太田述正コラム#3614(2009.10.29)
<再び過剰適応者フランシス・フクヤマについて>(2009.11.29公開)
1 始めに
 フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)については、マイノリティーとして米国に過剰適応した人物として、コラム#1718(と1719)で切り捨てる一方、コラム#2525ではちょっと持ち上げたところですが、このたび、彼の過剰適応性を示すインタビューに出会ったので、再度彼をとりあげることにしました。
2 過剰適応者フランシス・フクヤマ
 「・・・ハンチントン(Huntington)<(コラム#2456、2856)>の論は、民主主義、個人主義、そして人権は普遍的なものではなく、欧米のキリスト教圏に根ざす文化の反映である、というものだ。
 歴史的にはそのとおりだが、これらの価値は、その起源を超えて成長してきた。
 これらは、極めて異なった文化的諸伝統を持つ諸社会によって継受されてきた。
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ここは、以下のような留保の下、私も基本的にフクヤマに同意です。
このような議論を行う場合に、欧米を一括りにしてはならない。
 欧州文明とアングロサクソン文明は別個のものだからだ。
 個人主義は、アングロサクソン文明固有の代物であり、それ自体に普遍性はない。
 これと対置される集団主義にも普遍性はない。
 普遍性があるのは、人間(じんかん)主義だ。
 ただし、自由主義は、個人主義なくしては生まれ得なかった。
 そういう意味では、個人主義の果たした歴史的役割は大きい。
 これに関連し、人権は、法の支配(≒アカウンタビリティー)と裏腹の関係にあるところ、人権は、法の支配とともに、自由主義の一環であって、真の近代化のために確保されるべき前提だ。
 そういうわけで、自由主義は普遍性がある、と言えよう。
 なお、民主主義は、自由主義(人権/法の支配)が一定程度機能している社会においてのみ、文明を超えた普遍性がある。(太田)
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 日本、台湾、韓国、そしてインドネシアをを見よ。・・・
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これらの国が、民主主義、(上述のように留保の下で)個人主義、及び自由主義を継受できた理由を、フクヤマがどう考えているか、知りたいところだ。
 私は、日本については、その文明がアングロサクソン文明と親和性があるからだと考えているし、台湾、韓国については、日本の植民地であったこと、インドネシアについては、日本の占領統治を受け、また、事実上日本残留兵の協力の下で独立を達成したこと(コラム#省略)を重視しているところ、フクヤマがそんな風に考えているはずがないからだ。
 なお、インドネシアについては、コラム#3610で引用したオオニシ記者の記事参照。(太田)
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 ハンチントンは、法の支配とアカウンタビリティー<についても、それらが>欧米の文化だと言うべきだった。 
 私は、これらの価値に向かって非欧米諸社会も、彼等自身の様々な経験ゆえに収斂しつつあると思う。
 法の支配とアカウンタビリティーなくして、真の近代化は不可能<だからだ>。
 この二つは、実際のところ、互いに必須な相互補完関係にある。
 <これら抜きで、>単に、有能な国家の属性であるところの政治的近代化しか達成していなければ、<そのような国家は、>より効果的な形態の暴政(tyranny)を達成するのがせいぜいのところかもしれない。
 <その場合でも、>間違いなく、効果的な国家形成はできるし、専制的諸条件の下での一時の一定の分量の繁栄は達成できる。
 それが支那人達がたった今やっていることだ。
 しかし、私は、法の支配とアカウンタビリティー抜きでは、彼等の繁栄は結局は継続できないし、支那の市民達も、彼等の個人的前進を不可逆的なものにすることなどできない、と私は確信している。・・・
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 ここは、フクヤマに完全に同意です。(太田)
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 ・・・<ちなみに、>宗教と近代化は、間違いなく共存できる。
 世俗主義は近代性の前提条件ではないのだ。
 そんなことは、トルコに旅行するまでもなく分かることだ。
 現に、米国は、非常に宗教的な社会だが、高度な科学と技術的革新があふれている。・・・
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 近代性の定義にもよるが、宗教的な社会、より正確には宗教原理主義的な社会においては、差別がつきものであり、かかる社会は、ゴールドヘーゲンが言うところの除去主義(コラム#3599、3601、3609)の温床だ。
 実際、トルコのクルド人等への差別は甚だしいし、米国については、いまだに黒人等への差別が残っているが、その1960年代までの有色人差別は特にひどく、またこれと関連して、先の大戦中、日本に対して除去主義的大量殺戮を行ったところだ。
 だからこそ、トルコは、EUに加盟する見通しが立っていない(コラム#3610で引用したトルコに関する記事参照)のであって、トルコを真の近代国家と呼ぶのは躊躇せざるをえないし、1960年代までの米国についても同様だ。(太田)
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 支配者によるところの、<臣民に対する>道徳的義務感覚を醸成するための道徳教育を通じて、選挙に拠らざるアカウンタビリティーを達成できないわけではない。
 伝統的な儒教は、要するに、皇帝に対し、彼が自分自身だけでなく臣民達に対して義務を負っていることを教え込んだわけだ。
 儒教に影響を受けた東アジアの諸社会においてのみ最も成功した専制的近代化が行われたことは、決して偶然ではないのだ。・・・」
http://www.csmonitor.com/2009/1021/p09s07-coop.html
(10月22日アクセス)
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 フクヤマの念頭には、少なくとも台湾、韓国、及び支那がある・・まさかとは思うが、ひょっとすると日本もあるのかもしれない・・のだろうが、上述したとおり、台湾、韓国については日本の植民地支配の賜であるし、支那については、トウ小平が、蒋介石のファシズムを採択したためだ。
 いずれの例についても、どちらかと言えば、儒教的伝統を排したが故に近代化を行い得た、と私は考えている。
 なお、日本は儒教の影響をほとんど受けていないところだ。(太田)
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3 終わりに
 やはり、フクヤマは、両親の母国である日本、ひいては東アジアについて、余りにも無知であり、あえて勉強をしていないという印象すら受ける一方で、彼が生まれ育った米国について批判的視点が皆無である、と言わざるを得ません。
 改めて、フクヤマは、米国への過剰適応者であると思います。
 同じ2世米国人たる日系のフクヤマとユダヤ系のゴールドヘーゲンの、180度近い姿勢の違いには、まことに興味深いものがあります。