一つの理由は13世紀末にアッバース王朝に教条主義的なオスマン神政主義が取って代わったことだろう。
 オスマン帝国のスルタン達は印刷に眉をひそめ、ムエジン(muezzin<。祈祷時刻告知係>)が聖なる時間の告知を行っていたがゆえに時計を禁じた。
 リヨンズが示すように、皮肉なことに、アラブ人達は、一時、天文学と技術的時刻告知において、まさに祈祷時刻が重要であったがゆえに、指導者だったというのに・・。・・・
 イスラム諸国からはたった二人のノーベル賞受賞者しか出ていないし、マスードが言うように、その多くが産油国であるところのイスラム連盟機構(the Organisation of the Islamic Conference)加盟諸国の今日の科学的成果は世界の最貧諸国のいくつかと大差がないのだ。・・・」
http://www.zimbio.com/member/moinansari/articles/4574079/Book+Reviews+West+debt+Islamic+science前掲、
7 終わりに
 コラム#46で私はイギリス科学史におけるグロセテストの重要性を指摘しました。
 その次にイギリス科学史において屹立しているのがロジャー・ベーコンです。
 どうして、リヨンズがグロセテストに言及していないのか、判然としませんが、それはともかく、リヨンズのこの本で分かったことがあります。
 それは、「私は近代科学はイギリスに生まれたと考えています。しかも、ギリシャ文明が存在しなかったとしても、その上、欧州大陸が存在しなかったとしても、早晩、近代科学はイギリスに生まれたであろうとさえ考えています。」とコラム#46で記したことを、あながち否定する必要はないけれど、イギリス人のアデラードが西側世界の中で最初にイスラム世界経由でギリシャ合理論科学に邂逅し、これをイギリスと欧州に紹介したことは、恐らくイギリス経験論科学、すなわち近代科学の(早期)成立に決定的な役割を果たしたに違いない、ということです。
 なお、当然のことながら、アデラードは欧州の合理論科学の基礎を形作ったということになります。
 また、スコットランド人のスコットもここにからんでいる、という事実も興味深いですね。
 他方、どうしてイスラム科学が衰退したか、については、まだまだ説得力のある説明がなされていない、という感があります。
(完)